今日の午後から仕事で出るため、今日はエントリーを書かないつもりだったのですが、昨日の義経の石橋蓮司の演技があまりにも凄かったので・・・富樫泰家の見せたあの慈悲から、私は三島由紀夫の『金閣寺』のワンシーンを連想しました。主人公と病身の父とが寝る同じ部屋で情事を繰り広げる母とある男。その様子を布団の陰から覗く主人公の目を、父の手が覆うというあのシーンを私は連想しました。
それにしても、今年の大河は芸術性が高いですね。サクラが舞い散る中での弁慶と義経の出会いのシーン、そしてそれと呼応するかのような紅葉が振る中での静の舞。ナンちゃんとうじきつよしも、本当によくここまでついてきたなって感じです。橋田モノももちろん嫌いではないですが、右心室と左心室くらい、別種のハートが揺り動かされますね(笑)。
iPod。それは小型のハードディスクドライブによる携帯音楽端末である。確かにそれだけのことだが、容量が30GB、60GBと、数年前には考えられない桁違いの領域に達したとき、我々の音楽との接し方は革命的に変わる。それはリスナーの音楽との接し方のみならず、マニュファクチャラー(アーティスト)と流通業者のあり方も、根こそぎかえていく。入院という私的なイベントを機にiPodを購入した私は、世間から1年近く遅れをとりながら、ようやく世の中で進行しつつあった、音楽業界の静かなる革命に気付くことになる。思いついたことをここにまとめておきたい。
①どこでもムード・チェンジャー、ムード・エンハンサーとしてのiPod
ある私の一日。朝の電車の中はもちろんAl JarreauのMornin'を聞きながら軽快に出勤。ベートーベンのバイオリンソナタ6番を小さな音量で流しながら、執筆作業。演奏はもちろんArgerich & Kremerで。息抜きはナツカシのヒット曲で。今日はRogerのI Wanna Be Your Manにしようかな。帰宅時の電車の中では、早まる日暮れに想いを馳せながらSadeのNo Ordinary Love。夜はモルト・ウイスキーをあおりながらWynton MarsalisのLive At Blues Alleyを味わう。
こんなことはCDウォークマン時代には絶対に不可能であったこと。朝聞こうと思ってカバンにしのばせたCDが、もう午後には気分にそぐわなくなっているときすらあった。CDを80枚近く収録した今、まだ20GB以上の空き容量が残っているという。容量が桁外れに増加することにより、私と音楽との付き合いは、ハネムーン時代に戻ったのだ。
②アイデンティティ誇示装置としてのiPod
若かりし頃、初めて招かれた友達の家で、私がまずチェックしたのは本棚とCDラックであった。この人はどんな趣味の人なのかと。今、相手の家に出向かなくともiPodの選曲を見せてもらうだけで、その人の価値観の片鱗に触れることができる。学生達はもうキャンパスでこんな交流を始めているのかもしれない。「ねえ、iPod見せて~」携帯電話のデザインや着メロでの浅薄なアイデンティティの誇示に比べ、iPodでの自己表現ははるかに控え目かつインテリジェントである。
うろ覚えだが、某週刊誌でiPodに落語を収録しているという方のエッセーで、その方が学生である息子から、「そういう使い方はiPodの冒涜だ」と言われたそうだ。もちろん、「絶対、枝雀は入れない」みたいな自己表現も大いにアリだと思うが、若者がiPodに「冒涜」という表現を使うところが実に興味深い。こうした、Sacredな商品を生み出すのがアップルなのだ。
③老獪な著作権対策
大学での講義にiPodを活用するというニュース。「色々な使い方もあるもんだな」と微笑ましく記事を読み流していた私は、まだ青二才にすぎないことを悟ることとなる。
その記事を読んでほどなくしてから知ったニュースはiPod課金に関わるもの。著作権の補償としての課金をiPodの端末価格に上乗せする結論が先送りされたのだが、課金反対論者のよりどころは「iPodは音楽だけの用途に使われているのではない」との指摘。こうした布石を打っておくあたり、アップルはどん底を経験してから、したたかさを身につけたといえる。
④流通業界へのインパクト
アップルが販売曲数でタワーレコードを抜いてしまったとの報道。私が高校生の頃は輸入CDを日本で買えるメジャーどころは、石川町と渋谷のタワレコと渋谷のシスコくらい。そんな伝統あるタワレコがダウンロード販売に抜かれてしまうとは、時代の移り変わりは感じずにはいられない。
ただ、レコードやCDの時代には、音楽を「モノ」として買うことにワクワク感がついてきたものでもあった。ジャケットのデザイン、歌詞カード、ミュージシャンのクレジット、そして邦盤にはライナーノーツ。ダウンロード販売になったとはいえ、そうした音楽を高める付属物へのニーズが消失するとは考えがたく、新たな形態の付属物が生み出され、小規模ながらもマーケットを形成していくのかもしれない。
⑤マニュファクチャラーへの影響
