今、半端でないくらいに忙しいのですが(笑)、今日は書かずにはいられない。
(引用始)
『しかしなんてまあ君は、そう純粋さに執着するんだ。なんだってそう手を汚すことを怖れるんだ。そんなら純粋でいるがいい。だがそれが誰の役に立つのか?それに、君はなぜわれわれのところにきたんだ?純粋さとは、行者や修道士の思想だ。(中略)なにもしない、身動きせず、からだに肘をつけ、手袋をはめている。わしは、このわしは汚れた手をしている。肘まで汚れている。わしは両手を糞や血の中につっこんだ。それでどうした、というのか?君は手を汚さずに統率できると思っているのか』
『私見では、企業では部下とともに働こうと思えば、部下を道徳的に傷つけることは不可避だと思われる。それは、ちょうど戦争が人間を肉体的に傷つけるのと同じである』
(引用終)
上記に引用した文章は、その下にリンクを貼ったバダラッコの著作からの引用である。文体からも想像いただけるように、それぞれの文章はバダラッコの手によるものではなく、前半の文章はサルトルの「汚れた手」からの引用であり、後半はバーナードの「経営者の役割」からの引用である。
もちろん、長期間に渡って私のブログを読んでいただいている方にはお分かりいただけると思うが、私は決して談合を擁護するような人間ではないし、上記の引用文で談合当事者の肩を持つつもりは、さらさらない。しかし、本日の『懲りない談合企業を懲らす捜査を』と題したごとくの「浅薄な正論」で固められた日経新聞社説を書いた編集者には、このバダラッコの著作を読んだ後に、同じ論調で社説を書けるのか、と問いたい。
談合は疑いようもなく法令違反である。では談合の当事者は全て悪人かと言えば、それはあまりにも短絡的である。バダラッコの原著のタイトルは、「When Managers Must Choose between Right and Right」であり、どちらの選択肢も「異なる価値観から見れば」正しい場合における、管理者の内面の葛藤を扱っている。
談合を正当化する価値観とはどのようなものか?例えば本日の日経新聞3ページの記事が手がかりになる。
(引用始)
『地域ごとに分立する談合組織は会社の壁を越えて人的なつながりが緊密。「上司よりも組織の幹部に忠誠を尽くす談合屋が大勢いる」(大手幹部)』
(引用終)
私自身は談合問題には極めて疎いのでピンずれかもしれないが、上司よりも談合組織の幹部に忠誠を尽くす人々の内面を推し量れば、例えば「地域経済の維持・発展」等という崇高な価値観が窺えるのかもしれない。「法令違反には決然たる対応を!」と声高に主張するのは容易いが、恐らくは問題の根本的な解決にはつながらない。それはアンタッチャブル(お笑いコンビじゃないよ!)に描かれた世界であり、正義感を燃やすことはカッコよいと同時に、どこか滑稽でもある、もう一段階高い視点から展望すれば。
私がなぜこのバダラッコの著作を手にとっていたかといえば、それは最近の私の関心事である「発達」の手掛かりになると考えたからである。ウィルバー、キーガン、トーバート、クック・グロイター。これらの成人の心理的な発達のフレームを提唱する学者達の著作を読んで分かるのは、「どのような発達段階が存在するのか」ということであり、「ではどうすればより高い段階に発達を遂げられるのか?」という点に関するヒントは極めて少ない。そして私の後者の疑問に答えるように思えたのが、このバダラッコの著作なのである。
「俺は修羅場をくぐって成長した」と昔を振り返るビジネスマンは多くいる。しかし、他人の前で披瀝できるような修羅場ならば、それは本当の意味では修羅場とは呼べないのかもしれない。
「経済的合理性」「人間関係」「経営理念」「環境問題」・・・いずれか一つの価値観に「洗脳」されれば、決断力は飛躍的に上昇し、あなたは「生産的な」マネージャーと高い評価を受けることは間違いないであろう。特にその価値観が「経済的合理性」に立脚するのであれば。人として「成長する」あるいは「発達する」ということは恐らく、これらの様々な価値観の重みが理解できるようになるということであり、恐らくこれが先日のエントリーで記述したビル・トーバートの述べる「Individualit」段階で経験する「Decision Paralysis」なのであろう。しかし、いつまでも決断に逡巡することは、企業経営にとってマイナスであると同時に、一人の人間としての発達もストップすることを意味し、異なる価値観に対して内面でなんらかの「統合」を図る必要がある。そしてこれこそが成長であり成熟であるのだろう。
談合問題も、もう一段階高い視点に立って全体的な構造を見据えた上で、抜本的な解決策を探ることなしには、いつまでたっても「必要悪」とする当事者の内面は揺らぐことなない。談合問題の抜本的な解決のためには、当事者及び規制当局の「内面の成熟」が不可欠であろう。道は長そうである。