昨日までは地道にレポート作成に忙しかった感じでした。今日・明日・明後日は研修準備もしなくてよい(というかできない)、レポートもたまっていないという、まさに秋のGWといった感じなので、久々にブログを書いてみることにしました。
【『聖なる予言』には抵抗のあるあなたへ】
まずはこの本の紹介から。著者はジャウォースキーという人。名前を聞いたことがある、と思っていたらセンゲの『出現する未来』の共著者の一人でした。で、この本の序文はそのピーター・センゲが書き、監訳者はまたまた神戸大学の金井教授。ジャウォースキー本人も著名な人で、弁護士というキャリアを投げ打ってまで、アメリカのリーダーシップ教育へとキャリアをシフトした人。しかも、彼の父親は元ニクソン大統領の悪事をあばくプロジェクトのヘッドとして、これまた著名な方である。そんな人の息子が書いたいわば自叙伝で、金井教授が監訳するくらいだから、キャリアの自叙伝として読める。で、タイトルが「シンクロニシティ」であるだけに、ちょっと「不思議」な感じである。
さて、あのかつてのベストセラー「聖なる予言」と聞くと鼻で笑っていたのに、上記の紹介文を見て、この本を読みたいと思った方がいたとしたら、その方はビジネスのオーソリティのネームバリューに弱い権威主義者である。だって、テーマは同じ「シンクロニシティ」である。そんな権威主義者を私は軽蔑する。どのくらい軽蔑するかといえば、私自身に対してと同じくらいに(笑)。ま、私も黒字に金文字という派手な(というか異様な)装丁と、センゲと金井教授の名前がなかったら恐らくこの本を買うことがなかったと思う。私も弱き権威主義者なのだ。
【少々物足りない金井教授の解説】
この本を買って読んだのは、巻末の30ページ近くある金井教授の解説文を読みたかった、というのもある。しかし、解説文を読んだ印象は「肩透かし」といった感じ。今同著作が手元にないので、うろ覚えに頼るほかなく、きちんと引用できないのだが、金井教授は「この本はシンクロニシティの本として読むべきではなく、ユングの『人生の正午』を転換点としたある男のキャリアの実例として読むべきである。」という類のことを述べておられた。私なりの言葉で置き換えれば「発達心理学」の実例として読め、ということか。
もちろんこのような読み方からも得るものは大きいのだが、う~ん、「不思議」の部分に目もくれない、という読み方も本筋から外れていると思う。だって、タイトルが「シンクロニシティ」なんだもん。
最後の章で、これもうろ覚えになってしまうが、あるダイアローグのセッションに参加していたビジネスマンから、以下のような深遠な問いかけがなされた。
「この種の話題は必然的に神の問題に行き着く。しかし、私の職場で神や宗教を語ることはタブー視されている。この点についてはジャウォースキーさん、センゲさん、いかがお考えになられるか?」
で、この著作では、この質問に対しての「ストレートな」回答はなされない。それだけに金井教授の解説を期待していたのだ。金井教授もマズローの監訳を手がけるくらいだから、「この領域の問題」に関して認識は十分にあるはずなのだが、やはり「経営学部教授」としてのアイデンティティが記述を踏みとどまらせたのだとしたら、至極残念である。
【私のシンクロニシティ体験】
かなり本質から外れた余談になるが、ジャウォースキーのシンクロニシティ体験はかなりうらやましい。例えば、空港で素敵な美女と目が合って、どうしても気になってしまい、自らの乗る飛行機を一便遅らせてしまってまで、連絡先を交換したりする。で、一年後、その美女がジャウォースキー夫人となり、精神的にも深い会話をしちゃったりしているのだ。「はい、ごちそうさまでした!」といったコメントしか浮かばないが(笑)、私自身もシンクロニシティ体験がないわけではない。いや、最近かなり多いといっても過言ではない、しかし、残念ながらこのような「浮いた」分野ではないのですが・・・
私のシンクロニシティ体験は、読書体験で頻発する。例えば先日紹介したビル・ジョージの『リーダーへの旅路』を読んだ直後に、この著作を手にとれるとは、うまく行き過ぎた流れである。で、昨日ブックオフで何気なく手に取ったのが下記の著作である。
怪しげなタイトルでかなり損をしているが、「自己物語」が主テーマで、これはビル・ジョージとジャウォースキーの心理学的な理論基盤をなすのみならず、某霊媒師のアプローチにも通じるものがある。で、まだ読んでないが、これが自由意志を否定するスピノザの考え方にもつながってくるのではないか、という気がしている。
私が財務から人事系にキャリアシフトをして、今ようやく2年半経過したところである。その割には、読むべき本に怖くなるくらい上手く巡りあうことができ、短期間で一気に本質的な部分に到達した感がある。これを「私の努力」ということのみで説明しようとしたならば、私は不遜であろう。
【良い「自己物語」の作り方】
ついでに、上記の新書の内容に関してだが、今半分くらい読了したところだが、当然ながら「キャリア」という観点が主になっているわけでないし、「自己物語の作り方のハウツー本」の体裁をとっているわけでもないようだ。で、私はこの自己物語の作成が、キャリアビジョンを策定する上で大変重要だと、経験的に感じている。で、よい自己物語つくりのコツを、経験的に掴んだものを、以下に羅列しておきたい。
①30代以降においては、「過去の歩み」を振り返ってつくること
20代までのキャリアビジョン・自己物語は、(今時いないだろうが)「ホリエモンのようになって日本に新風を吹き込みたい」みたいな、他人への憧れレベルでもいいんじゃないかと思う。が、30代に入ったらただの「夢」では恐らく望ましくなく、従って「過去の歩み」を振り返って、夢と現実との折り合いをつけるべきだと思う。
②人生の全ての出来事を羅列する必要はない
当たり前だが「物語」なのだから、「壮大かつ網羅性のある自叙伝」である必要は全くない。自分が将来に向かうにあたってモチベーションを保ち続けられるだけの要素がつまっていれば、それでいいと思う。
③「どん底の体験、醜い自分」から目を離すべきではない
成功体験だけつなぎ合わせて自己物語をつくりたければそうしてもよいが、その場合、キャリアビジョンに精神的・霊的な深みは得られない。負の部分も含めて自分なのだと認識することにより、自己物語は輝きを増すことだろう。
【少し歴史問題も語らせて下さい】
歴史も「史実の羅列」とあわせて「物語」としてみることもできるだろう。だから、日本史の教科書検定で、頑なに南京大虐殺の記述が拒まれたり、沖縄の集団自決問題等の経緯も、「物語としての歴史」として考えれば、文部省のやりたいことも分からないではない。美談だけを歴史に残したいのだろう。しかし、そのような姿勢は、国家レベルの教育を考える人々としては、とてつもなく浅薄であると思う。
原爆の被害者としての体験をもって、国際社会で平和の伝道師として活躍していくことは素晴らしいことである。しかし、我々の先祖は善良な被害者であるのみならず、醜悪な加害者としての顔もあわせもち、その両者のDNAは我々の中に息づいていると考えて行動した方が、意義深い行動ができると思う。
しかもその同じ日本史の教科書の鎌倉時代の部では「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」との偉大な親鸞の言葉が記述されているはずである。美談ではないからといって教科書に墨を塗る人々は、親鸞をどうように理解しているのであろうか?
我々自身の醜悪な部分も受け止めた上での愛国主義であれば、偏執的になる恐れも少ないだろうし、それに大戦中の愛国主義よりも深く柔らかである、と思う。
日本史教科書も、清濁合わせた自己物語となっていないようであれば、その底は悲しいまでに浅い。