以前のエントリーでも指摘したことだが、音楽流通においてダウンロードが支配的になると、「ばら売り」が加速化し、アーティストが「アルバム」を発表していくインセンティブが徐々に薄れていくのではないかという気がする。CD売上が減少しつつある中で、「ライブ」という形がアーティストにとっての収益補填の形態として、見直しがされるかもしれない。
また、こうした動きがはじまる前に、既にポピュラーミュージック最先端のアメリカには、ラップの隆盛に伴う砂漠化が押し寄せている。クラシックといえば、いまだに何百年前のベートーベンやモーツァルトが聞き継がれているように、ポピュラーミュージックもコンパイレーション、リミックス、カバー、サンプリングといった形で、80'sを中心とした「ポピュラー・クラシック」が聞き継がれる時代に移行しつつあるのかもしれない。まあ、これはオヤジの希望的観測でもありますけどね(笑)
⑥そして、アップル考
アップルが革命を起こすのは2度目のことである。最初はパソコンをあれだけの勢いで普及させたという点において。そして、今回は音楽と我々のあり方において。改めて考えてもこれはスゴイことである。一時期、危機すら騒がれたアップルだが、iMacで危機を脱し、iPodで不死鳥のように舞い上がる。アップルの成功の要因を考えるならば、それはコアなカスタマーにフォーカスした点が成功の真因なのではないか?60GBの容量は、根っからの音楽好きではない人には必要な容量ではない。正規分布で描かれる最も分厚い部分にフォーカスするのではなく、薄いテール部分の熱烈なる信奉者を相手にしてきたからこそ、アップルはかくも偉大な革命を二度も起こしえたのであろう。
恐らく、スティーブ・ジョブズの今書店で平積みにされている自伝本にその鍵が開かされているのであろうが、年末年始にでも読んでみたい。
【お知らせ】
次週の更新はお休みいたします。
銀行の好決算が本日の日経新聞で伝えられましたが、本日私が食って掛かるのは日経新聞の以下の一節です。
(引用始)
『「半年で達成するとは・・・」みずほフィナンシャルグループの前田晃伸社長はこう苦笑した。今春に株式時価総額十兆円の目標を掲げたばかり。その後、時価総額は約1.7倍に膨らみ11月初めに目標を達成したのだ。』
(引用終)
みずほ銀行の時価総額が膨らんだのは、もちろんみずほの経営努力が果たした要因も大きいですが、日本株全体が買われているというマーケット全体の動きも大きな役割を果たしているといわざるをえません。このように、みずほのコントロールの及ばない『時価総額』なんてものを、経営目標に掲げることは適切なのでしょうか?経営陣は利益やキャッシュフローといった、自らコントロール可能な数値にフォーカスすべきなのではないのでしょうか?
私の考えは、「利益やキャッシュフローと合わせて、時価総額も経営目標の一つに加えるべき」というものです。時価総額を経営目標に入れていないとどういう事象が起こるのでしょうか?株主軽視の経営が蔓延することが考えられます。
その一つが、ライブドア騒動で注目を浴びたMSCBです。MSCBの多くは利率をゼロに設定してあり、P/Lだけを見ていたら、営業外費用が激減する資金調達なわけですから、「経営者の手腕は素晴らしい」と評価してしまうことになります。しかし、その一方で株数は増加して一株あたりの価値は低下しているわけですから、株主から見れば株価を自ら下げる施策を展開したひどい経営者といえます。このように経営陣に株主重視を肝に銘じさせるためにも、利益等と合わせて時価総額を経営目標に組み入れることが必要なのです。
しかし、もう一歩踏み込んで、「時価総額」ではなく一株あたりの「株価」も目標に採用すべきだと私は考えています。例えば現在の株価が5円の企業が1万株発行していれば時価総額は5万円です。その企業がMSCBの発行により、もう1万株発行して希薄化のために株価が3円に低下したとします。その場合時価総額は「2万株 × 3円」で、時価総額だけを見れば上昇していますが、株価は5円から3円に低下し、既存の株主は2円の損を被っています。
こうした株主軽視の施策はしっかりとした社外取締役がいれば、阻止されうるはずなのですが、社外取締役に対する理解が深まらない以上、「株価」等を経営目標に組み入れて経営陣を律することが次善の策といえるでしょう。
本日のエントリーは、当ブログの一連のエントリーとの比較において異色といえます。連日メディアにて取り上げられているマンションの構造計算書の偽装問題ですが、建築業界の抱える問題というマクロ的なアプローチからは、多くの専門家の方から意見が呈されており、私から付け加えるべきことはほとんどありません。私が関心を持ったのは姉歯氏の人格です。「悪びれる様子がない」「モラルがない」とメディアで表現される姉歯氏ですが、彼はいったいどういう人物なのでしょうか?これは人命にも関わり得る重大な問題であると知りながら、なぜこのような行為に及んだのでしょうか?
