2006年11月30日

ミュージック・クリップ集

最近またちょっと忙しさが抜けず、今日のエントリーは誰のためでもなく、自分の『癒し』のためのものです(笑)。先日ハービーハンコックのROCKITのYOUTUBEのビデオのURLをエントリーに貼り付けといたのですが、IEの「お気に入り」をやたらと増やすよりは、自分のブログに貼り付けといた方が、どういう気分のときに貼り付けたのかメモできるし、また関心のある方ともシェアできるし・・・と、純粋な「URL集」としてのブログの機能に改めて気づかされた次第です。
集めたミュージック・クリップに意味はなく、最近MTVを見ることが長い間なかったので、「映像を見たいなー」と漠然と思っていたものを集めてみました。職場からご覧になっている方は、URLを踏むと音が出てしまうのでご注意を!!

Alicia Keys / Diary

ちょっと男性コーラスがやりすぎかなという感じ(笑)。でもあのコーラス隊の体の「揺れ」がたまらなくR&Bしてる!!こんなコンサートに行ってみたい!!

Erykah Badu / Bag Lady

こんな「原色」なビデオだったのですね(笑)。でもやっぱりかっこよい!!

En Vogue / Hold On

これ全然新しい訳ではないのですが(他のもそうだけど)、なぜかビデオは見てなかった。1度見ちゃうと、ちょっとテンポが切り替わるところとかコミカルな感じがしちゃうけど、でもかっこよい!!

The Temptations / Treat her like a lady

おお、こんな過去の名曲まで見れるとは!!!YOUTUBE恐るべし。これはいい曲ですよ。

Roger / I Wanna Be Your Man

もうほとんど選曲に脈絡がないですが(笑)、よく肉体的に疲労したときにIPODでこの曲を聴いております。

The System / Don't Disturb This Groove

懐かしい。ただそれだけ。Mic Murphyの爆発頭は「当時は」お洒落だったのか???

Chaka Khan / Through the Fire
クイズ。前曲とのつながりは何でしょう?

(答)頭が爆発。


Posted by Ken Kodama at 10:45 | Comments (0)

2006年11月18日

戦慄の『スクラッチ』

本日はもう一話。先日HMVで洋楽R&Bを試聴していたのですが、ジャネット・ジャクソンの新譜が置いてありました。それ自体は相変わらず「商業的」なサウンドでつまらなかったのですが、あのハービー・ハンコック(「学会」のアメリカ支部のおエライさんでもあるそうです)のRockitをサンプリングしている曲がありました。

なんで、ハービーのRockitと判別できたかといえば、それはあの「キュッ、キュッ、キューッ」というスクラッチ音ゆえなのですが、どんなヒップホップでもスクラッチは多用されていながら、ハービーのRockitと識別させるに足るほどの「ユニークさ」を兼ね備えているという点で、改めて彼の音楽に脱帽しました。あと、歌っているのはジャネット・ジャクソンなのに、あのスクラッチが入るとなぜか鳥肌が立つほど怖い思いがする。それはなぜかといえば、とりもなおさずこのプロモのせいなのです。

http://www.youtube.com/watch?v=-dvc5ibmbcQ

今見ても悪夢にうなされそう。フランシス・ベーコンの絵画のような、人間の根源に迫るような芸術的な作品だと思います。最近はこんなすごいのないですよね~。

Posted by Ken Kodama at 14:53 | Comments (2)

「この~木何の木???」日立の迷走

この~木何の木、気になる木~♪

私が物心ついたときから、日立グループのこのCMは継続されているはずだ。とてつもなくでかい木が画面いっぱいに表示され、日立グループ傘下の企業名が走馬灯のように流されれば、受け手としては「日立ってでっかい会社なんだな~」というメッセージを汲み取るのが普通だと思う。そして、その「でっかい」とは時価総額でも利益でも売上でもなく、「グループ会社に属する会社『数』」なのだ。
昨日の日経新聞朝刊によれば、そんな日立の経営方針の柱は「連結子会社数の約2割削減(引用)」であるらしい。一種のアイデンティティ・クライシスといった趣があり、今後もあのCMが継続されるのかどうか興味深い。
具体的には2010年までに、「2006年9月末で885社ある連結子会社を700社程度まで削減する(引用)」とのことであり、200社近くが撤退、売却の対象となるのだが、その際の基準となるのは「FIV」なるカスタマイズ化された、一種のEVAらしい。撤退・売却の判断に関する具体的なルールは下記の通りである。

