先日、「他者の善悪に対する我々の態度」と題したエントリーの中で、特に4番目のポジション、すなわち『「善」と「悪」は切り離せない関係にある』という人の見方について、最近色々考えさせられることがある。思いつくままに、関連する事項をいくつか下記に書いてみた。
【Sweet Novemberを観て】
先日、時々行くサウナのVODで、キアヌ・リーヴス主演の恐らく大分前の映画、「Sweet November」を観た。
前半は、仕事一辺倒だったキアヌ・リーヴスが、シャーリーズ・セロン扮する謎めいた女性の感化により、愛や人への優しさといった価値観に目覚めさせられる、という味わい深くもあるが、まあ、ありがちではあるアメリカ映画らしいテーマである。
前半では、キアヌ・リーヴスを「更正」させた女性は利己心のかけらもない、聖女のごとくに描き出される。ところが後半で彼女の「闇」がクローズアップされてくることにより、彼女の人間味が明らかになる。ガンの治療をすることを頑なに拒み、また、なんらかの事情によりこじれた家族との関係修復を頑なにこばむ、問題多き女性の顔が浮かび上がることにより、私の中の彼女のイメージは「聖女」から「人間」に格下げされる。しかし、人に「堕ちた」ことにより、彼女は輝きを増したように感じられた。少なくとも私には。ただただ善良な人間などうそ臭いし、私の好みではない。
【ハイデガー問題】
哲学関連の書物を拾い読みするうちに、「ハイデガー問題」なる用語を知った。どういうことかというと、ハイデガーといえば主著『存在と時間』が「20世紀最大の哲学書」と評され、(本人が認めるか否かに関わらず)実存哲学の代表的人物と知られることは、周知の事実である。そんな素晴らしい哲学書を著したハイデガーが、近年の研究により、ナチズムに積極的に関与していることが明らかになった。ハイデガーがこの両極に関わっていたことを「ハイデガー問題」と呼ぶらしい。
この辺の話は特に上記の著作から知ったが、今手元にないのでうろ覚えで記述すると、哲学界はハイデガーの両極を、分断されたものではなく、必然的な関連性があるとみようとしているらしい。だが、その関連性の分析になると、哲学の素養がない私に言う資格もないかもしれぬが、どうも切れ味の悪かったり、憶測の域を出ない分析が多いような気がする。
哲学者はテクストの分析に欠けては精緻(すぎるくらい)に行うものの、著者の人間性やテクストと人間性の関連性については、必ずしも有用なフレームを有していないように私には感じられる。だから、私のような素人にも、なんらかのことを語る余地があるように感じられる。
【エニアグラムの有用性】
個人の善と悪の関連性について、極めて有用なフレームは、私が現在知る限りではエニアグラムだと思う。エニアグラムも、研究者によって様々な流派があるようだが、上掲のリソとハドソンは、人間を9つのタイプに分けるだけでなく、それぞれのタイプを9つの「レベル」に分類している。で、レベルが高ければ「善」の要素が顕在化し、低ければ「悪」の要素が顕在化する。
例えば、目に見える成果を手中にすることをひたすら追求する「タイプ3」の場合。彼等のレベルが高ければ、彼等は集団の中で憧れの的となり、誰もが見習うべき傑出した人物として頭角を現す。しかし、レベルが低い時、言い換えれば結果が思うように出ないときは、あたかも結果を出せたように振舞う、すなわち欺瞞的な態度が目に付くようになる。ホリエモンはそこを執拗につつかれ、ついには国策操作の手にかかり、失墜させられてしまった。
あるいは「タイプ2」の場合。レベルが高い「タイプ2」の人として、リソとハドソンの著作はマザー・テレサを掲げているように、タイプ2の人々の特徴的な善は「愛」であり、しかもマザー・テレサの愛は見返りを求めない無償の愛である。
しかし、愛の反対語は憎しみであるように、レベルが低い人は自信の愛が報われないと、とたんに押し付けがましい態度をとったり、相手を執拗に憎むようになる。
「私には悪いところなんてないです」というような鈍感な人々に、エニアグラムのタイプを知らせてやるだけでも、有用である。自身が健全なレベルを保てないとき、どのような「悪しき」方向性に走る可能性があるか、教えてあげることが可能となる。
しかし、タイプ分類は所詮「分類」の枠を出ることは出来ず、「ハイデガー問題」等に対しては、エニアグラムがなんらかのヒントを与えることができたにせよ、本質に迫ることには到底適わない。本質に肉薄するためには、個々の人間の個人史をひもとく必要があるだろう。
【インテレクチュアルズ】
歴史上に名を残す知の巨人の、特に「裏」に焦点をあてた個人史の寄せ集めとして、私は買っただけでまだ読んでいないが、ポール・ジョンソン著のインテレクチュアルズがある。斜め読みの印象からは、どうもポール・ジョンソンの意図は、知の巨人の善と悪の関連性を分析することにあるのではなく、ひたすら「悪」を暴露し、「どうだ、お前らはこんな奴らの書いたものをありがたく読んでいるのだぞ」といったスタンスで、この著作を書いているように見受けられる。
しかし、意図はどうであれ、知の巨人のプライベートライフでの悪事の数々が提供されたことは極めて有用であり、私のように関心のある者は、取り上げられた人物の著作から「善」を読み取り、独自の善悪の分析を実践することが可能となる。
暇ができたら是非読んでみたい著作である。