人格を知る上で有用となるツールにエニアグラムというものがあります。「エニア」というのはギリシャ語で9を表し、エニアグラムとは簡単に言えば人間を9つのタイプに分けた性格分析のようなものです。また9つのタイプにはそれぞれ最も健全であるレベル1から不健全であるレベル9までの、レベルの高低があるのもエニアグラムの特色の1つです。言うまでもなく、1人1人の人間とはオンリーワンな存在であり、このようなタイプ分けで人格の全てを説明できるとするのは問題がありますが、少なくとも人格を知る上での手がかりを与えてくれるという点では有用であり、一部の企業にはエニアグラムを活用した人材開発が行われているとの話も聞きます。本日は、姉歯氏がエニアグラムにおいてはどのタイプに属するかという点について、私なりの仮説をご紹介しておこうと思います。観察のみに基づいて、エニアグラムのタイプ分けを行うのはなかなか難しく、反証の事実があれば当然修正すべき仮説にすぎないという点は予めご了承下さい。
姉歯氏はエニアグラムにおけるタイプ3に属するというのが私の考えです。9つのタイプそれぞれについては、他のサイトでご参照いただくとして、タイプ3の簡単なプロフィールを説明しておくこととしましょう。タイプ3に属する人々は、周囲が自分に対して関心を抱いてくれることを求めます。その一方で、自らの感情と隔絶されている点が特徴的で、従って感情的なアプローチによってではなく、自らの行動の成果を誇示することにより、他者からの関心を惹こうとします。ですから、タイプ3の人が健全なレベルにいるときには、仕事ができるとの評判がたつことが多く、その方の知名度が上がれば、成功の体現者として憧憬の眼差しで注目を浴びることもあります。
タイプ3の人々が健全であるというのは、彼等の理想像と実際の行いが一致しているときであり、理想と現実の乖離が激しくなると何をするかといえば、他者を欺いてでも自己のイメージを保とうとするのです。欺瞞が発覚すれば大きな問題になると分かっていても、自己のイメージを高め他者からの関心を集め続けるために、欺瞞をやめることができないのです。
また、不健全なレベルにあるタイプ3の人々にとって、他者とは自分のことを賞賛してくれるという点においてのみ価値が見出されるのであり、最悪の場合は、必要となれば悔恨の念を全く抱くことなく、殺人を行うことができるのもタイプ3の特徴なのです。
上記の記述はエニアグラム研究の第一人者であるリソとハドソンのPersonality Typesを大いに参考にした上で私が記述したものであり、決して姉歯氏の行いに合致するように文章を創作したわけではありません。エニアグラムを知ることは、自己が不健全なレベルに至ったときにどういう方向性をとりうるのかを知る上でも、また自己の人格の成長には何が必要かを知る上でも有用なことが多いものです。
アマゾンで「エニアグラム」とキーワードを打てば多くの書物がひっかかると思われるので興味のある方は、ご一読してみて下さい。また、こちらのサイトでは、ウェブ上で診断を行い、自らがどのタイプに属するかを知ることができます。ちなみに、私が姉歯氏のタイプであると推定する「タイプ3」ですが、リソとハドソンは、アメリカという国全体がタイプ3的な文化に向かっていると指摘しており、アメリカにはタイプ3に属する人が多く、ひたすらアメリカの後を追う日本も同様と考えられます。別にタイプ3になったからといって驚く必要はなく、それぞれのタイプには健全なレベル、不健全なレベルが混在するのですから、健全なレベルを目指して自己研鑽に励めばよいまでです。
「カナチュウ」と聞いてそれがバス会社であることを即座に認識できるあなたは、間違いなく神奈川県民である。正しくは「神奈川中央交通」。もちろん、「ピカチュウ」なんぞが登場する何十年も前から、この愛称で親しまれてきた。私は、ここ十年近く「カナチュウ」に乗ったことがないので最近の事情にはうといが、昔のカナチュウバスは、例えば210円の料金を払うのに10円玉がないときはどうするかといえば、100円玉1枚を「両替機」に投入して10枚の10円玉を受け取った後、その内の1枚と100円玉2枚を合わせて料金箱に入れるという、実にカスタマー・アンフレンドリーなシステムを採用していたのである。間違えて料金箱に3枚の100円玉を入れた私は、運転手から説教をくらい、自分の後ろにはいらだつ常連客の長蛇の列ができるというトラウマ(心的外傷)が形成されてしまったため、カナチュウにはもう関わりたくないというのが本音である。
そんなカナチュウが本日の日経金融新聞の『決算ピックアップ』のコーナーで小さく取り上げられていた。2005年9月期の純利益が最高益を更新したとのことであるが、その理由は以下のように記述されていた。
(引用始)
『ただ最高益は景気回復だけの果実ではない。陸運各社が燃料費高騰にあえぐなかで、昨年石油デリバティブを導入。燃料費は三割程度負担が軽減した。「燃料費が高騰する前に導入してよかった」と笑顔で語っていた。』
(引用終)
「カナチュウ」に石油デリバティブ。なんともいえない違和感を覚えてカナチュウの個別財務諸表の開示資料を覗きに行くと、そこには「オイルアベレージスワップ」なる耳慣れない言葉が記載されている。「オイルアベレージスワップ」でググってみても、4件しかヒットせず、しかも皆カナチュウの財務情報であるので、金融機関の商品名をそのまま記載したと思われるが、恐らくプレーンなコモディティスワップのことと推測される。
