2006年12月29日

年末のご挨拶

昨日で、ようやく仕事がひと段落つきました。別に世間の御用納めと合わせようとしたつもりは毛頭なかったのですが、一般世間との係わり合いを通じて仕事をしている以上、当然そうしたサイクルの影響を受けるのは言うまでもありません。実は、これから私は2週間予定が空くことになっています。と言っても、私が最も毛嫌いする、「確定申告 & 法人の決算」を行わねばならず、多分そうした事務作業に1週間くらいとられるのではないかという気がします。まあ、「自分でできるから」という理由で一人でやっているのですが、来年あたりからは、どなたかにお願いしようかな、などと思っております。
さて、年末なので風変わりな話で締めさせていただくと(まあ、年中風変わりとも言えますが(笑))、私がいつも思いを馳せるのは、顔の見えない読者の皆様です。かなり立派なアクセス解析ツールを導入していることもあり、色々な角度からの分析も可能なのですが、私が関心を持って眺めているのは、「月ごとのリピーターの訪問者数の推移」です。例えば、一月に10回閲覧いただいた方は1人としてカウントされますし、一月に一度しか訪れなかった人もやはり1人としてカウントされます。
今年はこの月次のリピーターの訪問者数は減少傾向にありました。年初の1月は月間のリピーターの訪問者数は487人と記録されています。これは、みずほの誤発注問題のエントリーを、あの「謎の人物」団藤さんのブログにとりあげていただき、それが岩波の世界に転載されたという特殊要因によるもので、私のブログとしては異例の高い水準でした、これでもね(笑)。しかし、その後忙しい日々が続き、(1)十分にエントリーが執筆できなかったり(3月などは1本だけ)、あるいは(2)私の関心がファイナンスからヒューマンに移りつつあったこともあり、月間のリピーターの訪問者数は減少の一途をたどり、今月の数字は今日現在で304人と出ております。
この数字には、「たまたま2回検索したら、同じサイトに来ちゃった」みたいな人も含まれているでしょうから、私の書いた文章を読むためにご来訪いただいた方は、辛く見積もって200名強くらいではないかと思っています。で、その内私のリアルな知り合いの方は1割の20名くらいなのではないかと、踏んでいます。そして残りの180名の方は、最初なんらかの調べ物をネット上でしていて、その過程で当サイトのくもの巣に引っかかってしまい(笑)、その後ブックマークかRSSリーダーに登録していただいて、暇なときご来訪いただいている、といったところなのでしょう、恐らくは。
しかし、それでも私は不思議なのです。その約180名の方が、なぜ続けてご来訪いただいているかということが不思議なのです。というのも、先ほど書いたように、今年の中頃まではホリエモン&村上ファンドがらみのファイナンスネタに関心を抱いて訪問いただいた方が多かったと思います。しかし、例えばですが、MSCBの仕組みを知りたくてこのサイトに来ていた人が、「スピリチュアル」や「企業文化」みたいなソフトなテーマにも関心を抱くはずがないと考えているのです。なぜならば、昔の私がそうだったからで、ファイナンスネタ以外はぴくりとも関心を示さない堅物だったからです。
このブログは他のブログに比べれば、なんとも自己本位なブログです。私の心中は日々移ろい、その移ろいはブログのエントリーへとそのまま反映されます。そんな私の心の移ろいが、読者の方の関心をも動かしているというのは、非常に弱い仮設だと考えています。したがって、最近はたと思ったのが、「実はもっと多くの知り合いがこっそりと私のブログを見ているのではないか」ということです。
児玉となんらかの面識があり、児玉を知って何らかの関心を抱いていただいている方ならば、書く人間に関心があるわけですから、ブログの記事の内容がどれほど大きく動こうと、継続的に訪問いただいているという点には納得できます。知人から伝え聞いたり、あるいはたまたま関心を抱いたエントリーからプロフィールをたどったら児玉だった、なんて方は意外に多いのかもしれません。・・・とこちらの仮説の方が正しいとすると、なんだか緊張感が倍増してしまします。(笑)学生時代の知り合いか、会社勤務時代の知り合いか、はたまたご近所(これが一番怖いですが・・・)の方か・・・
しかし、だからと言ってブログ執筆のスタンスを変えるつもりは毛頭ありません(笑)。でも知り合いの方が実は100名ぐらいだったとするならば、その皆様にブログ上から年末のご挨拶を申し上げたいと思います。
本年中は大変お世話になりました。また翌年もよろしくお願い致します。

