また最近、筆が滞りがちです。これは日々どこかで仕事があるからというよりは、その準備に追われることが多いためであるというのが一つの理由です。第二には、これだけ新聞をネタに書き続けていると、日々のニュースというのは、同じことろをぐるぐる回っているだけだなー、といった既視感(俗にいうデジャヴです)に見舞われるというのも理由の一つです。したがって、今後はブックレビュー形式のものが増えていくことになるかもしれません。(決してアフィリエート収入狙いではないので、念のため(笑))。また、最後の理由が実は決定的だったりするのですが、リアルで面識のある方が結構読まれているという事実を知ることが多くなったというのも、筆が鈍くなった大きな理由でもあったりします。リアルの世界での私は、自他共に認める「仏(ほとけ)」のような存在であり(もちろん「見かけが仏」ということではなく、精神面でのことです(笑))、バーチャルな私のように鋭い舌鋒を見せることは、油断でもしていない限りあり得ないのです。両面を知っている方がいる以上、リアルとバーチャルの私の統合をどう図っていくか、という点が私の悩ましい課題となっており、そんなこんなの理由で、更新が滞りがちです。11月も比較的スケジュールが忙しいので、週に1度くらい更新があるかもといった認識をもっていただければ、私も気分が楽です。
本題に入る前に、先日ものすごい「共時性」を体験しました。『ビジョナリーカンパニー』のブックレビューを執筆した直後に参加した、ケン・ウィルバー(スピリチュアリティー、トランスパーソナル心理学の権威の方)の勉強会で、取り上げられた書物が、なんと『ビジョナリーカンパニー』だったのです。本屋に行くと「USENの社長も絶賛!」みたいなPOPが置いてあり、そのようなPOPに反応する人々の大半は、ホリエモンの持つ「内面のドロドロ」あるいは「ギラギラ」を引きずっている方々で、スピリチュアリティーとは無縁の人々であると推測されます。だから、ケン・ウィルバーの勉強会で、この著作が取り上げられたことに、かなり驚いたのです。出席してみて、その理由は分かりましたが・・・勉強会に興味のある方は、こちらのページをご参照されてください。
【ミンツバーグがMBAを批判する訳】
さて、本日の本題で、ミンツバーグがなぜMBAを批判しているかについて、私なりのバイアスを交えつつ、彼の批判の論拠をご紹介しておきましょう。もうこの本を読んで随分と時が経過しているのでうろ覚えのところもありますが、彼がMBAを批判する大きな理由は「対人面のコンピテンシーに負の影響を及ぼすから」という点に集約されると申し上げてよいでしょう。例えばハーバードのMBAコース等は「相対評価」を貫いており、下位の数パーセントに分類されてしまった人々はMBAの学位を取得できなくなってしまうのであり、そういうシステムのもとで学習していると、必然的に「他人を蹴落とすこと」がサバイバルの手段となってしまいます。こんな考えをもった人々が上司になった状況を想像してみて下さい!!私も会社員時代に様々なMBAホルダーと一緒に仕事をしてきましたが、「そういう人もいないことはなかった」という程度にしておきましょう。私の想像のつかない、リアルな知り合いが、このブログを閲覧しているかもしれないので(笑)。
一方で、思考面、特に分析面のコンピテンシーに対して現在のMBA教育が果たす役割は甚大で、そうしたメリットについてはミンツバーグは否定していません。しかし、ミンツバーグの経営戦略に関する持論は、サイエンス(分析)・アート(直観)・クラフト(経験)の三者がバランス良く発揮されて、はじめて良質の経営戦略が構築されるというものです。MBA教育はサイエンスにおいては、大きなプラスをもたらしますが、アートに対してはなす術を持たず、またエゴイスティックな人格を形成されてしまった場合、クラフトを軽視してしまう可能性があります。
【日本の計画的人事異動に対する『憧憬』】
ミンツバーグは、自らが批判するMBA教育に対する代替的な教育システムのあり方を、本の後ろ3分の1において展開していますが、この部分については私はまだ読んでおらず、昨今の忙しさから考えると恐らく年内に読む時間を作ることは難しいでしょう。しかし、MBAに対する批判から、自らの提唱する理想的な教育システムの中間に位置づけられるものとして、日本の企業内の人材育成をまさに「絶賛」しています。その絶賛の対象は、「計画的人材異動」と呼ばれるシステムで、日本企業に勤務されるみなさんに、私から説明するまでもありませんが、日本のサラリーマンは人事部の一声により、タイの現地工場や福岡の営業所に、飛ばされます。もちろん「飛ばす」ということは否定的な考えに基づいてではなく、背後には「様々な部門やポジションを経験することにより、バランスのとれたマネジャーに育って欲しい」との人事部としての想いがあるわけです。
しかしです。最近、私はこうした計画的人材異動のシステムのもとにその恩恵を存分に受けているはずの方々を相手に研修をさせていただくことが多いのですが、若干の失礼を承知ながら言わせていただくと、計画的人材異動というのは、果たしてミンツバーグが絶賛するほどの効果をもたらしているのかが大いに疑問です。もし、計画的人材異動というシステムが正常に機能しているならば、私が研修でお会いする方々は、私が感嘆するようなリーダーシップを発揮されてしかるべきですが、そのようなことは稀なのです。
【日本の計画的人材異動が機能していない理由に対する仮説】
この事象に対して、私なりの仮説をもっています。第一には、育成する上司の側にメンタリング・コーチングの技術が不足しているという点です。酒席でお互いの価値観をぶつけて腹を割って話し合うことはあっても、「スキルとして」メンタリングやコーチングを体得されている方というのは、いまだに少ないのではないでしょうか?