原油を対象とするプレーンなコモディティスワップだとすれば、仕組はそう難しいものではない。カナチュウは金融機関との間で「カナチュウがあらかじめとりきめた原油の固定価格を金融機関に支払い、逆に金融機関が原油の変動価格をカナチュウに支払う」との取り決めを結ぶ。この契約とは別に、カナチュウはバスの燃料代としてガソリンを購入せねばならず、その価格は市況に応じて変動している。したがって、金融機関からの原油の変動価格の受取と、ガソリン代の支払いとしての変動価格の支払いが打ち消され、残るのは原油の固定価格の支払いのみである。したがって、ライバルが燃料費高騰にあえぐ中で、カナチュウは燃料代を固定化できていたため、カナチュウの福山常務が笑顔で語るわけなのである。なお、この仕組をわかりやすく図示したものがUFJ銀行のサイトにあるため、興味のある方は参照されたい。
カナチュウのこのスワップ契約がいつまで続くのは開示情報からは不明だが、このようなヘッジ取引を行う企業はあまりなく、カナチュウの決断は優れていたといえる。なぜ、ヘッジ取引が浸透しないかといえば、予想と逆にふれたとき(原油安になったとき)、ヘッジしていない企業が得をし、金融機関に手数料を払ってまでヘッジをしたことが無意味となってしまうからである。加えて、ヘッジ取引の手段として使用されるオプションやスワップという商品のリスク管理が難しいという問題もある。
大手の自動車各社にしても、決算の最大の変動要因が為替であることからしても、せいぜい売上から回収までの短期間のヘッジ目的での為替先物くらいしかメインに活用されていないのであろう。規模が比較的小さな企業は、今回のカナチュウのような比較的単純なデリバティブの導入が功を奏すことが多い。また、取引が複雑化した大企業においては、包括的なリスクマネジメントという観点から哲学的に考え抜けば、新たなヘッジの枠組みが生まれるのではないかという気がする。
本日の日経新聞では、大手生保各社の自己資本増強の動きが報道された。以下に、NIKKEI NETの報道を一部引用しておこう。
(引用始)
『大手生命保険各社が相次ぎ自己資本の増強に動いている。第一生命は今年度以降内部留保の積み上げ額を増やし、3年程度で5000億円増の総額2兆円にする。三井生命は9月末に住友信託銀行から劣後ローンで約100億円を調達した。株価回復や解約減少で経営環境は改善しているが、攻めの経営に向け投資を増やすために財務基盤を一段と強化する。』
(引用終)
劣後ローンは厳密には自己資本ではないが、もちろん広義では自己資本と考えてよい。本日の日経紙面にも表が記載されているように、自己資本増強の動きは生命保険各社で見られている。
一方で、損保各社は自社株買いを積極的に行っている。例えば下記のような開示文書を参照されたい。
三井住友海上火災の自社株買いに関する開示文書
ミレアホールディングスの自社株買いに関する開示文書
あまりにも明白な基本的事実を確認しておくと、自己資本が多ければまさかのときに安心であり、少なければまさかのときに対応しきれず経営破綻の憂き目をみる確率が高くなる。で、これは定量的な分析等を経ていない、私の全く主観的な感覚にすぎないのだが、生保と損保と、どちらがより大きな「まさか」に直面しているかといえば、それは間違いなく損保であろう。「災害時帰宅マップ」なるものがコンビニで売られている時代である。また、アメリカのハリケーンも世界的な異常気象の一環としてとらえるならば、たとえ本日の紙面に記載されているように今年大きな台風による被害がなかったとしても、来年以降どうなるかは極めて不透明と言わざるを得ない。
こんな状況にも関わらず、なぜ損保は自社株買いにより自己資本を圧縮しているかといえば、それは損保各社が上場株式会社であり、株主からの圧力にさらされているからである。対して、生保の多くは相互会社という形態をとっており、契約者と大きく利害が対立する株主というステークホルダーが存在しないため、自己資本の積み増しが許されるのである。
これだけ書くと、保険業においては、なんだか相互会社という枠組みの方が優れているのではないかと思われてしまうが、保険各社は相互会社から株式会社に組織変更をしてきた経緯がある。その最大の狙いは①コーポレートガバナンスの強化と②市場からの資金調達により経営基盤を安定させることにあったわけであるが、②については自社株買いという「マイナスの資金調達」を行っているのであるから、経営基盤の安定という当初の目的とは少々異なる方向に行っているといわざるを得ない。
保険というビジネスは、その「まさか」の大きさという点において、そしてその「まさか」が国民の生活の支えとリンクしているという点において、他の事業法人とは一線を画するといえる。そうしたビジネスを営む企業が、ROEというモノサシを杓子定規に使って、株主にアピールするのもどうかとも思う。しかし、とはいっても株式会社である以上、株主の権益は保護されねばなるまい。切れ味は悪いが、本日の結論は「利害調整が難しい」ということで・・・
なお、相互会社についてはWikipediaに分かりやすくまとめられているので、関心をもたれた方は是非ご一読されることをお勧めする。
