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2005年03月15日

バタイユの普遍経済学とニッポン放送騒動

昨日眠る前の本として何か読みたいな、と思いつつ本棚に目をやると、私が大学生の頃に読んだ、ジョルジュ・バタイユ著の『呪われた部分』が目につきました。私の学生時代は、浅田彰や中沢新一といったポストモダンの思想家が顔をきかせていた時代で、バタイユは彼らに影響を与えたフランスの思想家です。なぜ、この本を再び手にとってみようかと思ったのかといえば、『普遍経済学』とのサブタイトルが目についたからです。
ホリエモンはMSCBで資金調達してしまったがために、ライブドアの株価がずるずると下げていくこととなります。その上、コスト度外視で、ばか高い値でニッポン放送株を市場から買い集め続けており、これは長い目で見ればライブドアの企業価値を低めることにほかなりません。しかし、彼はライブドアの筆頭株主でもあるわけで、そうしたことを続ければ自らの懐を痛める結果にもなるわけです。「経済学」という学問では、自らの懐を痛めることがわかっていながら行動するような、非合理的な人間の存在を認めようとしません。というか、そういう人の存在を認めると「経済学」自体が成立しえなくなってしまうのです。しかし、世の中を見渡すと「経済学」に反したホリエモンのような行いは結構行われているわけで、そうした一見すると「経済学」に反する事象を「普遍経済学」という枠組みで説明しようとしたのが、このバタイユの『呪われた部分』なのです。
同書の中では、アメリカ・インディアンのポトラッチなる風習が取り上げられていますが、以下に一部記述を引用してみたいと思います。

(引用始)
『ポトラッチは商業と同じく富の流通手段ではあるが、しかし出し惜しみを排斥する。それは大抵の場合、侮辱し、挑撥し、債務を負わせる目的で、ある首長からその競争者に提供される、莫大な富の公式贈与のかたちをとる。受像者は屈辱をそそぐべく、挑戦に応じざるをえず、受納によって負わされた義務を果たさねばならない。しばらく時をおいて、最初のものよりもさらに気前のいい、新たなポトラッチによる以外に返報のしようはない。高利を添えて返さざるをえないわけだ。
贈与がポトラッチの唯一の形式ではない。富の荘厳な破壊でもって競争相手に挑戦することもある。
(引用終、強調は私)

このような一見無意味に見えるポトラッチの末に獲得されるものは何なのか?バタイユはそれは身分であるとしています。

(引用始)
『なるほど「ポトラッチ」は損失の欲望に還元できるものではないが、しかしそれが贈与者にもたらすものは返しの贈与の不可避的増加ではなく、最後に打ち勝つ者にそれが授ける「身分」である。』
(引用終)

「NPVがプラスになるから投資を実行する」「リスクに見合ったリターンを求める」・・・経済学、ファイナンスの常識が通用しない事象が多く垣間見られるのが、M&Aの舞台においてです。なぜなら、(敵対的)M&Aは一種の祝祭であり、ホリエモンも「これは祭りだ」と思ってるはずです。「祭り」には「祭り」の論理で対抗する必要もあり、そうした上で、バタイユの『呪われた部分』は我々ビジネスマンにも、今後多くの示唆を与えてくれるのかもしれません。

Posted by Ken Kodama at 2005年03月15日 22:36
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