2006年05月30日

日本の投資家はどこまで財務諸表を読めているのか?

日経金融新聞の『スクランブル』欄は面白い。大抵の記事は、私の知的好奇心を満たすだけの新奇な切り口で市場を読んでいる。これはまた裏返せば、私レベルであっても理解できうる平易な語り口で記述されていることの証でもある。
本日のスクランブル欄は『益だし決算、続けますか』と題して、多額の特損を計上せねばならない企業が、ほぼ同額の含み益を吐き出してボトムの利益の帳尻を合わせている様を嘆いている。で、このような会計上のお化粧に投資家はだまされているのかといえば、「そんなに投資家は馬鹿ではない」というのが、本日のスクランブル欄のいわんするところである。特別利益を除けば赤字に転落してしまう企業を抽出して、その株価の「年初からの騰落率」を観察すると、ほぼ全ての企業の株価が日経平均に比して大幅に下落している。日本の投資家は、そんなお化粧はお見通しなのである。
と一方で、これは下記の先日の私のエントリーと部分的に矛盾が生じてしまうかのごとく見えてしまう。

ソフトバンクの『異例の財務手法』と孫正義の『モータリティ』の自覚と無垢な投資家達

(コピー始)
>日本の投資家達はどうであるかといえば、5月19日の日経金融新聞の『見かけの業績、株価撹乱』と題したスクランブル欄の記事によれば、私が想像した以上にマネーリテラシーに乏しいようである。同記事を要約すれば、新日鉄等の株価の観察に基づけば、投資家達は特殊な会計要因を読み解く力をもたず、ボトムの利益の増減で投資判断をしているらしい、というもの。
(コピー終)

上記の私のコメントも元ネタはやはり日経新聞のスクランブル欄である。こちらを読むと投資家はボトムの利益だけを見ているかのごとくであり、本日の日経金融新聞の記事とは矛盾する。
ここで、上記の引用中にある新日鉄の会計の特殊要因とは在庫評価益のことである。例えばこちらのニュース記事を参照されたい。在庫の評価益とは経常利益に至るまでの間に記載される項目である。したがって、5月19日のスクランブル欄と本日のスクランブル欄をあわせた矛盾のない仮説をたてるとすれば、以下のようになるのではないか?

日本の投資家は経常利益までについては、内訳の特殊要因等を詳細に検討せず、単純に前期との増減で投資判断をしている。ただし、経常利益の下の特別利益のお化粧については、お見通しである。

で更に一歩進めて、上記の仮説を信じて、投資行動に移すとなると、経常利益までに至る内訳項目を詳細に検討することにより、株式市場のアノマリーを発見し、利益につながる可能性があるといえるのかもしれない。しかし、くれぐれも断っているように、当ブログの記述がもとで、損失を被った方が出たとしても、当方では全く責任が負えませんので、その点はご了承をw

Posted by Ken Kodama at 17:35 | Comments (2)

2006年05月25日

スピリチュアリティ≠オカルト

冒頭にタイトルとは無関連の話題を紹介しておくと(実はスピリチュアリティも同著で取り上げられており、全く無関連ともいえないのだが・・・)、本日の日経新聞2ページ下には、私がこのブログで何回か取り上げてきた、ダニエル・ピンクの"A Whole New Mind"の邦訳本の出版の広告が掲載されている。大前研一氏自らが翻訳者としてクレジットされているが、タイトルは『ハイ・コンセプト』に落ち着いたようである(『プレジデント』ではトフラーにならって『第四の波』と邦題をつけたいと意気込んでらっしゃったが、出版社に却下されたのか?)。全く難解な内容の本ではないので、「右脳」というキーワードに敏感な方には是非ご一読をお勧めする。私が執筆した関連エントリーは以下のとおり。