まずは、毎度おなじみの私のもう一つのブログの宣伝ですが、現在は日経金融新聞にて展開された楽天の理論株価の試算をネタに、理論株価の算定法に基礎的な考え方をご紹介しています。ご興味のある方はご一読下さい。
なお、当ブログと上記のブログとの棲み分けですが、上記のブログは依頼をいただいて執筆している今年12月までの期間限定のもので、どちらかといえば分かりにくい事項を分かりやすく説明する「ティーチング」的なスタンスとなっています。対して、こちらは「なんでもあり」で、私が言いたいことを言うといった感じに棲み分けが形成されつつあります。来年1月以降は、当ブログにて両者が混在する形になりますので、あらかじめご了承下さい。
さて、本題のソフトバンクだが、9月の中間決算で営業損益が5年ぶりに黒字に転換すると、本日の日経新聞9ページで報道されていた。これは8月の孫氏の黒字宣言を受けてのものであり、そのときの私の印象は下記のエントリーに記されている。
黒字といっても、営業損益のレベルであり、ボトムの最終損益は41億円の赤字である。しかも営業損益は44億円の黒字なのだが、「会計処理方法の変更に伴う利益押し上げ効果(76億円)(日経新聞より引用)」に助けられてのことであり、監査法人からのお墨付きを得ていたにせよ、こうした会計操作を駆使してようやく達成できた営業黒字であることは無視できまい。加えて株主資本比率は10%前後である。私がかつて受験した中小企業診断士試験の事例問題の企業が10%前後の株主資本比率であったなら、「財務の健全性に問題がある」と書いておけば得点をもらえるであろう、そんなレベルである。加えて、これから参入する携帯電話事業では、先行投資が必要となることは確実であるものの、それが本当に将来の収入に結びつくかどうかはかなり不透明である。ソフトバンクはかなり大変な状況なのである。どうしてこんなことになってしまったのか?
考えられる最大の理由が、統制機能(コントロール)の弱さ。孫氏はビジョンは大きく語るが、ビジョン型リーダーは概してコントロールを不得手とすることが多いもの。うろ覚えだか、ソフトバンクでは新規ビジネスの参入を検討するにあたって、「千本ノック」と称し、様々なシナリオ下での収支予測を行った上で意思決定を行うと聞き、感銘を覚えたものである。しかし、ソフトバンクの業績の推移を見る限りでは、この「千本ノック」は意思決定に使われただけで捨てさられ、その後の数値コントロールに使用された形跡はない。もし、これから半年後のソフトバンクの通年の黒字が、資産売却益によってようやく達成されたというような事態であれば、コントロール不在は深刻である。
また第二の理由は新規参入してきた分野での顧客獲得が、値引きによってしか達成できなかったこと。こうした既成に縛られたマーケットに参入し官と戦ったという点でヤマト運輸の小倉氏を若干連想させるが、あちらは単なる値引き合戦ではなく宅急便という全く新しい便益を顧客に提供したが、ソフトバンクのADSLも固定通信もプライス以外に大きな差別化要因があるわけではない。
と、ここまで書いておいてソフトバンクの株価チャートを見て驚いた。市場は私とは全く異なる見解を持っているようである。どちらの見解が正しいのか、それを見極める上で極めて重要となるのが、半年後に発表される通期のソフトバンクの決算の質である。
遅ればせながら、先月の入院の暇つぶしにとiPodを購入しました。なにせ20GBで7,500曲も入るとのことなので、最近暇を見つけてはダンボールに溜め込まれたCDからの移行作業に精を出しています。私は、自分の音楽の「趣味の良さ」はかなりのものだと自負しているつもりなのですが、そんな私の趣味からは到底考えられない俗悪趣味CDが出てきたりして、一人で赤面していたりします。例えば宇多田ヒカルのデビューアルバムとか、河村隆一のベストとか・・・あんまり例を出すと、ファンの方に嫌われそうなので、これくらいにしておきますが。その極めつけがスピードのひとえちゃんのソロシングルINORI!!これが箱から出てきたときは私は腰をぬかしそうになりました。でも、これらのCDを買った理由は、私には分かっています。カラオケで歌ってみたかったのです。
さて、本題ですが、私はドリームゲートというところで起業相談を行っています。私に寄せられる相談の多くは「こんなアイデアあるのですが、どうでしょう?」といったタイプのものですが、そもそもビジネスとして成立しうるか否かで、まず二分されます。そして、ビジネスとして成立し得て、かつ、私がおもしろいなと思うアイデアは、英語で検索してみると、必ずアメリカでは既に成立しているビジネスなのです。
本日の日経新聞15ページのベンチャー欄にある、『医療版グーグルに商機』で紹介されているビジネスは、ドリームゲートで受け付けた相談ではありませんが、先月、私が胆石で入院するにあたって直面した問題に、正しくヒットするビジネスでした。