第二の仮説は、「修羅場をくぐることが、米系企業に比べて少ない」というものです。ミンツバーグはアメリカの企業の人材異動を、「いきなり水に突き落とすようなもの」という比喩により批判していますが、私が思うに、いきなり水に突き落とすことによるメリットも甚大です。個人的な体験談を披露すれば、旧アンダーセン・コンサルティングでは、いきなり水に突き落とされて、その上水から上がってこれないように頭を押さえつけられるような経験を少なからず体験しましたが(笑)、そんな過去があるからこそ、現在の私があるわけです。もちろん全てが「良き思い出」ではないですけど(笑)。
そして、最後の仮説こそが、実は最も本質的だと思っているのですが、計画的な人事異動というものには、本人の意思がほとんど反映されていない、すなわち自律的なキャリア形成という発想が貧弱だという点です。おそらく、計画的人事異動のシステムのもとで企業と接してきた団塊の世代の方々は、自らを将棋の駒のごとく認識していらっしゃるのではないでしょうか?自分を将棋の「歩」に喩えるような人が、どうして情熱的に仕事に取り組めるといえるのでしょうか?
【スピリチュアルな動機に基く自律的なキャリア】
キャリア形成というのは、企業が主導すべきものではなく、個々の従業員が自律的に形成すべきだというのは、現在のキャリア論の主流です。しかし、企業の言いなりにならない自律的なキャリア形成を行う人々をイメージしようとすると、それこそミンツバーグが批判するようなMBAホルダーで、年収を増やすだけのためにジョブ・ホッピングを繰り返す人々をイメージしてしまいがちです。しかし、こちらの本を読むと、「自律的なキャリア」という言葉が真に意味するところはもっと深いのだということに気づかされます。
こちらの本は洋書なのですが、印象に残ったフレーズを抜き書きしてみましょう。
新しい時代のキャリアというのは、"persue one's own path with a heart"という考え方に基いているということ。
calling(直訳すれば「天職」)という考え方(the idea tha the person was put here in the world to do a certain kind of work)
このような言葉から連想される人々は、カネの亡者のジョブ・ホッパーとは明らかに一線を画する人々ですが、かといって、大企業の兵隊として、自分を駒としか認識できないような卑屈さも持ち合わせていません。何が一線を画しているかといえば、やはりスピリチュアリティ(精神性)という言葉で表現するのが妥当なのではないでしょうか?
