冒頭にですが、昨日Kiefer様よりコメントを頂いたのですが、そもそも株式分割のなにが問題なのか、私の説明不足も相俟って、分からないという方も多いと思われます。そのような方のために、もう一方のブログで執筆した『やさしい株式分割の話』という連作が参考になるかもしれないため、URLを下記のご紹介しておきます。
さて本題。本日の日経新聞においても、ライブドア株への投資による投信の影響が若干記述されていたが、日経金融新聞では、スクランブル欄で『ライブドア株に揺れる投信』と題した特集が組まれていた。投資信託にはアクティブ運用とパッシブ運用の2種類がある。パッシブ運用はインデックスに連動するように銘柄選択をあえて行わないものであり、アクティブ運用はインデックスを上回ることを目的として、どの銘柄をピックアップするかがファンドマネージャーに委ねられ、アクティブ運用ファンドの運用者はその対価としてインデックスファンドより高い信託報酬を得ることとなる。ライブドア株を購入していたファンドが中小型株を対象としたインデックスファンドであるならば、そのファンドがライブドア株を組み入れるのは仕方がない。逆に組み入れていないのであれば、それは投資方針に外れた運用を行っており、それはそれで問題である。
しかし、銘柄を主体的にピックアップするアクティブファンドがライブドア株を積極的に買っていたのであれば、それは大きな問題であると思う。もちろん、容疑の引き金となった偽計取引や粉飾決算を事前に見抜くことを求めるのはかなり酷な話である。しかし、ホリエモンが「株主の皆様のために・・・」といった趣旨の発言を連発しながら、実は自社の株主を徹底的に舐めきっていたことを見抜くのは、若干の知識があれば朝飯前である。ロイターやブルームバーグの端末などから遠ざかってしまった、自称「隅の老人」である私ですら、開示文書からライブドアの「株主軽視」を読み取ることができるのである。ライブドア問題は様々な方面に波紋を投げかける。もしかしたら、日本ではほとんど語られることのなかった「投資信託のガバナンス」という問題にメスを入れるきっかけとなるかもしれない。
さて、新聞の社説ばりの単調な正論はここまでとして、面白い話をお披露目しましょう。ソースはボーグルの『インデックスファンドの時代』。この著が、私のようなインデックスファンド信奉者のFPのバイブルとなっていることは、いまさら説明するまでもないが、実はインデックスファンドのパフォーマンスがアクティブファンドのパフォーマンスに及ばない領域というものが、データを見る限り存在する。それが、数年前までのライブドアのような企業がくくられれていた小型グロース株のカテゴリーである。同著は株式ファンドを「①大型②中型③小型」と「(A)バリュー(B)ブレンド(C)グロース」の3×3の9つのクラスターに分類した上で、それぞれのカテゴリーのインデックスファンドとアクティブファンドのリスク調子後リターン(リターンからリスクを引き算することで求められます)を比較している。するとある一つのクラスターを除いて、インデックスファンドの優位が確認されるのであるが、その優位が確認できないのが小型グロース株なのである。ボーグルもこの結果に当惑し、『このファンド・グループのサンプル数が比較的少ないこと、あるいは検証対象が特定の期間であることから、単にデータの異常値のせいかもしれない(引用)』と述べるにとどまっている。
William Bernsteinの"The Intelligent Asset Allocator"はさらに一歩進んで、こうまで言い切っている。
(引用始)
"small-cap growth stocks have poor long-term returns, and it is probably wise to avoid investing in this area, active or indexed."
(引用終、「小型グロース株のリターンは長期的に見れば魅力的ではなく、このエリアへの投資はインデックスであれアクティブであれ避けるべきである」)
両者とも過去のデータに基づいた結論であり、その「なぜ」に対しては明快な切れ味を欠いている。もちろん、私も彼等にかわって仮説を提供しうるほどの見識もないが、「ライブドアのようなトンデモ企業がいるから」というのも一つの説明になるかもしれない。アセットアロケーションの観点からはアセットクラスを増加させることはリターン増加にとてもリスクの減少にとってもプラスの働きをもたらし、したがって小型グロース株も投資の検討対象として有力であるが、私の個人的な意見としては、この領域への投資を考えるのであれば、優れたファンドマネージャーのいるアクティブ・ファンドを使うか、あるいは自ら徹底的に企業の戦略を分析して銘柄選択を行うかの二者択一であるかと考えている。
ボビー、実は39歳だったとのこと。ムルアカが同じ事務所だったりと、よく分からない世界。ちなみに、野球を見ない私は、昨年まで「ボビー」といえば「オロゴン」しかいないと思っていた。ヤフーのヘッドラインを見て、どう考えても腑に落ちないニュースが多いなあ、と首をかしげていたところ、バレンタイン監督もボビーであることを、かなり最近知った。こういうところが、一人で仕事をしていく上での恐さである。
さて、本題だが、本日の日経新聞の上村早大教授による『経済教室』は熟読に値する名文である。新聞という媒体に適した読みやすさであり、かつ専門的な見識に裏付けられ、かつハートも感じられる。お手元にある方でまだ未読の方は、是非目を通していただきたいと思う。
話題は、当ブログでは、「またー」のライブドア問題であるが、教授は金融庁の法運用に問題があったとの見方をとり、その様子を『法改正があるまではやり放題という自堕落な気分にあふれた証券市場(引用)』と手厳しく批判している。これは誠に的確な表現であると思うが、ではなぜ、このような自堕落な気分にあふれた証券市場になってしまったのかという点については、規制当局である金融庁と自主規制の担い手である東証や証券各社とのコミュニケーションが必ずしも十分とは言い切れない点があったということが第一であろう。この点については、以前も下記のエントリーにおいて考えてみた。
株式分割には問題があるというのは誰でも知っていたことだが、ではそれに対処すべきは、証券各社のレベルなのか、東証なのか、あるいは法改正を待つのか、という点において3すくみ状態であったため、問題が長らく放置されてしまったのであろう。したがってまず必要となるのは、これらの機関が密にコミュニケーションをとり、どこがアクションをとるべき問題なのかを明らかにすることにあるだろう。
第二の理由は、規制当局が保護すべき投資家に目線を合わせていなかったという点に求められるであろう。東証や証券各社が株式分割の問題への対抗策を打ち出し始めたのは、ライブドアが株式分割をバックに、敵対的買収を仕掛けるほどの勢力をつけてきて、大企業の経営陣の地位を脅かしはじめたからに他ならない。それまでも、多くの無知な個人投資家(投機家?)が株式分割の生贄となっていたが、それだけでは規制当局は動こうとしなかった。規制当局は、今後は投資家保護と真摯に対峙してゆかねばならない。
では、今後法の運用とはどのようにあるべきかという点については、上村教授は以下のように述べている。
(引用始)
『市場をメカニズムを守り抜くために包括規定を活用し、市場阻害阻害行為に対しては法制度の趣旨に反するか否かを経済的実質に即して判断し、果敢に排除するという法の運用姿勢の確立でなければならない。』
(引用終、太字は私の判断)
ここで、「包括規定」についてだが、教授はSECの10b-5ルールが、アメリカにおいてはよく機能していると言う。ここでSECの10b-5ルールを原文のままで恐縮だが、引用しておきたい。
(引用始)
It shall be unlawful for any person, directly or indirectly, by the use of any means or instrumentality of interstate commerce, or of the mails or of any facility of any national securities exchange,
A. To employ any device, scheme, or artifice to defraud,
B. To make any untrue statement of a material fact or to omit to state a material fact necessary in order to make the statements made, in the light of the circumstances under which they were made, not misleading, or
C. To engage in any act, practice, or course of business which operates or would operate as a fraud or deceit upon any person,
in connection with the purchase or sale of any security.
