本日の日経新聞朝刊によれば、2007年度採用の国家公務員1種への申し込み状況が2年連続で過去最低とのこと。この原因について、人事院は「民間企業が採用を増やしておいるため(引用)」とし、日経新聞は天下り規制との関連をにおわせる。
私が卒業したのは上智大学のしかも外国語学部。卒業後のキャリアとして国家公務員1種を選択する人は皆無に近く、従って国家官僚達の内面を「友人」の生々しい肉声として聞く機会がないわけです。で、そんな私が常に不思議に思っていたのはこんなこと。「彼等が国家公務員を志望する動機には多少の差こそあれ、若かりし日は民間企業が提供する金銭的なインセンティブに目をくれることなく、『日本をよくしたい』といった崇高な目的意識が少なからずあったはず。そんな彼等が、まあ、どうしてほとんど例外なく『あーなって』しまうのか。」
この私の中の疑問に対する説得力ある仮説のベースとなりうる文章に出会ったのが、今読んでいる下記の著作。(ちなみにたくさんの本をこのブログで紹介していますが、私は1冊の本を読み終わるまで集中するのではなく、3~4冊の本を同時並行でちょこちょこ読み進めるスタイルなのです。)
ちなみに話がそれて、この本自体については、著者は一連のフランクルの著作を翻訳している方です。「本書はいわば生きがいを求めての魂の遍歴を記した旅行記(引用)」と冒頭で説明されていますが、自らの体験的な要素は希薄であり、古今東西の哲学、宗教、心理学等の読書遍歴を明晰な文章でまとめた、といった感じの著作です。内容は深く何箇所も傍線をひきましたが、決して味わい深くはなく、また今までこの著作のタイトルのテーマに従ってなんらの読書経験を持たない方にとっては、とっつきにくいかもしれません。
で、話は戻って、私が国家官僚達の内面を垣間見た、と感じたこの著作のワンセンテンスを下に引用しておきましょう。
(引用始)
『「意味への意志」が満たされないときにはじめて、その内面的不充足を麻痺させるために人間は快楽や力を求めるのだということである。「快楽への意志」や「力への意志」は「意味への意志」の欲求不満を麻痺させ自分を酔わせるために、いわば派生的に生じるのだということである。』
(引用終)
当初より国家官僚を目指す方々には、例えば金融庁の若手官僚が金融機関のトップを集めて説教をたれるといった、「権力の大きさ」に惹かれるといった側面も、もちろん本音ベースではあるでしょう。しかし、若かりし頃は「日本をよい国にしていきたい」と多かれ少なかれ大志を抱いていたはずであり、自らのキャリアに求める「意味」の大きさたるや、一般民間企業に入社する我々とは比べ物にはなりません。
で、キャリア組官僚の意味への欲求は満たされたのかといえば、そうであるはずがないことは、日常的な新聞報道からも明らかです。一般人とは比べ物にならないほどの大きな「内面的不充足」を抱えた彼等が、天下りを通して「力」や「快楽」を追求し、その不充足を埋めようとすることは、心理学的にみてなんら不思議なことではないといえます。
恐らくは、キャリア組官僚に対しても、民間の研修機関が入り込んで、なんらかのキャリア開発研修(親父ギャグではありませんよー)を導入していると考えられ、それがどれだか彼等の内面に深く入り込めているか、関心があります。守秘義務があるので詳述はできませんが、官と民間の線引きがグレーな機関で担当させていただいた研修は、忘れられない印象深いものでした。少なくとも研修の場では、受講生の方々の「意味への意志」が再燃したように、私には感じられたからです。
「日本をよくしたい」「社会をよくしたい」といった崇高な目的意識に対して、研修講師という間接的な形で関わりながら、自らの内面の充足を満たしたいという思いを新たにした次第です。
先週の金曜日『不都合な真実』を見てきました。もちろん、ららぽーと横浜にて(笑)。午後10時開始のレートショーを見て、終わったのは11時40分頃。夜中の12時近くに映画を見終わって、歩いて自宅に帰る。あー、私はなんと恵まれた都会人なのだろう、と感傷にひたりつつ家路についたのですが、ららぽーと横浜から駅まで約10分、駅から自宅まで約20分であり、休まず徒歩30分はこの年ではキツイ!喫茶店とかも当然閉まった後なので、気温の丁度よい春か秋でないと、気軽にレートショーは楽しめないと悟りました。
で、本題の映画の感想。先週書いた『「有限」の中の「成長」という矛盾』というエントリーは、いわばこの映画を見るにあたっての前フリのようなものであったのですが、まあ、面白い映画ではありません、少しも。ゴア元副大統領も、大統領選に落ちることによって自らのなすべき道が確立した感があり、彼の環境問題に対する意気込みがひしひしと伝わってきました。また、当たり前といえば当たり前ですが、彼のプレゼンスキルはスゴイ!先日、某社の新入社員向けの研修にて、『プレゼンとは』みたいなタイトルで1時間ほど講義をする機会があったのですが、私がそこで話したスキルを全て使いこなしていた感があります。さすが「元副大統領」といった感じです。
