さて、本日は3連作の締めくくりとして、スピリチュアリティが「なぜ」企業経営にとって必要であり、そうであるならばどのような形で取り込まれるべきかという点に関する私見を述べさせていただいた上で、締めくくりたいと思います。
【個人のレベルの必要性】
企業経営におけるスピリチュアリティの必要性は個人のレベルと組織全体のレベルの2つに分けて考えることができると思います。まず、個人のレベルでなぜ必要かといえば、自己超越の域を覚醒しつつあるビジネスマンが増えつつあるからです。物質的に豊かになった帰結として、こうしたより高次の欲求を持つビジネスマンが増えるのは当然のことであり、企業側としてはこうした欲求を持つ個が組織内にいるかもしれないという可能性に、少なくとも気がつく必要があります。
こうした個人が、スピリチュアルの観点から自覚した使命と組織内の職責の違いがあまりにも大きすぎれば、その個人は退社という選択を余儀なくされてしまうでしょう。しかし、こうした個人の内的な価値観と職責を合致させようとする試みを企業側が支援することにより、とてつもないハイ・パフォーマーが誕生する可能性があります。なぜなら、より高次の欲求を満たされている人の方が、概して生産性が高くなるからです。
自己超越に目覚めた人々を組織からとりこぼしてしまわないためにも、部下を持つ上司は、こうした欲求が存在するのだということを、少なくとも理解しておく必要があるでしょう。また、人事全般を統括する人事部、人材開発部等においては、異動やキャリアマネジメントにスピリチュアリティの視点を徐々に加味していくことが賢明であると思われます。
自己超越の域に達した人々のパフォーマンスが高いとの仮説が成立するならば、自己超越の覚醒を促すような研修を行うべきだとの議論がでるかもしれません。しかし、その点については私は懐疑的です。このような欲求のシフトは、なんらかの個人的な体験と意味づけのための深い思索がなければ起こりえないはずであり、外圧的に覚醒を促すという思想自体に無理がある気がします。しかし、スピリチュアリティという多くの人々にとって受容しがたい概念を押し付けるスタンスをとらずに、自らのキャリアパスについての深い内的な振り返りのための時間を十分に与えることは、極めて有意義であると思われます。
【組織のレベルの必要性】
組織を一つの生命体とみなすならば、企業とて「全体」との繋がりを無視した存続はあり得ず、Win-Winを超えたMulti-Winを志向したビジョンを策定する必要があります。例えば、かつてナイキは、コスト削減に伴う負の部分をアジアでの児童労働に吸収させることを求めたため、手痛い不買運動に苦しめられた経緯があります。あるいは、昨今の環境問題。「顧客」と「株主」という、「上」だけを意識した経営は、いずれより大きなシステムの中で破綻に追い込まれます。こうした、地球規模の「全体」を意識しないことには、とくに規模の大きなマルチ・ナショナル企業の継続的な成長は難しい状況になってきているのです。
このような視点を意識した上で、コーポレート・ビジョンの策定を提唱しているコンサルタントなども特にアメリカには少なからず存在するようであり、例えば"Liberating the Corporate Soul : Building a Visionary Organization " のような著作を挙げることができます。同著作は、ケン・ウィルバーの勉強会にて主宰の鈴木さんから紹介していただきました。ケン・ウィルバーという人はスピリチュアリティを学問として昇華したトランスパーソナル心理学の中核的な人物とみなされている人なのですが、彼の著作へのリファレンスが豊富にある「経営学」の書物がアメリカでは出版されているという点は、我々も少なくとも気に留めておく必要はあるでしょう。
・・・とスピリチュアリティに関する私の想いはひとまずこれで終了です。予想通り、今週全般のアクセス数は少なかったです(笑)。今後はまた、ファイナンスを主体とする雑多なエントリーを書いていくこととなると思いますが、私の根っこにある部分はここなのだということをご了承いただければ幸いです。
【超常現象との関係】
「スピリチュアリティ」を扱う書物に大抵登場するのが、いわゆる「超常現象」という奴です。これに惹かれてスピリチュアリティに関心を抱く人も確かには存在しますが、企業経営にスピリチュアリティが浸透するに際しての最大のネックになっていることも事実です。例えば、昨日紹介したピーター・センゲ等著の『出現する未来』のエピローグには、江本勝氏によるなんとも不思議な水の結晶に関する研究が紹介されています。汚染水の結晶は実に汚い形をしているのですが、それにクラシック音楽を聞かせたり、住職の祈祷を聞かせたりすると、結晶の形が美しくなるというのです。私には真偽のほどは全く分かりませんが、合理的な意思決定を続けてきた企業経営者が抵抗感を抱くことは間違いないでしょう。
こうした超常現象に対する私の結論は、「確かにより高次のスピリチュアリティに移行するに際して不思議な体験をする者もいるが、神秘的な体験はスピリチュアリティにとって必要不可欠なものではない。逆に、神秘的な体験を必要以上に吹聴する者に対しては、警戒心を抱いた方がよい。」といったところです。スピリチュアリティなるものは、「株式会社」なるものが存在しはじめるはるか前から、主に様々な宗教の神秘主義者の間で追求されていたわけです。例えばイスラム教であればスーフィズム、仏教であればチベット密教や真言密教といった具合に。私は詳しくは知りませんが、これらの宗教においても、神秘的な不思議な体験については触れてはいるものの、それに過度に囚われることを戒めているようです。
どうやら、こうした神秘的な体験は「全体との繋がり」を「頭ではなく体で理解する」に際して威力を発揮するようですが、神秘的な体験自体には再現性はなく、あったとしてもそれ自体は個人の理解を深める以上の、なんらの役割を果たすものではありません。
超常現象と距離を置きながら、高次のスピリチュアリティを追求することは十分可能であり、特に今後企業経営がスピリチュアリティを取り入れていくに際しては、こうした論理的なアプローチをとることが重要であると、私は考えています。『出現する未来』はピーター・センゲを含めた4人の共著という形をとっており、いわゆる超常現象をとりあげながらも、その4人の微妙なスタンスの違いを隠すことなく記述することにより、全体としてバランスのとれた著作に仕上がっているようです。
