2007年01月23日

バダラッコは日本の談合問題をどう評するだろうか?

今、半端でないくらいに忙しいのですが(笑)、今日は書かずにはいられない。

(引用始)
『しかしなんてまあ君は、そう純粋さに執着するんだ。なんだってそう手を汚すことを怖れるんだ。そんなら純粋でいるがいい。だがそれが誰の役に立つのか?それに、君はなぜわれわれのところにきたんだ?純粋さとは、行者や修道士の思想だ。(中略)なにもしない、身動きせず、からだに肘をつけ、手袋をはめている。わしは、このわしは汚れた手をしている。肘まで汚れている。わしは両手を糞や血の中につっこんだ。それでどうした、というのか?君は手を汚さずに統率できると思っているのか』

『私見では、企業では部下とともに働こうと思えば、部下を道徳的に傷つけることは不可避だと思われる。それは、ちょうど戦争が人間を肉体的に傷つけるのと同じである』

(引用終)

上記に引用した文章は、その下にリンクを貼ったバダラッコの著作からの引用である。文体からも想像いただけるように、それぞれの文章はバダラッコの手によるものではなく、前半の文章はサルトルの「汚れた手」からの引用であり、後半はバーナードの「経営者の役割」からの引用である。
もちろん、長期間に渡って私のブログを読んでいただいている方にはお分かりいただけると思うが、私は決して談合を擁護するような人間ではないし、上記の引用文で談合当事者の肩を持つつもりは、さらさらない。しかし、本日の『懲りない談合企業を懲らす捜査を』と題したごとくの「浅薄な正論」で固められた日経新聞社説を書いた編集者には、このバダラッコの著作を読んだ後に、同じ論調で社説を書けるのか、と問いたい。
談合は疑いようもなく法令違反である。では談合の当事者は全て悪人かと言えば、それはあまりにも短絡的である。バダラッコの原著のタイトルは、「When Managers Must Choose between Right and Right」であり、どちらの選択肢も「異なる価値観から見れば」正しい場合における、管理者の内面の葛藤を扱っている。
談合を正当化する価値観とはどのようなものか?例えば本日の日経新聞3ページの記事が手がかりになる。

(引用始)
『地域ごとに分立する談合組織は会社の壁を越えて人的なつながりが緊密。「上司よりも組織の幹部に忠誠を尽くす談合屋が大勢いる」(大手幹部)』
(引用終)

私自身は談合問題には極めて疎いのでピンずれかもしれないが、上司よりも談合組織の幹部に忠誠を尽くす人々の内面を推し量れば、例えば「地域経済の維持・発展」等という崇高な価値観が窺えるのかもしれない。「法令違反には決然たる対応を!」と声高に主張するのは容易いが、恐らくは問題の根本的な解決にはつながらない。それはアンタッチャブル(お笑いコンビじゃないよ!)に描かれた世界であり、正義感を燃やすことはカッコよいと同時に、どこか滑稽でもある、もう一段階高い視点から展望すれば。
私がなぜこのバダラッコの著作を手にとっていたかといえば、それは最近の私の関心事である「発達」の手掛かりになると考えたからである。ウィルバー、キーガン、トーバート、クック・グロイター。これらの成人の心理的な発達のフレームを提唱する学者達の著作を読んで分かるのは、「どのような発達段階が存在するのか」ということであり、「ではどうすればより高い段階に発達を遂げられるのか?」という点に関するヒントは極めて少ない。そして私の後者の疑問に答えるように思えたのが、このバダラッコの著作なのである。
「俺は修羅場をくぐって成長した」と昔を振り返るビジネスマンは多くいる。しかし、他人の前で披瀝できるような修羅場ならば、それは本当の意味では修羅場とは呼べないのかもしれない。
「経済的合理性」「人間関係」「経営理念」「環境問題」・・・いずれか一つの価値観に「洗脳」されれば、決断力は飛躍的に上昇し、あなたは「生産的な」マネージャーと高い評価を受けることは間違いないであろう。特にその価値観が「経済的合理性」に立脚するのであれば。人として「成長する」あるいは「発達する」ということは恐らく、これらの様々な価値観の重みが理解できるようになるということであり、恐らくこれが先日のエントリーで記述したビル・トーバートの述べる「Individualit」段階で経験する「Decision Paralysis」なのであろう。しかし、いつまでも決断に逡巡することは、企業経営にとってマイナスであると同時に、一人の人間としての発達もストップすることを意味し、異なる価値観に対して内面でなんらかの「統合」を図る必要がある。そしてこれこそが成長であり成熟であるのだろう。
談合問題も、もう一段階高い視点に立って全体的な構造を見据えた上で、抜本的な解決策を探ることなしには、いつまでたっても「必要悪」とする当事者の内面は揺らぐことなない。談合問題の抜本的な解決のためには、当事者及び規制当局の「内面の成熟」が不可欠であろう。道は長そうである。

