マスコミへの露出を自ら好んで行う女医というのは、世間的に形成されるイメージに反して、その知性は著しく低いようである。もちろん医学部に入学して医療を職業としている事実から、彼女達の「お受験突破のための学力」と、「専門領域における知識」は相当高いのであろうが、彼女達の知的関心が向かう領域は、猫の額ほどに狭い。ただし、私が上記の如くの指摘をするのは、西川史子という典型的な愚女・悪女と、下記の本の著者である香山リカというわずか二人のサンプルに基くものであり、反例となる方がいらっしゃるのであれば、お詫びしておきたい。
この本の愚かさは、一言でいえば「ミイラ取りがミイラになった」ということにつきる。彼女は昨今のスピリチュアルブームを批判しており、その批判には参考となる洞察も含まれるものの、そもそも彼女のスピリチュアルの定義は、彼女の批判の矛先となっている『オーラの泉』から受けた心象のみに基く、下記の如くの恐ろしく浅はかな理解に基いている。
(引用始)
『スピリチュアルとは何だろう。(中略)もともとスピリチュアリティという語は日本語では「心霊主義思想」などと訳される。簡単にいえば、「死後の生」や「霊魂」などこの世を超えた目に見えない世界やそこでの現象を信じること、またその世界からのメッセージを受け取れること、と考えてよいだろう。』
(引用終)
これは「スピリチュアル」の定義というよりは「オカルト」の定義に、むしろ近い。また、彼女は「霊」という漢字を、「幽霊」と同義くらいにしか理解していない。彼女はスピリチュアルを批判しようとして、江原氏の「スピリチュアル」の極めて特殊な解釈に、気づかずに自らが「はまってしまった」のである。
かくいう私もなぜスピリチュアルに「精神性」という訳語ではなく、「霊性」という訳語が当てられるのか、鈴木大拙の下記の名著を読むまでは知らなかった。
我々日本人は「精神」という言葉を「物質」との対極の概念と理解しており、そこには二元性がつきまとう。ゆえに、その二元性を超えた概念を表す言葉として「霊性」なる語が必要になるのであり、スピリチュアルの訳語としての「霊性」は「幽霊」の略としての「霊」等ではない。もちろん、言論の自由は彼女を含めた日本国民全てに等しく与えられている。しかし、「スピリチュアリティ」に関して書かれた、真摯でかつ非科学的なオカルト的要素を廃した著作(確かにその多くは英語で書かれており、翻訳は多くはないという事情もあるが)を一切読むことなく、スピリチュアリティ批判を展開しようとする、その厚顔無恥ぶりにはこちらが恥ずかしくなってしまう。
また、最終章では「スピリチュアルと宗教には水と油ほどの違いがあるのだ(引用)」としており、その理由を要約すれば、「宗教には利他的な要素があるが、スピリチュアルは自己中心的である。」という、もはや「トンデモ本」の領域の認識である。確かに、現在の日本の江原氏を信奉する人々に限れば、極めて自己中心的な未成熟な人々が多い点は的確に捉えてはいるが、だからといって、スピリチュアリティという概念を自己中心的と断ずるのは、「文化人」としての彼女のアイデンティティを鑑みれば、もはや「知的アジテーション」に値する行為とも言える。
以前、下記のエントリーを書いたように、スピリチュアリティとオカルトというのは決して同義ではない。
しかし、香山氏に同情的な立場にたてば、彼女のような「文化人」がスピリチュアルとオカルトを近い概念と認識してしまう点は、理解できなくもない。両者は決して同義ではないものの、「近い場所」で語られることも多々あるのだ。例えば、臨死体験に代表されるように、世界が突然素晴らしいことが体感できるような、神秘的な体験をされる方も多々いらっしゃるようであり、その方々の内的な体験を科学主義への還元的な立場に基いて頭ごなしに批判することは正しいアプローチではない。では、そのような「オカルト的な」体験とは何かといえば、私自身は体験したことがないので他の方々の話を総合すれば、それは二元性を超える世界を「垣間見た」に過ぎないと解するのが妥当なようである。また、ケン・ウィルバーは、「準備が整わない段階で、神秘的な体験をすることは、逆に自我中心性を固定化する方向に働く」といった趣旨のことを『万物の理論』において書いている。
江原氏は「スピリチュアル」な世界を受け容れない人々に対して、冷笑的な態度を見せるが、「スピリチュアリティを受け容れない人々」の典型的なパーソナリティはといえば、それは、企業という合理的な意志決定を迫られる世界で勤勉に働いてきたサラリーマン、すなわち我々の尊敬すべき「お父ちゃん」たちである。日本の経済を支えてきてくれた「お父ちゃん」達に対して、「守護霊を信じない」というそれだけの理由で、冷笑的・攻撃的な立場をとること自体、彼らの神秘体験が、自我中心性を固定化する方向に働いてしまった典型例といえるのかもしれない。
最後に自己弁護的な発言をしておくと、このブログには、私を研修講師として迎え入れるか否かを吟味するために、企業の人材開発のご担当者が来訪されることも、ごくたまにあると聞いている。そのような方々に対して断っておくと、私は企業研修講師としての立場においては、スピリチュアリティという概念を前面に出すということはほとんどない。基本的には「コンピテンシー」という、企業研修においては「保守的」と考えられている切り口から助言・講義を行うのみであり、人材開発のご担当者のニーズにないこと・反したことを行うつもりは毛頭ないので、ご安心されたい。それでも「スピリチュアリティ」に関したエントリーを多く書くのは、21世紀の人材開発においては主流となるとの、将来予測に基いた準備からであり、来るべき将来のために自らの考えを整理しておきたいがためである。こうしたテーマを主軸にすえた研修を実施するとすれば、それはかなり先のことであり、また、恐らくは既存の提携先を通さずに自前で「個人」に対して細々と提供していこうかと考えている。私の「暴走」をご心配しつつブログを閲覧して下さる方がいらっしゃるのであれば、どうかご安心されて下さい(笑)。