【オーラの泉との関係】
『オーラの泉』という番組が、恐らく日本で「スピリチュアル」という言葉を広げるに際して大きく貢献したのでしょうが、「前世」「オーラ」「守護霊」という3点セットと「スピリチュアル」を切っても切り離せないものであるかのごとくに、スピリチュアルのイメージを定着化させてしまったことについては、私は最近残念に感じることが多くなっています。
以前のエントリーでも書いたのですが、私はオーラの泉で語られる「前世」というのは辛い現実を受容するための「物語」として有効に機能するものであると考えています。そして、その「物語」を受容させるための舞台装置が、あの江原氏が芸能人のお宅を訪問して中の様子を言い当てるという「透視術」なのだと考えています。「透視術」という一種の奇術で出演者をびっくりさせて江原氏への信頼を醸成させて、「前世」という「物語」を受容させるというのが、恐らくあの番組の構造なのでしょう。しかし、この一連のプロセスを江原氏が行うにあたって、悪意などは微塵にも感じられないため、私はあの番組を批判するどころか、良い番組だと考えており、時間さえあれば今でも見ています。ただ、私自身があの番組に登場したとしても(100%ありえない話ですがw)、恐らく気付きを得ることなできないと思います。ある種の人々にとって有効だが、万人にとっては受け入れられない番組・手法なのでしょう。また、1時間という枠内では「慰め」や「癒し」を提供することが精一杯であり、「成長」というところまで踏み込むことが少ないのも、不満が残る点ではあります。
「江原氏が行っているものだけがスピリチュアリティなのではない」というのが私が主張したいところです。
本日はスピリチュアリティにつきまとう超常現象に関して、私の出来うる限りでみなさんの疑念を払拭した上で、次回以降で「なぜ」スピリチュアリティが未来の企業経営にとって必要であり、「どのような形で」取り込まれていくべきか、という点に関して、私見を述べさせていただこうと考えております。
本日から上記のタイトルのもと、私がスピリチュアリティと企業経営について考えてきたことを、少しだけ「形」にしてご紹介しようと考えています。通常のエントリーとは異なり、どちらかといえば「私」自身の自己啓発のために書くというよりは、みなさんに向けてメッセージを発したいという欲求が強いため、口調は「ですます調」とし、できるだけ分かりやすい文章を心がけるつもりです。アクセス数等からの分析からすると、例えば村上ファンドやファイナンス理論に比べると、スピリチュアリティなるものに対するみなさんの関心が薄いことは重々承知しています。しかし、実はそのような方にこそ、今回からのエントリーは読んでいただきたいのです。あまりこのようなことは書きたくないのですが、あの『最強組織の法則』でおなじみのピーター・センゲの最新の著作(邦題は『出現する未来』)は、正しくこの領域に関するものです。そして、この著作を監訳しているのは、あの野中先生です。スピリチュアリティには、先端的な経営学者達も注目している、といえば私のエントリーを読んでいただく動機付けとしていただけたでしょうか?
スピリチュアリティと企業経営の関わりに、私自身が着目しはじめたのは、どうやら下記のエントリーを執筆した去年の11月のようです。
『オーラの泉』が職場に進出??? 21世紀の人材育成と「スピリチュアル」
「スピリチュアル」という考え方は人材育成にとって重要なのでは、との直観に基づいて書かれたエントリーですが、その直観自体は間違っていなかったものの、当時はあまりにもこの分野に関する知識が乏しく、「10年後くらいに、人材育成において新たな潮流が見られているのではないか」という予測は全く的を得ておらず、既にスピリチュアリティは一部の企業経営にとりこまれている模様です。あれから約8ヶ月と短い期間ではありますが、私の中でこのテーマに関する考えがまとまりかけてきたので、それをみなさんに投げかけてみたいと考えています。
【スピリチュアリティとは何なのか?】
そもそもスピリチュアリティとは一体何を指す言葉なのでしょう?ネットで検索すると、「精神性」や「霊性」という訳語が振られている他は、「統一的な定義はない」、と片付けられてしまっていることが多いようです。したがって、私なりに考えた「スピリチュアリティ」という言葉の理解の仕方をご紹介しておくことと致します。
「霊性」という言葉を使用してしまうと、無用な誤解を招きかねないため、私はとりあえずはスピリチュアリティを「より高い精神性を追求すること」と定義しておきます。しかし、これでもイメージは湧かないはずです。「より高い精神性」って何なのでしょう?
様々な説明の仕方はあると思うのですが、当ブログに来訪いただいている方の共通項として、「経営学に関心がある」という点が挙げられるはずです。そういう方は、あのマズローの欲求五段階説は、なじみの深い概念なのではないでしょうか?ご存知ない方は上記のリンクより説明をお読みいただくとして、5段階の最も高い次元に位置づけられる欲求として「自己実現の欲求」が掲げられているのはよく知られていても、実はそのさらに上位の欲求として、「自己超越の欲求」なるものをマズローが指摘していることはあまり知られていません。現段階では、私はマズローの言う「自己超越の欲求」と、スピリチュアリティが言うところの「高い精神性」というものは同じものを指すと考えております。
「自己実現」と「自己超越」を分かつものとは一体何なのでしょう?私なりの理解を示せば、それは自分を取り巻く「全体」に対する意識の違いです。自己実現において問題とされるのはあくまでも「自分」であり、「自分が創造的な活動をしたい」「自分が成長したい」という欲求を満たすことが課題となり、ともすれば自分の周囲に対する関心は希薄となり、エゴイスト的な状況に陥ってしまう可能性があります。
対して「自己超越」においては、自分と自分を取り巻く全体の繋がりが明確に、かつ鋭敏に意識されます。「地球の中の私」、あるいはもっと広く言えば「宇宙の中の私」が意識され、哲学的な表現になってしまいますが、「個」あるいは「部分」が「全体」を内包しているという、あのフラクタル理論の結論を実感するに至るのです。