Posted by Ken Kodama at 09:42 | Comments (0)

2006年12月25日

コンビニATM無料化の「捕虜」にならないために

職場からご閲覧いただいているサラリーマン皆様。私もまだまだ働いておりますよ(笑)。昨日はバカップルがペア席でいちゃいちゃしているマンガ喫茶で、一人キーボードを激しく叩きながら、レポートの作成に追われていました(笑)。
今日は久々にFPがらみのネタで。本日の日経金融新聞によれば、「三菱東京UFJ銀行が来年3月、コンビニATMの顧客手数料の無料化に踏み切る(引用)」とのこと。これは金額ベースで「年間50億円の『顧客還元策』になる(引用)」とのことで、一見預金利用顧客への大盤振る舞いに見える方針である。しかし、この50億円の減益要因を、三菱東京UFJ銀行はコスト削減により吸収しようとはつゆほども考えていないはずであり、失った50億円は預金顧客から別の手段で取り戻そうと考えているはずである。
というのも、同様の手数料無料化戦術により好感度ナンバーワンに躍り出た私が個人的に嫌いな「あの銀行」は、おびき寄せられた預金客にデリバティブを駆使した「ハイリスク預金商品」を売りつけることにより、高収益をも維持している前例があるからである。個人顧客は手数料無料化という大盤振る舞いを「個人顧客重視」のサインと受け取り、また高金利の預金商品をも「個人顧客重視」と受け取ってしまう。これがいかに浅薄な知識に基いた判断であるかについては、下記の2つの過去エントリーをご参照されたい。

高い金利には要注意!

俺の話を聞け~♪

このような顧客獲得の手段としてのATM無料化の動きは、金融の世界にも一般のリテールビジネスのマーケティング手法が浸透してきた結果であるとみることもできる。そのマーケティング手法とは、コトラーの教科書ではキャプティブ・プライシングと呼ばれ、これに関するエントリーは下記をご参照されたい。

携帯電話とキャプティブ製品の価格設定

なぜトヨタではガソリンを売っていないのか?

ここで、金融機関の個人顧客としての我々が気づいておかねばならないのは、通常の預金という「先発品」を購入(使用)することと、例えば外貨預金や特殊な定期預金等のハイリスク・ハイリターンの「後発品」を購入することは、別個に意思決定できる自由を持っているという点である。かみそりと替え刃、プリンターとインクは同じメーカーの純正品を使用しないことには、製品を使用することすらできない。しかし、ATM無料の預金を使用したからといって、同じ銀行で猫だましのような高金利商品を購入せねばならない義理はない。
つまり、ATM無料化という戦術は、後の個人顧客へのハイリスク・ハイリターン・高手数料の商品の押し込み販売という戦術とセットで考えるならば、「個人顧客の合理性」というものを否定した、言い換えれば「我々個人客がばかである」との前提にたった戦術であるともいえる。
先にも述べたように、こうしたプライシングは金融以外の世界では日常茶飯事であり、当たり前の話ではあるが違法性などは全くなく、私が批判するのは、私の主観的な好みだけの問題である。私が気がかりであるのは、(1)比較的透明性の高かった金融商品の価格の透明性が失われつつあるように感じられること、また(2)1億人の日本人が果たしてこれらの金融機関の期待するように、経済的に非合理的な行動をしてくれるのか、ということである。
そんな中、「提携銀行の顧客の利用回数に応じて銀行側から手数料を受け取るビジネスモデル(引用)」を採用する、セブン銀行はしたたかである。105円を節約したいがために銀行で数分並ぶせこい私も(笑)、三井住友銀行が同様のATM無料化に踏み切ってくれたならば、迷うことなく最寄のコンビニで預金を引き出すことになるであろう。来年3月以降のセブン銀行は大幅な収益増が期待できるということにとどまらず、近い将来にはATM無料化戦術は三菱東京UFJ銀行の店舗戦略にもなんらかの影響を及ぼすはずである。セブンイレブンは自社がなすべき領域がはっきりと見通せている企業である。コリンズが下記の著作で使用した「針鼠」という概念を、非常によくわきまえた企業であるともいえる。

それに比べて、最近の多くの金融機関は、例えば地銀がREITへの投資を増加させたりと、針鼠のスピリッツを忘れちゃーいませんか?心当たりがある方は、年末こたつの中で上記の著作を読んでいただければ得るものがあると思いますよ!!

