先日、人事評価に関わる研修を受けたときに、その参加者の方が面白いことを口にされていました。それは「人事評価の訓練を受けると、様々な対人関係において、相手を評価する癖がついてしまうのではないか?全ての対人関係の相手のことがよく見えすぎてしまうがための不幸せを、我々は訓練を積めば積むほど経験することになるのではないか?」といった趣旨の発言です。視覚障害者の方に不謹慎な発言と受け取られたとしたら事前にお詫びしておきますが、樹木希林が片目を失明したときに、「今まで見えない方がいいものまで、見えすぎましたから」と発言したことを、改めて想起した次第です。
なぜ、このようなことを切り出すのかと言えば、本日の日経新聞一面の企業統治監査の記事につながるのですが、以下にNIKKEI NETの記事を引用することといたしましょう。
(引用始)
『金融庁は全上場企業を対象に不祥事防止に向けて、日々の業務遂行や内部管理の状況、取締役会の意思決定過程などを文書にし、公認会計士が会計監査の際にチェックする制度を導入する方針だ。証券取引法を改正し、2008年3月期にも義務付ける方向で検討する。企業不祥事が続発したことに対応した措置だが、企業にとっては費用負担が生じるほか、組織体制の見直しにつながる可能性もある。』
(引用終)
私は「会計士」という資格こそ持っていないものの、長年外資系企業で数値分析の仕事を行ってきたのですが、数字をつぶさに見ていると、実に多くの問題点が分かるものなのです。しかし、それを正そうとすると、組織内部の壁というものに阻まれ、その虚しさの積み重ねが、組織の外部に飛び出した理由の一つでもあります。
さて、今回の法改正が実現すれば、監査を担当する公認会計士の方々は、今まで以上に大量の「文書」を目にすることになるのです。私の個人的な興味は、会計士の方々が「見えすぎてしまう不幸せ」を自己の良心に照らして、どう心の中で処理していくのか、という職業的プロフェッショナルの極めてパーソナルな部分に関わるものです。
具体的な例を出して見ると、例えばある鉄道会社が、コスト削減のために安全対策の予算に大ナタを入れたとします。しかし、安全対策に関わる法令には違反していない場合、会計士はその文書に目を通したとしても、それを報告する義務はないのです。そして、その直後、第二の福知山線のような事故が生じてしまった場合、その文書に目を通した会計士の内面では、どのような葛藤が生じるのでしょうか?
この問題は会計士の内面にとどまるものではなく、外部からの監査に対する期待と実態のギャップという問題にもつながっていくものです。本日の日経新聞記事は、「チェック」という言葉を再三繰り返しているものの、それが「誰のための」「どこまでの」チェックであるか、またあるべきかについては、一切触れていません。「チェック」の意味を深く掘り下げて考えることが、期待と実態のギャップの乖離を小さくして、ひいては、会計士の内面の安定につながっていくのではないかという気がする次第です。