しかし、このように「全体」との繋がりを認識しているだけで終わるのではありません。全体との繋がりを意識すると、その「全体」の大きな枠組みの中での自分の「使命」を自覚するに至り、この全体から自覚した大いなる使命を実践していくことこそがスピリチュアリティなのだ、と私は考えています。
例えば弁護士や公認会計士等の高度の知的労働に携わりながら、かつ大きな組織への依存度が低いという恵まれた立場にいる方などは、マズローのモデルに従えば、自己実現の欲求が充足されていることが少なくないのではないかと思います。しかし、それほどまでに恵まれていながら、バーンアウトと背中合わせになっているとしたならば、自己実現から自己超越を意識すべき転機に差し掛かっているのではないかと自問してみることは有用でしょう。
私自身も一般的なビジネスマンでもありますから、そういった方々が何に抵抗感を感じるかを熟知しているつもりであり、そのような抵抗感を極力減ずる方向性でここまで執筆をしてきたつもりです。しかし、「全体との繋がり」や「宇宙」といった言葉に反応して、嫌悪感を抱いた方も少なくないのではないでしょうか?これらの言葉自体には罪はないものの、これらの用語を怪しげなコンテクストの中で使用する人々は多く存在します。次回のエントリーでは、こうした抵抗感を払拭していただくために、スピリチュアリティと超常現象あるいはオカルトの問題と、私が正面から向き合って考察した結果をお伝えしたいと考えております。
ご存知の通り、このブログは主に日経新聞の記事をネタに、私が自己研鑽目的に日々考察を重ねるという体裁をとっている。なぜ日経新聞を題材にしたかといえば、正直なところ、新鮮なタイムリーなネタを扱えば、SEO的な観点からアクセスアップが図れるのではないかという卑しい意図があったことも否めない。その思惑もそこそこあたり、職場で「調べもの」をしている最中に私のサイトに迷い込んでしまい、そのまま居ついて下さっている方も少なくないはずであり、その点については大いに感謝しております。ちなみに今まで「極秘(笑)」にしてきた数字を明かすと、当サイトの月間のPVは1万PVをはさむ展開。更新が少なければ8千近くまで落ち込み、多いときは1万5千あたりまでいく。ただし、「リピーター」ということになるとぐっと数字は小さくなり、少なくとも月1ペースで定期的に来訪いただいている方は400人くらい。しかし、400人ものリアルな知り合いにこのサイトを教えた覚えはなく、確たるメインの領域があるわけでもないこのサイトに定期的に足を運んでいただいている400名の皆様には、改めて感謝の意を表したいと思います。
感傷に浸って脱線してしまったが、最近思うのは日経新聞の取り扱うニュースの偏りである。「これさえ読んでおけばビジネスは万全!」みたいに私は考えていたのだが、まず、『日本』経済新聞なのだから、海外のビジネスネタが非常に手薄。国際面は政治とビジネスの両方が混在しているため、海外のビジネスの情報源としては著しく不足していると言わざるを得ない。例えば、私は今ベストセラー中の『フラット化する世界』を読んで大いに感銘を受けたが、おおよその動きについては知ってはいたものの、インドの生々しい実情は同著を読むまで把握するには至らなかった。やはり、Economist、Fortune等に触手を伸ばすべきなのか、読む時間はあまりないが。あと、本日の日経金融新聞の『ポジション』欄に、福井氏の村上ファンドへの資金拠出問題はエコノミストの2005年10月8日号において、既に事実上明らかにされていたとのことである。日本を客観視する上でもこれらの雑誌は有用であるかもしれない。
また、日経新聞で圧倒的に不足しているのはIT系の情報。恐らくは、化学や酒類卸や金融といった様々の業種の中の一つとして並列的にIT産業を認識しているからなのだろうが、今やIT技術は全産業に影響を及ぼすものであり、別格としての扱いも必要なのではないか?
まあ、最近読んだ本に私の感覚が引きずられているという点も否めないが、世界はフラット化しているというのに、「日本」という垣根にしがみつく日経新聞ばかりを情報源にしていては、1億人が全て世界のフラット化から取り残されてしまうかもしれない。
そんなわけで、これからはこのブログでも他媒体のネタも積極的に取り上げていきたいと思うのだが、ネックになるのは時間の制約。日経新聞を読むことは、一応日本のビジネスマンの「お約束」であり、その「お約束」を疎かにすると、今でさえどことなく「浮いた」存在である私は、熱気球のごとく限りなく根無し草に近い人間と受け取られてしまう(笑)。今後は扱う元ネタのバリエーションが広がるかもしれないので、期待していて下さい!
また、私のお里が知れてしまうような話だが、昨日の『子供に見せたくない番組NO.1』のロンドンハーツにかの鈴木宗男氏が登場していた。そして、数日前にみたダウンタウンDXにも氏は登場していた。ムネオ氏を見て私が思い出したのは、飯星景子があの高級壺販売チェーンから脱退後に、(確か)『たけしのTVタックル』に登場したことについて触れて書かれた、故ナンシー関女史の名コラムである。私の記憶が正しければ、ナンシー関氏は「浄化」というフレーズを使いながら、高級壺販売チェーンに身を置いていたイメージを払拭するにあたって、たけしが仕切るバラエティ番組が大いに貢献した、といった趣旨の内容を書いていた。
昨日のロンドンハーツで見たのも、正しくあの一連の騒動で被った負のイメージを払拭するための一種の儀式であったといえるのかもしれない。いくつか興味深い点がある。まず、第一に誰がこの一連の儀式を取り仕切ったのか、ということ。たとえば、松田聖子や宇多田ヒカルが新曲を発表するときに、ゴールデンの歌番組を特別待遇で行脚する際には、所属事務所やレコード会社とテレビ局の綿密な打ち合わせや交渉なくしては、成立し得ないはずの大仕掛けのプロモーションが展開される。ムネオのゴールデン・バラエティ番組の行脚の背後には、平沢勝栄が見るに耐えない時代劇を演ずるのとは次元が異なって、かなり組織だった動きがないと実現できないはずである。誰が知恵を授けたのか?やはり松山千春なのか、あるいは現在はボビーと同じ芸能事務所に所属しているというムルアカの知恵なのか?そして、なぜこれらの番組のプロデューサーはムネオの浄化に協力するに至ったのか?この辺りの裏事情は、私が最も疎い部分でもある。