Posted by Ken Kodama at 09:23 | Comments (0)

2007年01月15日

中国 「安かろう悪かろう」からの脱皮の兆し

1月下旬から、また忙しくなることが予想されるため、書けるときにたくさん書いておいて、今のうちにできるだけ自分の頭の中をすっきりさせておこうと考えています。
今日引っかかったのは、本日の日経新聞の38ページの社会面の小さな記事。ミスタードーナツのなんだか美味そうな商品名「もちもちくるみ」につられて記事に目がとまった。小石のような異物が混入していたとのことであり、その原因について触れた一文が感慨深い。

(引用始)
『原料のクルミは米国で収穫、殻割りした上で中国と日本の二工場に分けて選別するが、中国では行っているエックス線検査が日本の工程にはなく、原料についていた小石が除去されなかった可能性があるという。』
(引用終)

中国ではエックス線検査を行っているが、日本では行っていない。一瞬、これは何かの間違いかと思ったが、以前なにかのテレビ番組でみた、中国の骨なし魚製造工場のことを思い出した。Wikipediaのリンクをはっておいたが、そこにも書いてあるように、骨なし魚は魚から骨をピンセットで人が抜き取り、接着剤で形を整えられ、最後にエックス線検査にかけられる。そして、Wikipediaの記事には書いていないが、このピンセットで骨を抜くラインに配される工員というのは、選りすぐりのエリートを充当している、と番組で紹介されていた記憶がある。この種の仕事に対して、高いモチベーションを持って取り組む日本人はおそらくほとんどおらず、いたとしても人件費は高くなる。中国では人材の質の高さと、エックス線検査という設備投資をプラスしながら、依然として価格競争力を維持している。
これは推測の域を出ないが、「もちもちクルミ」だけのために(どれだけの人気商品なのか全く分からないが)エックス線の設備投資を行うことは考えがたく、骨抜き魚製造のような業務を請け負う工場が自社の技術を活かして、扱う商品の幅を拡大したのではないかと思う。もしこの推測が正しいのであるとすると、中国は日本の特定の大きなメーカーの外注企業としての地位を脱皮しつつあり、自らのコアコンピタンスを確立して積極的な営業を行い、低賃金のみが競争力であった段階を抜け出して、規模の拡大によるコストメリットを享受しつつある段階に入っているということになる。また、「食の安全性」が若干ヒステリック気味に声高に叫ばれる日本において、この中国の工場は既に「安全性」という観点から、日本のマスメディアを活用して、ほとんどコストをかけずに、高いブランドイメージを構築することに成功してしまった。もう、中国製品を「安かろう悪かろう」の眼差しで眺めていたら、日本企業は完全に国際競争力を失ってしまうことであろう。
こうした工場と真っ向から勝負しようとすると、今回のように「エックス線検査工程を省略する」といった具合に、質を落さざるを得なくなり、それは長期的には得策ではない。日本企業が「品質」だけで中国企業に優位に立てる時代は、そろそろ終焉に近づいているのかもしれない。

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2007年01月14日

こちらが頬を赤らめてしまう、女医による稚拙な『スピリチュアル』批判

マスコミへの露出を自ら好んで行う女医というのは、世間的に形成されるイメージに反して、その知性は著しく低いようである。もちろん医学部に入学して医療を職業としている事実から、彼女達の「お受験突破のための学力」と、「専門領域における知識」は相当高いのであろうが、彼女達の知的関心が向かう領域は、猫の額ほどに狭い。ただし、私が上記の如くの指摘をするのは、西川史子という典型的な愚女・悪女と、下記の本の著者である香山リカというわずか二人のサンプルに基くものであり、反例となる方がいらっしゃるのであれば、お詫びしておきたい。

この本の愚かさは、一言でいえば「ミイラ取りがミイラになった」ということにつきる。彼女は昨今のスピリチュアルブームを批判しており、その批判には参考となる洞察も含まれるものの、そもそも彼女のスピリチュアルの定義は、彼女の批判の矛先となっている『オーラの泉』から受けた心象のみに基く、下記の如くの恐ろしく浅はかな理解に基いている。