右脳時代の『ソフト技術者専門大学院』

さて本題だが、本日は当ブログで私が持ち上げてきた『オーラの泉』に対する批判である。昨日の『オーラの泉』などは出演者(私がよく知らない俳優さん)が霊体験を披露する「オカルト大会」の様相を帯びていた。「日本人の一般大衆」のようなカテゴリーを想定するならば、彼等の頭の中では「スピリチュアリティ=オーラの泉=江原&美輪」みたいな構図が出来上がっているはずである。であるから、昨日のようなコンセプトでオーラの泉が今後も続くとなると、「スピリチュアリティとは透視術を兼ね備えた江原さんみたいな人に前世や守護霊を見てもらうこと」みたいな固定観念ができてしまいそうで、それが私にはたまらなく嫌なのだ。スピリチュアリティの統一的な定義は存在しないと思うが、私は「人間として高い精神性を目指すこと」ととらえている。だから、私は前世も、視覚的に見えるものとしての「オーラ」も、守護霊も全て信じちゃいないが、それでもスピリチュアリティには大いに関心がある。
自分と同様な考えを持つ人が主流派と思いきや、mixiの『オーラの泉』コミュニティの書き込みを見ると、「前世は事実として存在するもの」という共通認識のもと、書き込みが進行している様相に唖然とした。
「前世なんて知覚できるはずもないのに、どうしてみんな前世を信じているの?」こんな突っ込みをいれたくなるところだが、学生時代の私の内面にダイブしていけば、彼等の書き込みの深層も分からないではない。バブル全盛期の頃、私は中沢新一氏の著作に傾倒した。その真意を告白すれば「分かりにくかった」から。高校生までは「偏差値」という数値が存在するがゆえに、他者に対する自分の圧倒的優位が保たれるが、大学に入るとその優位は消滅する。そんなときにポストモダン哲学やチベット密教の神秘主義という、「一般大衆」に理解できないものを論じ合えるということは、自分を再び「絶対優位」に引き上げてくれる。こんなたまらなく愚劣な動機から神秘的なものに傾倒する人は今でも存在するはずだし、多くの東大卒業生がオウム真理教に傾倒した所以もその辺りだろう、おそらくは。(もちろん、今の私はかつての私を「たまらなく愚劣」と客観視できるだけの健全性を備えているつもりなので誤解のないように!)
あと上記のようなスノッブに加えて、「今はしがないフリーターだけど、前世の自分はヨーロッパの貴族の出であり、今世は貧しさを知ることが課題であるのだから、フリーターとして生まれた」みたいな現実逃避的な慰めとして前世を信じる若者も多くいるように見受けられる。その気持ちは分からなくもないまでも、健全であるとは思いがたい。
また、江原氏が「芸能人のお宅に訪問する」という透視術だが、マクモニーグルとかいう特殊能力をもつFBI捜査官シリーズでも透視術は登場するし、他の多くの関連テレビ番組を見ていても、恐らくは彼等の能力はホンモノなのであろう。私が問題視したいのは、スピリチュアリティ(精神性)を考える上において、透視術などというものが必要であるのかということ。私は学生時代、「宗教的な奇跡」というものについて思いをはべらせていた時期があった。宗教的に高いマインドを持った人々は、奇跡・神秘的な体験等を「意味がない」と切り捨てる。ならば、なぜ「意味がない」はずの奇跡は語られるのか?それは恐らく「信」の弱いものの「信」を強固にするためであり、江原氏も恐らくは同様の意図で番組中で「奇跡の実践」を行っているのであろう。
江原氏が芸能人の家の間取りをズバリ言い当てる度に、「前世」や「オーラ」に対して「信」の度合いを強めていく人々は多いのだろうが、彼等は論理的な誤謬に気がついていない。透視術がホンモノであるということは、「前世」や「守護霊」や「オーラ」がホンモノであることの証明にはならない。だって、誰も「前世」や「守護霊」や「オーラ」なんて知覚できないのだから。
と、ここまで批判的なことを書いても、『オーラの泉』は多くの回において良い番組であることには変わりない。「前世」「オーラ」「守護霊」というメタファーを提示されることにより、気付きを得る人々は存在する。であるから、私自身にとっては意味のないこれらのキーワードも、他の人々のスピリチュアリティの向上に資するならば、大槻教授(火の玉)のように偏執的に論駁しようという意図も毛頭ない。
中島啓江氏が登場した回は圧巻であった。「ありがとう」という言葉の持つパワー、そしてその大切さ。母親のありがたさ・・・私の心も大きく揺さぶられた。スピリチュアリティをテーマとする「番組自体のスピリット」を忘れることなく、『オーラの泉』を継続していってほしいものである。

Posted by Ken Kodama at 09:23 | Comments (0)

2006年05月20日

ソフトバンクの『異例の財務手法』と孫正義の『モータリティ』の自覚と無垢な投資家達

本日の日経新聞11ページでは、『ソフトバンクどこまで強いか』と題された連載コラムの中篇で、『異例の財務手法駆使』とサブタイトルを冠し、以下の「異例の財務手法」を紹介している。

● 営業部隊を移管したインボイスとの新会社への出資比率を15%未満に抑え、連結に含めないようにした。
● ADSLの新規営業を抑制し、営業損益を850億円改善。
● 内外の投資先の株式を処分して多額の売却益を計上。
● ADSLモデムのレンタル事業を売却。
● 2年前にコールセンターを売却