第二の論点として、もう少し生産的な(笑)観点から眺めれば、バラエティ番組による浄化の、我々の脳内のプロセスである。ダニエル・ゴールマンのEQの本では、英語で恐縮だが確か"Anatomy of Emotional Hi-jacking(感情によるハイジャックの分析)"と題した章があった。私が昨晩経験したのも、正しく感情によって私の脳内がハイジャックされたのであり、過去のムネオ報道のことは一切忘れて、「ムネオって本当はいい人なんだな」などと思いながらテレビを見ていた。もちろん、過去のあの一連のムネオ報道のときも、私の感情はテレビ番組の意図するところにまんまとはまり、全く面識のないムネオに対して憤りを覚えていた。テレビは怖い。テレビは人々の感情を意のままに操り、『世論』なる幻想を築き上げる。しかも、その方向性を作りあげているのは、『プロデューサー』という肩書きを持つ、悪い意味での『凡人』達である。
古館氏のニュース番組やその前にあった久米氏の報道番組の特徴は、あの異常なまでの一方の当事者への感情移入にある。私の英語力の乏しさにも多少原因があるかもしれないが、昔アメリカの報道番組を見たときは、もっと淡々と事実にフォーカスした報道をしていた気がする。「淡々に報道する」という点においては、民放に比べNHKに圧倒的に軍配が上がるが、事実にフォーカスしながらも、もっと面白くする余地はあるだろう。
最後に「バラエティー番組での笑いによる浄化」のポイントだが、負の部分を変に避けないこと。昨晩のやりとりにこんなのがあった。(必ずしも会話は正確ではありません。うろ覚えです。)
ロンブー淳「ムネオさん、変な圧力かけたりしないでしょうね。」
ムネオ氏「いやー、多少の恫喝はあるかもしれませんが(笑)」
かくてムネオは浄化されたのである。
一連のホリエモン騒動、及び村上ファンドの行い、さらにはMBOによる非公開化の動きに関して、私は極めて散発的な形ではあるが日々考察を重ねてきたわけだが、これらの問題がこれほど大きく取り上げられる共通の根本的な原因は、会社法の基本原理にあるようだとの、個人的な認識が高まりつつあった。折しも本日の日経新聞の経済教室では、一橋大学教授の伊丹氏が同様の考えを呈しており、『会社法の一種の欠陥(引用)』とまで言い切っている。
伊丹教授の主張を私なりに要約すれば、会社法は『投資家保護』を念頭に株主に権利を与えているのに、その権利は『投機家』までにも付与されてしまうため、様々な問題が生じるとしている。で、前出の『会社法の一種の欠陥』とは何かといえば、『恐らく会社法自体に、株主にしか支配権力を与えていないという本質的欠陥があるのである。(引用)』と、学者の方にしてはかなりラジカルな意見を呈している。要約という行為自体もバイアスが不可避なものであるから、興味をもたれた方は、是非本日の日経新聞の経済教室に目を通すことをお勧めしたい。
会社法の根本に原因があるという点では私も共感するものの、他の多くの点では私は伊藤教授の意見には共感できない。私は、問題の根本を会社法の『欠陥』とみなすべきではなく、日本の経営層が会社法の基本原理を頭では分かってもハートで理解できていないと考えるべきだと思う。伊藤教授が指摘するように「株主にしか支配権力を与えていない」という点を欠陥とみなしてしまうと、会社法という論理体系は恐らく破綻する。ここに疑問を投げかけるというのは、資本主義そのものに疑問を投げかけるのと同義に見え、スピリチュアルに並々ならぬ関心を抱く私であっても、伊藤教授ほどのラジカルな意見を呈する気にはなれない(笑)。法の問題というよりは、法をとりまく我々のマインドの問題であると、私はとらえたい。
では、私が日本の経営層がハートで理解できていないと感じている、会社法の基本原理とは何かといえば、それは株主平等の原則である。種類株というものを抜きにすれば、会社法においては株主の権利は保有する株式数に応じて平等に取り扱われる。だから、村上ファンドはある夜突然大株主として浮上して、経営陣に「ものを申す」ことができる。大株主なのだから、株主平等の原則にたてば、経営陣は言うことを聞かねばならない。でも、ハートでは納得できない。「だって、あいつら株主になって一月も経ってないじゃん!俺なんか、社長になるまで苦節30年、どれほど努力したことか・・・こんな若造に好き勝手やらせてたまるか!」会社法には保有期間の短期長期の時間の概念が存在しない。一方で、会社とは組織である以上、時間が育む文化なり秩序がある。この会社法の冷徹なロジックと、経営陣の浪花節的なハートの相違が、これらの問題が大々的に取り上げられた根本にあるのであろう。
MBOにより非公開化するにいたった企業は、短期的に売買を繰り返す投機家をシャットアウトするというソリューションを選び取った。もちろん、これは一つの道ではあるが、投機家を好ましくないものとみなす考えは、恐らくは正しくない。経済学の基本が教えるように、投機家の存在があるからこそ、市場は厚みを増し、投資家は好きなときに保有株式を売却できる。小鬼のように見える投機家も流動性を与えるという意味において、社会的に貢献をしているのである。また、短期的なバッドニュースに過剰反応して、株を売り浴びせる投機家の行動も、経営陣にとっての規律として意義は深いと思う。「長期的には株主価値の増大に努めて経営しており、今期の減益は一時的なものにすぎません。」なんて説明されたって、細木数子じゃあるまいし、未来のことなんか分かる訳がない。もし経営陣の説明がホンモノであるならば、合理的な『投資家』からの買い注文が入るはずである。
私の主張は、会社法に不在の『時間』の概念を盛り込むようにすべきなどというものではない。株主には短期的保有を志向する投機家と長期的保有を志向する投資家の二種類は確かに存在する。確かに投機家は経営陣には五月蝿い存在だが、投機家なしには投資家の売買のための流動性は確保されず、日本の経営陣には投機家とも正面から向き合うべく、マインドチェンジをすべき必要がある。どんな?過去にも「『日本的』経営というアナクロ」というエントリーにおいても引用したが、下記のジャック・ウェルチのウィニングからの一節が恐らく参考になるのではないだろうか?