残念ながら、この本で参照されているスピリチュアリティの観点からキャリアを論ずる文献は、どこぞのセミナーで配賦された文書のようなものが多く、英語でもまだそれほど豊富な文献は入手できないようです。
個人的な体験からしても、現在様々な企業研修を引き受けさせていただいている私は、まさに天職に出会ったという感じです。本日のように、土曜日に仕事をしなければならなくとも、3週間も休みがなくとも、疲れはするものの、意欲が途切れることはありません。なぜなら、これが私の天職であるとの確たる認識があるからです。(「錯覚」かもしれませんが、それならそれでいいと思ってもいます。)
こうした充実感が得られるのは、私が大きな企業という組織に属していないからということも確かにいえるでしょう。真にスピリチュアルなキャリア形成を選択するにおいて、私のようなフリーエージェント的なポジションは有用であると思われ、フリーエージェント社会の到来を著作にまとめたのは、またあのダニエルピンクです。(こちらはまだ読んでいませんが)
また、上記の著作の前後には、どうやら下記の著作があったようです。
しかし、やはり個人にかなりの自信がなければフリーエージェントには移行することは難しく、そうなると自律的なキャリア形成というのは、大企業の中で追求されるべきものでしょう。しかし、和書で紹介される自律的なキャリア形成のイメージが今ひとつ十分でなかったり、あるいはスピリチュアリティーと「前世とオーラと守護霊」分かちがたいものにしてしまった某番組の功罪により、大企業の人材育成において叫ばれる「自律的なキャリア育成」という掛け声には、魂がこもっていないという感も若干ながら漂っている気がします。
人材を専門性に縛られずに、様々な部門に異動させる仕組み・ノウハウは既に日本企業に蓄積されているわけです。これから必要となるのは①この異動の主体を企業から個人に明け渡すことと②個人が異動する動機に関して、高次のものがあることを自覚させることにあるのではないでしょうか?両者が実現できてこそ、はじめて真の21世紀型のビジョナリー・カンパニーが誕生するのではないかと、私は期待に胸を膨らませています。
今日は新聞休刊日だったので、ブックレビューということで。裏表紙をめくると、この本の日本語訳が1刷が発売されたのは1995年9月29日とある。なんと11年前!その間、なぜ私はこの本を読もうとしなかったのだろうと悔やまれる。「ビジョンが根付いている企業は長い間元気がよい」って辺りが言いたいことだとおおよその察しがついていたことがわざわざ読まなかった理由なのだが、先日土曜日に手にとって二日で一気に読んでしまった。いや、感覚としては「ぺろりと平らげた」という感じ。なぜって、「おいしい」と感じたから。私がこのブログで考えてきたことが、既に10年前近くに出版されたベストセラーに書かれていた。なんか恥ずかしい気もするが、本との出会いというのは神様の定めと私は信じている。今が読むときだからこそ、私は『ビジョナリーカンパニー』に今出会うべくして出会ったのだ。
まず簡単にこの本のあらましを説明しておくと、この本は「よいビジョンの作り方」的な話題は全くといってよいほど、扱っていない。この本は「ビジョンをいかに組織に根付かせるのか」という点について延々と語っている。これは私の比ゆ的な表現だが、「企業がビジョンというDNAを脈々と受け継ぐ生命体となったときにビジョナリーカンパニーは誕生する」のであり、企業を生命体に転換すべくヒントがいくつか記述されているのがこの名著なのである。
以下にこのブログで考えてきたこととオーバーラップする部分をいくつか書き出しておきたい。
【イノベーションのジレンマについて】
「ネットと放送の融合」と「利己的な遺伝子」と「クリステンセンの破壊的技術」と
こんなとんがったタイトルでかつてクリステンセンの『イノベーションのジレンマ』をとりあげた。
一般に企業というのは、規模が小さくかつ利益率も小さいような市場への進出は躊躇する。なぜならファイナンスの理論に従えば企業価値を最大化する意思決定ではないから。しかし、そのような市場にこそイノベーションの萌芽は見出せるのであり、HDDの栄枯盛衰はその好例であるというのがクリステンセンの著作の語るところである。
では、大企業が自らイノベーションを生み出し続けるにはどうしたらよいのか?その答えとして『ビジョナリーカンパニー』では、3M(ポストイット作った会社ですよ)の事例を紹介している。あんまり中身を書くとクレームがくるかもしれないので、イノベーションを生み出す3Mの仕組みが気になる方は是非『ビジョナリーカンパニー』をご一読いただきたい。
【短期と長期の相克】
