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2006年11月10日

『死後の世界』を知ると人は強くなれるのか?

適度なアルコールが入っていると、感覚が研ぎ澄まされる。そんな経験を度々することがあります。で、ビールジョッキ1杯分程度のアルコールを摂取した後、帰宅の途中にある、コンビニに立ち寄ったところ、下記の本が目に付きました。

最近、度々キャリア関連の研修を担当させていただくことがあるのですが、この本はよく「私のお勧めの本」として講義の締めくくりに紹介している本です。「横浜のチベット」と称される辺境の地のコンビニで、まさかこの本と出会うとは思わず、少なからず驚いたことはいうまでもありません。(ちなみに、本日の本題とはそれてしまいますが、キャリア関連の本で、私が最もお勧めする日本語の本は下の本です。

ただし、最近キャリアに関しては自身の思索を深めつつあり、上記の両著作でも物足りないと感じつつあります。)
本日の本題はキャリアではなく、辺境のコンビニの書棚で見つけた『スローキャリア』から左に目を移動させたときに見つけた、下記の本です。

確かに、「生きがい」というのは我々に大事なテーマではありますが、その語呂が私にとっては陳腐なイメージを抱かせるため、「生きがい」をタイトルにした著作を手にすることはまずないのですが、その日は少量のアルコールに助けられ、感覚が研ぎ澄まされていたため、この本と出会うことができたのです。
『たまげた』というのが、この本を読み進めた当初の感想です。著者である飯田史彦氏は福島大学という名門国立大学の教授であり、専攻は「人事管理論」とあります。でも、この本は死後の世界やら、ソウルメイト、過去生やらのオンパレード(笑)。人事の専門家でこの領域に着目している方がいらっしゃるということを知ったこと自体に、大いに勇気付けられ興奮したのですが、この本を(飛ばし飛ばしではあるものの)読み終えた今は、根本的な部分での認識の相違の部分に私の意識は向かいがちで、その相違点に関して私の考えを記述してみたいと思います。

【『前世』は本当に存在するのか】
オーラの泉の扱う主領域でもありますが、前世というものは、「実際に存在するのか」「まやかしなのか」という論争があるのだとすれば、正直なところ、私個人にとってはどうでもいい問題です。なぜならば、恐らく私は自分が生きている間は、そのようなものを知覚するようなことはないであろうから。しかし、飯田教授はさまざまな文献と自身のネットワークを駆使しつつ、「過去生(前世の前世のそのまた前世・・・みたいなのをひっくるめて、そう呼ぶようです)」は、科学的な見地から存在する、と断言しています。その論拠を私なりに一言でまとめれば、退行催眠で得られた言動の多くは過去生を語っており、その個人が知りえない事実を言い当てたり、あるいは複数の退行催眠の被験者が同じ事実を語っていることがある、というのが、「過去生の証明」の論拠のようです。
退行催眠という手法自体について私は見識を持ちませんが、国立大学の教授であり、かつ人事管理論を担当されている方がそうであると語り、また、そうした話はオーラの泉も含めて、他の場所でも多々語られているので、私は「過去生というのは存在する」ということに対して、異論を差し挟もうとは思いません。