(引用終、こちらのサイトより引用させていただきました)
面倒臭いのでいちいち訳さないが、一言で言ってば「悪いことはやってはいけません!!」ということである。(このずぼらさが、法を生業とする人と私の間にある永遠に埋められぬ溝なのです・・・)こうしたごくごく一般的な包括規定を根拠に、次から次へと繰り出される新手の金融取引手法の是非を判断するというのは、金融庁のお役人が得意とする仕事とは思えない。
環境変化が著しい現代においては、「法」の有効性というのは、数年のスパンで著しく失われてしまう。そこで、法を運用する規制当局も、規制される側の企業も、Compliance(法令順守)という近視眼的な視点だけではなく、Compliance & Ethicsという幅広い視点で考える必要があるのであろう。以下に、新約聖書の一節を引用しておくが、以下の一節は法の運用という問題を考える上において、ハートに訴えかける重要な指針になるのではないかと思う。
(引用始)
『わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめ一つでも破り、またそうするように人々に教えたりするものは、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。わたしは言っておく。あなたがたの義が律法学者やパリサイ人の義にまさっていなければ、決して天国に、はいることはできない。』
(引用終、マタイによる福音書 第5章17節より20節まで、直接的にはこちらのサイトより引用させていただきました)
以前も聖書を引用したエントリーを執筆したが、聖書はかなり奥深く、かつ現代の世界にも通じる部分が多いように思われる。
こんなタイトルを掲げると、何度か当サイトにご訪問いただいている方は、「また児玉は・・・」みたいに眉をひそめていることであろう。でもこの手の視点こそが「私」というアイデンティティーなのだ。昨晩は缶ビールを飲みながらではあるが、結構大真面目にこの二者を頭の中で比較してみた。・・・「大」真面目はちょっといいすぎかな、アルコール入っていたわけだし。「ちょっと真剣」に二者を比較検討した結果をお披露目させていただきたい。なお、今後の議論を展開する前に一言述べておくと、もちろん違法行為の重さでいえば、オウム真理教の罪の重さはライブドア犯した罪と比べ物にならないほど重い。しかしながら、両者をあえて比較することに「カリスマ」というものを実例に照らして考える上で意義があると考えるからこそ行うのであり、決してライブドアを今以上に失墜させる意図は毛頭ないことをはっきりさせておきたい。一昨日のエントリーでも書いたように、ホリエモンが改心さえすれば、私は誰よりも彼の味方になる用意がある。(もちろん、私の心の中での話ですけどね。)
さて、もちろん、両者の相似を私に感じさせたのは、マスコミの取り上げ方に他ならない。小菅の拘置所に移送される映像があれほど大々的に報じられたのは、ホリエモンの他には麻原彰晃しかいないのではなかろうか?特捜部がヒルズに入る映像も、カナリアこそ携えていなかったものの、サティアンに突入する情景をフラッシュバックさせた。なぜか「ダーティーワーク」には手を染めず温存された熊谷CFO。かつての「村岡達子代表代行」を思わせるような年配者の社長就任。そして、昨日の日経新聞の夕刊のこんな表現。
(引用始)
● 集団指導体制をとると見られる。
● ライブドアファイナンスが「実行部隊」となり宮内容疑者が直接指揮したとされる。
(引用終)
これらの表現は、我々がかつてのオウム真理教の報道で見た懐かしき表現である。どうして、こうした表現を記者が用いたのか?①私のような読者の潜在意識を操作して、オウム真理教とライブドアを結びつけさせようとしたのか、②あるいは記者の潜在意識が知らず知らず両者を結びつけているのか、③あるいは単に刑事事件を描写するときに多用される用語なのか、私には分からない。記者の意図がいずれであるにせよ、両事件に似た「匂い」を我々が感じるのは、それは取りも直さずカリスマの失墜という共通項があるからである。Gary YuklのLeadership in Organizationsにおいて、カリスマ的なリーダーの特性の一つとして、「現状とはかなりかけ離れたビジョンを掲げている」という点が指摘されている。ライブドアもまたオウム真理教も、既存秩序の転覆を企図していたという点では一致している。しかし、オウム真理教がライブドアほどの大多数の支持を集められなかったのは、そのビジョンが現状からあまりにもかけ離れすぎていたがためである。
カリスマリーダーとは、「フォロワー」があってこそのリーダーである。かつて、我々は事件発覚後も麻原彰晃を信じる発言をする信者達をあざ笑うか気味悪がって退けた経験があるはずである。今回、逮捕という事実を目の当たりにしながらも、「これは『出る杭は打たれる』的な現象だ」、あるいは「なにがあってもホリエモンを信じます」というホリエモン信者達も、サリン事件の当時はニュースを理解できるほどの年齢には達していたはずであり、かつてのオウム信者の不自然さを指摘し得るほどの健全さを備えていたはずである。それがなぜ、今回は「目を覚ます」ことができないのであろうか?正直なところ、これが私にとっての最大の謎であり、いくつかの仮説を試みたい。
まずは「信仰」という側面から考えた仮説。オウム真理教に入信した多くのものは自らの全財産を寄進した上で、出家したものが多かった。このように自らの退路を断つことにより、信仰心は強まる。ホリエモン信者がライブドア株を保有していた場合、恐らくは取り返しのつかない損失を抱えているはずである。当初はそんなつもりがなかったものの、今回の事件により「投資」のつもりだったものが「お布施」へと変貌を遂げてしまい、退路が断たれてしまい、ホリエモンを信じ続ける以外に道がなくなってしまった。
もう一つの説明は社会学的なもの。小泉圧勝を支えたのも、ホリエモンファンの多くも、いわゆる所得二極分化の「負け組」に分類されるもの達であるとの指摘が多くなされている。彼等にとってホリエモンとは、自分だっていつかは勝ち組になれる可能性を示す、いわば「生きた証」であったはずだ。ホリエモンを否定することは、現状の秩序の肯定に加担するような気がして、それはニートとしての自分の地位を永続化させるような空恐ろしさがある。ホリエモンを否定することは、自らの夢をつぶすことであり、それは断じてできない、というもの。
一連の事件は極めて経済的なものであるが、その背景にある人間心理の理解なくしては、真の構造の解明には至らないであろう。
土日は仕事で、新しい情報に接することができなかったので、またホリエモンネタで。ま、このネタで語ろうとすれば、私が飽きさえしなければ一月はもつ。ま、そんなに引っ張るつもりはないですけど。
ホリエモンのこの幕引きを見るにあたって、アメリカのジャンク・ボンドの帝王のミルケン氏を連想する人は多いはず。特に30代後半以上の方は。本日時点で、「ホリエモン」と「ミルケン」でググッて見たら79件と意外に件数は少なかった。知らない方のために簡単なミルケン氏の略歴をご紹介しておくと、アメリカで通称「ドレクセル」という投資銀行を急成長させた人である。「ジャンク・ボンド」と呼ばれるハイリスク・ハイリターンの社債でのシェアを武器に、名門ゴールドマンやモルスタに続き、ドレクセルは1980年代にはトップ10にランクインするほどの地位にのしあがった。しかし、数々の違法行為の発覚により、帝王ミルケンは失墜することとなる。
しかし、ミルケンの人生はここで終わらない。彼の人生を変えるきっかけとなったのは、ブタバコから出てきた1993年に、彼が前立腺がんと診断されたことにはじまる。この運命をきっかけに、彼は第二の人生を医療の研究に捧げることになる。彼のサイトの彼の肩書きは、"Philanthropist", "Financier", "Medical Research Innovator"となっている。そして、英語が不得手な方は驚くなかれ、Philanthropistとは辞書を引けば「博愛家」のことである。(なお英語ができる方は、WikipediaのMichael Milkenの項を参照されることをお勧めする。私の記述もこの項を参考にさせていただいた。いつもながら、Wikipediaのまとめ方の上手さには感嘆するばかりである。)
