本日のエントリーでは冒頭部は最後に書きました。書き終えて本日のエントリーを読み返してまたのですが、個人的な読書メモといった類で、恐らくほとんどの方にとっては意味をつかみづらいと思うので、読んでいただける方は予めご了承をいただければと思います。最近、安定的にアクセスをいただいておりながら、エントリーがモノローグ(独白)という閉じた形式になっている点を少々反省しております。来週辺りからは、より「開かれたブログ」を目指したエントリーを書いていければと、考えている次第です。
以前は読書をする度に、何だか新しい知識を獲得するようなワクワクする気分に見舞われたものである。当ブログを長きに渡ってご愛読していただいている方は、特にここ1~2年で私の関心がファイナンスからヒューマンに移行しつつあり、ヒューマンな領域の学問の英知に感嘆する私の様をネットを介して感じとっていただけたかもしれない。
しかし、最近は本を読むたびに、「これはあの本の主張を別な側面から考察しているにすぎない」という既視感を味わうことが多い。例えば、ダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト』と、トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』。両者が取り上げるのは、いわゆる典型的な知識労働がインドの存在とIT技術の革命的な進歩により大きな脅威にさらされている点を指摘しており、ダニエル・ピンクはそうした脅威に真正面からぶつかるのではなく、より付加価値の高い右脳領域で勝負すべきだと方向性を示している。梅田望夫氏の『ウェブ進化論』は上記で述べたIT技術の進歩が、約12年前にプログラミングに手を染めた「なんちゃってSE」である私には、想像を絶するほどのインパクトを持つものであることを、グーグルのビジネスにフォーカスしながら教えてくれる。いや、生半可にIT技術をかじっている人こそ、グーグルの恐ろしさは見えてこないのかもしれない。
で、ダニエル・ピンクが今後目指すべき方向性として掲げている6つのキーワードの1つであるMeaning。フランクルを彼が引用していることからも、これは実存主義、トランスパーソナル心理学、スピリチュアリティなどという言葉に引っ掛かってくる「あの領域」の話題である。ケン・ウィルバーのたどり着いた境地も、そしてコーヴィーが『第8の習慣』で述べているところも、結構重なる部分が大きいのではないかという気がする。「インドとグーグルに知識労働を奪われたから、スピリチュアリティーを考える」というマインドでは駄目な気がするが、煩雑な知識労働が減少した結果として、我々が「よきこと」を考える時間を多く手に入れることができるようになった事実は、否定できまい。
いくつかこれらの本を読んで思った疑問がある。まずは、インドはいつまででも煩雑な骨折り仕事を引き受けてくれる世界のアウトソーシング先としての地位に甘んじているなどということはありえないということ。いずれはマクロ経済的な調整によりグローバルなメカニズムが働き、アメリカの会計士とインドの会計士のフィーの水準はそれほど異ならなくなる時代が来るはず。そのとき、インドの後継者がアフリカかアラブのどこかから現れるのか、あるいは全く新たなパラダイムに突入するのか、私には先が見えない。また、スピリチュアリティに関しては、宗教こそが人生であるインドでは、先進諸国よりもはるかに高い精神性を保持しているはずである。インドは先進諸国のたどった道をなぞらえることは、恐らくはあるまい。
また、第二の疑問は、日本語という世界レベルで見ればマイノリティーな言語に守られた日本は、フラットな世界の一員として機能していけるのか、ということ。『フラット化する世界』では、日本の知識労働のアウトソーシング先としての中国が描かれているが、昨今の2国間の関係を考えると、日本語を学習する中国人が増加するとも思い難い。知識労働がアウトソーシングしづらいとなると、アメリカの知識労働者(IT専門家、会計士等)に比べると、仕事を失う危険性は近い将来のレベルでいえば、極めて低いといえ、その意味でいえば、日本のサラリーマンは安泰といえる。しかし、そのツケは恐らく、国際的な企業競争力という形で現れるはずであり、IT革命でアメリカに引き離された日本は、更にこの「世界のフラット化」に乗り切ることができずに、差が開いていくような気がする。
トフラーの新刊本は、この文脈にフィットするのだろうか?時間があれば、是非読んでみたい。