(引用始)
『スピリチュアルとは何だろう。(中略)もともとスピリチュアリティという語は日本語では「心霊主義思想」などと訳される。簡単にいえば、「死後の生」や「霊魂」などこの世を超えた目に見えない世界やそこでの現象を信じること、またその世界からのメッセージを受け取れること、と考えてよいだろう。』
(引用終)

これは「スピリチュアル」の定義というよりは「オカルト」の定義に、むしろ近い。また、彼女は「霊」という漢字を、「幽霊」と同義くらいにしか理解していない。彼女はスピリチュアルを批判しようとして、江原氏の「スピリチュアル」の極めて特殊な解釈に、気づかずに自らが「はまってしまった」のである。
かくいう私もなぜスピリチュアルに「精神性」という訳語ではなく、「霊性」という訳語が当てられるのか、鈴木大拙の下記の名著を読むまでは知らなかった。

我々日本人は「精神」という言葉を「物質」との対極の概念と理解しており、そこには二元性がつきまとう。ゆえに、その二元性を超えた概念を表す言葉として「霊性」なる語が必要になるのであり、スピリチュアルの訳語としての「霊性」は「幽霊」の略としての「霊」等ではない。もちろん、言論の自由は彼女を含めた日本国民全てに等しく与えられている。しかし、「スピリチュアリティ」に関して書かれた、真摯でかつ非科学的なオカルト的要素を廃した著作(確かにその多くは英語で書かれており、翻訳は多くはないという事情もあるが)を一切読むことなく、スピリチュアリティ批判を展開しようとする、その厚顔無恥ぶりにはこちらが恥ずかしくなってしまう。
また、最終章では「スピリチュアルと宗教には水と油ほどの違いがあるのだ(引用)」としており、その理由を要約すれば、「宗教には利他的な要素があるが、スピリチュアルは自己中心的である。」という、もはや「トンデモ本」の領域の認識である。確かに、現在の日本の江原氏を信奉する人々に限れば、極めて自己中心的な未成熟な人々が多い点は的確に捉えてはいるが、だからといって、スピリチュアリティという概念を自己中心的と断ずるのは、「文化人」としての彼女のアイデンティティを鑑みれば、もはや「知的アジテーション」に値する行為とも言える。
以前、下記のエントリーを書いたように、スピリチュアリティとオカルトというのは決して同義ではない。

スピリチュアリティ≠オカルト

しかし、香山氏に同情的な立場にたてば、彼女のような「文化人」がスピリチュアルとオカルトを近い概念と認識してしまう点は、理解できなくもない。両者は決して同義ではないものの、「近い場所」で語られることも多々あるのだ。例えば、臨死体験に代表されるように、世界が突然素晴らしいことが体感できるような、神秘的な体験をされる方も多々いらっしゃるようであり、その方々の内的な体験を科学主義への還元的な立場に基いて頭ごなしに批判することは正しいアプローチではない。では、そのような「オカルト的な」体験とは何かといえば、私自身は体験したことがないので他の方々の話を総合すれば、それは二元性を超える世界を「垣間見た」に過ぎないと解するのが妥当なようである。また、ケン・ウィルバーは、「準備が整わない段階で、神秘的な体験をすることは、逆に自我中心性を固定化する方向に働く」といった趣旨のことを『万物の理論』において書いている。
江原氏は「スピリチュアル」な世界を受け容れない人々に対して、冷笑的な態度を見せるが、「スピリチュアリティを受け容れない人々」の典型的なパーソナリティはといえば、それは、企業という合理的な意志決定を迫られる世界で勤勉に働いてきたサラリーマン、すなわち我々の尊敬すべき「お父ちゃん」たちである。日本の経済を支えてきてくれた「お父ちゃん」達に対して、「守護霊を信じない」というそれだけの理由で、冷笑的・攻撃的な立場をとること自体、彼らの神秘体験が、自我中心性を固定化する方向に働いてしまった典型例といえるのかもしれない。
最後に自己弁護的な発言をしておくと、このブログには、私を研修講師として迎え入れるか否かを吟味するために、企業の人材開発のご担当者が来訪されることも、ごくたまにあると聞いている。そのような方々に対して断っておくと、私は企業研修講師としての立場においては、スピリチュアリティという概念を前面に出すということはほとんどない。基本的には「コンピテンシー」という、企業研修においては「保守的」と考えられている切り口から助言・講義を行うのみであり、人材開発のご担当者のニーズにないこと・反したことを行うつもりは毛頭ないので、ご安心されたい。それでも「スピリチュアリティ」に関したエントリーを多く書くのは、21世紀の人材開発においては主流となるとの、将来予測に基いた準備からであり、来るべき将来のために自らの考えを整理しておきたいがためである。こうしたテーマを主軸にすえた研修を実施するとすれば、それはかなり先のことであり、また、恐らくは既存の提携先を通さずに自前で「個人」に対して細々と提供していこうかと考えている。私の「暴走」をご心配しつつブログを閲覧して下さる方がいらっしゃるのであれば、どうかご安心されて下さい(笑)。