(引用始)
私はよく、「四半期ごとに成果を出しつつ、五年先のことを考えて行動するにはどうしたらいいのですか」という質問を受ける。
私の回答は「それに悩むようなら、あなたも経営者の仲間入りだ!」
そう、短期の業績を上げるのは誰にだったできる。ギリギリと絞り上げればいいのだから。長期経営だった簡単だ。夢をみつづければいいのだから。あなたがリーダーに選ばれたのは、ギリギリやりながら同時に夢を見られる人だと上司が見込んだからだ。
(引用終)
本日のエントリーでは冒頭部は最後に書きました。書き終えて本日のエントリーを読み返してまたのですが、個人的な読書メモといった類で、恐らくほとんどの方にとっては意味をつかみづらいと思うので、読んでいただける方は予めご了承をいただければと思います。最近、安定的にアクセスをいただいておりながら、エントリーがモノローグ(独白)という閉じた形式になっている点を少々反省しております。来週辺りからは、より「開かれたブログ」を目指したエントリーを書いていければと、考えている次第です。
以前は読書をする度に、何だか新しい知識を獲得するようなワクワクする気分に見舞われたものである。当ブログを長きに渡ってご愛読していただいている方は、特にここ1~2年で私の関心がファイナンスからヒューマンに移行しつつあり、ヒューマンな領域の学問の英知に感嘆する私の様をネットを介して感じとっていただけたかもしれない。
しかし、最近は本を読むたびに、「これはあの本の主張を別な側面から考察しているにすぎない」という既視感を味わうことが多い。例えば、ダニエル・ピンクの『ハイ・コンセプト』と、トーマス・フリードマンの『フラット化する世界』。両者が取り上げるのは、いわゆる典型的な知識労働がインドの存在とIT技術の革命的な進歩により大きな脅威にさらされている点を指摘しており、ダニエル・ピンクはそうした脅威に真正面からぶつかるのではなく、より付加価値の高い右脳領域で勝負すべきだと方向性を示している。梅田望夫氏の『ウェブ進化論』は上記で述べたIT技術の進歩が、約12年前にプログラミングに手を染めた「なんちゃってSE」である私には、想像を絶するほどのインパクトを持つものであることを、グーグルのビジネスにフォーカスしながら教えてくれる。いや、生半可にIT技術をかじっている人こそ、グーグルの恐ろしさは見えてこないのかもしれない。
で、ダニエル・ピンクが今後目指すべき方向性として掲げている6つのキーワードの1つであるMeaning。フランクルを彼が引用していることからも、これは実存主義、トランスパーソナル心理学、スピリチュアリティなどという言葉に引っ掛かってくる「あの領域」の話題である。ケン・ウィルバーのたどり着いた境地も、そしてコーヴィーが『第8の習慣』で述べているところも、結構重なる部分が大きいのではないかという気がする。「インドとグーグルに知識労働を奪われたから、スピリチュアリティーを考える」というマインドでは駄目な気がするが、煩雑な知識労働が減少した結果として、我々が「よきこと」を考える時間を多く手に入れることができるようになった事実は、否定できまい。
いくつかこれらの本を読んで思った疑問がある。まずは、インドはいつまででも煩雑な骨折り仕事を引き受けてくれる世界のアウトソーシング先としての地位に甘んじているなどということはありえないということ。いずれはマクロ経済的な調整によりグローバルなメカニズムが働き、アメリカの会計士とインドの会計士のフィーの水準はそれほど異ならなくなる時代が来るはず。そのとき、インドの後継者がアフリカかアラブのどこかから現れるのか、あるいは全く新たなパラダイムに突入するのか、私には先が見えない。また、スピリチュアリティに関しては、宗教こそが人生であるインドでは、先進諸国よりもはるかに高い精神性を保持しているはずである。インドは先進諸国のたどった道をなぞらえることは、恐らくはあるまい。
また、第二の疑問は、日本語という世界レベルで見ればマイノリティーな言語に守られた日本は、フラットな世界の一員として機能していけるのか、ということ。『フラット化する世界』では、日本の知識労働のアウトソーシング先としての中国が描かれているが、昨今の2国間の関係を考えると、日本語を学習する中国人が増加するとも思い難い。知識労働がアウトソーシングしづらいとなると、アメリカの知識労働者(IT専門家、会計士等)に比べると、仕事を失う危険性は近い将来のレベルでいえば、極めて低いといえ、その意味でいえば、日本のサラリーマンは安泰といえる。しかし、そのツケは恐らく、国際的な企業競争力という形で現れるはずであり、IT革命でアメリカに引き離された日本は、更にこの「世界のフラット化」に乗り切ることができずに、差が開いていくような気がする。
トフラーの新刊本は、この文脈にフィットするのだろうか?時間があれば、是非読んでみたい。
MBOによる非公開化というのは、今回が初めてではなく、「そういえばワールドでもなんか書いたな~」と思い出し、以前のエントリーを読み返してみた。
新聞とあえて異なる視点から物事を見ようとしているため、「非公開化」という問題に対してはあまり突っ込んで考えていない。唯一、私の当時の非公開化に関するスタンスとして明確な記述があるのは、以下の文章くらいであろうか?
(コピー始)
仮にこのMBOが買収防衛目的であったのなら、会社法とにらめっこした小手先だけの株式分割や新株発行権の付与といった防衛策と異なり堂々としたもので、私好みではある。
(コピー終り)
私のirrationalな右脳的には「MBOは堂々としていて好き」なのだが、正直なところこの感覚とフィットした論理的にも明晰な文章を書くことは、今もって自信がない。MBOという問題に対しては情報収集という基本的な段階すら未だ実施しておらず、まだ自らの信念が形成されていないのだ。したがって、当ブログを読んでいらっしゃる方からのご意見を賜れれば、非常に嬉しい限りです。
まあ、これで終わってしまっては元も子もないので、何かしらの足しにならないかと、すかいらーくの開示資料を見に行ったのだが、ここでは、「正々堂々」とは全く異なる「卑怯」に感じられる面を発見するにいたったのである。
すかいらーく社の資料の4ページには「従業員の参加も視野に入れたバイアウト」と称して、MBOにEmployeeをはさみこみMEBOなる用語を掲げている。短絡的に思考すれば、これはガチャガチャと五月蝿い株主を排除して、代わりに「物言えぬ株主」としての従業員を株主に据えようという、なんともご都合主義に見える施策に見えて仕方がないのだが、いかがなものか。同開示資料の3ページあたりまではしきりに危機感をあおっており、こうした会社の株式を半ば強制的に購入させられる従業員はたまったものではないだろう。私が忙しくて新聞をきちんと読んでいなかったからかもしれないが、今回のMBOがただのMBOではなく、従業員を巻き込んだMEBOである点に触れた新聞報道・解説を見た気がしない。
では、仮にこのMBOが従業員を巻き込まない形の、経営陣が100%株式を買い取る形のMBOなら、これは「良い側面」が多いのか「悪い側面」が多いのか?この良し悪しを「現株主」「経営陣」「会社」の3つの観点から考えてみることが有用であろう。