もちろん、記事が一定のスクリーンに基づいて事実を取捨選択している事実にも注意せねばならないが、これらに財務手法に共通する事項としては①手元のキャッシュの増加②収益の先取り③将来の成長の放棄の3点が挙げられる。
①は分かりやすいが、②の「収益の先取り」だが、一般に事業を売却すれば将来収益を先取りし、それがP/Lに反映されることとなる。ローン債権等の証券化も同様の効果をもたらし超過利潤が一括で計上される効果をもたらすが、会計の解釈上の誤解を嫌ってなのか、証券化の解説本ではオフバランスの効果を仕切りに説くものの、P/Lへの影響はあまり詳述されていない。では、なぜワンタイムで巨額の利益がP/L上に計上されているかといえば、それは上記③で記述したように、将来の成長を放棄したからに他ならない。
「いつでも黒字にできる」と豪語していた孫氏の会計戦略は、上記のような将来成長を犠牲に立脚した一過性の利益の上に成り立っているのに過ぎない。孫氏の戦略転換を説明する要因としては、ボーダフォン買収という外的要因のみが強調されるが、彼の内面からの説明をここで試みてみたい。先日も紹介した神戸大学の金井教授の『働くひとのためのキャリアデザイン』に啓蒙され、現在私は発達心理学に関する本を夢中で読んでいる。同著によれば、発達心理学の見地からすると、「45歳ぐらいになると、死から逆算できるようになる(同著より引用)」のであって、その逆算思考により夢の実現に向けて邁進するようになるのであるという。孫氏は私より11歳上であるから、現在48~9歳のはず。発達心理学から見た転機に差し掛かっており、彼の内面の変化がソフトバンクの戦略に重要な変化を与えているという仮説も考慮に値すると思う。しかし、一個人のモータリティ(やがて死すべき運命)の自覚が上場企業の企業戦略に重大な変化をもたらしているのだとすれば、株主としては今以上にコーシャスになる必要があろう。
で、日本の投資家達はどうであるかといえば、5月19日の日経金融新聞の『見かけの業績、株価撹乱』と題したスクランブル欄の記事によれば、私が想像した以上にマネーリテラシーに乏しいようである。同記事を要約すれば、新日鉄等の株価の観察に基づけば、投資家達は特殊な会計要因を読み解く力をもたず、ボトムの利益の増減で投資判断をしているらしい、というもの。まさに、この投資家にしてこの経営者ありといったところか。
なお、ソフトバンクの株価に関して過去に私が考察したエントリーは以下の2つ。お時間がある方は、特に前者はタイトルが面白いと思うので、読んでみて下さい。

「利益を出す」とどよめかれる会社

そろそろソフトバンクの『敗因』を語ろうではないか。

Posted by Ken Kodama at 14:47 | Comments (0)

2006年05月18日

『村上世彰氏』を考える

先日、村上ファンドをネタに執筆したら、アクセスを頂いた方の数が最近の通常時の1.5倍くらいに跳ね上がった。なんらかのRSSリーダーに登録いただいて、興味のあるネタがあるときのみアクセスいただくという慣習が、読者の方の間に根付いてきているようである。やはり、当初このブログをスタートしたときは、「この手」のネタが多かったためか、当ブログを愛読いただいている方も「この手」のものに関心を抱いていただいているようである。しかし、最近の私はといえば「カネ」の問題より「ヒト」の問題に関心が移りつつあり、今日は両者の折り合いをつける意味で、『村上ファンド』ではなく『村上世彰氏』について考えてみたい。
直接的にインスパイアされたのは、本日の日経金融新聞の1面に掲載された『「村上流」に限界 買収ファンドに憧れ』と題された記事である。記事の前半では、村上ファンドのこれまでの主な投資案件を振り返っているが、次の2つの村上氏の発言が実に興味深い。

(引用始)
「ほかの株主に期待しても無駄。もう委任状争奪戦はやらない。」

「ほかの株主はもう信じないし、少数株主では会社は変えられない。一人でやる。」
(引用終)