Posted by Ken Kodama at 09:52 | Comments (0)

2006年12月16日

『自己』とはなにか?

私が大学生だった1990年ころは、「ポストモダン哲学」というキーワードが流行したり、浅田彰、中沢新一といった論客の本がベストセラーになっていたりと、思想的にも「バブル」の真っ只中といった時期でした。当時流行に弱かった私は、全く分からないままに、彼らの書いた著作を読み漁ったりしたものです。哲学の分野においては、「自己とは何か」といった根源的な問いかけが発せられますが、生意気だった学生時代から10数年経た今、この問いを職業上の課題として真摯に向き合わねばならない自体に遭遇しようとは、夢にも考えておりませんでした。
そうした自己の概念、及びその自己を「拡張」するための古今東西の「セラピー」を、分かりやすくまとめたのが、ケン・ウィルバーの『無境界』という下記の著作です。

彼のこの著作の25ページにあるチャートをい、私流に数式で表現してみると、以下のように表されます。

ペルソナ + 影 = 自我
自我 + 身体 = 全有機体(ケンタウロス)
有機体 + 環境 = 統一意識

思えば、私の現在のメインの仕事となりつつある、ヒューマン・アセスメントという仕事も、「自分が気づいていない自分」あるいは「自分であると認めたくない自分」の領域に目を見開かされるための、一種のセラピストのような仕事といえるのかもしれません。「心」と「身体」の融合についてはヒューマン・アセスメントでは限界があるものの、受講生の方々に自分の良い面も悪い面も直視して「受容」していただき、更なる成長のために的確なアドバイスができるよう、日々奮闘しているつもりです。
これがウィルバーの言う「統一意識」のレベルになると、これはもはや「企業研修」という枠組みの中において行うヒューマン・アセスメントの領域ではなくなります。しかし、現在でも、例えば環境問題を考える映像資料等を駆使した研修が一部の企業で行われていると聞いています。しかし、当たり前のことですが、それは「『私』を取り巻く『環境』」という視点での話しであり、「『私という有機体』と『環境』の間に存在する境界を取り除く」というアプローチではありません。逆に後者の視点で研修を行っている企業が現在あったとすれば、なんだか「あやしげ」という印象を受けますが(笑)。
ただ、人材開発という分野も流行に弱かったり(某社の広告で「コーチングの次はこれ!!!」というコピーには苦笑しました)、また、年々確実に進化を遂げていることから、将来的には有機体と環境との間に存在する境界の除去をテーマとした企業研修が導入されても、少しもおかしな話ではないと思います。ただし、そのような場合は当然「科学的な」裏づけが必要となることでしょう。ダニエル・ゴールマンが感情の問題を脳科学の研究成果によって裏付けるアプローチをとったように。
なぜ、こんなエントリーを暮れも押し迫った、クソ忙しい時期に書こうと思ったかというと、本日の日経新聞の1面の左下に下記の著作の広告を見たからです。

そして、本日の日経新聞の広告には『なぜ脳に「私」という感覚が生まれたか?(引用)』という実に巧妙なセールスコピーが付されています。またアマゾンの説明には下記のような、購買欲をそそる記述があります。

(引用始)
『「私」が感じるこの「感じ」、すなわちクオリアは、誰とも共有できず、どのような精巧なコンピュータでも再現できない。脳はいかにして、これほどまでに多様で複雑なクオリアを生み出すのか。なぜ意識には「私」が生じたのか?そもそも「心」は脳の活動によって説明できるのか?』
(引用終)

果たして、この著作が「スピリチュアル」の科学的な礎となるかは分かりませんが、年内にレポートを書き終えたならば(笑)、是非読んでみたい著作です。

Posted by Ken Kodama at 14:15 | Comments (0)

2006年12月11日

80年代商法にひっかかってしまった・・・

最近はCD屋に行っても、「最近の若いモンはどんな音楽聴いてるのかな~?」と冷やかし気味に試聴するだけなのですが、これは3秒と迷うことなくジャケットを見ただけで即買いしてしまいました。

