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2008年01月30日

『十牛図』に見た私の行く道

今日のエントリーはとっても「私的」です。
今の私の仕事のほとんどは企業研修で、最近ヒューマン・アセスメント研修、キャリア研修、ロジカル・シンキング研修などの比重が高い状況です。
で、そうした仕事をするかたわら、自己研鑽の一環として様々な本を読んでいるのですが、宗教、スピリチュアリティ、哲学、発達心理学等々、直接的な関連性が希薄であるものが、非常に多い状況です。
私がこうした書物を読む理由は、「こうした分野の重要性が十年後くらいには、企業の人材開発において認識される」という非常に漠たる直感に基づいており、今までも当ブログで色々書き立てていましたが、今一つ自分の中で、現在の仕事との関連性が腑に落ちていなかった部分があったのです。
ある、ベテランの研修講師の方が書いた本を立ち読みしていたら、いわゆる「精神世界」に傾倒する研修講師というのは多々存在するそうです。で、その著者の方は現役研修講師に向けて「精神世界はほどほどに」と、賢明なアドバイスを送っていました。もちろん、私も「危険性」については飯のタネに関わる重要事項であるので、十分すぎる程認識しています。ただ、この方の著作を読むと、「私自身も『精神世界に傾倒した』として括られる研修講師の一人なのか」と、若干つまらない気分も味わいます。
そんな迷いの中、正月前後に読んだのが、下記の十牛図の解説書です。

十牛図とは禅の悟りのプロセスを10個の絵で解説したものなのですが、上記の著作に引用されていた道元の下記の一文を読んで、至極感銘を受けました。

仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり

この一節を読んで、現在の私の仕事、そして将来の関心事が、「自己認識」というキーワードでつながった印象を受けました。ヒューマン・アセスメント研修も、キャリア研修も、その目的は受講生の自己認識を深めることを目的としているものであり、講師はその触媒として機能します。そして、上記の「仏道をならふというは、自己をならふなり。」という一文で、宗教の目的の一つがやはり自己認識を深めることであることを知り、私の自己研鑽の方向性は間違っていなかったことを確証し、大きく勇気付けられた気がしました。
しかし、同じ自己認識が目的とはいえ、両者は大きく相違します。まずその手法ですが、HA研修はコンピテンシーという角度から分析的、客観的に自己を認識していきます。一方で、特に神秘主義的な宗教では分析的な手法は捨てられ、非二元的思考、神秘体験等が強調されます。しかし、自己認識の「深さ」でいえば、HA研修は禅の自己認識の足元にも及ばない程の、浅い領域を行き来している感があります。
で、私はどうすべきか?深さとしては、禅の境地の自己認識を目指しつつも、企業を相手とする以上、分析的・客観的な枠組みを踏み外すことは許されないと考えるのです。ここで、ニーチェのツァラトゥストラの下記の一節が、私の行動規範として、私の行く末を照らしてくれます。

(引用始)
『あなたがたは一つの神を、思考することができるか?できない。-しかし、あなたがたには真理への意志がある。この真理への意志とは、一切のものを、人間が思考することができ、見ることができ、聞くことができるものへと変えようとする意志である。あなたがたは、あなたがたの感覚でつかんだものを、究極まで思考しなければならないのだ!
(引用終、太字強調は私)

道元が見た境地、十牛図の作者が見た境地を遠い道標として掲げつつ、そこに向かって「客観性」「分析的」という足枷をはめながら、一歩一歩着実に前進し、多くのビジネスマンが少しでも深く自己を認識していただく手伝いをする、というのが恐らく私の人生のミッションであるのではないか、という気がしてきました。
・・・とかいいつつ、私も今年の9月で40歳。これほど遠大な構想を実現するために残された期間は多くはないのです。「夢追い人」で人生を終えるのか、なんらかの痕跡を残せるのか。こう考えると「日々勉強」の大切さを痛感させられた次第です。

Posted by Ken Kodama at 2008年01月30日 10:37
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