前者の発言は東京スタイルの案件に失敗を受けてのもの、後者は西武鉄道の案件の失敗を受けてのものとされる。失敗は人を育てる。これは人材育成の基本である。しかし、失敗から何を学び取るかは、その個人の主観に委ねられる。東京スタイルの案件も西武鉄道の案件も、ビジネスとは他の人々のネットワークとの相互依存に立脚したものであることを村上氏が実感するためには、絶好の教材であったはずである。しかし、村上氏は相互依存の大切さを学びとらず、「一人でやる」道を選択してしまった。
では、なぜこういう道を彼が選択したかといえば、それは自らの手法に対する過剰なまでの自信がそうさせたのであろう。先日のエントリーでも私が考察したように、ロジックで考えても彼のやろうとしていることには間違いがないし、私は法に明るくないので断言できないが、恐らくは適法性もクリアしているのであろう。「俺のやってること、どこも間違ってないのに、なんでやねん???」確かに彼の狭いフレームワークの中においては矛盾をきたしていないものの、その外側には広がる精神的に豊穣な世界と彼の手法は全く相容れない。村上氏の強みである論理的思考能力が災いして、自ら学習の機会を失ってしまったのだ。
こんな村上氏が買収ファンドに憧れているという。買収ファンドともなれば必然的に経営にも手を染めねばならず、買収した企業内の全ての人々への相互依存を自覚せねばならない。それは「一人でやる」道を選択してしまった村上氏には到底不可能な話であり、だからこそ「アクティビストファンドから買収ファンドへの転換に成功した事例は皆無(本日の日経金融新聞より引用)」なのであろう。
コーヴィーの『7つの習慣』を村上氏に贈呈したいのだが、多忙な氏には読んでいただく暇はあるだろうか?

Posted by Ken Kodama at 10:43 | Comments (0)

2006年05月15日

再々考 村上ファンドの何が「悪い」のか?

最近、古館氏のニュース番組などを見ると、村上ファンドは既に「悪者」として扱われている感じである。私はといえば、今までは村上ファンドについては、どちらかといえば擁護してきた人間である。例えば、下記のようなエントリーにおいて。

今回も「理」にはかなっていた村上ファンド

正直なところ、私の関心はご存知の通り移ろいやすく、今の阪神騒動の詳細を把握しているわけではない。しかし、世間一般が「悪い」と認識しているものを、擁護する趣旨のエントリーを書いた責任があるわけだから、最近の村上ファンド批判の論調を改めて検証してみようかというのが本日のエントリーの趣旨である。(「責任」といってもネット上で物を書いたものとしてのエチケットという意味合いで、はっきりと断り書きがしてあるように、このブログ記述をもとに行動を起こして損失を被ったとしてもなんら責任は負えませんので、念のため)

さて、村上ファンドの「善悪」を検証するにあたって私が参照したのは、本日発売された東洋経済である。村上ファンドの特集を組んでいるので、先端的な経済誌である東洋経済の編集者の問題意識をもとに、私なりの検討を加えるというアプローチで村上ファンドの考察を行っていきたい。ただし、まだ「ざざざっ」と斜め読みしただけなので、東洋経済の論調についてインプットが不完全である点についてはご勘弁いただければと思う。また、論点の抽出もかなり恣意的である。

①「株式の買い集め方法が問題である。」との批判

株式の大量買い集めを発行会社に気がつかれないように推進したことが、一つの問題として指摘されている。阪神株の取得については、普通株のみならず転換社債と完全子会社化された阪神百貨店の株式を短期間で買い集め、その様を東洋経済は「鬼買い」と形容している。
当然、株式を大量保有するに際しては、大量保有報告のルールを遵守することが求められるが、私は正直なところこのルールの詳細を知らない。したがって、「村上ファンドがルールを遵守しているならば」との仮定にのっとって議論を進めさせていただくと、転換社債も上場子会社の完全子会社化も、これは当然に親会社の支配権獲得につながりうる資本政策であり、こうした「潜在的な」議決権買い増しに対して、阪神があまりにも無防備であったことが、むしろ批判の対象とされるべきではないか、と私は思う。
加えてあくまで「一般論」上の話ではあるが、子会社上場も転換社債の発行も、株主の利益につながることは概してない。こうした、株主軽視の資本政策のツケが阪神の経営陣を悩ませているといっても過言ではなかろう。

②「保有株式の株価が上がらないと騒ぎ出す」という批判

例えば、本日発売の東洋経済にはこんな記述がある。

(引用始)
『買っても、株価が上がれば特別な要求をせずに、いつの間にか株式を売却している場合も少なくないが、思いどおりに株価が上がらないと、注目を集めようと騒ぎ出す。』
(引用終)

株価の上昇のために、株主が騒ぐというのは、私はむしろ健全であると思う。株主がサイレントでありすぎたがために、上場企業の経営陣は株主価値の向上を省みなかったのではないか?村上氏が日本経済に対して果たした最大の貢献は、おそらく「株主価値の向上のためにアクションを起こした」ことであり、多くの企業が正当な防衛策として、配当アップなどの施策を打ち出した事実は否定できまい。
しかし、先日『ブロードキャスター』を見ていたら、早大の榊原教授が、そもそも経営権を支配するつもりもないのに、経営権支配をちらつかせる村上ファンドの手法に関して、「風説の流布」を示唆するような発言をされていた。ここでもまた、村上氏の行動が風説の流布に該当するか否かの判断は私には専門的すぎてできないのだが、パフォーマンスも法令の枠内にとどめておくことが重要であるのは、当然である。