今ホリエモンはこの事態をどう打開すべきかという点について、短期的・長期的に思考を巡らせているはずである。株主総会のときのように「ゴメンナサイ」といってウソ泣きしてみようか。あるいは「ナンバー2」の宮内氏に罪をかぶって消えてもらおうか、そう、「故村井科学技術庁長官」のように?あるいは、隠れてしまおうか?が、残念なことに六本木ヒルズには、隠れるべき格好の「中二階」は存在しない。
一方で、長期的には彼の野望が果ててしまったことも冷静に認識しているはずではある。でも、他に道はないのか?もしかしたら、この試練に絶えた暁には、スピリチュアル・カウンセラーとして再出発することすら、考えているかもしれない。「俺って、細木数子とも面識があるわけだし、体型的には江原的にコロコロしてるし・・・マジでイケルカモ!!!」なんて。
とまあ、ここまでは私流の「ユーモア」のつもりなのだが、ここからシリアスになって、もしそのような「心を入れ替えたホリエモンの再出発」があるとしたら、それは素晴らしいことであると思う。絶対的な「悪人」も「善人」もいない。精神的な「レベル」が上下するのは誰にでもあることだし、複合的な要因が絡まりあえば、人は落ちるところまで落ちる。しかし、そこで新たなものが見えて、今までには気付き得なかった、スピリチュアルな高みに気付くことができ、それが社会の幸福に資するのであれば、それは素晴らしいことである。しかし、残念ながら日本の風土は、そのような再出発に対して寛容な態度で接してくれない。でも私個人としては、もし数年後心を入れ替えたホリエモンが登場したならば、そのときは応援したいつもりである。
しかし、スピリチュアル的に高くなろうと低くなろうと、人間のコアな部分の本質はかわらないというのは事実である。例えばミルケンにしても、Philanthropistとしての活動は、「ひっそり」営むことだって十分可能であったはずなのに、彼はそれを望まず、「事業」として大々的に展開している。ホリエモンが再登板することがあれば、恐らくそうなるであろう。しかし、それが社会の幸福につながるのであれば、我々はそのときは温かい目で祝福してやろうではないか。
ホリエモン。全くすごいというか、恐ろしい男である。自らの幕引きには、一時的ではあったが東証上場株の全面的な下落、はたまた東証システムの処理能力を上回る約定を創出し、そして本日誠に遺憾ながら関連者の自殺まで誘発してしまった。まさに「地獄に道連れ」。彼の本質を理解するには、彼のパーソナリティだけを見ようとしていては、「古き因習を打破してくれる改革者」みたいな誤った先入観を植えつけられる恐れがある。したがって、彼の繰り広げた「錬金術」、すなわち株式分割、MSCB等が真に意味するところも合わせて理解していなければならず、そこに彼の本質を知る手がかりがあったはずだ。人を見ることにかけては海千山千のはずの武部幹事長や経団連のお偉いさん方が、誤った判断をしてしまったのは、一重に後者の「錬金術」に対する理解不足ゆえである。幸いなことに、私には両方を見る目が備わっている。(と、勝手に自分で思い込んでいる。)今までのエントリーは後者の「錬金術」に焦点をあてたものであったが、本日は彼に対するレクイエムとして(なんていうとシンパの人に怒られてしまうかな?)「ヒト」としてのホリエモンに迫ってみたい。
以前、上記のようなエントリーを執筆した。エニアグラムというのは、人を九つのタイプに分類する手法であり、伝統的な心理学者の方からは疑問を投げかけられているようだが、私が人を知る手がかりを入手するためのツールとしては、まあまあよく機能していると思う。もちろん、個々の人間はオンリーワンの輝きを放つ存在ではあるが、分類して認識することも手がかりとしては有用である。ホリエモンが9つのタイプのどれに相当するかは、ネット上でも様々な議論が戦わされていたようだが、私はホリエモンと姉歯氏は同じタイプ3であると考える。が、これはあくまでも私の仮説にすぎないことはご承知おきたい。
タイプ3の主たる関心は「人から注目を集めること」である。しかし、自らの「感情」に上手くアクセスできないという特徴を持つために、他人の関心を集めるために行うのは、感情的なアプローチに頼るのではなく、何かを成し遂げてその成果を認めてもらうことによる。タイプ3の人々が健全なレベルにいるときには、大きな仕事を成し遂げ、周囲からは「仕事ができる人」として認めてもらえて、またときとして、多くの人の憧れの的となるロールモデルとして輝く存在となる。まさしく昨年のホリエモンである。
「感情」を上手く扱えないはずのタイプ3が、時として豊かな喜怒哀楽に満ちているように見えることがある。例えば、昨年ライブドアの株主総会で、ホリエモンが涙を見せたときのように。あるいは、選挙に立候補して、スクラムを組んで「エイ、エイ、オー!」みたいなことをやっているときに。しかし、これらの「感情の放出」に見えるかの事象は、実は他人の求めるものに合わせているにすぎず、株主が怒り謝罪を求めているから、涙を流したのであって、これは彼の本心とは繋がりをもたない行為である。
「想定内」という流行語もタイプ3の深層心理と密接に結びついている。タイプ3は自らを拒絶され自尊心を傷つけられることを極度に恐れる。そのために、自己を防衛しようと、尊大な態度をとり自分の方が優越的な立場にあることを誇示する。こうすることにより、球団オーナーとしての道が閉ざされたときも、ホリエモンの自尊心は守られる。なぜなら、「オッサン連中よりはるかにIQが高い俺様には、こうなることも想定内」だったのだから。
そして、不健全なタイプ3を襲うのが「欺瞞」である。自己の理想像と現実がかけ離れたとき、不健全なタイプ3は最も安直な方法、すなわち「欺瞞」によりそのギャップを埋めようとする。姉歯氏は構造計算書を偽装し、ホリエモンは粉飾決算に手を染めてしまった。
読者の方にも、多くのタイプ3がいると思う。しかし、たまたまこの二人が同じタイプなだけであって、「タイプ3=悪人」では決してない。だから、私があなた方を批判しているのでは決してないことを理解していただきたい。例えば、ヒューザーの小嶋社長は恐らくタイプ8であり、それぞれのタイプで「落ち方」は異なる。しかし、時代背景的に「タイプ3」の人に私が多少ではあるが、特別な関心を抱いているのも事実である。それぞれのタイプにはそれぞれの人格の成長のさせ方がある。これはあくまでも一つの例であるが、エニアグラム研究の権威であるリソとハドソンの著作に書かれていた事項で私が印象的だったのは、「タイプ3が人格的に成長する道の一つとして、自らが尊敬できる人と恋愛関係を結ぶことが有用である」という趣旨のことが書かれていたことである。
最近、当ブログのコンテンツには広がりがでてきたため、読者の方の関心は一様ではないと思うが、過去のエントリーの傾向からして、どちらかといえばファイナンス系の話題に興味を抱いていただいている方が多いと思う。それが、自己のキャリアのためなのか、自己の資産運用のためなのかは動機は異なろうが、自らの精神的な成長なくしての金銭的な成功は、ホリエモンという極端な例を見れば分かるように、無意味とすらいえる。両者を同時に追及することが重要なのであり、もし両者の利害が対立することがあれば、精神的な成長を優先させねばならない。ホリエモンの人生から、我々が学ぶべき最も大切なことは、そこにあると思う。
当ブログの私の中での位置づけは、「公開自己研鑽」といったもので、時流に合致したトピックに関して自分の考えを短時間でまとめあげて、不特定多数の目にさらすことにより、「自らの」学びを得ることが最大の目的である。(だって無料なんですから!ジコチューでも許して下さい。)もちろん、私の書いたものを読んで、読者の方もなんらかの気付きを得られるのであれば、それは私にとっても至福である。