Posted by Ken Kodama at 21:01 | Comments (0)

2007年01月10日

企業にとっての、従業員が「発達」することのメリット・デメリット

本題に入る前に余談を。私の事務所(と呼ぶほど大したものではないのですが)から税務署までは、駅で1駅、歩いて15分という微妙な距離。昨日、年末調整のための資料を税務署に取りに徒歩ででかけていったのですが、帰りに「同じ道を歩いて帰ったのではつまらない」との邪念がかすめてしまったのが、惨事のきっかけ。そのつもりもなかったのに、期せずして1時間以上のウォーキングをするはめに・・・私のような人間は、コンパスを携帯して東京を歩いた方がよいのかもしれません。

さて、本題ですが、先日の「発達」というテーマにからめて。先日のエントリーをお読みいただいた方には、こういう方もいらっしゃるかもしれません。
「仕事を通じて人として発達するかしないかは、個人の内面の問題で、好きな人が目指せばよい。自分は今のライフスタイルで十分ハッピーだし、仕事も充実していて、パフォーマンスも悪くない。発達を目指したいならご勝手に。俺には関係ない話だね。」
ごもっとも。こういう方にノルマを課された宣教師(こんな言い方はまずいですか?)の如く、私の考えを押し付けるつもりは、さらさらありません。でも一つだけ、教えておくと、高度に発達した人々はそうでない人々に比べて仕事のパフォーマンスが高い、という調査結果もあるのですよ。これからお話する事項の出典は、下記の本になります。

先日のエントリーで、成人の発達の段階を示すフレームとして色で表現される『スパイラル・ダイナミクス』をご紹介しましたが、本日ご紹介するのは『Action Inquiry(どう訳せばよいのか分からん)』という別のフレームをご紹介します。こんな感じです。

Opportunist 3%
Diplomat 10%
Expert 45%
Achiever 35%
Later action-logics 7%

この段階の内容を詳述することはあまりにヘビーなため、取り合えず、「上よりも下の方が高い発達段階にある」と押さえて下さい。例えば、「
Achiever」の段階にいる人は、「Diplomat」の段階の人よりも、「自我中心性が減少している」ということが言えます。そして、横のパーセンテージは、上記の本の著者がアメリカの497人のマネージャー(管理職者)を対象に調査した結果を表した分布状況です。
さて、上記のフレームにおいては最も高度な発達段階にある「Later action-logics」という段階ですが、ここはさらにいくつかに分かれます。ここでは簡便的に、「Later action-logics」の最初の段階が「Individualist」と呼ばれ次の段階が「Strategist」と呼ばれるとしておきます。ですから先ほどの表は、こんな風に書き換えられます。

Opportunist
Diplomat
Expert
Achiever
Individualist
Strategist

(なお、「Later action-logics」に関しては、INTEGRAL JAPAN並びにケン・ウィルバー勉強会を主催される鈴木規夫さんの手による日本語の文献をネット上から読むことができます。ご興味のある方はこちらよりINTEGRAL JAPANのサイトに飛んでいただき、「Activities」と題したところクリックしていただき、2006年の10月から12月のPDFファイルをご参照下さい。でもちょっと文体が難しいかもしれません。)

【インバスケットでの検証】
さあ、少しごちゃごちゃしてきた。話を先に進めるためには、「Aciever」よりも「Strategist」の方が2段階高い発達段階にある、ということだけを押さえて下さい。で、上記の本の著者ビル・トーバート氏が行った調査というのは、49人のMBA取得者に「インバスケット演習(2~3時間で膨大なビジネスメールを読ませ、意思決定、問題解決、管理能力などを見る演習のことです。)」を行わせたのです。ちなみに、私はヒューマン・アセスメント研修で、結構よくお付き合いさせていただく演習の1つでもあります。で、その結果は、「Strategist」の方が「Achiever」よりも、よいアウトプットを出すことが確認されたとのことです。具体的には「redefined problems in response to more of the in-basket items」との記述があることから、課題設定・抽出といった領域において、高い発達段階にある人々が高いパフォーマンスを示した、ということができるでしょう。