(引用始)
『2年連続でFIV赤字事業を「要注意」に指定し、再建計画承認後2年以内に黒字化しない場合は撤退勧告をする撤退ルールを厳格に適用する。その事業に関係のない執行役を管理責任者に任命し、客観的な立場から構造改革を検討する。』
(引用終)

想像力を逞しくして、日立グループの子会社削減がどのように実施されるか考えてみたい。(あくまでも以下は私の想像というか、「妄想」の産物に近い。)まず、本社経営企画担当部門内に、10数名の少数精鋭からなるプロジェクトチームが結成される。彼らはなんの「精鋭」かといえば、「FIV」を駆使できるファイナンスの「精鋭」から構成されると予測される。ここで「FIV」だが、私は「FIV」自体については知りえないので、スターン・スチュワートの「EVA」ということで話を進めると、「EVA」の出発点となる「税引後利益」は公表財務諸表の「税引後利益」とはかなり異なり、私の記憶が正しければ、会計上の「税引後利益」からEVA上の「税引後利益」を算出するには100項目近くの調整が必要であるはずだ。最大の論点は「何を資産計上(Capitalize)と考えるか否か」であり、例えば研究開発費は会計上では原則的には費用であるが、EVAでは原則的にCapitalizeすべきアイテムと考える。
また、日立グループの子会社は800以上もあれば様々な事業を手がけているはずであり、当然それらの事業のリスクは異なり、その当然の帰結として、各子会社毎に適用される資本コストの値はまちまちになるはずである。で、最近のエントリーでも何度か書いてきたが、私自身この資本コストという概念がかなり「胡散臭い」と考えるようになるに至っている。「胡散臭い」とまでいわなくとも、「資産計上の可否」と「資本コスト」というのは、それほど客観的に信頼し得る指標ではない、とはいえるであろう。
で、子会社削減のために終結した日立の10数名のエリート達は、「日立グループのとしてのビジョン」や「各企業のコンピテンシー」といった定性的な情報に十分に時間を割くことができず、資本コストの大小や資産計上の可否といった不毛な哲学論争に身をやつしながら、売却すべき企業のリストを毎晩徹夜して作成する。担当取締役も社内の政治的な圧力に疲れ果て、最終的には「エイヤ!」で決断を下してしまう。
もちろん、このストーリーは私の「妄想」にすぎないのだが、幸田真音の経済小説と同等くらいの現実味はあると自負している(笑)。「とりあえずでかい」という以外に確たるアイデンティティーを持たない大きな木に、植木職人ロボットに機械的にはさみを入れさせれば、さぞかしポストモダンちっくな先鋭的な植木が完成するに違いない。幹にハサミを入れないようにさえプログラムしておけば、すぐに枯れることはないであろうが、はたから見ていて景観をそこねる植木ができあがることは、ほぼ必死であろう。
大丈夫か、日立グループ?私の書いたこのエントリーが、将来の笑い種と扱われるべく発奮して、真っ当な改革を推進していただければ幸いである。

Posted by Ken Kodama at 13:56 | Comments (0)

2006年11月14日

「討議の『質』を高めるには?」お勧めの本

今日は比較的時間の余裕があるので、お勧めの本をご紹介。

「効率的な」会議の運営について説くハウツー本は結構ありますが、討議の「質」の向上に言及する本はあまりありません。この本が討議の「質」の向上を促す手法をいくつか紹介しており、私もグループディスカッションを伴う研修においては、大いに参考にさせていただいております。タイトルからは「個人の決断」を連想しますが、あくまでもフォーカスは「集団討議」にあります。メインテーマを一言でいえば、建設的な意見対立を促しながらいかにして感情的な対立を避けるか、という点になります。
ジョン・F・ケネディが用いた手法なども紹介されており、それぞれの手法は有用ですが、実際の職場で実践するにあたっての障害があるとすれば、「恥ずかしがらないこと」くらいだと思います。会議で凡庸な結論ばかりでるとお嘆きの方は、是非ご一読してお試しになって下さい!