「自己研鑽目的」ということでいえば、ライブドアや株式分割については、昨日も書いたように既に「書きつくした」感があるのだが、かといって本日のエントリーで日経新聞の『ねだんの力学』シリーズのレタスの値段に関して語りだしてしまったら、それは昨日の『格付けしあう女達』で、バブル青田に全部おいしいところをもっていかれた後に登場したさとう珠緒と同じくらいの「およびでない」感が醸成されてしまうことであろう。(なんだかよく分からない文章で失礼!単に「バブル青田」って書いてみたかっただけだったりする・・・)
ということで引き続き今日もライブドアネタで。どうやら捜査の主目的はライブドア本体にあるらしい。実は昨年とある小規模な勉強会で「株価と株数の関係」というテーマで講師を務めさせていただいたことがある。そのときに取り上げたのがライブドアだったのだが、今回のライブドアマーケティングの件に似た取引は本体にも結構ある。
なにが似ているかといえば、株式分割の前後に株式交換が実施されているという点において。これは、私がなにか「裏ルート」の情報を握っているとかいう話ではない。私は、恥ずかしいほど「裏事情」を知らない人間である。その取引はほかならぬライブドアの有価証券報告書において開示されているのだ。時間が許すかたは上記のリンクより49ページから52ページを眺めていただければ、得るものがあるのではないかと思う。ここにはライブドア設立から今日いたる、株数と資本金額の異動の歴史が一覧表としてまとめられている。つまり、株式分割は株数の増加をもたらし、株式交換は株数と資本金の額に変化を与えられるのだから、今回の報道に関連する事項の歴史を一望できるわけだ。
50ページの表の最初の平成16年2月20日は、象徴的な百分割が実施された日がある。そして、その後の10件くらいの株数・資本金の増減は、その後2ヶ月以内に起こった出来事に過ぎない。そして、その内に株式交換による買収がなんと4件もある。これが違法行為であるなどとほのめかすつもりはない。しかし、少なくともこれだけはいえるだろう。株式分割と株式交換による買収がこれだけ期を同じくするのは不自然ではないかと。
この不自然さを説明する、一年前の私が考えた仮説は「株式分割と買収の時期を近くすることで、株式交換の比率をライブドア側に有利するため」というものであった。しかし、これでは被買収企業の株主は怒るだろうし、それが1件も裁判沙汰になっていないのも不自然である。・・・とその辺りで思考をとめたしまったのが一年前であった。しかし、今回のライブドアマーケティングのケースと同様に、実質的な買収は現金により既に行われており、百分割での株価上昇を派手に演出するために、株式交換の時期をずらした、と考えるのも、一つの仮説になるかもしれない。
上記のようなことを書くのは、なにか私が「ライブドアの悪事を暴き立てる!」といった類の根拠なきセンセーショナルなものを書きたいがためではない。ライブドア株を買って値下がりで損をしてしまったという人、そういう方はこうした開示文書に一度として目を通したことがあるのだろうか?もちろん、開示文書を見ただけで、違法行為の有無などにたどりつけるはずもない。しかし、少なくとも「この会社はなにか不自然だ」くらいは感じ取れたはずである。「自分には開示文書を読みこなす知識がない」という方は、インデックス・ファンドを買っておくのが無難な選択であろう。十分な知識もなく株式投資を行っている方は、それは競馬に資金をつぎこむのとそれほど大差があるわけではない。知識がなくたって、そりゃ、儲かることだってあるさ、上がるか下がるかの2分の1なんだから。でも、生涯を通じた損益はどうなの?上司の目を盗んで取引行って、仕事がおろそかになったりしてないですか?そんなこと全部含めて考えたら、盲目的な売買はあなたの人生にとって少しもプラスになっていないはず。火遊びに過ぎないのであれば株式投資から身をひくべきだし、それでもやりたいというなら勉強してね、というのがFPとしての私からの切な願いです。
【1.こんなときだからホリエモンの功績を確認しておきたい】
株式分割もライブドアも当ブログにおいては、正直なところ「いまさら」感が否めないテーマである。捜査の行方がどうなるかは私には見当もつかないが、仮にクロと判定されようと、ホリエモンが日本にもたらした功績への評価は変わることはない。当ブログでは一度として行ったことのない「ホリエモン礼賛」だが、こういうときこそ、彼の「陽」の面を確認しておきたい。私は彼の功績は以下の3点にあると思う。
①自ら積極的に仕掛けた敵対的買収により、日本企業が『株主重視』を真剣に考えるにようになった。
②同じく敵対的買収が、会社法等の関連法整備を促した。
③『起業』にまつわる負のイメージの払拭に大きく貢献した。
今回の容疑にもM&Aがからんでいるが、「だから日本ではM&Aは全てダメ」という論調になってはいけない。問題の所在は、ロジカルに突き詰めねばならず、一をもって十を否定するようなことがあってはならない。
【2.株式分割の意図とはなにか?】
直接の容疑は偽計取引及び風説の流布だが、本日の日経新聞でも報じているように、それは株式分割と密接に結びついている。100分割、10000分割などと呼ばれる株式分割を実施した企業の意図はどこにあったのか、今一度整理しておきたい。
①売買単位を引き下げることにより『貧乏人』の需要を増加させる
お上品なファイナンスのテキストの類には、これが書いてある。急激な成長を遂げた企業の株価はやはり急激に上昇する。そうすると、例えば数百万円といった金額が最低の売買単位になってしまい、十分な資産を持たない人々にとっては「買いたくても買えない」高嶺の花になってしまう。したがって、これらの人々でも売買に参加できるようにすることにより株式への需要を増加させる効果を持つのが、株式分割なのである。
②株価の一時的な急上昇を演出し、上値への心理的な抵抗をなくす
株式分割には、ある奇妙な事務的な慣行がつきまとっていた。それは「株券の発行の事務手続きに要する期間が一ヶ月強あるために、分割で発行された新株はその間売却できない」というものだ。つまり、分割の決定後一ヶ月強の間は、①で説明した効果と相俟って圧倒的な「需要>>>>供給」の状態が創出され、一時的に株価は急上昇する。新興企業の過去の株価チャートにスティープな山が見られれば、過去に株式分割が実施されたことを疑うべきであろう。しかし、分割子株が株主にいきわたった時点でこの需給のアンバランスは崩れ、多くの場合株価は元の水準に戻される。しかし、投資家心理とは不思議なもので、一度バカ高い上値がつくと、それは「バカ高い」ものに過ぎないとは分かっていても、その後の株価の上昇に寛容になってしまう。こうした効果を狙って、一時的な株高を演出することが、株式分割の2つめの意図である。後述の③に比べれば「悪意」は少ないといえるが、とはいえ、一時的な高値が形成されるためには、その局面で「買い」に回ってくれるDQN投資家が必要となる。そうしたDQN投資家が損失を被ることを知っていながら分割を行うということは、やはり「悪意」に満ちているといわざるを得ない。
なお、この奇妙な事務的慣行については昨年ようやく是正され、我々は今後心配する必要はない。詳しくは、下記の過去エントリーを参照されたい。
③②における一時的な株高の局面で実際に利益を得ることを目的とする
これは②に比べてはるかに悪質である。このパターンは私の勝手な分類によれば、さらに(A)極悪と(B)小悪に分類される。まず、前者の(A)極悪は、分割子株が品薄の期間中に全く別の手段で売却のための株式を供給するというもの。How?そのために使われたのが、転換社債である。株式分割の分割子株発行はみんな仲良く1ヶ月強待ってもらうが、でも転換社債の転換請求がきたらすぐ株券を発行してあげる。なぜ、そういうことができるのかは私には分からない。だが、このパターンで「誰か」が巨利をあげたのがシーマである。シーマの株価チャートをご覧いただきたい。100分割を実施した2005年初頭に「異常」としか形容し得ないスティープな山が形成されているが、特徴的なのはその下の棒グラフから分かるように、取引量が少しも減少していないという点である。これは本来ならば品薄になる期間中に誰かが別の方法で株券を手にしていたということであり、実際シーマはその直前に転換社債を発行していた。