【その後の追跡調査】
さて、トーバート氏はこのうち17人について追跡調査を実施し、インタビューを試みたところ、以下の3つの領域において、顕著な違いが認められたということです。

・リーダーシップ
・上司との関係
・行動のイニシアティブ

この違いも全て書くと長くなってしまうので簡単にとどめると、「意見の対立が生じたときに、Achieverは自らの意見を押し付けようとしがちだが、Strategistは意見の相違を乗り越える新たなフレームを作り出す」といったような形で、発達段階の高い人々の方が「共創」を意識したリーダーシップを発揮している、と言ってよいのかもしれません。

【企業にとっての「発達」のリスク】
上記の調査結果を、「母数が少ない」との印象を持たれる方もいるかもしれません。では、仮に調査対象を拡大し十分な結論が得られれば、従業員の発達を高度な段階に移行すべく、人材開発を行うことが有用なのでしょうか?必ずしもそうとは言い切れません。というのも先ほどの調査が「Strategist」と「Achiever」であり、その中間に位置する「Individualist」の段階が抜けていることに留意して下さい。
「Individualist」の段階は、実はトーバート氏の著作を読んだ私のざっくりとして感覚は、「非生産的」な段階といったところです。なぜ、「非生産的」になってしまうかといえば、「decision paralysis」という用語が鋭く指摘するように、決断力が鈍ってしまうからです。なぜ、決断力が鈍ってしまうかといえば、多様な物の見方が見えすぎてしまうがために、一つに方向性を絞れなくなってしまうからです。
では、そんな非生産的な「Individualist」段階をすっ飛ばして、「Achiever」から「Strategist」に一足飛びに発達を促すことはできないのかと言えば、それは不可能です。ウィルバーが「完了」という言葉で示しているように、より高次の段階に進むためには、その前段階をクリアしていなければならず、前段階を「含んで超える」アプローチをとらないことには、発達することは適わないからです。したがって、仮にこの種の発達理論に準拠した人材開発を考えている企業があるとするならば、その企業は「発達したがゆえに非生産的になってしまった人々」に対するサポートを手厚くする必要があるでしょう。

【どうすれば「発達」を促すことができるのか】
上記のリスクも承知で、この種の試みを導入したい企業があったとします。では、どうすれば従業員の「発達」を促すことができるのでしょう?「Aciever」段階の従業員を集めて、「Individualistに発達するために」と題した1泊2日の集合研修を行えばよいのでしょうか?ナンセンスです。
ウィルバーは『万物の理論』において、個人的変容を促進する要素として、「完了、不調和、洞察、開始」の4つを挙げています。「完了」については、前節で書いたとおりです。ここでは「不調和」だけを取り上げておきましょう。ウィルバーは変容が起こりうるためには、「どんな出来事であれ、現在のレベルへのある種の深い不満足がなければならない。(引用)」としているように、「今の自分で十分にハッピー」という方には、「発達する」ということは、無関係であると言っても過言ではありません。また、ウィルバーは「深く混乱した不調和感がしつこく浮かんでくるためには、動揺し、悩み、不満を感じる必要がある(引用)」とまで言っています。企業という組織体の中で、不調和感を生じせしめるには、さしずめ超多忙なプロジェクトに突き落とすといったところでしょうか(笑)。こんなことをすれば、今度はメンタルヘルス面への心配が必要になってきてしまいます。
そこで、現実的にはタフそうなエリート候補のみに対して試練を与えることになるのでしょうが、それならば私がエントリーを書かなくとも、例えば下記の著作等で、実践例が示されています。

ただし、当然ながら上記の如くの著作は、発達段階理論のフレームとは無縁のところに創られたのであり、選抜エリート養成プログラムを発達段階理論のフレームからモニターするようにすれば、より実りのあるプログラムが実践できることでしょう。

【「エリートに選抜されていない私」はどうすればよいか?】
では、自分はエリートの幹部候補生には選抜されていないが、それでも上を目指したいという方はどうすればよいのでしょうか?これは一言でいえば、「気の持ちよう」といえます。仕事を自分を成長させるものと捉えるか、苦役と捉えるかは、人それぞれの「気の持ちよう」です。ではどのように気を持てばよいかといえば、それは、コービーの『7つの習慣』を読むことをお勧めします。

