【道徳とリーダーシップ】
本日のエントリーは先日もご紹介した、上記のカント哲学の入門書に関して。まず、この種の本を私が読むことに関してだが、これは純粋な趣味の世界への逃避ということではなく、私が研修で担当することがある「リーダーシップ」というテーマに密接につながると考えている。そのつながりを考える上で手がかりをつかめるのでは、との期待を抱きつつ今読んでいるのが、下記の著作である。
「3年目社員が辞めていく」という現象が社会的に広まっているが、この一つの要因として、やめていく社員のコミットメントが低いということが言えるであろう。各企業はコミットメントを「マネージしよう」とやっきになっているようだが、フォロワーのコミットメントが生まれるか否かは、リーダーの資質によるところが大きいということも否めない。すなわち、リーダーの信頼性(Credibility)が重要なのである。ではフォロワーがついていきたくなるようなリーダーの資質にはどのようなものがあるのか?同著の作者が行ったサーベイによれば、以下の4つが上位を占めたとのことである。
(1)Honesty(正直)
(2)Forward-looking(先を見通せる、ビジョン)
(3)Inspiring(情熱的)
(4)Competent(有能)
「正直さ」とは道徳に関わるものであり、そうであるならば「信頼性」溢れるリーダーシップを身につけたいと考えるリーダーは、道徳にも深く考えを巡らさねばならない、ということになるであろう。私がカント倫理学に興味を持つのは、決して道楽などではないのだ。
【道徳と自律】
さて、私自身だが、今まで自分を「道徳的」な人間であるとは、露ほども考えたことはなかった。私のイメージの中では、道徳とは規範に従うことであり、この考え方はWikipediaの道徳の定義とも呼応する。様々な個人的な体験も手伝って、どちらかといえば私はこうした規範を疑念の目で眺める人間へと成長した。私は規範に盲従する子羊などではないのだから、道徳的であり得るはずがない。
しかし、カントの考える道徳によれば、どうやら私は結構道徳的資質を兼ね備えていると言えるらしい。というのも、道徳的に善いことの一つの必要条件として、「自律」を掲げているからであり、「他律」的に規範に盲従する人々は道徳的に善でないとまで言い切っている。これに類する中島氏の文章をいくつか、下記に引用しておこう。
(引用始)
『では、これに対して「精神」において道徳的な善さを体現している人とはいかなる人か。それは、世の掟をはじめからことごとく自分のうちで、つまり自律的に点検している人、世の掟に対しても批判的であるとともに自己の道徳的感受性に対しても批判的な人である。
道徳では、十戒のように善の充実した内容が先立ってはならない。内容は各人が自律的に探り出すのでなければならない。』
(引用終)
これは、Wikipediaの定義からは思いもつかないような道徳観である。しかし、一応、哲学史に偉大な足跡を残す老カントの道徳観として、リスペクトの念をもって考えるべきであろう。
【道徳とトランスパーソナル】
先日のエントリーで、カントが考える道徳的な善のもうひとつの必要条件として、「自己愛的な動機に基づいていないこと」というものを紹介した。こちらの条件から考えると、私は少しも道徳的ではないと思っていた。だって、こんなブログ書いているって、自己愛の塊である証明みたいなものじゃありませんか(笑)。
しかし、ここでもまた私は、カントの考える道徳的な善に「近い」人間であることを悟ることとなる。中島氏は自己愛が希薄な人物として、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵を挙げ、「自己愛がきわめて希薄で、真実性=誠実性の原則に従って道徳的善さをやすやすと実行してしまう人は、じつはそれほど道徳的ではないのである。(引用)」とまで言っている。???では、どうすれば道徳的であるといえるのか?その答えも中島氏の文章を引用しておこう。
(引用始)
『自己愛が濃厚な人が、大いなる努力のすえにそれを克服して道徳法則に対する尊敬の念から行為に出るとき、その行為はとりわけ道徳的価値をもつ。』
(引用終)
まあ、私は自分の自己愛を「克服」まではしていないが、少なくとも「努力」はしていることは真実である。ここでも、また私は自分が「道徳的に善」に近い気がしてきた(笑)。ま、自画自賛はこの辺にしておくが、一応自画自賛をブログ上でする言い訳をば。サラリーマンの皆様とは違い、私にはもう自分を動機付けたり、エンパワーメントしてくれたりする「上司」は存在しない。お褒めの言葉をいただくのは、仕事の質・結果に対してであり、もう誰も私をモチベートしてくれる人はいないのだ。だから、自分で自分を持ち上げて、動機付けねばならない、そういうことなのです。
話はずれたが、ムイシュキン公爵は道徳的とはいえない、という話で私が「連想」したのは、トランスパーソナル心理学のモデルである。ごくごく単純に示せば、トランスパーソナル心理学のモデルは、下記のような三段階を提示している。
(1)プレパーソナル(自我確立前)
(2)パーソナル
(3)トランスパーソナル(超個)
ムイシュキン公爵は明らかにプレパーソナルの段階にいる人物である。カント倫理学とトランスパーソナル心理学を無理矢理くっつけてみると、道徳に善たりうるにはトランスパーソナル段階に入った人間でないと難しいと言えるのかもしれない。
【道徳と「徳育」】
最後は「News Review」らしくタイムリーな話題で締めくくりたい。保守的な安倍首相が考える「徳育」の目的とするところは、なんらかの規範を早い段階で植えつけることに他ならず、これはカントの考える道徳とは遠いものである。ただ、私は教育論には疎いのだが、幼児期には規範を植えつけるということも必要なのかもしれない、とも思っている。
しかし、規範を植えつけるにしても、その背後の「なぜ」を考えさせる「徳育」でなければならない。「なぜ」、自殺はいけないのか。そして、自殺はいけないと言われているのに、東京の長として「君臨」するあの方は、自殺した人を「サムライ」と賞賛している。彼は「なぜ」賞賛するのか?小学生にはヘビーなディスカッションだが、高校生には十分扱えるテーマだと思うし、実際こうしたことに軽い疑問を抱きつつ、受験勉強の忙しさから忘却している若き人々は多いと思う。
「道徳は教えることができない」とする人々の考えは分からないでもないが、「道徳を考えるサポートをする」ことが教育において求められているのではないか?
実は冒頭で紹介した「Credibility」に日本人にとってショッキングは調査結果が掲載されており、本日書いたテーマと関連性がある。この点についてはまた別の機会にエントリーを書いてみたい。