短期的な利益を志向すべきのか長期的な利益を志向すべきなのか?この難問に対してGEのウェルチが「どっちも大事だよ」と言っていることを紹介したのが、下記のエントリーである。
しかし、『ビジョナリーカンパニー』で紹介される企業は、みなウェルチと同じような考えにたどり着いて、短期的な利益と長期的な利益を両方とも手に入れようと模索しているとのことである。あるいはもっと大胆に「利益を超えた目的」と「現実的な利益の追求」との両取りを狙っていたりとか・・・
このような事例企業を見せ付けられると、下記のエントリーで紹介した、ワールドとすかいらーくの株式非公開化の意思決定はスケールが小さく思われる。
両社が市場から身をひいた最大の理由が「長期的な利益を追求するために、一時的に損失を計上することにより、短期的な株価の下落にさらされるのが嫌だから」てなもんだったはずである。両社とも素晴らしい企業であるとは思うが、ジム・コリンズの定義によるビジョナリーカンパニーには、残念ながら加えてもらうことは難しいであろう。
【カルトとの類似】
宗教も私が若かりしときから、私を魅惑するテーマの一つだが、ビジョナリーカンパニーはカルト集団に似ているところが多いという。その共通点は以下の4点であるという。
・理念への熱狂
・教化への努力
・同質性の追求
・エリート主義
関連するテーマでは、かつてこんなエントリーを書いてみたことがある。
「信」とは何なのか? 「Web2.0」と「バフェット」と「オーラの泉」を結ぶもの
信ずることのパワーと、いかにして「信仰心」を高めるかという点について、ビジョナリーカンパニーが実践している施策がいくつか紹介されている。
先日のエントリーにおいて、私はDCF法というフレームワークを使って金融を生業とする人々さえ「信心深い」と形容した。錬金術だってかつては科学と信じられていたのだ。ファイナンス理論ですら、数百年後に「20世紀の錬金術」と揶揄される時代がやってくるかもしれない。こう考えると、投資銀行というのもやはりカルトと似ている面があるのかもしれない。ただ「ビジョナリーカンパニー」との呼称はコリンズが許さぬだろうが。
【創発戦略(emergent strategy)】
「戦略とは事前に綿密な計画によってもたらされるのではなく、振り返ってみればいつのまにか戦略が形成されていた。」こんな理論を展開するのがミンツバーグであり、その内容は下記の著作に詳しい。
ミンツバーグの言わんとすることは分かるのだが、なにか具体例が欲しいなーと思っていたら、その具体例を紹介していたのだが、やはり『ビジョナリーカンパニー』だった。アメックスは当初は地域小荷物会社だったそうである。それが、意図しないまま金融サービスと旅行サービスに進出することになり、今日に至る。正しく創発戦略(emergent strategy)ではないか!でもどうやって?それが知りたければ、是非『ビジョナリーカンパニー』を読んでみてください。
【ファイナンス理論への疑問】
10年近くファイナンス&アカウンティングに身を捧げた私だが、ここのところファイナンスの理論基盤に疑問を持ち始めている。そんな例をいくつかあげると・・・
①「DCF法っておかしくない?」というのは先日のエントリーで述べたとおりである。
②企業価値を高めようとしてファイナンス理論に基づいた意思決定を行うと、先に書いたようにイノベーションに取り残され、企業としての生命を失うことすらある。(これはリアル・オプション理論を使えば乗り越えられるのか?私にはよく分からない)
③ビジョナリーカンパニーの多くは負債を使わない。負債を使えば企業価値が増すことはファイナンス理論の基本中の基本である。にもかかわらず、負債を使わない。なぜかといえば、「自己を律することが難しくなるから」みたいな理由だそうだ。
偉大な企業ほどファイナンス理論に基づいた意思決定を行っていない。この辺りは「行動ファイナンス理論」により克服されているのか?あるいは、「スピリチュアル・ファイナンス」みたいなものが必要になるのだろうか?後者だったら私は嬉しい(笑)。
最後に、ちょっと気になったのが、著者のジム・コリンズはスタンフォードを離れ、現在はコロラド州ボールダーに在住しているとのこと。彼が生まれたのがここだから、というのが多分その理由なのだろうが、ボールダーというのは我々日本人にとっては「高橋尚子がトレーニングしていたところ」として有名だが、実はアメリカのスピリチュアル・ムーブメントの一種総本山的な地域でもあるらしい。『ビジョナリーカンパニー』もなんとなくそんな匂いをかすかに放つ本である。だからといって、どうというわけではないのですが(笑)。