・・・「気の持ちよう」って結構適当な表現(笑)。今日はたくさん書いたので最後は疲れてしまいました。実は最後の部分が最も重要だと思っているので、それはまた時間のあるときにでも。

Posted by Ken Kodama at 11:40 | Comments (0)

2007年01月07日

発達とは自我中心性が次第に減少すること

『発達とは、実際のところ、自我中心性が次第に減少することと定義できる。(引用)』


「目から鱗が落ちる」というのは、あまりにも陳腐な表現で、私はこのブログで使ったことはほとんどないと信じているが、上記に引用した表現に出会って、私は他に口にすべき言葉を知らない。だから、陳腐と言われようと、なんと言われようと、胸を張って「目から鱗が落ちた」と言いたい。
上記の深遠な表現が含まれている著作は、ケン・ウィルバーの下記の著作である。

「ケン・ウィルバー勉強会」などと題された勉強会に、もう4回も参加させていただきながら、彼の著作は『無境界』の1冊を読んだだけである。『無境界』を読んだ感想は、古今東西の思想が非常に「すっきりと」まとめられている、という印象が大きかった。しかし、文体や扱っている内容が決して平易ではなかったこともあり、私の心に響くような言葉や文章は少なく、それが彼の著作をこれ以上読むことに対して、私の心的なバリアーを形成していたのであった。
一昨日、新宿の紀伊国屋に立ち寄ったときに、本当に「なんとなく」彼の著作で読みやすそうに思えたこの著作を手にとって、そしてもう本日、ざっとではあるが読み終えてしまった。ケン・ウィルバーという人は確かに偉大な思想家ということは分かっていたが、小難しいことばっかいう、みたいな印象もあったのだが、私のような凡人の心を打つ文章を書くこともできる人なのである。

【第五水準のリーダーシップと「発達」】
3ヶ月前に『ビジョナリー・カンパニー②』の中の第五水準のリーダーシップという用語に出会った私は、多少の当惑も交えつつ、こんなエントリーを書いている。

第五水準のリーダーシップ ~見分けられるのか、育てられるのか~

ここで、第五水準のリーダーシップの定義を、再び下記に引用しておきたい。

『個人としての謙虚と職業人としての意思の強さという矛盾した性格の組み合わせによって、偉大さを持続できる企業を作り上げる(引用)』

ここで、私が戸惑いを覚えたのは、「謙虚さ」という用語に対してであり、それを私なりに「組織、チームへの献身」と読み替えていたが、それは決して間違ってはいないが、冒頭のウィルバーの引用に比べれば「エレガントさ」という点では、数段劣る解釈といえよう。第五水準のリーダーシップを身に付けた人物とは、第四水準のリーダーシップを身に付けた人物に比べ、一言でいえば、「より人格的に発達している」、ということなのだ。

【自我中心性は螺旋的(スパイラル)に減少する】
さて、第五水準のリーダーシップを獲得するために必要なのが「自我中心性の減少」であるとするならば、組織の階段を駆け上ろうとする大志を抱いた若き読者の方は、「それでは、座禅でも組むか」という短絡的な結論に至るかもしれない(笑)。しかし、発達とは恐らくはそのような直線的な営みではない。それ故に、発達のプロセスは螺旋的(スパイラル)に図式的に表現される。あっちの極へ行ったかと思えば、またこちらの極へ戻り、あたかも箱根登山電車の如く、ぐるぐる回りながら頂上を目指すのである。(しかし、「頂上」が本当に実在するのかは、私には疑問だが)
また、「螺旋的に上昇する」という点に加えて、発達は「段階的に」示されることが多い。発達を「螺旋+段階」という分かりやすい図式で示したのがスパイラル・ダイナミクスであり、ウィルバーの著作の前半部で詳細に紹介されている。また、ウェブ上のサイトでは、下記のサイトが実に分かりやすく日本語でまとめてくれている。

スパイラル・ダイナミクスについて

ここで、「螺旋(スパイラル)」という点について、私の体験談をご紹介しておきたい。ヒューマン・アセスメント形式の研修において、「自己を強く主張すると、他者の意見を柔軟に取り入れられなくなってしまう。逆に、他者の意見を汲み取ろうとすると、自分の基軸が骨抜きになってしまう。そのバランスで悩んでいる。」との悩みを私にぶつけて下さった方がいた。その方の悩みを解決するには、螺旋状にぐるぐる回りながら、もう一段階高いところに立つしか解決策はなく、その道も最終的には自分で探し出すしかない。しかし、そのような悩みを抱いているということ自体、「発達」という階段を着実に上っている証拠であるといえよう。私は20分という限られた時間で、可能な限りの助言をさせていただいたが、果たして本当に「助け」になったか否かは、「神のみぞ知る」である。

