とある方より、「このブログもたまには少しはみだした方がよい」とのアドバイスを受けました。それで、といってはなんですが、本日は最近気になってしょうがない、アンガールズについて書いてみようと思います。
私は最近でこそ、テレビを見る時間がめっきりと減りましたが、以前はかなりのテレビジャンキーで、得意分野は「お笑い」でした。「夢であえたら」「ガキの使い」「カノッサの屈辱」・・・といったあの時代のお笑い番組をこよなく愛していたのですが、恥ずかしながら昨年から開花していた、エンタの神様ブームは、今年のお正月番組で初めて知った有様でした。
しかし「昔取った杵柄(きねづか)」を過信して、私はお正月番組だけから、エンタの神様ブームの本質をとらえていたかのごとく思っていたのですが、それはアンガールズを深く知るにつけ、思い上がりであったことが判明したのです。
その思い違いとは、こういうものです。「エンタの神様」ブームというのは、「お笑いの型(かた)への回帰」であると、最初はとらえていました。私は、「お笑い」はダウンタウンによって、完全にその「型(かた)」を破壊されたと認識しています。ダウンタウンの初期の頃のガキの使いでのフリートークというのは、その直前に他を圧倒していた「タモリとさんまの『笑っていいとも』でのフリートーク」ですら、予測可能なパターンの集積であると感じさせてしまうほど、「フリージャズ」の域に迫る「フリートーク」であったはずです。ところが型にはまらない「フリー」なお笑いというのは、かなりの凄腕がないとできません。ダウンタウンの後続の芸人が不毛な「フリー」を排出し続けたために、お笑いはポピュラリティーを失っていき、その流れへの反動が「エンタの神様ブーム」なのだ、と私は認識していました。
確かにこの認識も、大部分において、今でも正しいといってよいでしょう。波田陽区、ヒロシ、レギュラー(あるある探検隊)などを持ち出すまでもなく、エンタの神様芸人の大半はオリジナリティーのある「型(かた)」を作り出し、それにネタをはめていくだけです。(ま、それも面白いのですが)そうした「型(かた)」にはめる笑いは川柳好きの日本人が嫌いなはずはありません。ただ、彼らの作り出した「型(かた)」は、五・七・五のように長持ちはしないでしょうが・・・そしてアンガールズというのは、「じゃんがじゃんが」というあまり見栄えのしない「型(かた)」を持つコンビなのだ、というくらいの認識しか当初はなかったのです。
ところが、彼らの「ファッションモデル」と「すし職人」のショートコント(どちらも5分くらい)を見たのですが、そのときから、彼等は日本のお笑いの歴史の1ページを書き換えるくらいのすごいコンビであるとの認識を深めていったのです。なにがすごいのか・・・残念ながら、私はそれをどう語ればよいのか、わかりません。日経エンターテインメントでは、彼らの笑いは「ニッチな分野の開拓である」といった類のまとめ方をしていましたが、間違いではないものの、極めて表層的な分析です。
ナンシー関が生きていたら彼等をなんと表現するか、非常に気になるところです。しかし、彼女亡き今、その筆力の足元にも及ばない私が、あえて語ろうとするならば、「一見『つっこみ』に見える方が実は『ボケ』、しかも神経症的、かつ過剰分析的、かつ危険」といったあたりに、アンガールズの独自性は見出せるのではないでしょうか?
ダウンタウンの浜田、ナインティナインの矢部、爆笑問題の田中・・・と並べると、これらの人々は、なんと良識のある方に見えることでしょう。ところが、一見『つっこみ』に見える田中卓志のデンジャラスなことといったら・・・はてなダイアリーの山根良顕の説明も、どちらをボケとしたらよいのか戸惑っており、本質をついていると思います。
とまあ、色々書きましたが、「語りつくせない」から「面白い」のであって、アンガールズの笑いが説明されつくされる日が来れば、我々は彼等を見ても「クスリ」ともしないことでしょう。
はじめまして。のいたんと申します。
今回、私のBLOGで「お笑い芸人について」つづっていたところ、こちらで「アンガールズについて」書かれてあるのを知り、興味深く読ませていただいた上、トラックバックをさせてもらいました。
私もアンガールズは、もしかしたらある意味新しい時代を築くかも?と注目しています。