「悪」と言おうが「影」と呼ぼうが、その呼称についてはどうでもよい。最近私は人間の負の側面に大いに関心がある。私個人がどう生きていきたいかという側面からの関心に留まらず、新時代のビジネス・エシックスを考える上で重要なテーマであると直観するからこそ、私を魅惑するテーマなのである。そんな時に出会った本が、下記の著作である。
冒頭の「はじめに」の章の以下の文章を読んだとき、私は「どきり」としたと同時に、ようやく出会いたい本に出会えた、そんな印象を受けた。(なお、この本、全200ページくらいある中のまだ3分の1しか読んでいない中でのエントリーのアップなので、理解不足による誤解が含まれている可能性があることをご了承いただきたい。とかいって、これはこのエントリーに限ったことではないですが(笑))
(引用始)
『彼ら(テレビのレポーターを指します)の言動を膨大な「善良な市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして他人を裁く彼らは有罪である。』
(引用終)
基本的には、この本はカントの倫理学の解説書であり、従って本文に入ると難解なカントの引用が随所にあって、冒頭文のような読みやすさ、衝撃は少なくなる。しかし、ドストエフスキー等の文学作品の登場人物や、我々の現代の身近な事例をふんだんに取り入れ、私のような凡人にもなんとか原著を読まずしてカント倫理学の片鱗をつかむことを可能にする、良書であると思う。
【カントが考える道徳的善さ】
カント倫理学を紐解くことは、新しい時代のビジネスエシックスを考える上でも重要となると考えられる。ここで、その概要を簡単に紹介しておこう。まず、カントは「適法的行為」と殺人や盗みといった「非適法行為」を峻別するところから出発する。中島氏によれば、カントは「悪」であることが明白な「非適法行為」自体への関心は薄い。カントは、「適法的行為」の中にも「道徳的に良い行為」とそうでないものがあると分類する。カントは「適法的行為」を営む善良な市民の内面に潜む「悪」に関心があるのだ。
では、どのような「適法的行為」が「道徳的に善い」とされ、「道徳的に善くない」とされるのだろうか?上記の著作には2つの基準があるが、そのうち1つだけ紹介しておけば、その動機である。自己愛的な動機に基づいて「適法的行為」を行っても、それは「道徳的に善」ではないという。これはかなり厳しい考え方である。我々人間はほとんど、善行をつむことが不可能になってしまうからだ。
(引用始)
『いかなる政治活動も、宗教活動も、いやボランティア活動さえも、究極的には「他人の信頼」という永続的利益を求めているのであるから、厳密には道徳的には善くありえない。』
(引用始)
私はいまでもコービーの「7つの習慣」に従った生き方は素晴らしいと思っているし、実際そのような生き方が根付いている方には、そうそう多くは出会う機会がない。しかし、カントの考える倫理観に照らせば、コービーの「相互依存」の考え方などは、自己愛の臭気がぷんぷん満ちている、ということになってしまう。
しかし、だからといってコービーの原則を否定するつもりはない。恐らく、コービーの原則は、我々人間が生きていくための「現実的な最適解」と解すべきであろう。が、しかし、コービーの原則に心打たれその通りに生きようと努め、「自分は善く生きている」と実感している人間がいたとすれば、その人間は成熟の度合いが低いといえよう。コービーの原則の根底にも「自己愛」を目ざとく見出し、そしてそれはホリエモンをあのような方向に導いた「自己愛」と大きさこそ違え同性質のものである、と気付きつつ『7つの習慣』に従った生き方ができることが理想なのだと、私は考える。
【神の見えざる手】
さて、ビジネスエシックスの基本として長らく考えられてきたことは、カントの倫理観と全く異なる様相を示すものであった。「経済主体が各々利己的な活動を営めば、あとは『市場』という神の見えざる手が、よきに計らってくれる。」というアダム・スミスの倫理観に従えば、20世紀までは左程多くの問題は生じなかった。この考え方はカントの倫理観の対極にあるように見え、興味深い。カントは「自己愛」の片鱗が見えれば、それを「悪」と呼ぶ。アダム・スミスは「自己愛」を突き進めることこそがビジネス上の「善」であるという。
しかし、市場の外部にある問題は、「神の見えざる手」に委ねることはできない。そしてその代表格が、連日のように新聞報道を賑わす環境問題に他ならない。環境問題を契機として、我々は21世紀、そしてその後の地球を永続させるような、新たなビジネスエシックスに、想いを巡らせる責務がある。
【『超』コンプライアンス】
新たなビジネスエシックスを考える上にあたっては、カントが行ったように適法的行為の中から道徳的に善である行為を峻別する、なんらかの基準を探し出すことが、現実的に有用であると思われる。もう、ある程度の規模を持つ企業であれば、コンプライアンスの体制は整備されつつあるように感じられる。これからは、法とは最低限の基準に過ぎないことが我々が実感できるよう、各々の企業が考えていく責務があると思う。