私が受けた「腹腔鏡下胆嚢摘出術」は、腹腔鏡を使用した手術の中では、最も症例の多いもので、比較的軽い手術として知られています。しかし、とはいえお腹を切るわけですから、①薬で溶かしたり、衝撃波でお腹を切らずに石を破壊したりという治療法を適用できないのか、ということをまず知りたいわけです。また、腹腔鏡下胆嚢摘出術とはお腹に1センチから3センチくらいの穴を四箇所あけて胆嚢を引っ張り出すという手術ですが、運が悪いともっと切る部分が広くなる「開腹手術」に麻酔で眠っている間に切り替えられたりして、起きてみて想像以上の痛みを感じるという悲劇がおきる可能性もあるわけです。「開腹手術」に切り替えられる判断は、胆嚢のお腹の中での癒着度合いなどに応じて決定されるとのことですが、それに加えて執刀医の経験及び技術力というのが大きな意味を持つというのは言うまでもないことです。したがって、いくら軽い手術と言われていようと、②経験豊富な名医を探すことに意味があるわけなのです。
当然のことながら、上記①②に関して私はネット上で情報収集をはじめたわけですが、医療においては知りたい情報になかなかたどり着けないという状況に直面するわけです。特に、②のようなある分野において誰が名医であるのか、といった情報を探し出すのは至難の業です。そうした体験を経て、「会員制にして有料サービスにしても、命が関わることなのだから医療情報を個人向けに提供するサービスがあっても、かなりの需要は存在するだろうな」と考えていたら、本日の日経新聞でアメリカでの同様なビジネスを知ったわけです。紹介されている企業のサイトは、こちらから訪問できますので、ご興味のある方は訪れてみて下さい。
ちなみに、私が執刀を受けた医師を探りあてることができたのは幸いにもこちらのサイトにたどりつけたからであり、ここを探りあてるのに結構な時間を費やしました。また、こうした分野においては、結構2chの情報が頼りになるということも、今回得た教訓です。こういう情報ほど、書き込んだ人のプロフィールが分かるMixiの情報に頼りたいのですが、Mixiの胆石コミュニティの登録人数は30人前後にすぎず、かつ、みながアクティブに書き込みをしているわけではないので、生々しい情報量という点では2chに及ばない状況でした。
さらに、日本の医療制度というマクロ的な側面に想いを馳せると、日本の医療制度というのは少し奇妙だな、とも思えるのです。日本という国は、我々が好むと好まざるとに関わらず、アメリカの後をひたすらおっています。所得の二極分化が現在進行中ですが、そうした中で依然として万人に対して平等であるのが医療です。不勉強ではありますが、アメリカの医療はもっと不平等であると聞いており、そうした道も選択肢としてはあり得るはずです。もちろん、医療が万人に対して平等であるというのは、私を含めた多くの人にとって「よいこと」ですが、それは他の社会制度の向かう方向とは一つだけ方向性を異にしており、それが将来的に問題の種にならないか、という点が若干気がかりではあります。
そうしたことは考えないで、現状の医療制度をそのまま受け容れるのであれば、良い医療を受けられるか否かはインターネットを使いこなせるどうかにかかっている、とも言え、そういう意味で本日のエントリーのタイトルを医療のデジタルデバイドとしてみた次第です。
本題に入る前に二つ。まず、私のもう一つのブログで、昨日のGMの増産報道をネタに、企業会計の基本である「増産すると利益が増える」仕組の解説を、本日のエントリーから開始しました。会計に馴染みの薄い方は、是非ご一読してみて下さい。
余談の2つ目ですが、先日数人でテレビを見ていたときに、江原啓之氏が映ったのをみて、「この落語家最近よくテレビで見かけるね」と言った方がいたのです。こういう天然ボケ的発言は、私の笑いのツボを最も刺激する類の発言であり、そのときはお腹のキズも完全に塞がっていなかったため抗議したら、「じゃ、なんなのこの人?」と返され、返すべき言葉に戸惑ってしまいました。本人のサイトには「スピリチュアル・カウンセラー」との肩書きがありますが、「じゃ、それって何?」と言われたときに、私は説明できません。落語家でもよしとしておきましょうか。
しかし、江原氏が出演するオーラの泉ですが、「金髪の魔女」と「得たいの知れぬ落語家」と「30を超えても現役男性アイドル」の3人が毎週登場する映像って、改めて考えるとスゴイですよね。1億人の茶の間はこんな衝撃的な映像にも慣らされてしまっているわけですから、メディアの浸透性にパワーがあるのか、日本国民の寛容さがハンパではないのか、いずれにせよただ事ではない気がしました。しかも次回のゲストは森久美子とのことで・・・私は見たいと思っているのですが。
さて、本日の本題はアマゾンが書籍のバラ売りを開始するとの報道に関わるものです。以下にスポニチのネット上の報道を部分的に引用しておきます。
(引用始)
『米インターネット小売り最大手アマゾン・コムは4日までに、書籍で必要なページや章だけを“バラ売り”する有料サービスを開始する計画を発表した。アマゾンは、書籍本文のデータベース化を進め、単語や文章を入力すると書名を検索できるシステムを開発。新サービスはこのシステムと連携させることなどで可能となる。購入したページはネット上で閲覧する。米メディアによると来年中にサービスを開始し、料金は内容などによって設定するとみられる。』
(引用終)