Posted by Ken Kodama at 17:41 | Comments (0)

秋といえば『枯葉』

本日は日経金融新聞に掲載されたマクドナルドの業績発表をネタに、盛り上がってやろうかと意気込んでいたのですが、秋で感傷的な気分に浸っていることもあり、なんとなくやめてしまいました(笑)。また、明日から私の心身の緊張状態が長期間に渡って続くことが予想されるため、今日は軽くCDの紹介で。

秋に紹介するCDといえば、やはり『枯葉』です。これはサラ・ボーンの歌う『枯葉』で、アルバムの邦題もやはり『枯葉』だったと記憶しています。ちなみに、私がはじめてきいた『枯葉』はやはりこのサラ・ボーンの『枯葉』です。ご存知の方はご存知かと思うのですが、このサラ・ボーンの『枯葉』は、一言でいえば全くオーソドックスではないのです。渋いジャズではあるのだけど。オーソドックスな『枯葉』といえば、例えば下のキャノンボールとマイルス・デイビスの"Somethin' Else"に収められた『枯葉』です。

サラ・ボーンの『枯葉』を初めて聴いたのは中学生の終わりか高校生のはじめ頃だと記憶していますが、この『枯葉』があのスタンダードナンバーの『枯葉』と同じ曲であると気がつくには、2~3年の月日を要したと記憶しています(笑)。なぜ、そこまで気がつかなかったかといえば、①当時の私の音楽の素養が浅かったこともありますが、②この『枯葉』は全篇スキャット(シャバドゥビ・シャバドゥバみたいな)であり、③かつとても速いテンポであり、④また、コード進行は特にイントロ部分のメジャーっぽく聞こえて、マイナーなイメージの『枯葉』と相容れなかったからです。
私は音楽評論家ではないので、このアルバムの素晴らしさを表現する言葉が自分では見出せないのですが、10年くらい前にジャズ・ボーカルを生業とする方とお話していたときの、その方の言葉を借りたいと思います。

「このアルバムを聴いていると『音楽』を感じる」

う~ん、名言。別に『音楽』を『人生』にかえてもよいかもしれない。
また、私が特にこの作品を秋口に聞きたくなるのは、恐らくジョー・パスのギターのせいのような気がします。誰もがサラ・ボーンの最高傑作の一つと認めるこのアルバム、ご興味があれば是非ご鑑賞下さい。

Posted by Ken Kodama at 12:18 | Comments (0)

2006年11月13日

You Put A Move On My Heart(現場の心に灯をともす)

『ビジョナリー・カンパニー②』を素直に読めば、自らもビジョナリー・カンパニーになりたいと願う企業が第一になすべきであるのは、先日も書いたように第五水準のリーダーシップを持つリーダーを選び、育てることであるというのが当然の帰結のはすです。で、この分野についてはまだ邦訳された本が見当たらないので、アマゾンで本を取り寄せて、年末年始にでも読みふけろうかと考えております。
しかし、リーダー一人を選んだところでどうなるものでもなく、当然次には、フォロワーの育成に必然的に意識が向かうはずです。しかし、この点については『ビジョナリー・カンパニー②』は厳しく、「適切な人をバスに乗せ、不適格な人をバスから降ろし(引用)」とあり、暗黙的に終身雇用が前提となっている日本では、あまりにも非現実的な話です。ここで、「はた」とあのベストセラーの本がひらめいたのです。あの本には何かしらのヒントが書いてあるのではないかと・・・