その点後者の(B)小悪は、一人で抜け駆けして「売り」に回ったりせず、あくまでもみんなも売れるときに売るという点で、前者に比べればの話だが「悪意」は小さい。渦中のライブドアマーケティングの株価チャートを見ると、山の下の取引量はごく少ないように見え、これだけから荒い推量をすれば、(B)の小悪のケースなのかもしれない。
④さらに急激な株価上昇を演出するために情報操作を行う。
これは、まあ「悪魔の誘い」とでも呼んでおこうか?これはいいのがれのできない、明白な違法行為である。ライブドアマーケティングのケースは、新聞報道を見る限りでは、「小悪」と「悪魔の誘い」のあわせ技であったといえよう。
【3.法とモラル】
法という面に即してみれば、前項の④は明確な違法行為であるが、②と③は完全な「シロ」である。③(A)の「極悪」にしたって、「極悪」というのは私の倫理的な価値観によるネーミングに過ぎず、法的には追及できないはずである。
私のようなごく普通の感覚を持つ人間から見た場合に、モラルの感覚と法のギャップには、ただ驚かされるばかりである。規制当局は、自らの良心に照らし合わせながら、迅速な対応をしていかねばならない。なぜ、それができなかったのかについての私の考察は、下記のエントリーを参照されたい。
現実的な問題として、法は常にモラルを後追いする。そのときに「違法でなければなんでも行う」という姿勢では、短期的な利益は手にし得ても、長期的な信用は勝ち取ることは困難となろう。したがって、各企業はコンプライアンス(法令遵守)の姿勢をさらにおしすすめ、アメリカ企業のように、Compliance & Ethicsととらえなおし、倫理的な観点からも自らの行動を律するべきであろう。(下記のエントリーを参照)
日本では置き去りにされてしまった"And Ethics"の視点
では、一従業員に過ぎないあなたが、自らの意思に反して、倫理的に問題のある行動を経営陣から強いられたときはどうすればよいのか?そのようなときもシニカルになる必要はなく、道はあるのだ、という趣旨で書かれたのが下記のエントリーである。
Yahoo!ニュースによれば、デーモン小暮が登場した昨日の相撲中継は素晴らしかったらしい。
(引用始)
『実況を務めた吉田賢アナウンサー(45)らは大真面目に「デーモン小暮閣下」と呼びかけ、「世を忍ぶ仮の姿の」と説明を加えるなど気を配った。』
(引用終)
いいんでないの、吉田アナ!NHKに求められているのは、みのもんたを無理矢理引っ張り込んだりすることではなく、この吉田堅アナウンサーのような「もてなし」なのだ、少なくとも私の中では。かつてナンシー関が、民放に出演すれば確実に「陵辱(りょうじょく)」されてしまうであろう、ニットの貴公子広瀬光治の、NHK教育テレビにおけるもてなされ方について書いていたが、民営化するしないに関わらず、この線を踏み外してしまっては、NHKはそのアイデンティティを失ってしまうことであろう。
と余談はさておき、本日の日経新聞はネタ的に今ひとつだったので、同じNHKが先週土曜の朝に放映していた『ブラバン』もののテレビ番組を見て思ったことをとりとめもなく書いてみたい。『ブラバン』とは、もちろん「ブラスバンド(吹奏楽)」の略だが、高校1・2年生のときにブラスバンドでトランペットを吹いていた私は、この手のテレビ番組があると、つい見入ってしまう。所ジョージの『笑ってコラえて』では、一つのコーナーとして定着しているようである。所ジョージの番組では高校生のブラバンが対象だが、NHKの番組ではなんと小学生のブラバンが取り上げられていた。しかも、驚異的に上手い子供がいた!見た方は分かるだろうが、あのトロンボーンを吹く6年生の男の子。彼に対して、指導する教師は「自分のことばかり考えるのではなく、他のメンバーの指導にも気を配りなさい」と説いており、その子はその教えに従って行動しようとしていた!!!なんだか、オジサン、見ていて自分が恥ずかしくなりました。
その番組に登場した教師についてはそれほど気にならなかったものの、所ジョージの番組に登場する多くの教師はいわゆる「カリスマ型」のタイプである。絶大なリーダーシップを発揮し、時には理不尽な要求を生徒に対して押し付け、理にかなう反論も受け付けようとしない。こうした一見「理」が不在のアプローチも、その根底には「勝つため」という一貫した論理が流れている。県大会、全国大会に出場してメダルを獲得する、そうした偉業を成し遂げるために、教師はカリスマとして君臨するのである。
視点を転じてビジネス界に目を向けてみよう。いまどき、カリスマ型のリーダーシップをふるっている経営者というのはごくごく少ない。ハーバードビジネスレビューの昨年9月の特集は「ファシリテーター型リーダーシップ」であり、このリーダーシップの類型はカリスマ型とは対極に位置する。私もリーダーシップ研修を担当するときは、「まず、自らにあったリーダーシップスタイルを習得することを考えて下さい」と説いている。「リーダー、それはカリスマ」というのは時代錯誤も甚だしい認識である。
別に「学校教育」を「ビジネス」の予行演習とせよなどと述べるつもりは毛頭ない。ただ気になるのはこうしたカリスマタイプの教師は、生徒に何を学んでほしいと考えて行動しているのか、その意図である。「実社会では厳しい上下関係があり、時には上司からの理不尽な命令に従う必要がある。『選別』という厳しい現実にも目を見開く必要がある。勝つためには。」なんだか『女王の教室』を思い出すが、それも一つの見解かもしれない。しかし、世の中の潮流にも目を配り、時流にあった教育を実践して欲しいという想いも強くある。そして私が言う「時流」とはビジネス界のみならず、もっと幅広いものを指す。「部活動」の本当の目的は「実際に勝つ」ことではなく、「そのプロセスで学ぶ」ことであるはずである。そうであるならば、もっと違うアプローチが採られるはず、という気もする。
企業研修の現場で、「あなたがリーダーです。リーダーとして説得して下さい。」というタイプの演習を与えれば多くの受講生はそつなくこなす。しかし、リーダーを定めぬままでタスクを与えると、彼等はメシアの誕生を待ち望む子羊の群へと変貌してしまう。その原型を学校教育に見た気がした、というのが私の率直な感想である。
久しぶりに私の心に燃料投下してくれる報道。まずNIKKEI NETからの記事を引用しておきたい。
(引用始)
「民間企業が日本的経営の根幹である『人間尊重』と『長期的視野に立った経営』の理念を堅持し、雇用維持に配慮しながらグローバル化に適切に対応した成果だ」。日本経団連の奥田碩会長は12日午前、都内で開いた経団連主催の労使フォーラムで講演し、日本経済が長期低迷を抜け出した理由として日本的経営を貫いたことが大きかったとする見解を示した。
(引用終)
本日のエントリーを執筆する前に一言断っておくと、私は奥田氏を名経営者としてかなり尊敬している。しかし、名経営者だからといって、その発言の全てを神聖化するのは、全く健全ではない。上記の如くの発言は、私の信念の根幹と全く相容れないものであり、したがって一言物申させていただきたい。
「日本的経営」なる言葉がもてはやされていたのは1980年代頃ではなかったか。その裏返しとしてもてはやされていたキーワードは「国際」であった気がする。そして、後者の「国際」というキーワードに魅惑されたDQN高校生だった私は、「上智外英」という「チョー国際な感じ」の大学への進学を決意するに至ったのである。もちろん、国が違えば文化は違う。しかし、異国との交流が少なく、かつ表層的であったからこそ、1980年代は「日本」と「その他外国」の違いがことさらに強調されていたのではないか、というのが私が当時を振り返った率直の感想である。