私はアマゾンという会社と「スゴイ」と思っています。当初は「ネット上で書籍を販売する」くらいの認識しかなかったのですが、この背景にある経営陣の洞察力・革新性は並外れていると思います。専門書等の地域的には販売部数の少ない書物であっても、全世界からの注文を集めることにより、アマゾンの上では収益を生み出すプロダクトとして成立しています。また、購入履歴に応じて送られる新刊本の案内メールは、まさしく完全なワン・トゥ・ワン・マーケティングを実現していると言ってよいでしょう。また、どこで読んだのかうろ覚えですが、アマゾンは書籍販売で蓄積した販売データをもとに、出版事業に乗り出せば高収益モデルを構築できるとの記述を見かけた記憶があります。アマゾンにはこれからも大きな可能性が秘められている気が致します。
そんな中で書籍のばら売りの報道ですが、この動きは「『本』とは何なのか」を改めて考えさせる深遠な動きであると、私は考えます。私がよく購入するビジネス関係の本は、ページ数にして200ページ前後、価格は1,500円から2,000円前後といったところでしょうか?しかし、この価格帯やページ数は、本を作り販売する側の事情により恣意的に設定されたものにすぎず、顧客の視点に立っていないということに改めて気付かされます。
例えば、ホリエモン騒動のしばらく後に、ホリエモン関連本の出版が相次ぎました。そして出版された本のページ数、価格帯も概ね上記の幅に相違ないものとなっていました。200ページ近くのボリュームを埋めるためには、ホリエモンのパーソナリティを語り、ライブドアの沿革を紹介し、アメリカの企業買収のカルチャーを説明し、MSCBとは何かを解説するといった幅広い話題をかき集めてくる必要があります。しかし、読む側から見れば、ホリエモンのエニアグラムのタイプだけに関心があったり、MSCBの仕組だけに関心があったりと、こうした総花的な本は、そもそも顧客ニーズにあっていなかったわけです。
アマゾンが既存の書籍のばら売りを行うことによって販売データが蓄積されれば、本当のコアな顧客ニーズを収集することが可能となります。そしてそのデータを元に、焦点を絞りページ数を抑え、低価格のPDFベースの電子書籍を販売していけば、出版の常識が覆されていくのではないかという気がします。
音楽の世界においても、iPODの普及等も手伝ってばら売りが進行しています。これについては、下記のエントリーを以前執筆いたしましたが、ばら売りの行き着く先を考える上で、両者の動きを合わせて押さえておくことが必要となるのかもしれません。
久々のITネタでのエントリーです。昨日の東証のシステム障害ですが、日経新聞の論調は社説の下記の文章に集約されています。
(引用始)
『直接の原因は単純なプログラムミスでも、システムの処理能力の頻繁な増強が遠因とみる点で関係者の見方は一致している。』
(引用終)
本日の日経新聞でも詳述されているように、個人投資家からの注文増に対し、つぎはぎ的なシステム能力増強を東証が行ってきて、そうした頻繁なシステム能力増強がなければ、今回の惨事がおきなかったというのは、確かに事実です。しかし、では、例えば今後5年間の注文増に耐えうるほどのハードのアップグレードを行うことが、抜本的な問題解決となりうるといえるのでしょうか?そのようなソリューションは、5年後にまた同じ問題を繰り返させるだけです。
私は、東証が注文増に対してつぎはぎ的なシステム増強を繰り返してきたことが、問題の真因であるとは考えません。むしろ、つぎはぎ的な頻繁なシステム増強が、システム変更時のプログラム変更にまつわる問題を顕在化させたのであると考えています。では、システム変更時のプログラム変更にまつわる問題とは何なのでしょう。ここから以降は、私がアンダーセンコンサルティング在籍初年度に経験したプログラミングの経験をもとに推測する記述であるため、プログラミングの現場を離れて10以上経過した現状に必ずしも合致しない記述があるかもしれない点についてはご了承下さい。
プログラミングの実際を知らない方のために「比喩的」な説明をすると(したがってITの専門家の目から見れば若干不正確かつまどろっこしい説明になっている点をご了承下さい)、コンピュータ・プログラムとは①実際の処理を行うプログラムと②プログラムを動かすプログラムの2種類に大別されます。前者は、東証でいえば、顧客証券会社から受けた注文データをマッチングさせ、取引を成立させる、といった機能を担うプログラムのことです。実際、プログラマーの仕事の9割5分近くは前者のプログラムを書くことに費やされており、こうしたプログラムを正確にエレガントに、かつ素早く書き上げることは、プログラマーが食っていくための生命線であり、また、プログラマーが嬉々として取り組む仕事でもあります。
対して、後者の「プログラムを動かすプログラム」はどのようなものかといえば、前者のプログラムを作成したならば、必ずテストをしなければなりません。プログラムのテストは、当然のことながら「本番環境」では行えず、「テスト環境」で行うことになりますが、「本番環境のファイルではなくてテスト環境のファイルを読み込んで下さい」という指示が、「プログラムを動かすプログラム」に記述されることとなります。そして、日経新聞の記述を読むと、今回のプログラムミスは「プログラムを動かすプログラム」内の、読み込むべきファイルの場所に関して、エラー記述があったということが推察されます。