週末に読んでみると、確かにこの本も『ビジョナリーカンパニー』に触発された部分も大いにあるようで、参照文献としても明示されていました。しかし、あくまでも「私にとっては」ということですが、正直な感想は「がっかりだよー(桜塚やっくん風)」てな感じでした。この本の大きな骨子は『ビジョナリーカンパニー』から怪しげな要素を差し引いて作られたといった感じで、「現場力」というキャッチフレーズとともに、日本のビジネスマンに受け容れられ易い語り口で語ったという点においては大いに功績があると思います。しかし、「現場力をいかに高めるか」という肝心のHowの部分については、トヨタのアンドンを紹介してみたり、「パーティションをとっぱらいましょう!」みたいなことを言ってみたりと、具体的な案はハード面に傾斜しがちで、ソフト面(業績評価等)に関する言及もあるものの、今までの一般論と大きな差異は見られません。
「ビジョナリー・カンパニー」みたいなご大層なものを目指すのではなくとも、何か新しいことを始めようとするには、現場で働く人々の「心」を揺さぶらないことには始まらないと私は思うのです。その顕著な失敗例を先日朝日新聞で読みました。

郵政公社、トヨタ式に混乱 指導社員「上辺のみ改善」

この記事から何を読み取るかは、人によって様々なのでしょうが、私はトヨタから派遣された指導員の対応の悪さばかりが目に付きます。トヨタの内部にいる従業員を相手にする指導であるならば、「ムダは悪」であり、「日々改善を追求せねばならない」という価値観は、全ての従業員に刷り込まれているわけなので、指導員は「いかに改善を実施するか」のみに焦点をあてればよいわけです。しかし、郵政公社の従業員は、そもそもそのような価値観を持ち合わせておらず、彼らの心を動かさないことには、「改善ごっこ」に終わるのは当たり前の話です。短期的には効果が出なくとも、トヨタのベテラン指導員がベストと考える手法を押し付けるのではなく、業務改善案が郵政公社の従業員によって自発的に提案される土壌を作ることこそ、「カイゼン」に「魂」を込めるにあたっては必要であったはずです。
具体的にはトヨタの「QCサークル」やGEの「ワークアウト」のような、インフォーマルなグループ活動、今風に言えばアクションラーニングを導入することが、「現場の心に灯をつける」にあたって有用であると思います。というのも、手前味噌になってしまいますが、この手の研修をいくつか担当させていただいて、「受講生の心に灯がともる」のを間近に見るという感動的な経験を、これまで何度もしてきたからです。もちろん、100人中100人の心に灯がともることはありえず、また、職場に帰ってもその灯がともり続けているかについては関知できないという限界はあります。でも、私の経験から確実に言えることは、どれほど悪評の漂う風土を持つ企業であろうと、内部の人間の心までは腐っておらず、性善説にたったアプローチを粘り強く続けていくことは、大いに有用であるということです。
こういう経験から考えると、特にオペレーショナルな部分についてのコンサルティングは、「他社のベストプラクティスを紹介する」的なものから、「自発的なアクション・ラーニングの場を築く」といったファシリテーション型のものに移行していくのではないかという気がします。
なお、本日のタイトルの英語は、書いた内容からなんとなく下のアルバムに収められている曲のタイトルを連想したためつけました。

もちろん、工場の現場で働く工員さんとファシリテーターの心の交流を歌った歌ではないので、念のため(笑)。

Posted by Ken Kodama at 09:36 | Comments (0)

2006年11月10日

『死後の世界』を知ると人は強くなれるのか?