80年代に「フュージョン」と呼ばれるR&Bとジャズの中間にあたる音楽にイカレていた人々にとっては、ジョージ・ベンソンもアル・ジャロウも神様のような存在。私は二人の作品はほとんど揃えてもっております。その二人が競演してしまうと言うのだから、買わないわけにはいかない!!
しかし、このアルバム、中身を見れば見るほど、明らかに「エイティーズが青春時代だったオサーン連中」をターゲットのした巧妙なマーケティングを展開しており、そんな見え見えの手口に乗ってしまった自分が不甲斐ない・・・
何が見え見えのマーケティングかと言うと、まずミュージシャン連中。もちろん、ミュージシャンとしてはみなさん今もご活躍中なのでしょうが、これだけ集結されてしまっては、買わないわけにはいかなくなってしまう。

Keyboards : Herbie Hancock, Patrice Rushen, Barry Eastmond
Bass : Marcus Miller, Abraham Laboriel, Stanley Clark
Guitar : Dean Parks
Percussion : Paulinho Da Costa
Guest Vocals : Jill Scott, Patti Austin

またカバー曲が多かったりするんですが、調べてみるとやっぱりみんな80年代。
どんな曲がカバーされているかといえば、まずアル・ジャロウのセルフカバーのモーニン。

Mornin' / Al Jarreau

モーニンのオリジナルはこちらに収録されています。

そして、マイルスのツツ(南アのツツ司教のことです。)。

Tutu / Miles Davis

あと、受け狙いという感も否めない、懐かしのポール・ヤングの名曲。

Everytime You Go Away / Paul Young

どうして紅白に五木ひろしと北島三郎が毎年毎年出るのか腑に落ちなかったのですが、なんかその心境が分かってきた感じです(笑)。

Posted by Ken Kodama at 10:18 | Comments (0)

2006年12月09日

シャインの組織文化論と日本の外資系企業の悪しきカルチャー

終身雇用が暗黙的な前提となっている日本において、「ビジョナリー・カンパニー」という理想郷を実現する現実的な手立ては、恐らく「現場の心に灯をともす」以外にないことは既に下記のエントリーで考察した。

You Put A Move On My Heart(現場の心に灯をともす)

私が比喩的に用いた「現場の心に灯をともす」にあたっては、リーダーがイケイケドンドンで引っ張るという強引な手法よりも、組織文化を変革するというソフトな手法な方が遥かに現実的なのであろう。ということで、組織文化に関して定評のあるシャイン著(キャリア論においてはかなり有名な学者です)の下記の著作をアマゾンより入手してみた。

翻訳本も出版されているようだが、下記のアマゾンのリンクを見る限り、絶版になっている可能性が高そうだ。

400ページ近くある著作の、まだ最初の40ページを読んだだけで、彼の理論をおそらくはきちんと理解していないと思うのだが、企業文化には下記のような3つの層があるという指摘は、なるほどと思った。