まず、現株主であるが、これほど危機感を醸成する開示資料を見せられた上で、十分なプレミアムを載せた価格で株式を買い取ってくれるという提案を聞いて、悪い気がする株主はいないだろう、今の日本には。しかし、経営陣が株式を買い取るからには、今後数年間はリストラ関連で決算が思わしくなかったとしても、将来的には再上場でキャピタルゲインを得る目算があるのであろうから、そうした長期的な利潤追求の場を奪ってしまうことに関して、違和感を拭えない。一度上場した子会社を親会社が非公開化する動きが最近多いが、そのときもマスコミ(や私)が批判する論調はまさしくここにあったはずであり、MBOでも同様の側面が議論されるべきではないかと思う。
次に「経営陣」だが、非公開化することにより、うるさ型の株主からの声に悩まされずに、長期的な経営に専念できるというメリットが大きい。しかも、そのようなメリットを享受するために、自らが株式を購入するという、大きなリスクを背負っているわけである。経営陣はMBOにより、リスクに見合ったリワードを手に入れられるのであり、従業員に転嫁したりすることなくリスクを引き受ける覚悟さえあれば、経営陣にとっては理想的なオプションの一つといえよう。
最後になったが、「会社」にとってはどうか?ここが恐らく最も難しいのではないか?短期的な決算発表に振り回される株主達の動向を「長期的な視野にたった経営を実践する上でのノイズ」と考えるのであれば、こうしたノイズを遮断するMBOは「会社」にとってプラスである。しかし、一見ノイズである「株主」と「経営陣」の相克こそがすなわち「ガバナンス」なのだ、と考えるならば、MBOにより「株主=経営陣」となってしまいガバナンスが機能しなくなってしまうため、「会社」にとってはプラスとはならない。その顕著な例が「コクド」であり、堤家の相続税の評価額を下げるという目的のもとに、株式会社であるにも関わらず大きな利潤を追求することが放棄され、結果として「あーなって」しまった。
・・・と、ここまで書いて上記を読み返してみると、私の「思考プロセス」を考える上で、実に興味深い。当初、なにがしかのものが書ける自信もないまま、このテーマで書き始めたのだが、まあ、それなりのものが書けてしまった。その助けとなったものは、一つは開示資料を実際に見たこと。これによりイメージが膨らみ、とっかかりができた。また、第二がより重要なのだが、「良し悪し」のような曖昧とした感情を、「誰にとって」という視点、すなわち「株主」「経営陣」「会社」という視点を自ら提示したら、とたんに筆が進みはじめた。本日のエントリーは極めてリアルな、「問題解決及びロジカルシンキング」の事例としても、鑑賞に値すると思います(笑)。
多くの場合において、悲劇的な事故はその背後に潜む構造的な問題を浮かび上がらせるものである。港区のエレベーター事故も「独立系保守会社」とメーカーの関係という、極めて現代的かつ深遠な問題を浮かび上がらせることとなった。犠牲者の人生を無駄にしないためにも、残された我々が問題構造の解明と対応策について考えていかねばなるまい。
従前であれば、メーカーが自社製品のメンテナンスを行う、という以外のビジネスモデルは考えられなかったのだが、「独立系保守会社」の台頭により、徐々にではあるが製造とメンテナンスのプロセスの分離が始まったようであり、これはエレベーターに限ったことではない。私自身が仕事としてこのような業界に携わったことはないが、同様のケーススタディに関しては解説等をした経験があり、その時は「独立系の保守会社はどのようにして製品に関するノウハウを取得するのか」が肌で分かっていないまま、進めてしまった感がある。しかし、本日の日経新聞の下記のような記述を見るにあたり、実は独立系の保守会社は十分なノウハウがないままにメンテナンスを実施していたという空恐ろしい事実が浮かび上がることとなった。
(引用始)
『シンドラー社は2005年春以降、独立系保守会社二社に「事故を起こした同型機の点検マニュアルを渡していなかった」と説明、講習会も開いていなかった。』
(引用終)
今回の事故の責任がどこにあるのかという問題の究明は別として、激しい低価格攻勢で保守市場に切り込む独立系保守会社は、いわばメーカーが永年に渡って蓄積した技術情報にただ乗りをしているかのごとくのビジネスモデルである印象が漂う。時流から独立系保守会社を排除する方向には進み難いであろうから、適正な対価が授受されながら、メーカーから独立系保守会社への情報移転がなされるべきなのであろう。そうすれば、独立系保守会社のサービス価格に技術料相当が上乗せされることとなり、メーカーの保守部門と独立系保守会社の間で、真の価格競争が始まることであろう。
また、マーケティング戦略の常道として、ここでも以下の記述にあるように、先発品は後発品に比して安価にプライシングされていたようである。
(引用始)
『エレベーターの販売・据え付けは利幅が薄く、メーカーは保守で稼いできただけに、保守のみ手掛ける独立系のやり方に反発。』
(引用終)
このテーマも私の関心をとらえて離さないものの一つであり、例えば以下のようなエントリーにおいて考えてきた。
先発品を安く押さえすぎるがゆえに、後発品の価格の高騰を招き、第三者の目から見れば後発品の価格は「異常な高さ」と映り、結果として独立系のメンテナンス業者の台頭を許すこととなった。こうした2wayのプライシングには、根底には顧客を小馬鹿にした意識が私には透けて見え、そうした不誠実さのツケが今メーカーにのしかかっているのであろう。
21世紀型のビジネスの一つの大きな方向性が住宅ローン業界等で進展を見たアンバンドリングであり(オリジネーション、サービシング、ウェアハウジング等々)、アンバンドリングされたパーツそれぞれには適正な価格が付されていないことには、どこかで馬脚が現れるという普遍の事実を、全ての業界が教訓にすべきであろう。
本日のエントリーは、「スピリチュアリティー」とかいう、ファイナンス系の方がドン引きしてしまうタームは抜きで、粛々と財務理論の枠組みの中で進めていきたいと思います(笑)。
本日の日経新聞では、『村上ファンドの功罪』と題した経営者アンケートの集計結果が記載されていた。まあ、全ての項目の値はそれなりに興味深いわけだが、私の目を引いたのは「株主価値向上に貢献」と題した項目で、これは20%に見たず、低い値を示していたのが印象的であった。で、本日の「日経金融新聞」の方は、同グループ紙からの「インサイダー情報」(笑)により、スクランブル欄であまりにもタイミングよく、村上ファンドと株主価値向上の問題を取り上げていた。同紙は、この問題に関しては下記のような2つの見方があると指摘している。
(引用始)
『多額の現預金を抱えるなどした企業の株主となって、大幅増配や自社株買いといった還元策を勝ち取ってきた。』
『長年の蓄えを吐き出させているだけ。総会屋やグリーン・メーラーと変わらない』
(引用終)
そこで、この2つの見方を検証すべく、村上ファンド保有銘柄と東証インデックスのパフォーマンスを比較し、圧倒的に村上ファンド保有銘柄のパフォーマンスが高いことから、「村上ファンドは株主価値の向上に貢献した」としている。