適度なアルコールが入っていると、感覚が研ぎ澄まされる。そんな経験を度々することがあります。で、ビールジョッキ1杯分程度のアルコールを摂取した後、帰宅の途中にある、コンビニに立ち寄ったところ、下記の本が目に付きました。

最近、度々キャリア関連の研修を担当させていただくことがあるのですが、この本はよく「私のお勧めの本」として講義の締めくくりに紹介している本です。「横浜のチベット」と称される辺境の地のコンビニで、まさかこの本と出会うとは思わず、少なからず驚いたことはいうまでもありません。(ちなみに、本日の本題とはそれてしまいますが、キャリア関連の本で、私が最もお勧めする日本語の本は下の本です。

ただし、最近キャリアに関しては自身の思索を深めつつあり、上記の両著作でも物足りないと感じつつあります。)
本日の本題はキャリアではなく、辺境のコンビニの書棚で見つけた『スローキャリア』から左に目を移動させたときに見つけた、下記の本です。

確かに、「生きがい」というのは我々に大事なテーマではありますが、その語呂が私にとっては陳腐なイメージを抱かせるため、「生きがい」をタイトルにした著作を手にすることはまずないのですが、その日は少量のアルコールに助けられ、感覚が研ぎ澄まされていたため、この本と出会うことができたのです。
『たまげた』というのが、この本を読み進めた当初の感想です。著者である飯田史彦氏は福島大学という名門国立大学の教授であり、専攻は「人事管理論」とあります。でも、この本は死後の世界やら、ソウルメイト、過去生やらのオンパレード(笑)。人事の専門家でこの領域に着目している方がいらっしゃるということを知ったこと自体に、大いに勇気付けられ興奮したのですが、この本を(飛ばし飛ばしではあるものの)読み終えた今は、根本的な部分での認識の相違の部分に私の意識は向かいがちで、その相違点に関して私の考えを記述してみたいと思います。

【『前世』は本当に存在するのか】
オーラの泉の扱う主領域でもありますが、前世というものは、「実際に存在するのか」「まやかしなのか」という論争があるのだとすれば、正直なところ、私個人にとってはどうでもいい問題です。なぜならば、恐らく私は自分が生きている間は、そのようなものを知覚するようなことはないであろうから。しかし、飯田教授はさまざまな文献と自身のネットワークを駆使しつつ、「過去生(前世の前世のそのまた前世・・・みたいなのをひっくるめて、そう呼ぶようです)」は、科学的な見地から存在する、と断言しています。その論拠を私なりに一言でまとめれば、退行催眠で得られた言動の多くは過去生を語っており、その個人が知りえない事実を言い当てたり、あるいは複数の退行催眠の被験者が同じ事実を語っていることがある、というのが、「過去生の証明」の論拠のようです。
退行催眠という手法自体について私は見識を持ちませんが、国立大学の教授であり、かつ人事管理論を担当されている方がそうであると語り、また、そうした話はオーラの泉も含めて、他の場所でも多々語られているので、私は「過去生というのは存在する」ということに対して、異論を差し挟もうとは思いません。

【過去生を知ることは、人生にとってプラスなのか】
しかし、過去生の存在を知ること、信じることが人生にとってプラスになるのかといえば、この点については、私は慎重です。飯田教授は『「永遠の生命」を科学する意味』と題した章を設けており、この章が読みたかった故に、私はこの本を購入したようなものです。
飛ばし飛ばし読んだので誤認があるかもしれませんが、飯田教授の論調の骨子は臨死体験に依拠しています。『臨死体験を通して過去生等のビジョンを見た者は、皆強くなる。だから、「死後の生命や生まれ変わりのしくみを、科学的知識として身につけること(引用)」は人生にとってプラスになる。』といったのが、飯田教授が言いたいことと概ね一致していると思います。
臨死体験がその後の人生に対してプラスの影響を与えているという話もよく聞くものであり、この点についても異論を差し挟むつもりはありません。しかし、「臨死」の状態に至っていない人々が、退行催眠等の手法によって自己の過去生を知ったり、あるいは死後の世界に関する「科学的知識」を身に付けるべきかといえば、大いに疑問です。
というのも、これらの過去生なるものが存在するとして、それは大多数の人間にとっては知覚できないものであり、我々は「過去生の記憶」を消去されて誕生してくるからです。そして、過去生は「臨死体験」という極めて異常な事態にしか、我々が知覚することはなかったわけです。飯田教授も含めた過去生支持派は、人間の基本的なメカニズムがなぜ過去生を消し去っているのか、という点を大いに考察すべきであると私は思います。比喩的に言えば、こうした行為は「パンドラの箱」を空けるような気がするのです。
また、過去生の存在を知って感激で涙する人々を観察していると、「過去生をしることにより癒される」以上の効果を持つことは、あまり多くないように感じます。私の感覚からは、過去生を知ることは「耽溺」につながり、「向上」とは無縁のものだという気がするのです。例えば飯田教授の著作に記された、読者からのこのような感想です。