【「発達」は段階的に階層を登る】
また、「段階」ということでいえば、この点が私がすっきりしていなかった点である。一見、段階的に見える事項は、単なる「価値観の相違」であり、そうであるならば、上下に並べず、並列的に認識すべき問題なのではないか?このような私の悩みに対しては、下記のウィルバーの言葉がなんらかのヒントになった気がする。ただし下記に引用する文章は「なぜさまざま世界観の統合まで試みるのか」という、異なる質問に対する答えであることはご留意されたい。

(引用始)
『しかしもし私たちが、単に多様性を祝福する段階にとどまるだけなら、本質的に断片化、疎外、分離、そして絶望を促進しているのである。

私たちがみんな異なっているということを示す多くの道を認識するだけでは十分ではない。私たちはさらに進んで、その多くの道で、私たちはまた似てもいるということを認識しはじめる必要がある。』
(引用終)

加えて、「発達の段階性」というテーマにからめて、故ナンシー関女史の鋭い洞察をご紹介しておきたい。かなりうろ覚えではあるが、彼女は「日本人の何割かは、常に潜在的に銀蝿的なものを求めている」と指摘されたことがあった。「銀蝿的」とは、恐らく皆様の忘却の彼方にある横浜銀蝿のことである。彼女の直観は、その後の氣志團のブレーク(あるいはDJ OZMAの紅白での暴走(笑))で裏付けられる格好となった。
さて、ここで彼女の残した名言、「銀蝿的」の意味する本質って何なのだろう?先にリンク先を示したスパイラル・ダイナミクスのサイトでいえば、発達段階のパープルとレッドに相当するものである、と言えよう。両者の人口比を足せば3割になる。ナンシー氏が正確に何割と書いていたかは思い出せないが、鋭い洞察である。

【なぜ私がこんなことに興味を持っているのか?(笑)】
実は私は、当初明日からアメリカに行って6日間のスパイラル・ダイナミクスの研修を受講してくるつもりであった。実は「(有)エイムハイ・コンサルティング」の決算は12月であり、年末に支払をすませて節税もしようとの思惑だったのだが、「去年支払って翌年の研修に出るって、経理上は前払費用として資産計上すべきなのではないか?」という落とし穴に気づいてしまったため(笑)、もう少し落ち着いてから受講しようと思いとどまったという経緯がある。
で、なぜ金払って渡米してまで、私の関心を惹くかといえば、一つにはキャリア理論の中で注目されている分野であるからである。
まず、我々にとって手に入りやすい、キャリア関連の良書として下記の著作がある。

そして、上記の著作が引用する、なかなか「読ませる」英語のキャリアの教科書として下記の著作がある。

そして、この本の中で発達心理学のアプローチに関して、下記の記述がある。

(引用始)
『Another developmental model, which is becoming increasingly important in organizational behavior, is that of Robert Kegan (1982, 1994). In his view, developmental occurs not so much in an age-driven manner but, rather, as a result of the person encountering new situations that contain increasingly greather complexity.』
(引用終)

金井先生の本でも紹介されている発達心理学のモデルはレビンソンのものであり、上記で「age-driven」と紹介されている通り、「20代にはかくかくしかじかの発達課題があり、30代にはまた別の発達課題がある」といった具合のまさしく「age-driven」なアプローチである。

が、Hall氏はそれとは別のロバート・キーガンの発達モデルが近年より重要になっていると指摘しており、そのロバート・キーガンのモデルを(どちらが先かはよく分からないが)分かりやすい形でまとめた一つがスパイラル・ダイナミクスの色別の段階理論なのである。そして、ケン・ウィルバー、ロバート・キーガン、(スパイラル・ダイナミクスを作った)ドン・ベックという人々は、みんな(強弱の差はあれ)繋がっている一派に属する人々である。
別に流行を追っているわけではないが、彼らのアプローチはアメリカだけでなく日本でも十分通用すると思うし、そのビジネス分野(特にキャリア・リーダーシップ)への重要性・応用性を直観的に認識したため、時間が許す限り、現在習得に努めている、といったところです。
長くなったので本日はここまで。