♪あれから20年たちました~(by小林幸子)
20年を経て日本と異国の交流の機会は格段に増した。少なくとも、外資系企業の日本拠点で勤務し続けてきた私個人としては、様々な外人との交流の機会を得ることができた。そこで、「○○人ってのは、~~だ。」というステレオタイプの外人像を語ることの愚かさを知ることになる。親切で穏やかな口調で話し、おっとりしている香港人。物腰が柔らかく細やかな気配りにこちらが恐縮してしまうようなアメリカ人。自分の主張をもたないフランス人。そんな人々に出会う度に私の「偏見」は修正を重ねた。また、人間を分類するタイポロジーの一つであるエニアグラムも、9つのタイプへの分布状況は国によってそれほど大差はない、と説く。同様に、思考タイプを4分類したハーマン・モデルも、4つのタイプへの分布状況は国によって異なるものではないと説いている。私の個人的な体験も、学究的な研究も、ステレオタイプの国民性というものに疑問を投げかけている。だから、多少の海外駐在経験を鼻にかけて「中国人ってのはね~、こういう奴らなんだよ」という話を披瀝する人を、私は心の中で軽蔑する。なぜなら、彼が国民性のステレオタイプを語るというのは、現地で深い人間関係を構築できなかったことの裏返しであるのだから。
人それぞれに焦点をあてれば、国境を越えて「個」がオンリーワンな輝きを放っている。そんな「個」が集合した「企業」というものに、「日本的」という形容詞を冠することに意味があるのであろうか?折しも私はジャック・ウェルチ著の『ウィニング』を昨日購入し読み始めていた。奥田氏は、日本的経営の一つの特徴として、『長期的に視野に立った経営』を挙げている。しかし、ウェルチの内面においては、長期的視野に対しての考えは以下のように、はるかに深化を遂げている。
(引用始)
私はよく、「四半期ごとに成果を出しつつ、五年先のことを考えて行動するにはどうしたらいいのですか」という質問を受ける。
私の回答は「それに悩むようなら、あなたも経営者の仲間入りだ!」
そう、短期の業績を上げるのは誰にだったできる。ギリギリと絞り上げればいいのだから。長期経営だった簡単だ。夢をみつづければいいのだから。あなたがリーダーに選ばれたのは、ギリギリやりながら同時に夢を見られる人だと上司が見込んだからだ。
(引用終)
本日の日経新聞にはウェルチが日本から学んだ点が指摘されており、「ウェルチの思想も日本的経営のおかげ」と言う人もいるかもしれない。もちろん、そういう面も否定できないであろう。しかし、独自の試行錯誤により、長期的経営と人間尊重の大切さに気付きを得た、海外の企業は少なくない。
奥田氏が「人間尊重」を日本的経営の根幹であると主張するのは、主に終身雇用の慣行を念頭においたものと思われる。マズローの欲求5段階説に従って考えれば、終身雇用によって実現される欲求は比較的低次元の「(1)生理的欲求(2)安全の欲求(3)親和の欲求」あたりであろう。しかし、現代人が真に欲しているのは、より高次元の(4)自我の欲求や(5)自己実現の欲求あたりであろう。トヨタの内部の事情は全く知らないが、「奥田氏に異論あり」と声高に発言する風土は存在するのであろうか?そうでないならば、より高次元の欲求を満たすべく、人事制度に再考を迫る必要があるといえよう。また、その「手厚い人への待遇」が仇となって現在瀕死の状況にあるのは、日本的経営の対極に位置すると我々が幻想を抱いていた、かのアメリカのGMである。このように少ない事例を見ただけでも、『人間尊重』と『長期的視野に立った経営』に「日本的」という形容詞を冠することに違和感を覚えないであろうか?
人口減少が進行する日本に基盤を置く企業が更なる成長を遂げるためには、現状に輪をかけて海外への進出に取り組まねばならない。その際に、こうした時代錯誤的な考えを経営者が抱いたままでは、成功の確率は極めて低くなるといわざるを得ないであろう。
本日の日経新聞5ページには『量的緩和解除への視点』と題したコラムが掲載されており、そのサブタイトルは「時期」となっている。もはや、量的緩和が「Yes」か「No」の問題ではなく、「When」と「How」の問題に移行しつつある点には疑いの余地はあるまい。なお、最初に断っておくと、昨日の「医療」の分野と同様に、マクロ経済学に関しても私は素人である。どのくらいの素人かというと学部生が読むような基本書を大分昔に通読したことがあるのと、私が持つ中小企業診断士とFPの資格をパスするに十分な知識を持ち合わせている程度。ま、ド素人である。
そんなド素人の目から見て、日銀の政策運営というお仕事は、ハラハラささせられる。例えば、本日のコラムで浜田エール大教授はこんな注文をつけている。「金融政策の正常化はゆっくりとやってほしい(本日の日経新聞より引用)」ぼんやりとしていそうで、実はこの「ゆっくりと」を実現するのは、かなりのスキルがいるはず。というのも、金利マーケットの参加者はみなプロであり、みな経済的に合理的な意思決定を行う人々の集合のはずである。そこに直線的なメッセージを与えれば、「ゆっくりと」は実現せず、少なからぬ「ショック」をもたらす。しかし、「ショック」が一度起こると、「プロ」だと思っていた金利マーケット参加者は狼狽しだして、その影響は増幅されてしまう。こうした「増幅」を回避するために必要なスキルとは、グリーンスパンが得意としたように多義的に解釈され得るメッセージを発し続けたり、あるいは市場参加者の裏をかくといったことである。もちろん「多義的に解釈されうるメッセージ」といっても支離滅裂なことを言っていては市場の信任を失ってしまうだけであるため、それは日銀ウォッチャーと呼ばれるインテリゲンツィア達の鑑賞に堪えうるほどのノーブルさを備えていなければならず、かつ、彼等の解釈がばらけるほどのアンビギュイティーもなければならない。しかも、日銀が操作し得る変数は金利の他には預金準備率等、ごくごく少ない。このブログを読んでいただいている方にとっては、私には逆立ちしても書けないタイプの文章であることは察していただけるであろう。
「心理学+ファイナンス」の行動ファイナンスがあるくらいだから、行動経済学もあるかもしれないと思って、「Behavioral Economics」でググッてみたら結構でてきた。が、「Behavioral Economics」のテーマに中央銀行と金融マーケット参加者のばかしあいが含まれているか否かは知らない。ただ、一つ英語で恐縮だが、PDF文書で12ページくらいでBehavioral Economicsについて初心者向けに分かりやすく解説した文書を発見したため、興味のある方のためにリンクをはっておきたいと思います。
本日の日経新聞トップ記事は医療費の抑制案に関するもの。冒頭のグラフの横には、抑制案の大まかな内訳が記載されている。それによれば①診療報酬の引き下げ②患者の負担増③入院日数の短縮が三本柱のようである。このうち私が毎度「本当に効果があるの?」と疑問に思うのが「診療報酬の引き下げ」である。政府がコントロールができるのは、いわば「価格」にすぎない。一方で、ビジネスの基本中の基本として「価格」が外的な要因で下がってしまった場合、減収を補うために行うことは「量」を増やすことである。ということで、経営感覚の優れた病院(もちろん皮肉の表現だが)は「無駄な検査や投薬」を増加させる。これにより以下の負のスパイラルが形成される。
医療費の増加 → 診療報酬の切り下げ → 無駄な検査の増加 → 減らない医療費 → 診療報酬の切り下げ ・・・
上記の負のスパイラルに加えて、「良心的な医療機関から非良心的(よりビジネス的)な医療機関への所得移転」などという構図もできあがりつつあるのかもしれない。診療報酬の切り下げが、本当に良心的な医療機関の首を絞めているようなことがあるのならば、それは医療費抑制の根本的な解決策となっていないばかりか、医療の質の低下という極めて重大な副作用を産んでいるということになる。
