今日は芸術の秋でした。
つい今さっきまでは12CHで『椿山課長の七日間』という映画で涙し(笑)、そして昼間は国立新美術館で話題のフェルメールの「牛乳を注ぐ女」が展示されている「オランダ風俗画展」を見てきました。人混みを避けて美術館や映画館に行けるのが、フリーランスならではの醍醐味です。
フェルメールは仕事と無関係に芸術に浸りたい、とそういう純粋な気持ちで見に行ったのですが、結局私の仕事上のテーマを考えるきっかけを与えられたしまったのです。というのも、「牛乳を注ぐ」という行為は一つの労働であり、「オランダ風俗画」というより広い枠組みで見れば、様々な労働が絵画のテーマになっていたからです。
絵画のテーマとなっていたのは、ほとんどが女性の家事労働に関わるものばかりでした。なぜ、男性の仕事が描かれないのか、というのも興味深い点ではありますが、他のオランダ風俗画家と比べて、なぜフェルメールがこれほどまでに有名なのか、その原因が分かった気がしました。というのも、他の画家が女性が家事労働する中に描き出そうと努めるのは、その女性の胸中にある感情です。時に退屈そうだったり、夢中になっていたり、談笑を楽しんでいたり、と様々な表情から、当時の女性が仕事の際に抱く感情が偲ばれます。しかし、「牛乳を注ぐ女」では、女性が顔を下に傾け気味であることも影響して、私には彼女の感情が前面には伝わってこないのです。それよりも、牛乳を注ぐという極めて日常的な行為に内在する「崇高さ」が感じられました。丁度ノロノロと読んでいたスピノザの一節「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。」が想起されました。私にこうした印象を抱かせるのは、他ならないフェルメールの巧みな光の表現技術です。絵画の技巧に関しては全くの素人ですが、あの絵は何故かきらきらと輝いているのです。同じ「女性の労働」というテーマで描きながら、他の画家は比較的写実的なレベルで留まっているが、フェルメールは手の届かない高みにまで引き上げる。これは画家の技術と精神がなせる技なのでしょうが、翻って我々が仕事に対峙する姿勢を考えれば、我々は自身の仕事を「ただ金のために」と捉えることもできれば、「同僚と楽しむために」と捉えることもできるし、「天命を実現させるために」と捉えることもできる。
あと、考えさせられたのは、現代の我々の労働は果たして「絵になる」のであろうか、ということ。写真や映像技術が発達した現代において、「写実的」な要素は絵画には期待されていない。であるから、我々の仕事がもし絵画に取り上げられるとするならば、我々の仕事自体に、芸術として着目すべき何か、が存在せねばならない。再び労働が芸術に取り上げられるためには、芸術家も我々の労働に着目していただかなければならないし、我々としても何らかの崇高なテーマをもって労働に対峙しなければならない。