【過去生を知ることは、人生にとってプラスなのか】
しかし、過去生の存在を知ること、信じることが人生にとってプラスになるのかといえば、この点については、私は慎重です。飯田教授は『「永遠の生命」を科学する意味』と題した章を設けており、この章が読みたかった故に、私はこの本を購入したようなものです。
飛ばし飛ばし読んだので誤認があるかもしれませんが、飯田教授の論調の骨子は臨死体験に依拠しています。『臨死体験を通して過去生等のビジョンを見た者は、皆強くなる。だから、「死後の生命や生まれ変わりのしくみを、科学的知識として身につけること(引用)」は人生にとってプラスになる。』といったのが、飯田教授が言いたいことと概ね一致していると思います。
臨死体験がその後の人生に対してプラスの影響を与えているという話もよく聞くものであり、この点についても異論を差し挟むつもりはありません。しかし、「臨死」の状態に至っていない人々が、退行催眠等の手法によって自己の過去生を知ったり、あるいは死後の世界に関する「科学的知識」を身に付けるべきかといえば、大いに疑問です。
というのも、これらの過去生なるものが存在するとして、それは大多数の人間にとっては知覚できないものであり、我々は「過去生の記憶」を消去されて誕生してくるからです。そして、過去生は「臨死体験」という極めて異常な事態にしか、我々が知覚することはなかったわけです。飯田教授も含めた過去生支持派は、人間の基本的なメカニズムがなぜ過去生を消し去っているのか、という点を大いに考察すべきであると私は思います。比喩的に言えば、こうした行為は「パンドラの箱」を空けるような気がするのです。
また、過去生の存在を知って感激で涙する人々を観察していると、「過去生をしることにより癒される」以上の効果を持つことは、あまり多くないように感じます。私の感覚からは、過去生を知ることは「耽溺」につながり、「向上」とは無縁のものだという気がするのです。例えば飯田教授の著作に記された、読者からのこのような感想です。

(引用始)
『彼と別れたこと、就職活動がうまくいかないことなど、これら単なる不幸だと思っていたことが、実は自分で自分に与えた試練であると理解すると、うそのように気持ちが晴れ晴れとしてきて、悪いことのように思えたことも、「これでいいのだ」という気がしてくる。』
(引用終)

こういう感想を読むと、何か首をかしげたくなるのです、私は。もし、この方が過去生を知ることにより、自殺を思いとどまったのであれば、確かに過去生を知ることは、大いに意味があります。でも、いつかはそこに耽溺することなく、立ち上がって前に歩みださねばならないと思うのです。失恋をしたり、就職が失敗したならば、フツーに「悲しんだり」、「悩んだり」することこそ、人を成長させると思うのです。
あと、もう一点非常に気になることは、飯田教授やオーラの泉の江原氏の言動に見られる、「過去生を信じない人々に対する侮蔑」の感情です。飯田教授自身はこのような表現を書かれていないものの、引用文献等を通じてそのスタンスがわずかながら窺えます。顕著なのは江原氏で、オーラの泉で「おかしなことをいう人がいるもので」と侮蔑の笑みを浮かべながら、過去生を論破しようとする人々を小ばかにしているのを見たときから、私はあの番組を見なくなりました。過去生の存在をしれば、愛や慈悲の素晴らしさが分かるようになると、「推進論者」は説きますが、反対論者を抱擁することができないようであれば、彼らの「慈悲」は底が知れている、ということです。つまり、江原氏は「過去生を見れること」と「精神性が高まること」は全く次元の異なる話であるということを証明する生き証人でもあると、私には思えるのです。江原氏に対して平気で自分の過去を差し出そうとする芸能人達の気も知れません。
書いている間に熱くなってきたので、言い過ぎちゃったかな(笑)。多くの人々に癒しを与えている事実は否定できないわけだし、その点からは江原氏を認めてあげないとはいけないですね。ちなみに、私が「江原 & 美輪」と書けないのは、ただ単に美輪さんを批判するほどの肝っ玉を持ち合わせていないというだけのことです。だって、コワイじゃないですか、単純に(笑)!
最後に慈悲という点に関して、先日見ていたモーツァルトの特番で、内田光子が話していたことが非常に気になりました。ものすごい思い入れたっぷりの表情で、「モーツァルトの音楽の素晴らしさは、許す(赦す)素晴らしさなのです」みたいなことを熱く語っていたのですが、正直モーツァルトをそういう観点から聴いたことはありませんでした。モーツァルトは研修開始前等に精神安定の意味もこめてよく聴くのですが、「赦し」というものを聞き取ったことはなかったのです。モーツァルトと赦し・・・この関係が分かれば、私ももう一皮むけるやもしれません(笑)。

Posted by Ken Kodama at 2006年11月10日 11:02
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