コストを下げるために、単価を下げる、負担を増やす・・・これは心無き財務屋の発想である。そう、あの懐かしきAl "Chainsaw" Dunlapのような。私もかつて企業勤務していた頃は彼と似たところがあったことは認めねばならない。でも今は確実に違うといえる。
医療費の問題に立ち返れば、根本的に病気の発生を少なくするという発想は出てこないものなのであろうか?といっても、「健康に気をつかいなさい」「煙草は体に毒ですよ」という政府広報に頼ったところで、それはまた貴重な財源に浪費で終わることであろう。しかし、それを健康保険料とリンクさせればどうであろうか?イメージとしては民間では、生命保険料率が喫煙者と禁煙者の間で既に異なる料率が設定されており、それを公的な健康保険にも拡大しようというものである。喫煙/禁煙以外にも、定期健康診断の受診の有無、フィットネスクラブでの活動の有無、時間外労働時間数などを総合的にスコアリングして、予防活動への積極性を勘案した段階的な保険料率を設定することは十分実現可能であると思われる。介護保険においても予防給付へのシフトが謳われているようだが、65歳以上の介護保険料率を決定する際に所得のみによるのではなく、予防活動への関わりの度合いも考慮に入れるべきである。行動ファイナンスを持ち出すまでもないが、人間は経済的に合理的な判断ができない動物であり、損失回避のもとに我々の意思決定はなされる。「予防活動をすればアメをあげる」より「予防活動をしなければムチ」の方がはるかに効果があるのだ。また周知のように、健康保険料は被保険者と企業が半分ずつ負担するものである。従業員の健康に留意することがコスト減につながるのであれば、これほど素晴らしいことはない。
これはそれほど突飛な発想だとは思わない。同じ厚生労働省が管轄する労災保険にはメリット制なる制度がある。労災保険料率を過去の災害の発生率を勘案して決定するというもので、予防活動と保険料率は直接的にリンクしていないものの、メリット制の恩恵を享受しようとする企業は、必然的に職場の安全を真剣に考え、予防活動に従事するように動機付けられる。
もちろん、私のアイデアには「実現性」という観点から疑問を挙げればいくらでも挙げられる。「予防活動の有無をいかにして客観的に把握するのか」「事務が煩雑になる」「予防活動と疾病の間に科学的な因果関係はあるのか」などなどなど。しかし、このような「NOから入る発想」に凝り固まっていたのでは、なにも変わらない。また、別に私の案がベストなどとも毛頭考えてもいない。しかし、心無き「チェーンソー」財務屋の発想では、医療費の問題は根本的に解決しない。日本の医療費の問題を解決するには、なんらかの新たな発想を持ち込まねばならないということだけは、確実に言えるであろう。
本日は久々にFPネタで。
正直なところ、私は時として日経新聞の特集記事の「質のバラツキ」具合に当惑してしまう。例えば本日付朝刊の11ページの『ねだんの力学』と題した特集。デジタル家電の価格形成のプロセスを究明しようとするこの特集は、優れた洞察を含んでおり興味深い。それに対して、3ページに掲載された『比較金融商品サービス』と題された特集は、これは記事の形態をとった広告なのかと疑いたくなるほど、極めて表層的な内容である。
同特集には二つの表が掲載されている。一つは「民間住宅ローンの利率」と題されたもので、これは当初3年間固定金利の一覧表である。もう一つは「住宅金融公庫の提携ローン」と題されたもので、こちらは20年から35年の固定金利のもの。表中で最も表面金利が低いものを比較すると、前者は0.78%、後者は2.67%であり、その差は約2%ポイント。多くの方は前者のタイプの広義の変動金利ローンの表面利率の低さにどうしても「魅せられて」(この表現を使うとどうしてもジュディ・オングのあの衣装を連想してしまうあたり30代後半の哀しいところです)しまう。
にも関わらず、私が住宅ローンの相談を受けた場合基本的にお勧めするのは、後者の固定金利ものである。なぜって、将来なにが起ころうと適用される利率が変わることなく、金利上昇リスクを完全に回避できるから。変動金利ローンの当初の表面利率の低さは、金利変動リスクを債務者が負う代償であると考えた方がよい。「今後2~30年の間に、どれほど金利が上昇しようと私はキチンと利息を支払います」というその肝っ玉に応じて、当初は低い利率がご褒美として与えられるのにすぎない。
もちろん、変動金利型が適した方というのも存在する。例えば、歩合給の割合が高いフローリッチな方。外資系証券のディーラーや歩合給が高いセールスマンの方は、成績次第では全くボーナスがもらえない年がある可能性もあるものの、自らの腕次第で早期に繰上返済を積極的に行い、金利上昇期を前に債務を完済できる可能性もある。そのような方には、リスク要因を説明した上で変動金利タイプのローンをお勧めすることもある。
と、ここまで私の手の内を明かしてしまっても、なお私が与えうる付加価値というのは繰上返済の目標額を組み込んだプランを作成することにある。繰上返済がいかに得であるのかは頭で分かっていても、それは貯金の取り崩しを意味するのであるから、実際には躊躇する方が多い。「これだけ貯蓄を取り崩しても生活には支障をきたさない」ということをワン・トゥ・ワン対応で数値化することにこそ、FPの真価が問われるのだと私は考えている。
少しセンセーショナルな表現をとれば、変動金利型のローンは偽装マンションと、以下の点で共通点がある。
①問題が短期的に発生する可能性は極めて低い。
②問題の直接的な引き金は企業のコントロールの及ばない(金利情勢、地震)ものである。
くれぐれも断っておくが上記の二点のみに相似性が見られるというだけのことであり、偽装マンション同様の「悪意」があるなどと述べているのではない。偽装マンションには国が支援の手を差し伸べてくれたが、金利が急上昇してローンの返済が困難になったとしても、誰も救済などしてくれない。なぜなら、そうした事態も承知の上で変動金利のローンで借り入れたのだから。銀行のローン担当者が「異動」という極めて都合のよいシステムが存在せず、ローン完済まで債務者と顔を合わせる可能性が高いという場合、担当者は変動金利タイプのローンを勧めることができるであろうか?私には恐くてできない。
ここまで説明しても変動金利型のローンで借り入れたいという方は、それも一つの見識である。そのような方にアドバイスをしておくと、まず本日の日経新聞の「民間住宅ローンの利率」と題した利率の表は、表の下にも書いてあるように、期間限定のキャンペーン金利に過ぎないということ。これらの当初のキャンペーン金利のみに惑わされることなく、キャンペーン期間が明けた時点での利率の設定基準をつぶさにチェックしておく必要がある。また、悲観的なシナリオ(つまり将来急激な金利上昇が発生し得る)のもとでシミュレーションしてみること。金融機関が行ってくれるシミュレーションは、かなり楽観的であることが多い。悲観的なシナリオの数値を見ても、動揺することがなければ、その方はリスク許容度という点においては変動金利型のローンを借り入れる資質があるといえる。
2006年の年頭に日経新聞に連載された『人口減と生きる』というコラムは実に興味深かった。例えば、1月5日付の朝刊3ページには「社会資本の維持更新に必要な費用」と題された、象徴的な右肩上がりのグラフが描かれている。このグラフによれば、この費用は2000年から2050年にかけて4倍近くに膨れ上がる模様だ。その一方で、人口数の推移に関しては、多くの報道においてそれとは反対の右肩下がりのグラフが紹介されている。これらの費用を負担する将来の納税者も、そして道路の利用者も減少することが確実に分かっているのに、なおも作り続けられる道路、道路、道路・・・このあまりにも不整合な未来を主導的に描いているのは官僚である。しかし、友人に一人でも国家公務員がいるのであれば、彼等の優秀さを心底実感しているはずである。それでありながら、このあまりにも単純な数式を逸脱する未来像を描き続ける官僚達。