③「そもそも長期保有するつもりがないじゃないか」という批判

私と非常に近いメッセージを発し続けてらっしゃるような気がして、私が一方的に親近感を抱いている企業年金連合会専務理事の矢野朝水氏は、東洋経済のインタビューに答えて、『阪神電鉄株を持ち続けて、経営に一定期間コミットすること(引用)』が重要であると指摘している。矢野氏の発言の背景には、バフェット流の投資術が念頭にある。恐らくはこの指摘に対して「善悪」のようなものを判断しようとすることが、最も難しい。
私の知る限りでは「大株主は長期的に株式を保有せねばならない」といった、株式の保有期間を制約する法律は存在しないはずである。したがって、この指摘は法の外側の問題ということになる。
もし、バフェットに「あなたはなぜ長期間株式を保有するのか?」と問うたならば、私の勝手な憶測だが「それが利益を多く生み出すから」と即答するような気がする。村上ファンドとて、利益が出る水準にまで株価が回復したのだから、売却しているにすぎない。恐らくは、根源的な動機というレベルではバフェットも村上氏も大差はないはずだ。村上ファンドが株式を購入した後に短期間に売却できるほど株価が動くというのは、それだけ日本の株式市場が非効率的であることの裏返しであり、非効率な株式市場の適正化に貢献していると村上ファンドを評価することもできる。
一方で、大株主としての社会的責任といったものを、恐らく世論は求めているのかもしれない。一企業の財務戦略に圧力を与えるのであるから、一定期間その企業の経営にコミットすべきであるというのはもっともな正論である気がする。

④「一般株主の利益を尊重していない」という批判

(引用始)
『むしろ自分たちの利益が確保できれば、他の株主利益は犠牲にすることもお構いなしの様相だ。』
(引用終)

上記も本日発売の東洋経済からの引用であるが、違法行為である有利発行の疑いが濃厚な行為に加担する類のものは当然ながら控えられるべきである。しかし、株式投資とはそもそもゼロサムゲームである。自分で適正と思った価格で買い、自分で適正と思った価格で売却して利益を得る。この場合、適正な株価を読み間違えている他の株主が存在しないことには、株式投資により利益を得ることは不可能である。したがって、「一般株主の利益を尊重していない」と村上ファンドを批判するのは、株式投資の根本的なルールを否定するのに等しく、私には全く的外れなコメントに聞こえる。

こうして私なりに考察していくと、もちろん法令を遵守しているという仮定が成り立つという前提のもとでの話だが、私には村上ファンドはビジネスエシックス(倫理)の基本を踏まえているように見え、そこが株主を欺こうとした意図が明白であるライブドアとの根本的な差異であるように思われる。

・・・しかし、恐らくは読者の多くの方は、納得がいかないと思う。「でも村上ファンドは、あなたがなんといおうと悪いと思う!」こういう素朴な感覚を大切にすることは重要であるが、その感覚の源泉に迫り、文章として論理的に表現して、真の問題点に肉薄していこうとする姿勢が重要であろう。
依然として違和感を抱いている方の心を代弁させていただくならば、それは村上氏の人間性に起因するものであろう。確かに彼は人格的にあまりにも多くの問題を抱えている。例えば、言動不一致。他の株主を出し抜いて利益を得ようとしようが、短期間で株式を回転売買しようが、それは資本主義社会で認められた自由である。しかし一方で、村上氏は保有株式の価値を上げるためのパフォーマンスの一環として、一般株主の利益の向上や長期保有を謳っている。こうした言動不一致は、「人として」戒めるべきものである。
あるいはRespectの欠如。バフェットは株主としての権利を行使しながらも、経営陣を経営のプロとしてのRespectを忘れずに接近する。今回の阪神の取締役入替案には、永年に渡り阪神圏の足としての大役を担ってきた、阪神経営陣に対するRespectは微塵にも感じられない。Respectがないのだから、経営陣との関係構築がままならず、短期売買にならざるを得ないということもできよう。
また、経営陣との関係構築が不得手であるというのは、対人的ななスキルの欠如に原因があるといえるかもしれない。ホリエモンは騙す意図が明白にありながら、一般大衆を味方につけることにかけてはピカイチの腕をもっていた。一方で、村上氏はホリエモンほど「騙そう」としていないものの、一般大衆から総スカンをくった。村上氏の投資手法は、一般大衆のハートをも掴むべき極めて高度な対人スキルを要求されるのに、そのスキルはあまりにも未成熟である。
私のカテゴライゼーションにしたがえば、村上氏の問題はスピリチュアリティの領域にあるといえよう。そう『オーラの泉』が扱うスピリチュアリティだが、このワーディングに抵抗があれば「倫理」といっても、「インテグリティ」と言っても構わない。