Posted by Ken Kodama at 14:09 | Comments (0)

2007年01月04日

カッツェンバックを読んでふと考えたモチベーションとコミットメントの違い

明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願い致します。

さて、年明け第一弾はブックレビュー的なエントリー・・・と思っていたのですが、少し私の思考は横道にそれてしまいました。読んだ本というのは、下記の著作です。

日本語版の初版は2001年9月発行とのことであり、原著の発行がその数年前とすると、いささか古めの感もしますが、それでも読んだのは、やはり『ビジョナリー・カンパニー』から生じた疑問を解消しようとの思いがあったからです。『ビジョナリー・カンパニー』では、「適切な人々をバスにのせ、不適切な人々をバスから降ろせば、もう動機付けについて心配する必要はない」的な記述があったと記憶しています。しかし、「不適切な人々をバスから降ろす」というのは、日本においては非現実的であることは、過去にも下記のエントリーで考察したとおりです。

You Put A Move On My Heart(現場の心に灯をともす)

また、適切な人々についても、ビジョンと一体化していさえすれば、動機付けに関して心配する必要がない、といった類の主張は、私には夢物語に聞こえます。やはり、組織の成員全てをビジョンに向かわしめる工夫が必要であり、その「工夫」が5つのパターンに分類されて詳述されているのが、このカッツェンバックの著作です。その5つの手法をブログ上で全て紹介すると、やはり著作権の観点からも問題でしょうし、正直そんな「おまとめ」的なことを手を煩わせて書きたくないので(笑)、章のタイトルだけ抜き書きして、皆様にはなんとなく雰囲気を味わっていただくことにいたしましょう。

MVPパス(ミッション、価値観、誇りによる手法)
P&Mパス(業務プロセスと評価尺度による手法)
ESパス(起業家精神による手法)
IAパス(個人による達成の手法)
R&Cパス(認知と称賛による手法)

これらのどれが有効であるかは、主に各組織の環境に依存するとされ、また、複数のパスを併用することが有用であると書かれています。例えば、トヨタはケースでは取り上げられなかったものの、P&MパスとMVPパスが併用されていると、巻末の注にて指摘されています。IAパスの代表例として、著者自身が30年以上在籍したというマッキンゼーが取り上げられ、さすがにこの事例は説得力があります。また、著者の父親が在籍していたというアメリカ海兵隊の事例がMVPパスの代表例として感傷交じりに取り上げられ、第9章で「規律」の重要性を改めて別の章を設けて取り上げていることも、特徴的だと思いました。
と、ここまでがこの本の大まかなストーリーであり、ケースも豊富で関心のある方にはお勧めする本ではあるのですが、読後はたと思ったのです。私は、「動機付けがいらない」という『ビジョナリー・カンパニー』の記述を夢物語と感じ、ビジョンに向かわしめる仕組みづくりの指南書として、『コミットメント経営』と題された本を、無意識的に手にとったのです。モチベーションコミットメントって、違う概念であるからこそ別の用語が付されているはずなのに、私の無意識下では両者は左程区別されていなかった、ということに改めて気づかされた次第なのです。モチベーションの方は、まあ、まだ分かりやすい気がしますが、コミットメントという概念は日本語に「バシッ」と決まる訳語が見当たらず、分かった気になっていただけなのかもしれません。ということで、ググッて見ると、素晴らしい文書にヒットしてしまいました、英語ですが。

Employee Commitment and Motivation : A Conceptual Analysis and Integrative Model

最初の方しか読んでいないので、まだなんとも言えませんが、両者の用語が使われ始めた歴史的な背景から記述があり、読み物としてもなかなか面白そうです。
あと、日本語で検索していたら、なんと私の古巣の人事部長をされていた方の著作にヒットしてしまいました。

いやー、こんな本を書かれている方とは知りませんでした。「モチベーションとコミットメント」と題された章があるようですが、その内容がどうなっているかは、中身検索ができないため分かりません。この著者の方とご一緒に仕事をさせていただいていた当時の私は、企業における「人」という問題を「ヘッドカウント」もしくは「アワー(時間)」といった観点からしか考えたことがなく、せっかくこれほどの見識をお持ちの方と仕事をご一緒させていただきながら、その見識に関心すら持っていなかった当時の自分が大いに悔やまれる次第です。タイトルを見る分にはとっつきやすそうな本なので、ご興味を抱かれた方は、是非ご一読されてみて下さい。

Posted by Ken Kodama at 11:23 | Comments (0)