(引用始)
『彼と別れたこと、就職活動がうまくいかないことなど、これら単なる不幸だと思っていたことが、実は自分で自分に与えた試練であると理解すると、うそのように気持ちが晴れ晴れとしてきて、悪いことのように思えたことも、「これでいいのだ」という気がしてくる。』
(引用終)

こういう感想を読むと、何か首をかしげたくなるのです、私は。もし、この方が過去生を知ることにより、自殺を思いとどまったのであれば、確かに過去生を知ることは、大いに意味があります。でも、いつかはそこに耽溺することなく、立ち上がって前に歩みださねばならないと思うのです。失恋をしたり、就職が失敗したならば、フツーに「悲しんだり」、「悩んだり」することこそ、人を成長させると思うのです。
あと、もう一点非常に気になることは、飯田教授やオーラの泉の江原氏の言動に見られる、「過去生を信じない人々に対する侮蔑」の感情です。飯田教授自身はこのような表現を書かれていないものの、引用文献等を通じてそのスタンスがわずかながら窺えます。顕著なのは江原氏で、オーラの泉で「おかしなことをいう人がいるもので」と侮蔑の笑みを浮かべながら、過去生を論破しようとする人々を小ばかにしているのを見たときから、私はあの番組を見なくなりました。過去生の存在をしれば、愛や慈悲の素晴らしさが分かるようになると、「推進論者」は説きますが、反対論者を抱擁することができないようであれば、彼らの「慈悲」は底が知れている、ということです。つまり、江原氏は「過去生を見れること」と「精神性が高まること」は全く次元の異なる話であるということを証明する生き証人でもあると、私には思えるのです。江原氏に対して平気で自分の過去を差し出そうとする芸能人達の気も知れません。
書いている間に熱くなってきたので、言い過ぎちゃったかな(笑)。多くの人々に癒しを与えている事実は否定できないわけだし、その点からは江原氏を認めてあげないとはいけないですね。ちなみに、私が「江原 & 美輪」と書けないのは、ただ単に美輪さんを批判するほどの肝っ玉を持ち合わせていないというだけのことです。だって、コワイじゃないですか、単純に(笑)!
最後に慈悲という点に関して、先日見ていたモーツァルトの特番で、内田光子が話していたことが非常に気になりました。ものすごい思い入れたっぷりの表情で、「モーツァルトの音楽の素晴らしさは、許す(赦す)素晴らしさなのです」みたいなことを熱く語っていたのですが、正直モーツァルトをそういう観点から聴いたことはありませんでした。モーツァルトは研修開始前等に精神安定の意味もこめてよく聴くのですが、「赦し」というものを聞き取ったことはなかったのです。モーツァルトと赦し・・・この関係が分かれば、私ももう一皮むけるやもしれません(笑)。

Posted by Ken Kodama at 11:02 | Comments (0)

2006年11月04日

第五水準のリーダーシップ ~見分けられるのか、育てられるのか~

私は一番最近で、丸一日休んだのはいつのことだったかと、手帳を見返してみたのですが、よく分かりませんでした(笑)。10月の9日か10日あたりに、多分全休をとったと思うのですが、休んだという記憶があまり定かではないのです。これというのも、一重に仕事に慣れていない部分があり、準備に多くの時間がとられるからに他ならないのですが、6つくらいの案件の準備のための時間をどうやってつくろうかと思案したスケジュール帳を見返すと、今でもあのときの「あたふた感」が蘇り、背筋が凍る想いが再現されます。この忙しさも来週の木曜で一区切りがつく予定で11月の10日から15日は6連続で予定が空いているので、今度こそ本当に「ふらり旅」を決行しようともくろんでます。