『オーラの泉』が職場に進出??? 21世紀の人材育成と「スピリチュアル」

以前私は上記のタイトルのようなエントリーを書いて、近い将来、人材育成の場でスピリチュアルが語られるのではないかと予測した。しかし、これは、またもや私の認識不足に基づくものであったことが判明した。神戸大学の金井教授の『働く人のためのキャリア・デザイン』によれば、既にアメリカでは職場におけるスピリチュアリティの議論が始まっているそうである。
村上ファンドやホリエモンを「拝金主義」と片付ける論理的な基盤には稚拙なものが多い。が、その結論については、どうやら正しいのだろう。資本主義経済下でのスピリチュアリティ。一見、相容れない2つの概念の相克に悩むことが、私のライフワークとなるような気がする。

Posted by Ken Kodama at 10:30 | Comments (0)

2006年05月12日

JR東日本の『現場力』

本日の日経新聞の3ページには、最近のJR東日本のトラブル続発及びその復旧に時間がかかっている旨に関する記事が、小さく掲載されている。
首都圏ローカルな話題で失礼させていただくが、昨日は京浜東北線のATC(自動列車制御装置)の故障により、京浜東北線のダイヤが大幅に乱れた。私は、京浜東北線に乗車することが全くないのだが、その「二次災害」により30分も足止めをくらうこととなった。
というのも私はJR横浜線沿線に居住するのだが、多くの方は、菊名で東横線に乗り換えるか、東神奈川で京浜東北線に乗り換えるかして、東京方面に出勤する。昨日のように京浜東北線が使えなくなると、京浜東北線使用者は「振替乗車」という仕組みを利用して菊名で下車し、東横線に乗り換えて東京方面に行こうと考える。菊名駅のJRと東急の乗り換え口には10数台に自動改札機が設置されているが、「振替乗車」客は自動改札を通り抜けることができず、1箇所しかない駅員対応の連絡口に殺到する。で、乗換口がつまる。で、横浜線ホームが人で溢れかえる。で、横浜線から菊名駅で人が降りられなくなる。で、仕方がないから、菊名のホームの人がはけるまで、電車を遅らせる。
なんか「蝶がはばたけば台風がおきる」みたいなカオス理論を想起させる出来事であるが、昨日の問題に関していえば、「緊急的に菊名駅の自動改札を全面開放する」ということにより、横浜線の遅れは簡単に回避できたはずだ。これが1度きりの事態ならわざわざブログなんかで取り上げないが、実は先月も全く同様に「京浜東北線のトラブルで横浜線がとばっちりを受ける」という事態が発生していた。JR東日本は学習していなかったのだ。今回は「遅れ」だけで済んだのが不幸中の幸いであったが、4月のときは横浜線から菊名で降車客が出されるたびに、ホームに立ち往生する客が将棋倒しになりかねない場面が何度かあった。そんな危険性を経験していながら、JR東日本は全く学習していなかったのである。
こうした事態を本日の日経新聞では、国土交通省鉄道局の幹部の発言を引用して「技術の進歩に現場の人間が追いついていないのでは(引用)」と評している。「現場の人間が追いついていない」という表現に対して、私なりに突っ込んだ表現をすれば、恐らくはマニュアルにがんじがらめになっていて、現場での判断を放棄している状態に陥っているのではないかと考えられる。
JR西日本の惨劇でも語りつくされたかとは思うが、「中央集権的な意思決定 OR マニュアル VS 現場での意思決定」という問題に対する解に対する絶対的な正答など存在しない。規定に逸脱してスピードを出しすぎた運転士は社会から大きく非難された。一方で、トップからの指示に忠実に従い、現場での救急作業に従事せずに、他の勤務地に向かった職員も大きな非難を受けた。マニュアルから逸脱すれば非難をされるし、マニュアルに従っても非難をされる場合がある。しかし、世論の感情的なうねりは、恐らくは正しいし私も同様な感情を持って、JR西日本に関する報道を見ていた。では、なにが問題だったのかといえば、JR西日本の現場に時にはマニュアルを客観視する行動指針が根付いていなかったことこそが、最大の問題であったのだと思う。マニュアルとて人間が作ったものであり、想定し得ない事象はいくらでもあり得る。したがってマニュアルに従うことが更なる危険事態を誘発しそうであれば、現場の人間が自律的な判断を下さねばならない。そのときに現場の人間が頼ることができるのが行動規範なのであり、昨日のJR東日本の職員の対応からは、JR東日本には行動規範が存在しないか完全に形骸化していることが読み取ることができた。
と、ここまで書いて、「これは『現場』の問題なのだから、あのベストセラーの『現場力』はどういうことを書いていたのだろうか?」ということが気になった。私はタイトルこそは知っていたものの、手にとって読んではいなかったので、ググッてみるとこんなサイトが現れた。やっぱり、行動規範の重要性も書かれているじゃん!同サイトに書かれている『強い現場「7つの条件」』を実践することこそが、国土交通省鉄道局の幹部の懸念を払拭するためのアクション・プランであろう。