お久しぶりでございます。まだ忙しさの余波は続いているのですが、そろそろ「別腹」で文章が書きたくなってきたので、デザートを食す感覚で久々にエントリーをアップしてみたいと思います。
今日の日経金融新聞の『理論株価が示す割高感』と題したスクランブル欄のコラムは、なんとなく私が過去に執筆した、下記のエントリーを思わせる内容であった。
一言でコラムを要約すると、「現在の株価水準は理論価格に比べて割高である」という、何の変哲もない陳腐な内容になってしまうが、コラムニストがこうした結論に行き着いた思考プロセスが興味深い。
まず、理論株価だがDCF法をベースに『現在の純資産に今後稼ぐ利益を加え、二十年後に株主へ分配する(引用)』との想定のもと計算された模様である。ここでまず、注目すべきは「20年」という期間を区切って理論株価を算出している点である。ファイナンスの教科書に登場するように、無限の未来へと続くCFは計算対象外としているのであり、したがってその分ここで計算される理論価値は教科書的な理論価格より低くなっているはずである。にもかかわらず、割引率を3%から5%と仮定した場合、現在の東証一部の株価から逆算した「今後20年間の純利益の成長率」は以下の通りになるという。
割引率 成長率
3% 4.01%
4% 6.36%
5% 8.35%
しかも、『割引率はDCF法で使う資本コストに近いので、実際はもっと高いかもしれない(引用)』とのことである。実際の割引率がもっと高いのであれば、現在の株価にはもっと高い成長率が織り込まれているということである。・・・もっと高い成長率って、例えば10%近い成長率で、東証1部に上場する企業の利益が増え続けるって、まぁ、子供の頭で考えてもありえない話である。
で、追い討ちをかけるように、元GS東京支店長の佐藤努氏の『21世紀に成長株は存在しない。一時的に伸びる会社はあるが、せいぜい続いて5年だ(引用)』とのコメントが紹介されている。で、このコラムを書いた磯道真氏も最後は、『M&Aのさらなる増加で、企業の「値段」を厳密に算定する時代が到来した時、果たして今の株価は通用するのだろうか。(引用)』と、さながら私の禅問答シリーズのような結び方をしている。
・・・一体、何がおかしいのか???磯道氏のロジックのどこかが破綻していて、現状と乖離した「杞憂」を展開しているというのか?あるいは、本当に現在の株価が、理論株価に比して高い水準にあるというのか?忙しさでただでさえ鈍い「冴え」が輪をかけて鈍っている私の頭で考えてみるに、おそらく、後者が正しいのであろう。つまり、このコラム通りに現在の株価は理論株価に照らしてみればやはり高いといわざるを得ないのであろう。
思えばこの辺りのファイナンスの理論が精緻化されたのは前世紀の後半に入ってからのことである。前世紀では、すくなくとも優良企業は「未来永劫続くエンティティーである」と考えても何もおかしくなく、その前提に立脚して作られたのが「永続価値」を前提にする理論株価モデルである。
前世紀の終盤から「経営環境は激変している」というのはいわば枕詞のごとく常識化している事実である。あのソニーとて10年後どうなっているかは、誰にも予想のつかない話である。そんな未来の話をしなくとも、今日の苦境に陥っているソニーを誰が1年前に予想できたというのか?
果たして象牙の塔で作られたファイナンス論は、昨今の経営環境の激変を受けて、なんらかの変化を遂げたのであろうか?恐らく答えは「否」であろう。「今日の経営環境の複雑化を反映してリスクとしての割引率を増やせばいいだけ」という意見もあろうが、ではここ10年間において実務的に割引率が引き上げられることはあったのであろうか?MBAコースを履修している学生は「戦略論」で経営環境の激変を教わりながら、片や「永続価値」などという悠長なモデルに乗っかっているファイナンスの講義を受けて、一体彼らの内面ではどうやって折り合いをつけているのであろうか???
まあ、こんなことを言ってしまっては、また批判を受けるかもしれないが、ファイナンスの株価モデルも一種の「信仰」に過ぎないといっても過言ではあるまい。「江原さんと美輪さんは絶対ホンモノ!」という人々と、DCF法の上にビジネスを展開する人々も、「信心深い人々」という点で両者は共通しているといえるのかもしれない。
ビジネスにおいては頑迷な信仰を打破することにより、イノベーションが生まれ、大きな富が創出される。しかし、このDCF法信仰については、打破されることがあってはならないのかもしれない。だって、クラッシュが来ちゃうじゃん。金融の世界に身をおいておく人々は、やはり頑なな信仰心を抱き続けてもらわねば、我々の年金がとばっちりを受けてしまうのである。
で、タイトルをリフレイン。
迷える金融マンよ、信ずる者は救われる