1.Artifacts
2.Espoused Beliefs and Values
3.Underlying Assumptions

直訳するとなんだか変な感じになってしまうのであえて訳さないが、1は要は組織内において表面的に観察できる事象のことである。2は一応、共有された信念及び価値観としておこうか。その例として戦略、目標、哲学等が記述されている。3は無意識下で働いている暗黙の前提とでもいおうか。そして、シャインは表面的に観察できる事象だけで暗黙的な前提を憶測することの危険性を唱えている。この節を読んで、私はハタと自らの抱えていた認識の誤謬に気づいてしまった。
最近私のキャリアはファイナンスからヒューマンな領域に大きく転換を経つつあるが、対人的な側面の重要性を中途半端にかじっただけで、私は外資系企業の東京の拠点を「対人的な資質に著しく欠ける人々の集まり」と考えるに至っていた。というのも、例えば下記に掲げるような観察事象を目の当たりにしてきたからである。(以下に記述する事項は、私が勤務してきた特定の企業について述べるものではない。これから私が述べる観察事象は、豊富な転職経験と独立後のお付き合いから抽象化した「一般的な外資系企業の東京の拠点」の話とお考えいただきたい。)
例えば、外資系企業の東京支店では無能である者、失敗を犯した者に対して、「恐ろしい」としか形容し得ないほどの手厳しい仕打ちが下される光景がしばしば見受けられる。電話での罵倒や、怒りをあらわにした文体のメールを「膨大なCCリスト」を通じて流布させたり、といった具合に。あるいは、私が非常に印象深く残っているのは、「上司をいびり出す」という慣習がかなり多く観察されるという点である。外部からマネジャーが採用された場合、部下達によって「無能」と判断された上司は、実際に執拗にいびられ、そして他社への転職を余儀なくされてしまうことが、多々ある。
確かにこれらの行為は著しく思いやりに欠けるが、この原因を個人に帰属させるのは酷な話である。これらの非人間的な行為は、「外資系の東京拠点」という特異な空間の企業文化の副産物と見たほうがよいのであろう。
というのも、多くの外資系企業の東京拠点の共通の「Espoused Beliefs and Values」として、厳格な職務主義に基いた人材採用・異動のポリシーが存在する。あるポストが空けば外から経験者を採用して補充する。マネジャーのポジションがあいても、古参のスタッフを昇格させることは稀であり、またディレクターのポジションも同様に古参のマネジャーの昇格により補充させることは稀である。なぜなら内部昇格は経験者の外部からの採用に比べてリスクが高いし、また外部からの採用により一定の成果をずっと出し続けてきたという成功体験があるから。この成功体験こそが、「Beliefs and Values」を「Espoused(支持される)」の域に高める要因である。
このような「Espoused Beliefs and Values」を持つ外資系企業の東京拠点における暗黙の前提事項とは、以下のようなものであることが想像される。

1.私はJob Description(職務記述書)に記載された仕事は忠実にこなします。(裏を返せば、それ以外のグレーな領域の仕事をこなす意図は毛頭ないということ。なぜなら、やったところで「昇格」のチャンスは外部からの採用者に奪われてしまうから。)

2.他の人のミスは許さない。なぜなら、それは私の仕事を増やすことにつながるから。そして、仕事が増えたところで、私が良いポストや高い給料で報われるわけではない。

3.特に上司のミスや無能さは絶対に許せない。なぜなら、彼(彼女)は私の昇格の機会を奪ったばかりでなく、私の倍近い年俸を手にしている。その上、彼(彼女)の無能さゆえに私の仕事が増やされちゃうなんて、冗談じゃない!!!

実際に私の経験上からも、仕事上では著しく対人的配慮に欠けている行動をとる方も、休憩時間などにお話をすると、豊かな趣味を持っていたり、人間的な温かみに溢れる方であったり、ということが非常に多かった。こうなってしまうのも、(1)リーダーが組織文化というソフトなものに関心を露ほども払っていないか、あるいは(2)悪しき組織文化に気づいていても、そのマネジメント・変革の方法論を知らないからであろう。
組織文化の変革については、シャインの著作のかなり後半部分に書かれているようなので、年明けにでもまた何かしらのエントリーが書ければと思う。

Posted by Ken Kodama at 14:21 | Comments (2)

2006年12月02日

私のモチベーションの源泉を探る

雲間から覗いた青い空のごとく、突然ぽっかりと空き時間ができてしまった。最近はこういう事態が生じると、「何かすべきことを忘れているのでは?」という不安な心境に陥るが、どうやらそういうことはないらしい。ということで、久々に多少手間をかけたエントリーを執筆の予定。といっても、基本的には本日のエントリーの趣旨は私の内面への旅である。というのも下記の素晴らしい本に触発されたからだ。

私は研修の案件を引き受けるにあたって、仮に馴染みの深い分野であっても、必ず関連分野の著作を新規に1冊は読もうと心がけている。約10日後に目標設定がらみの研修が予定されており、何か得るところはないかと本屋をウロウロしていたら、この本に出会ったのだ。毎度ながら、金井先生の本は素晴らしい。私もモチベーションについてはそれなりの知識は既に有しているのだが、この本の素晴らしさは、広範なモチベーション論を①緊張系②希望系③持論系の3つの類型にすっきりと整理したところにある。このフレームワークのお陰で、私の頭の中の整理が進行した感がある。また、金井先生の本の素晴らしさのもう一つは、「読ませる」あるいは「読んでて楽しい」点にある。ここで私がいう楽しさは、あたかも文学作品を読むかのごとくの味わい深さのことであり、どこぞのMBAシリーズの類のような無機質で平板な文体を使用して、「チャート式」(死語?)っぽく整理された書物をお求めならば、金井先生の本は選択されない方がいいであろう。あと以前のエントリーで私が絶賛した、デシの下記の著作に登場する内発的動機付けに関する記述も多かったため、そちらに関心がある方もご一読をお勧めする。