Posted by Ken Kodama at 09:35 | Comments (4)

2006年05月10日

教えて下さい!「ダイナミックヘッジ」

今日は恥をしのんで「分からない」ということについてエントリーを書かねばならない。しかも金融ネタで。なにが分からないかと言えば、本日の日経新聞4ページに記載されている、みずほコーポレート銀行の『企業向け 為替取引代行』と題されたダイナミックヘッジに関してである。
まず、私に分かることから書けば、「ダイナミック(動的)」に対する「スタティック(静的)」な為替リスクのヘッジ手段といえば、為替先物(予約)か通貨オプションである。為替先物を使えば比較的安価なコストで将来レートを固定できるものの、為替レートが自社に有利に振れた際の為替差益を計上することができない。通貨オプションは、そうした為替差益を理論的には追求できるものの、ばか高いオプションコストが金融機関にもってかれてしまう。ということで、現実には数ヶ月先の為替先物予約でレートを固定している企業がほとんどであるというのが、私の経験からの実感である。
で、「為替予約と通貨オプションに続く『第三の策』と位置付け(本日の日経新聞より引用)」られているというダイナミックヘッジであるが、新聞の説明だけでは腑に落ちないことが多すぎるし、ネットで検索してもあまり引っ掛からないし、英語で検索しても同様である。私の「腑に落ちないリスト」を以下に掲げるので、当該分野にお詳しい方からのご教授をお待ちしております。

①コストは本当に安くなるのか?
日経新聞の比較表には、ダイナミックヘッジと為替予約のコストが同レベルであることを示唆する記号が付されている。一方で、「売買に備えてみずほコーポ銀は二十四時間体勢を敷く。東京、ロンドン、ニューヨークの三ヶ所に少数の売買担当者を配置し、各地の相場を見ながら取引を進める。(本日の日経新聞より引用)」との記述があり、「顧客には手数料がかかる。(引用)」としっかり書かれている。本当に、為替予約レベルのコストが実現できるのか?

②計画レート確保の確実性について
表を見る限りでは、確かに計画レートの確保の確実性については、静的ヘッジに比べて劣ることが示唆されているが、といいながら、「実用化実験ではほぼ確実に計画レートを達成できたという(引用)」などという記述も見られる。どういう仕組みで計画レートが達成できるというのか?

Macquarie Dynamic Currency Hedging

私の探したネット上の文献では上記のものが、本日の記事のみずほのサービスに近いような「気がして」、かつ分かりやすい。上記の文書の3ページには、ダイナミックヘッジによるペイオフは、為替がどちらにふれてもベストストラテジーとワーストストラテジーの中間にくるようなイメージ図が描かれており、これなら私も感覚的に理解できる。
みずほのダイナミックヘッジは一体どうやって計画レートを達成するのか?

③オプションは使うのか?
さきほどURLを掲載した英語の文献によれば、オプションの使用が前提となっているようである。しかし、本日の新聞記事からはオプションを使うことは読み取ることができない。オプションは使うのか否か。また仮に使うのであれば、疑問①に戻るが、本当に低コストは実現できるのか?