「プログラムを動かすプログラム」にまつわる問題点は2つあります。第一は、厳密なテストランができないという点です。「プログラムを動かすプログラム」の中には、イメージ的にいえば「IPアドレス」のような形で、読み込むべきファイル、書き出すべきファイルが記述されています。本番環境のファイルを指定してしまったら、本番環境のデータに影響を及ぼしてしまうため、厳密な意味でのテストランというのは不可能である、というのが最大の問題です。第二の問題は副次的ですが、プログラマーにとって書くモチベーションが湧かないという点です。「プログラムを動かすプログラム」にはエレガントなロジック構造などは要求されず、ひたすら「IPアドレス」のようなものを一字一句間違えないように記述することを要求される、神経だけが磨り減るいやな仕事なのです。
東証の頻繁なシステム能力増強によって、「プログラムを動かすプログラム」の仕様変更にまつわる問題点が顕在化してしまったというのが、今回の問題に対する私の見解で、したがって、ソリューションとしては「プログラムを動かすプログラム」の品質を向上させることを目的としなければ、的外れな対応となってしまいます。
こんなことは、ベンダーの富士通の現場の方には百も承知のことですが、新聞の論調や、トップマネジメントへと吸い上げられるコミュニケーションの過程で、昨今の急激な注文増が真因であるかのような議論のすりかえが起こってしまい、真の意味での抜本的な対応がなされなくなってしまうことを危惧します。
一方で、日経金融新聞では『障害頻発、問われる統治力』との見出しで、注文増よりは東証にとってシステムがブラックボックス化している点を問題点として指摘しており、こちらの方がより的確な議論であるように、私には思えます。
昨日の組閣記念撮影を見て、なぜか思い浮かんだ宮崎駿アニメの一節。
『飛べない豚はただの豚だ。』
・・・???そっか、あれは『紅の豚』でしたね。こちらは素敵なブルーの・・・
私の執筆しているもう一方のブログで先日ホンダの決算について書いてみました。数字という客観的なものを相手にしながら、なぜ様々な解釈が出てくるのか、という観点から考察してみましたので、ご興味のある方は是非ご一読下さい。
今日は、全くビジネスの話題から外れて、私がこのブログを書くプロセスについてお話してみたいと思います。私の執筆は、まず朝の電車の中で新聞を読むところからはじまります。そして目ぼしい記事を見つけると、それをどう料理しようか考えます。そして、大まかな構成が頭に浮かんだら、一時間くらいで一気にダダダと打ち込みます。
「この程度の文章に一時間もかけてるのか」「一時間しかかけていない割りには上出来だ」など色々なご感想があろうかと思いますが、私は自画自賛タイプの人間なので、自分で読み返してみると、我ながら「よくあの短い時間でこれだけのモノが書けたな」と思うことの方が多いのです。確かに限られた時間で執筆するため、推敲が不十分で、分かりにくい表現や誤字脱字が多い点は否めませんが、私が自分でも関心するのは独自のユニークな着眼点を、これほど継続的に表出し続けているという点です。そして、白状すると、実は私は自分の「創造」のプロセスがよく分からないのです。
私は「天才」では決してありませんが、昔から「天才肌」の人間であることは自覚していました。どういうことかというと、例えばアンダーセン・コンサルティング在籍時代は業務改革を担当していたのですが、新業務を設計するにあたって、私の同僚はファクトをベースにロジックを積み重ねてソリューションを提案していましたが、私の場合ロジックは後付けで、ソリューションは電撃的にひらめくことが多く、自分ではこの状態を「神が舞い降りた」と表現していました(笑)。しかしイタコのように神が舞い降りるのを待っていたのでは、「納期」という問題もあるため、「ロジック」を積み上げて解にたどりつく手法も習得したのですが、そうして得られたソリューションは「神が舞い降りた」ときのソリューションに比べて、かなり不恰好に見えることは否めません。恐らくは私は「直観タイプ」の人間なのでしょうが、この直観がどのようなメカニズムで機能しているのか、私には全く分かりません。ですから、創造のプロセスをコントロールすることなど、私には到底不可能なことです。
なぜ、こんなカミングアウトもどきを書く気になったのかというと、先日胆嚢を摘出して以来、なんだか「以前ほど神が舞い降りなくなった」気がするんですね(笑)。実は私の胆石は7つも出てきたのです、親指の爪くらいの直径1.5センチくらいの奴が!!!ブラピとモーガン・フリーマンの『セブン』を見た方はご存知でしょうが、私は7という象徴的な数字と私の胆石の数を結びつけ、私の中の7つの大罪(高慢、嫉妬、憤怒、怠惰、強欲、暴食、色欲)が取り除かれたのだ、とオペ体験をとらえることにしていたのです。でも、術後約10日を経て感じるのは、どちらかといえば負の面が多いのですよ。ま、傷もまだ完全にくっついてはいないので、疲れているからだとは思うのですが、今日も新聞記事を見ても電撃的なひらめきが舞い降りなかったため、こんな告白もどきのエントリーにしてみたという次第です。
もし、今後このブログが急速につまらなくなるということがあれば、私は胆石とともに創造力を失ってしまったということです(笑)。そうなっても哀れな男の末路を見届るために、時々ブログを覗いていただけると嬉しいです。