金井先生はこの著作の中で、読者が自分のモチベーションの源泉を探るようなエクササイズを行うことを推奨されている。ちょうどいい機会であるので、ブログ上で私のモチベーションの源泉を公開しつつ、自己認識を深めてみたい。

①意味
なんといっても私のモチベーションの最大の源泉は「意味」の存在に帰着する。恐らく6割くらいか?意味のない仕事をやるほど、私にとっての苦痛はない。では、私にとって「意味」とは何か?
一つは私ではないと代替できない、機械では代替できない、という私自身というエゴの尊厳に関わるもの。もう一つは、「誰かのためになっているか」という利他的な意味。金融機関で働いているときは、特に後者で悩んだ覚えがある。粗野で羽振りのいいトレーダーの儲け・リスクを計算する仕事に、一体なんの意味があるのだろう?そんな根源的な悩みが、私を「経済学的な市場倫理」へと導いた。

『村上ファンド』を通して証券市場のモラルを考える

上記のエントリーにおいて、私は「アービトラージャーの社会的役割」という概念を使って村上ファンドを「擁護」したが、こうした市場のモラルに関する考察は、私が金融機関に勤務していた際の内面的な慰めの探索に遡れるのかもしれない。「私は社会的意義を持つアービトラージャーの損益・リスク管理を行うことにより、『意味のある』仕事、社会のためになる仕事に携わっている。」この考えを信奉することが当時の私のモチベーション向上に寄与していたはずである。
現在の研修講師としての私は、このような一般的には理解しにくい理論体系を持ち出さなくとも、胸を張って「他者のために」仕事をしていると断言できる。各研修を通じて、受講生のコンピテンシーを高めることに貢献することは、確実に意味がある。また、これとは別に、私は秘めたる野望を胸に抱きつつ仕事をしている。それは、受講生を将来のビジョナリーカンパニーの担い手となるべく、第五水準のリーダーシップを発揮できるリーダーへと育成することだ。研修の大目的を逸脱しない範囲で、彼らの心に灯をともそうと、日夜奮闘しているのである。これほど崇高な意味を持つ職業に出会ったのは、生まれて初めての経験である。・・・あるいは、自分が職業に崇高な意味を見出さすことができるほどに成長した、というべきなのかもしれない。

②適切な額の報酬
報酬の額が低すぎるとやる気がでないというのは分かりやすい。独立直後の私の報酬は、それは惨憺たるものだった。当時からこのブログを継続的に読んでいただいている方はごくごく少ないと思うので、今「カミングアウト」をしても問題ないと思うが、「あの仕事」にかなり真面目に取り組むと、時給換算でコンビニ店員の方よりも少なくなってしまう。「従業員として企業に帰属する」というブランドを引っぺがされると、私の自尊心がズタズタに引き裂かれるのほどの報酬しか手に出来なかったのである。これでモチベーションが湧くわけがない。
しかし、「高すぎる報酬」というのは、実は他者の尊厳の軽視の上に成り立っている、という事実に気づくと、報酬が高すぎるのも、モチベーションの向上にはつながらない。外資系企業で経営トップに近いポジションで管理会計的な仕事を行っていると、そこそこの水準の給与が手にできる。しかし、それはコストリダクションという統制に加担したことによる報酬であり、コストリダクションの多くは人件費の削減によりもたらされる。ヘッドカウントの削減にまで踏み込まなくとも、売上の増減に応じてパートタイマーの労働時間を調整することは不可欠であり、私はその時間調整にかけては天性の才能を持っていた。その報酬としてかなりの固定給を手にしていたが、そのお陰で膨大な数のパートタイマーの労働時間が奪われていたのである。この辺りを意識しだすと、そのポジションに居座ることは精神的にかなりつらい。
現在は基本的には出来高払いであり、単価はマーケットの相場に照らして適正である。頑張れば頑張っただけの報酬が得られ、それは他の誰の犠牲の上に成り立っているのではない。こうした状態にいれば、私は動機付けられるのである。