「国益より省益を優先しているから。」というのも、一つの説明であろう。「ひとりひとりの管理職のIQが120をこえても、集団ではIQ63になってしまうということがなぜおきるのか?(『最強組織の法則(徳間書店)』より引用)」このような問題をラーニング・オーガニゼーション(学習する組織)という枠組みから説明しようとしたのが、ピーター・センゲである。つまり、日本の官庁には組織としての学習能力が緊急に必要とされているのではないか、というのが私が言いたいことである。
組織としてIQ120を出すラーニング・オーガニゼーションとして機能するには、以下の5つが不可欠であるとピーター・センゲは主張する。
①システム思考
②自己マスタリー
③メンタル・モデルの克服
④共有ビジョンの構築
⑤チーム学習
①の「システム思考」とは、要は対症療法に頼るのではなく、構造的に思考することにより真因に迫るような思考をしなさい、ということである。例えば出生率。こちらのasahi.comの記事によれば、あの衝撃的な右肩下がりの人口数のグラフですら、以下のような仮定のもとに作成されているようである。
(引用始)
『合計特殊出生率が07年に1.30台で底を打ち、長期的には1.39で安定するという前提を置いた。』
(引用終)
しかし、システム思考を行えば、この出生率は以下のような負のスパイラルに組み込まれていることは明らかであろう。
「出生率の減少 → 年金給付を賄うための消費税率・年金保険料率の上昇 → 将来への不安の増幅 → 出生率の更なる減少 → ・・・」
出生率が「長期的には1.39で安定する」等という希望的観測を捨てて、官僚達はこの現実を直視することからはじめていかねばならない。
そして、この負のスパイラルの最大の元凶である「将来への不安」を払拭するべく魅力的な共有ビジョンを政治主導で描かねばならず、そのビジョンを実現するべく、官僚達は省の垣根を越えて活発に意見交換を重ねることにより、チーム学習を進めていかねばならない。
(補足しておくと③のメンタルモデルの克服とは、我々の心の中に固定化されたイメージに囚われない思考をする必要があるということであり、②の自己マスタリーとは、「個人の視野をつねに明瞭にし、深めていくことを意味する。(引用)」)
政官が一体となって、ラーニング・オーガニゼーションを形成すれば、日本の未来も開けるてくる可能性がある。小泉首相は様々な功績を残したことは認めるものの、残念ながらこの大事な問題に関して彼のなしたことといえば、夢見心地の太っちょ担当相を据えたくらいである。ポスト小泉に必要とされているのは、正しく日本のビジョンなのである。(フォローしておくと、私は猪口教授に憧れて上智大学に入学した一人であり、上の表現はユーモアを交えたエールのつもりです。竹中大臣も当初は批判ばかりだったが、すごい仕事を成し遂げた。学者出身は大化けするかもしれない!!!)
最後にスティービー・ワンダーの"So What The Fuss"の歌詞を引用して。一貫して「官僚達よ恥を知れ(Shame on them!)というスタンスで書いてきたが、彼らを野放しにしてきた大元をたどれば、それは我々自身の無関心なのである。この問題は我々自身の無責任が招いた帰結なのだ(Shame on us!)と気付いたときに、日本は確実に変わり始めることであろう。
昨日の新聞からではありますが、イトーヨーカ同が店舗閉鎖計画の一部撤回をしたという報道です。イトーヨーカ堂も、私の「小売好き」のせいで、当ブログでよくとりあげた企業の一つです。サイト内検索をしてみると、6件のエントリーがひっかかりました。最初にとりあげたのは、昨年3月の下記のエントリーです。
このエントリーにおいては、イトーヨーカ堂の事業構造改革を「総花的」であると批判しています。同ページからイトーヨーカ堂の事業構造改革へのリンクが既に切れてしまったために原文を今確認できないのですが、確かに「総花的」であったという感覚は未だに残っています。ところが、先日の西武・そごうとの経営統合と、本日の店舗閉鎖計画の一部撤回から、中心市街地回帰という一つのテーマがはっきりしてきました。地方の中心市街地の空洞化に対処するために、まちづくり三法の改正案を自民党中心市街地再活性化調査会が了承したのは、昨年の10月27日のことです。やはり、この報道が出るまでは、郊外に大型SCが建設される動きに関して見極めにくかったため、ミレニアム・ホールディングスとの経営統合や店舗閉鎖計画の一部撤回の動きは、昨年の11月以降に最終的に意志決定したと考えてほぼ間違いないでしょう。
ここで私が多少驚くのは、決断力の早さです。わずか2ヶ月の間に今後のビジョンにこれほど大きな影響を与えるほどの意思決定を行いうるというのは、評価したいと思います。そして、もう一点評価したいのは過去の過ちを素直に認めて軌道修正をしているという点です。一度決めた店舗閉鎖計画を撤回するというのは、なかなかできない決断です。また、セブンイレブンが上場されてから随分と時間はたちましたが、これほど大掛かりに子会社上場を廃したのはイトーヨーカ堂が初めてであるといってよいでしょう。詳しいことは下記のエントリーをご参照下さい。
どうして「純粋持株会社移行」で「時価総額」が向上するのか???
素直に過去の過ちを認めて、これほど大きな方向性の転換に関わる意思決定をしたというのは、なにか鈴木敏文氏の心境に変化が芽生えたからなのかもしれません。何が彼をそうさせたのか、非常に興味深いところではありますが、我々には窺い知ることができないのが残念です。
明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。
さて、実は私の今は亡き父は、今批判の真っ只中にあるNHKに勤め上げていたりするわけなので、私は年末はずーっとPRIDEなんかに浮気することなく、紅白一本槍なのです。みのもんたと山根基世の見事なまでにかみ合っていない司会ぶりだとか、中島美嘉がしっとりと歌い上げ拍手をもらう間も無くサブちゃんのお下劣なイントロが「ぶァーン」と鳴り始めたりだとか、ディテールをつつけば、毎年楽しみどころが満載な紅白ではあるのですが、今年の最大の収穫はDef Techをみれたこと。一応弁解しておくと、オジサンだって紅白見る前からDef Techくらい知っていたさー。初めて聴いたのは、去年の7月に入院していたときに、暇つぶしにJ-Waveのカウントダウンを聴いたとき。確かそのときは、ケツメイシが1位で、Def Techが2位か3位だったはず。しかし、J-Waveで上位に上がるだけのアーティストかと思っており、正直200万枚以上売り上げていたとは、全く知りませんでした。
一応、話の展開上、彼等の音楽を「ラップ」とくくらせてもらうと、日本人のラップは「ダヨネー」に代表される、形から入るだけで、聴いている側に赤面の恥ずかしさを植えつける類のものにあふれていたわけですが、最近は、質的にラップ出生の本国を上回るものがチラホラでてきた感があり、その一つがDef Tech。他に挙げれば、Minmiとかのカッコよさもハンパでなかった。
私なりにDef Techへの賛辞を述べさせていただくと、メッセージ的にはArrested Developmentにも通ずるスピリチュアル性があり。そして、言葉の速さとメロディアス性では、Bone Thugs-n-Harmonyに通ずるものあり。そして、サウンドは基本的にはレゲエ。これだけのクオリティの高いもののハイブリッドがDef Techの人気の秘密なのではありませんか?
本国のラップはといえば、いかついお兄さんが首からジャラジャラのゴールドをぶら下げている、試聴する気すらおこらないジャケットを見る限り、お寒い状況なんでしょう、きっと。
あと、和田アキ子からの苦言とかも無視できない。泉ピン子も他局で公然と「NHKのギャラは安い」とボヤイていたが、それに長年我慢できていたのは、受信料という神話を彼らが信じていたからこそ。内部の使い込みの実態が明らかになってしまった以上、もう、このシステムは長持ちし得ないという気がする。9月までの竹中大臣の采配が気になるところです。