まあ、相変わらずタイムリーで面白いスクランブル欄なのだが、こうした対立的な見方が出てくるのは、株主価値という用語の定義が共有されていないからであろう。
株主価値を時価総額と同義であるとするのであれば、本日のスクランブル欄が検証したとおり、村上ファンドは株主価値の向上に確かに貢献したのであり、これは抗うことのできない「ファクト」である。一方で、村上ファンドは基本的にはバリュー株を投資対象とするわけだが、ここでバリュー株とは理論的な価値に比して時価総額が見劣りする株式のことである。で、村上ファンドのやることといえば、実際の時価総額が理論的な価値に収斂すべく、経営陣に圧力をかけるにすぎない。すなわち、村上ファンドが新たな付加価値を生み出しているわけではなく、理論的な価値の顕在化に尽力しただけの、ある意味アービトラージャーにすぎないのである。株主『価値』というと、どうしても付加価値を連想してしまうが、こう連想する方々は、村上ファンドは株主価値を向上させたかと問われれば、即「NO」と答えるのであろう。
ホリエモン騒動と村上ファンドの影響で、にわかに「企業価値」「株主価値」といった用語が新聞を埋め尽くすようになったが、学者の方々も含めて、これらの用語に対する定義が共有されていないように思われる。ましてや、経営者の間での認識の不一致たるや、甚だしいのであろう。こうしたアンケートの意義を向上させるためにも、定義の共有化が図られることが好ましいのであろう。
突然私の脳内で稲妻が走った。「そうだ、キーワードは『信』だ!何を手がかり人は信じるのだろう?そして、『信』を深めるプロセスとは何なのか?どうすれば、『信』のパワーを利用することができるのか?」
6月6日という誠に不吉な日の書き出しがぶっ飛んだもので誠に恐縮だが、私の書き溜めてきたエントリーが『信』というキーワードで水平的に連携するような気がして、その思うところをばーっと紙に書き出してみた。例えば昨日書いた村上氏とバフェットを分かつものとしての『信』、あるいはオーラの泉を批判したときに書いた、宗教的な奇跡と信仰の関係等々・・・しかし、本日このエントリーを書く直接的な触媒となったのは、非常に遅まきながら最近読んだ、梅田望夫氏の『ウェブ進化論』である。同氏は"My Life Between Silicon Valley and Japan"という人気ブログも運営しており、将棋オタでもある私が羽生現三冠の「インターネット高速道路論」に関するエントリーから着目し始めた方である。同テーマに関しては、私の過去エントリーがあるので、下記をご参照のほどを。
何から書いたらよいのだろう?どのようにまとまるのか、あるいはまとまらないのか?とりあえず、梅田氏の著作に取り上げられているネット上の『信』に関して思うところを書いてみようと思う。
【Web2.0とリナックス】
梅田氏は前掲の著作の223ページにおいて以下のように語っている。
(引用始)
『本書で詳述したネット上での新事象群を理解するカギが「不特定多数無限大への信頼」である。』
(引用終)
不特定多数無限大を信頼した新事象群の代表例として、梅田氏はリナックスとWeb2.0の概念を取り上げている。今さら私ごときが解説するまでもなくリナックスとは、オープンソースという思想のもと、全世界のボランティアにより構築されたOSである。このような壮大なプロジェクトを実施するにあたっては、性善説にたってプロジェクトへの参加者を信頼する他はない。Web2.0については私の中で消化しきれてない面もあり、下記の梅田氏の記述が参考になるであろう。
(引用始)
『サービス提供者の立場でいけば、アマゾン・ウェブサービスのように、自社が持つデータやサービスを開放し、不特定多数の人々がその周辺で自由に新しいサービスを構築できる構造を用意することがWeb2.0の本質だ。』
(引用終)
梅田氏はリナックスとWeb2.0を「不特定多数無限大への信頼に基づくネット上の事象」とした上で、その対極にあるものとして(つまり不特定多数を信頼していないものとして)、大組織の情報システムやヤフー・ジャパン及び楽天の方向性を挙げている。
【玉石混交問題への対処】
我々はリアルに対面している人々を信頼することにすら難しさを感じているのに、ネット上で顔も知らない人々を信頼し、かつそうして出来た仕組みが機能しているという点に唖然とするのである。本筋からずれる気はするが、例えば2ch。あそこの書き込みを見ていて、ネット上の顔も知らない人々を、どうして信じられるようになるのかというのか?
ネット上には極めて貴重な情報もある一方で、クズとしか表現のしようのない情報もそれを凌駕し、これを梅田氏は玉石混交問題と表現する。この玉石混交問題に対するシステム的な仕組みとして、一つにグーグルのページランクの概念がある。リンクの数やアクセス数という厳密に定量化できるデータに基づき、信頼に足る情報とそうでない情報を選別するのがグーグルの検索エンジンである。また、皆さんも使っているかもしれないRSSリーダー。これは一人一人の興味というフィルターにより、見るべきエントリーを選別する仕組みであり、本日のテーマの『信』とは趣が異なるかもしれない。
では、玉石混交問題に定性的に立ち向かうにはどうすればよいのか?ここまでは梅田氏の著作に基づく内容で、ここから私の個人的な体験談をご披露したい。昨年、私は腹腔鏡下胆嚢摘出術というオペを受けたのだが、このオペを受けるにあたって大いに参考にしたのが実は2chの病気板である。どこが信頼に足る病院であるか知っておきたかったし、またオペで経験すること、たとえば鼻からチューブを突っ込まれるだとか、尿道にカテーテルを突っ込まれるだとか、そういったリアルな情報でかつ信頼できる情報が欲しく、そのような情報は当然ながらページランクで高く表示されるはずもなく、2chの中から「石」をより分けて「玉」を選び取るしか手立ては無かったのである。しかし、私は「便所の落書き」が混在する中、顔の知らない人々が書いた情報を信頼するに足るか否かという極めて難しい判断を、かなり的確に実践することができ、問題なくオペを終わらせることができた。
その判断のプロセスを記述してみると、まず「私は作為が感じられる」書き込みをドロップした。そう、極めて感覚的に、右脳で判断していたのだ。しかし、作為があるか否かの判断を、もう少し言語化してみようとするならば「仮にこのような書き込みをフィクションで創作したとして、誰かを極端におとしめたり逆に持ち上げたりすることができない」ような情報を信頼していたのだ。あるいは、文章から漂う知的な水準といったものも、選別の基準として機能していたことも否定できない。
対面すらしていない人を信頼するというのは、一見極めてリスキーで、かつ、馬鹿げた行為に思われる。しかし、確かにその情報を提供し、掲示板に書き込みをしているのは、一人の人格を持った人間であることは否定できない。我々は顔の表情や身振りや声のトーンといった視覚・聴覚を取り去ったネット上においてこそ、裸のメッセージが持つ信頼性と正面から対峙できるようになるのかもしれない。
【オーラの泉の信の構造】
江原氏が芸能人のお宅に「訪問」して間取りをぴたりと言い当てて芸能人を驚かせ、前世の「物語」を聞かせることにより、数多くの芸能人が涙をこぼす。あの番組は一体何なのか?