【第五水準のリーダーシップとは】
さて、本日のお題は『ビジョナリー・カンパニー②』から採ったものです。こちらも前作におとらず「児玉好み」の本で、なぜ今まで読む機会にめぐまれなかったのか思えば不思議で仕方がありません。その中でも、私の心をとらえて離さないのが第五水準のリーダーシップという概念です。ビジョナリーカンパニーを築いた経営トップは皆、この第五水準のリーダーシップのレベルの持ち主であるというのが、本の言わんとするところなのですが、ここで第五水準のリーダーシップと第四水準のリーダーシップの定義を引用しておきましょう。

(引用始)
第五水準 第五水準の経営者

個人としての謙虚と職業人としての意思の強さという矛盾した性格の組み合わせによって、偉大さを持続できる企業を作り上げる

第四水準 有能な経営者

明確で説得力のあるビジョンへの支持と、ビジョンの実現に向けた努力を生み出し、これまでより高い水準の業績を達成するよう組織に刺激を与える
(引用終)

この定義を見て、まず私が感じたことは、日本で第五水準のリーダーシップを持つ人々を具体的にイメージしにくい、ということです。確実に挙げられるとすれば、松下幸之助氏や本田宗一郎氏は、この域の方々でしょう。しかし、現役で活躍中の方となると、第五水準のリーダーシップを持つ方というのは、なかなか思い浮かびません。例えば、ソフトバンクを率いる孫正義氏は、おそらくほぼ確実に第四水準のリーダー止まりの方といえるでしょう。第五水準に「謙虚」という形容詞つくことからして、そもそもそういう人々は目立たないから、私が想像できないのも当然のことであるのかもしれません。
あと、余談ですが、両者の違いを見て思い出されたのが、渡辺和博氏著作の「昭和の名著」、『金魂巻』です。

確か、「成金はやたらと派手な時計やら身なりを見せびらかしたがるけど、本当の金持ちは質素で地味だ」みたいな記述があったと思います。もちろん、「金持ち」と「リーダーシップ」は全然異なるのですが、渡辺氏なりの直観と観察力で、鋭いところをついていたのだな、という気が改めてしました。

【見分けられるのか?】
さて、人材アセスメントというものを生業の一つとしている私にとっての関心は、

第五水準のリーダーシップを持っている人というのは見分けられるのか

という点にあります。私が主に担当させていただくのは、管理職登用前の30代から40代の方がメインであり、CEOクラスの選抜には関わったことはないのですが、この段階で第五水準のリーダーシップを持つ人々がはじかれてしまうようなアセスメントであれば、企業にとって与える損失は甚大です。
アセスメントのプロセスを詳細に公開するわけにはいかないので、漠然とした結論だけ申し上げておけば以下のようになります。
「多くの管理職の選抜において、『第五水準のリーダーシップ』という切り口は当然ながら使用されていないが、第五水準のリーダーシップをはじくような仕組みにはなっていない。」
難しいのが「謙虚さ」をいかに見るかという点ですが、「組織、チームへの献身」と読み替えれば、このような切り口を欠いたアセスメントは、まずないと思います。しかし、これはあくまでも「よきマネージャーを選ぶに際して、第五水準のリーダーシップを持つ者ははじかれていない」というだけの話であって、例えば取締役会がCEOを選出するに際しては、第五水準のリーダーシップを持つものを明確に見分けられないと、その企業にとっての長期的な死活問題にもなりかねません。
ここで、インテグラル・ジャパンを主催されている鈴木規夫さんのミクシー日記より教えていただいた、面白い記事を下記にご紹介いたします。