③専門的な知識が必要とされる
専門的な知識を必要とする仕事に携わっていれば、スペシャリストとしての自尊心が満たされる。また同時に知的好奇心も満たされる。外資系企業に勤務している時代は、ファイナンスとアカウンティングの分野において知識を象のごとくためこむことが、私の生きがいの最大の源泉であったような気がする。今は「ヒト」の分野でその欲求は満たされている。

④達成感
これも外資系企業勤務時代には、担当した職種にもよるが、満たされぬ達成感で悩んだこともあった。経理等の事務作業というのは、悪い言い方をすれば、賽の河原で石を積むようなものである。毎月鬼がやってきてはせっかく積んだ石を崩し、その作業は果てしなく続く。また、機械化等の合理化により石積みが終焉するようなことがあれば、それは自らの雇用の不安を意味するという側面もある。
こんな中でモチベーションを高めるには、石の積み上げ方に独創性を取り入れてみたりだとか、鬼が石を崩す様に恍惚を覚えるといった具合の倒錯的な喜びを見出す、くらいに手立てはない(笑)。ま、私に事務仕事は本質的に合わなかったということである。この種の事務作業に従事されている読者の方もいるであろうから、そういう方にはその仕事にいかに意味を見出し、達成感を見出すかというチャレンジングな課題が課されていると捉えていただきたい。
今の仕事では、各研修案件が終了するごとに小さな達成感を連続的に積み上げることができる。そしてその良し悪しはアンケートや先方の担当者からのフィードバックという形で、即座に確認できる。そして良好なフィードバックの報償として、リピートの案件がいただける。こんなに達成感を日々確認できる幸せな仕事は、そうはあるまい。

⑤自由度の高さ
サラリーマンとして雇用されれば、安定を獲得する代償に自由を手放すこととなる。実質的な固定給のもとで、長時間にわたるサービス残業を強いられ、心身に変調をきたすことすら覚悟せねばならない。
独立すれば、当然安定を手放すことになるが、その代償に高い自由度を確保することができる。肉体的に限界を感じれば、それ以上案件を引き受けることをお断りすればよいまでだ。また、どうしても自分の信念と相違する仕事も、断る自由は確保している。まあ、ただ実際のところは、そこまでは「売れっ子」になっているわけではないので断る局面が多々あるわけではないので(笑)、心の底で「俺は自由だーッ!」って叫べるメリットがあるくらいにすぎないというのが、現状ですけどね。

⑥適度な人的な交流
私は、例えば「毎年の忘年会で恒例の社長の女装独演ショー」みたいな奴に10年間黙ってお付き合いするみたいなことが、死ぬほど嫌いな人間である。職業上の人間関係は近すぎず深すぎずが良いとの信条から、外資系企業に入社したのである。とはいえ、ドライすぎるのも考えものである。なにかレポート上に計算ミスを犯したときに、私の直属の上司やそのまた上司や支店長クラスを「CCリスト」に入れた上で、クレームメールを送りつけるといったカルチャーも、心の荒廃を招くばかりである。ものには限度というものがあるのだ。
現在もまだ独身であり(とかブログに書くと結婚斡旋所みたいなところからメールが途絶えなくなるので困るんだが(笑))、プライベートの友人もそれほど多いわけではないため、やっぱり仕事を通して人と触れ合えるというのは、ほっとする。講師仲間や営業担当の方や、そして何よりも受講生の方と心が通い合ったと感じるとき、自分が人間であることの喜びを感じると言っても過言ではない。

さて、以上6つが小一時間考えた上での私のモチベーションの源泉だが、多くのものは私がフリーエージェント的な雇用形態を選択したことによってエンハンスされていることが、我ながら興味深い。こうした雇用形態を選択する人々は21世紀中頃には主流を占めるのではないかという気が漠然とする。
また、金井先生は浮上したキーワードを列挙することに留まらず、それらを結びつけるようなストーリーを考えることを奨励している。が、今日はもう疲れたし、あまりコピーライト的なことは得意ではないので、今日はこれまでとしたい。

Posted by Ken Kodama at 15:03 | Comments (0)