後段の「前世の物語」についていえば、諸富祥彦氏著の『トランスパーソナル心理学』(講談社現代新書)によれば、あれは一種のトラウマ理論に基づくセラピーなのかもしれない。
(引用始)
『自分の苦しみの意味と原因を解き明かしてくれる「説明の物語」を手に入れることで、わけもわからずただ苦しい (中略) 、といった状態から抜け出すことができるわけです。』
(引用終)
が、例えば東野幸治のような現世的な人に、いきなり前世の物語を切り出したところで、効果があるはずがない。しかし、東野幸治は江原氏の「物語」を受け入れる心の準備ができていた。なぜなら、過去の出演者に事前に連絡をとり(いかにも「らしい」やり方だが)、江原氏の部屋の透視術がホンモノであると信ずるにいたっていたから。だから「前世の物語」を受け入れることができた。まさしく、信ずるものは救われるのであり、これが信の持つパワーの効果的な使用法の一つなのであろう。
【ビジネスと「信」】
そして、振り出しに戻って、ビジネスと「信」の関係。村上氏は失敗にぶつかる度に「人間不信」を高め、そして最後は魔の手にかかってしまった。対照的に信頼関係をベースとするバフェットは、尊敬を集めながら、かつ大富豪であるという、「成功」を手中にした。
リーダーシップ、エンパワーメント、コーチング。これらのカタカナ用語を実践できるか否かの最大の鍵は、他人を信頼できるか否かにかかっている。と同時に、他人を信頼するということは、コントロールを放棄することでもなく、チェックを怠るということでもない。
結局まとまらなかったが、ぼんやりと私の考えるべきことが見えてきた気がする。
当ブログにおいて何度となく考察してきた村上ファンドであったが、本日の日経新聞トップにおいて「逮捕」の文字が躍ることとなってしまった。もちろん、法という一線を越えてしまったわけだが、ホリエモン逮捕が敵対的企業買収の全否定につながるべきではないのと同様に、村上氏逮捕がアクティビスト・ファンドの全否定へと発展することは好ましくない。猪瀬直樹氏は某テレビ番組において、ウナギを活かしたまま輸送する際に、水の中にピラニアを一匹入れておくとウナギの緊張感が増して輸送中の死亡率が減少するという例を引き合いに出して(というかこんな話自体の方が私には驚きであったのだが)、村上ファンドは水槽の中のピラニアとして日本経済に貢献した、というような話をしていた。私も全く同感であり、老後資金の運用が企業からどんどん外出しにされる昨今において、ピラニアとして日本経済に程よい緊張感を与える社会的役割を、他のアクティビスト・ファンドは自覚して欲しいところである。
話を転じて、アメリカのバフェット。彼は「オマハの賢人」とも称され、あれほど株式投資で財を成していながら、アメリカ国民の多くから尊敬され続けてもいる。村上氏逮捕を「いい気味」と感じている人が日本国民の過半数を占めている状況とは大きく異なる。バフェットは崇め奉られ、村上氏は唾をはきかけられる。この差は一体どこからくるのか?
両者はともに株式投資において財をなそうとしている点において共通している。また、投資対象とする株式も理論株価に比して割安に推移しているバリュー株であるという点でも共通している。しかし、株式の保有期間という点では、バフェットは長期保有が前提なのに対して、村上氏は短期間での実現益を志向する。この差をかつてのエントリーにおいて私は、「家康型」と「秀吉型」と表現した。バフェットは「上がらぬなら上がるまで待とうバリュー株」。対する村上氏は「上がらぬなら上げてみせようバリュー株」。バリュー株を上げてみせるために行動を起こすから、アクティビストと呼ばれる所以である。あるいは、村上氏は「秀吉型」のつもりであっても、世間は感覚的に「上がらぬなら殺してしまおう」の「信長型」ととらえていたのかもしれず、そこが嫌悪感の源泉なのかもしれない。
バフェットはなぜ「長く待つ」などと悠然と構えることができるのか?それは彼の投資手法が信頼をベースにしているからである。なぜか市場で評価されていないが、経営陣は信頼に足る。そのような経営陣に対して必要最小限の口出しにとどめておきながら、長期的な関係を築くことにより、長期的に大きな利益を手にする。であるから、実はバフェットの投資銘柄には「バリュー株」という条件に加えて「経営陣が信頼に足るか」という極めて高いハードルが課せられている。もちろん言語の壁の問題も大きいが、なぜバフェットが未だ日本株への投資を行っていないのか、その理由について日本の上場企業経営者は自問してみる必要があるだろう。
その一方で、村上氏は過去の失敗体験から、ますます人間不信に陥っていったのは先日のエントリーにおいて考察したとおりである。信頼関係を構築するということは、高度な人間的な成熟度及び精神性といったものが必要となってくる。バフェットと村上氏が基盤としている財務理論はベンジャミン・グレアムに遡ることができる投資理論であることに変わりはなく、左脳の世界では両者には大きな差異はない。「成功」という言葉をここで出すことには若干躊躇せざるを得ないが、両者の「成功」を分かつものは、精神性すなわちスピリチュアリティと言っても過言でないのではないか?当ブログで度々紹介する神戸大学の金井教授の『働くひとのためのキャリア・デザイン』においては、以下のような興味深い記述がある。
(引用始)
『小川千里氏は、神戸大学大学院経営学研究科に2000年に提出された博士論文のなかで、船を動かす専門家にとって、知識とスピリッツの両面が重要であることを詳細に記述した。』
(引用終)
村上氏とバフェットの比較をしている限りにおいては、投資家にもスピリッツが重要であるという仮説が導けるような気がしてならない。
過去何度となく当ブログで取り上げてきた村上ファンドだが、私自身の視点も180度近く転換し、当初はロジックの世界だけで考えてきたものが、個人的な体験も相俟って、スピリチュアリティという視点からも考察できるようになり、それなりに過去1~2年で私もわずかながら成長を遂げた感がある。
私に使命のようなものがあるならば、それは左脳オンリーのガチガチ頭の人々にスピリチュアリティの重要性を説き、それがビジネスと相反するものではないということを、ロジック的にも納得させることであると思うに至っている。村上ファンドは日本経済のみならず、私の成長にとっても貴重な役割を果たしてくれたのだ。