Incompetent People Really Have No Clue, Studies Find: They're blind to own failings, others' skills

その要旨をかいつまんで申し上げれば「自分の能力を正確に把握するためには、その分野においてある程度の能力がなければできない」ということです。例えば、自分の論理的思考能力の高低を正確に自己認識しうるためには、ある程度の論理的思考能力がなければならず、論理的思考能力に乏しい方は、自己の論理的思考能力を過大評価しがちであるとのことです。
これはあくまでの「自己認識」の話なのですが、他者を評価・認識するに際しても、おそらくは評価しようとする分野の能力がある程度は必要とされるということがいえるのではないでしょうか?これは一つの仮説です。
そして、もう一つ別の仮説ですが、「第五水準のリーダーシップ」って高いスピリチュアリティーと言い換えてもいいのではないでしょうか?こちらの仮説の方は、前者の仮説に比べて、かなり詰めが甘い感がします(笑)。で、両者を合わせて私が何を言いたいかといえば、

第五水準のリーダーシップを見分けるためには、ある程度の高いスピリチュアリティーを見分ける側も保持することが必要であろう

ということです。
これを裏付ける実証例に好例として、バフェットとタワー投資顧問の清原さんが挙げられるのかもしれません。バフェット自身のスピリチュアリティーの高さは、私が言うまでもありません。彼が投資にあたっての判断材料として、恐らく財務情報は広範な投資対象からのスクリーニングくらいの意味しか持たず、最終的には経営者のスピリチュアリティーを見極められていたからこそ、投資において成功を遂げられたのではないでしょうか?また、日本では恐らくタワー投資顧問の清原さんも、あれほど世間一般的には騒がれながら(私も騒いだ一人ですが(笑))一切表舞台に登場しなかったことから、少なくとも「謙虚」であることには間違いないでしょう。そして、過去の週刊誌の記事では、「投資対象の企業の社長ととりとめもない世間話をして帰っていく」とあったことから、人を見極めることが、彼の投資哲学の根幹を据えていたことが推測できます。
私の推論が正しいのであれば、ジム・コリンズがいうところの「第五水準のリーダーシップ」は株式投資において見極められていた実例があるということになり、なんだか恐ろしいような気もします。

【育てられるのか?】
さて、恐らく読者の方の関心は、「見分ける」よりも「育てられるのか?」にあることでしょう。これに関しては、「育てられる側の資質」と「育てる側の資質」に分けて、私の意見を述べておきたいと思います。ちなみに、論理的な根拠はほぼゼロの意見であることをご了承下さい(笑)。
まず、「育てられる側の資質」としては、これはビジョナリーカンパニー②の2章のタイトルにもなっているように、「野心は会社のために」、つまり自己の功名心が動機の根源にある状態では、恐らくは第五水準のリーダーシップなどは、到底手に届かないシロモノなのでしょう。逆説的ですが、第五水準へのリーダーシップというものに対する執着がなくなってはじめて、それは手に入れられるものなのではないか、という気がします。
そして「育てる側の資質」としては、当然、第五水準のリーダーシップを育成するものは、相応の高い精神性を有していることが不可欠となるのでしょう。頭の悪い人からロジカルシンキングを教わりたくないのと、同じ理由です。高価な時計をこれ見よがしに身につけ、高級外車で颯爽と現れるエグゼクティブコーチから、「スピリチュアリティーとは」みたいな説教は、誰も聞きたくないということです。

・・・とこう考えてくると、現在私のメインの生業となりつつある、人材アセスメントを核とした人材育成というのは、かなりタフな仕事であるということです。もちろん、生涯マネジャークラスを相手にするということであれば、現状の延長線に努力を続けていけばよいわけですが、より高いクラスを相手にしたいのであれば、自分も知識のみでなく精神面においても相当の研鑽を積まないことには無理であるということなのでしょう。当たり前といえば当たり前のことなのですが(笑)。

Posted by Ken Kodama at 13:56 | Comments (0)