まあ、恐らく99%の確率でこんなヘッジのスキームに対して、仕事として関わることは今後ないと思われるのだが、上記の英語の文書では、これを企業の輸出入に対するソリューションというよりは、外貨建資産を持つ投資家向けのソリューションとして記述されていた。とすれば、個人向けのファンドが同様の為替リスクヘッジ戦略を採る可能性があるわけで、そうであれば「分からない」で済む問題ではない。
あと、最近お受けした仕事で、間接的に「証券化」にからむものがあり、あわてて証券化に関する書物を買い漁って事なきを得た経験があった。「証券化」なんてものも、概念を一般投資家に分かりやすく説明するくらいが、仕事として関わる可能性だろうなーと思っていたのだが、本当に人生いつ何にぶつかるか分かったものではない。そういう体験を経て、分からないものはどこが分からないのか明確にしておく意味で、本日のブログを書いた次第です。あと、「分からない」って告白している人に、ダイナミックヘッジがらみの仕事を頼むはずもないので、「魔除け」としての意味もこめて(笑)

Posted by Ken Kodama at 11:09 | Comments (2)

2006年05月09日

KODAMA CODEを解け!

結局ゴールデンウィークも仕事をするはめになってしまった・・・休暇中の息抜き用のエントリーを執筆しようと思って、標題のタイトルで書こうと思っていたのだが、時既に遅し。しかし、本日の中央青山問題はあまりにも重過ぎる感があるので、GW明けてもビジネスに関係のない私の「少年期」の打ち明け話をさせていただきたい。
さて、下の数列を眺めていただきたい。この数列は何を意味するか、お分かりであろうか?先を読み続ける前に、しばし考えていただければと思う。


3 2 3 5 5 5 9 9 9


もちろん、ダ・ビンチ・コードに登場するフィボナッチなどではない。答えは、何かといえば、実は私の中学時代の「美術の成績」である。3学期制であり、中2までは5段階、中3は10段階なので、こんな感じなのだが、中1から中2にかけて急に美術の優等生になったことがお分かりいただけるであろうか?
実は、この中1から中2にかけた「断層」には2つの説明が存在する。1つは私と親しい方には「ネタ」として話してきたのだが、こういうもの。実は、私の美術を3年間担当していただいた恩師は、実は著名な現代彫刻家である。(といっても、名前をいったところで100人に1人知っていればいいところだと思うし、迷惑が掛かるのであえて名前は挙げない。)恐らく、芸術家だけで食べていくという決断には、当時はまだ踏み込めていらっしゃらなかったのだろう。そんな先生が当時「音の出る彫刻」なるものを作ろうとして、中2に入ったばかりの頃私に声をかけてくださった。
「児玉のお父さんって確かNHKで働いているよね。今度音の出る彫刻を作りたいんだけど、お父さんを通じて、NHKの音響の専門家を紹介してもらえないかなー?」
言われた通りに仲介役を果たし、それ以降私の美術の成績は実質的にオール5をキープした。「これが私が初めて知った『大人の世界』でした」というオチがついて、軽い笑いが取れるという自虐ネタ。
しかし、実はそれなりの努力と才能の開花があった、というのも私は心の奥底でヒシヒシと感じていたのだ。そして、中2に上がったときに何が起こったのか、その説明が繰り広げられているかのごとくに思われたのが、今読みつつある『脳の右側で描け』である。
中2になって圧倒的に増えた美術の課題は「模写」であった。主に美術の教科書内の名画を、忠実に模写する作業だったのだが、これを私は得意とした。しかし、風景画などのように、教室に戻ってからの想像に頼る部分が多くなる絵はなかなか向上しなかった。当時、私はこのギャップに悩み、「所詮、美術においては私は平面上を写し取るという模写の域を抜け出せず、創造性が発揮できないのだ。いいさ、私には音楽がある。」と開き直り、結局中学卒業後、絵筆をとることは2度となかった。
しかし、『脳の右側で描け』によれば、どうやら模写は右脳活性化の入り口の作業であるらしい。GW中に同著にしたがって、絵を描いてみたかったが残念ながら時間がなかった。しかし、そのうち時間をみつけてトライしてみようと思う。なぜなら、模写等によって活性化した右脳により、企業内の問題解決に取り組むという試みも同著の著者の開くワークショップで取り上げられていたという。問題解決にも応用できるとなれば、私が見過ごすわけにはいかない。梅雨時に暇を見つけながら、右脳活性化のトレーニングに励んでみたい。
『脳の右側で描け』では、コースの最初と最後に自画像を書くことを要求されるのだが、せっかくなら眼鏡を描けていない顔を描いてみたいと思って、本日眼科に行ってコンタクト初体験をした!!年甲斐もなく、眼科で大声をあげて感嘆してしまった。ソフトだったので、あまりの違和感のなさ!そしてよく見えること!そして何よりビックりしたのが、コンタクトレンズの外し方!!!眼球に触るなんて、こんなドキドキの体験は初めてでしたよ!みんなこんな道を潜り抜けていたなんて恐るべし!

Posted by Ken Kodama at 18:18 | Comments (0)