ほめてばかりでもアレなので、気になった点をば。大昔に、こんなエントリーを書いて、ハーバードのコッター教授の著作の一節を引用したことがあります。
企業変革を起こすにあたってのプロセスが段階をおって書かれていますが、このコッターの段階に照らせば、『不都合な真実』が実現できたのは最初の段階である「危機感を醸成する」にすぎません。さんざんオランダのほとんどが沈むだなんだと危機感を煽ったあげく、最後に字幕で「一人一人高い意識をもって、エネルギーの無駄遣いをしないように」的なメッセージが流れるのは、「元副大統領」という肩書きを持つ人が作成した映画・プレゼンにしては、お粗末な気がしました。
また、私が先日のエントリーで掲げた疑問である、「成長と温暖化対策は両立するのか」といった疑問に対しては、それはよくある誤解(misconception)であるとしていましたが、この疑問に対しては気合でのりきっていた感があり、納得のいくロジカルな説明が展開されたわけではありません。
まあ、後者については、一応「映画」なわけですから、そんな細かい議論は期待しないにしても、最大の不満はなんらビジョンが提示されなかったことです。
この映画を見て、私は10年前に書かれた下記の著作を購入しました。
高名な経済学者である著者は、この本の中で下記のように言い切っています。
(引用始)
『その意味で、地球温暖化問題が20世紀型工業文明の見直しを迫るということは、この問題が経済社会の再設計を不可避とする歴史主義的な大問題であることを示唆して余りある。』
(引用終)
上記の一節に私は全く同感であり、「無駄遣いはやめましょう!」の一人一人の心がけの大切さは認めるものの、それだけでは焼け石に水であるというのも事実であり、新たな魅力的な社会像を提示しないことには、世界を動かすことは難しいと言わざるを得ません。
僭越にも私が21世紀のビジョンを提示させていただくならば、それは恐らく「経済成長から人間の内面の成長へ」といった類のものになるでしょう。昨今のスピリチュアルブームの根底にある人々の価値観とも符号しますし、企業研修の現場で感じる企業側の抱いている問題意識ともやはり符号します。「化石燃料の消費に依存した20世紀型の経済成長は、地球というシステム全体の持続可能性に反するものである。したがって、経済成長は化石燃料の消費に依存しない方向性を模索し、またゼロ成長も甘受し、代わりに20世紀に失われていた『人間の内面の深化』を目指すべきである。」こんなところが、21世紀に先進諸国が掲げるべきビジョンの骨子となるのではないでしょうか?
佐和氏はメタボリズム文明社会なる概念を掲げ、それを「適正消費、極小廃棄、リサイクル、省エネルギー、製品寿命の長期化等を、消費者や生産者に動機づけるような仕掛けを施した文明社会(引用)」と定義づけています。大筋では悪くないと思うのですが、後半の「動機づけるような仕掛けを施した」というくだりが、一般ピープルを見下した感があり、私好みではありませんが(笑)。
仮に先進諸国がこのようなビジョンを打ち立てて邁進したとしても、難しいのは、今まさしく化石燃料の大量消費という形で目覚しい経済成長を遂げているBRICS及びそれに続く国々をどう説得するかという悩ましい問題があります。「あなた達は好き勝手に贅沢・浪費を繰り返したあげくに、我々にはするなというのはいかがなものか」と中国から迫られたとき、我々に返すべき言葉はあるのでしょうか?
人類はいまだかつて抱えたことのない、全地球的規模で取り組むべき難問に直面していますが、こうした制約が課されてよりよい社会が実現できるのであれば、むしろ環境問題は好機(チャンス)と捉えるべきものであるのかもしれません。
なお、経済成長と環境保全の両立という点に関してですが、この点に関しても佐和教授は両立可能という立場をとっていらっしゃるようで、著作の後半に書かれているようですが、そこまで読書が進んでいないので、またの機会にでも。
(上場された)株式会社とは、その成長を目的とする組織である。成長こそが理論的には株価の上昇を可能にするが、最近新聞で目にすることが多くなったのは、「成長の限界」に関する報道である。最も分かりやすい「成長の限界」はグローバルウォーミングであろう。多くの産業にとって、成長のためには化石燃料の消費が不可欠である。しかし、これ以上化石燃料を消費し続けることは地球温暖化を増進させ、このままのペースでいけば小さな島国である日本が水没する日は遠くはない。また、増加しつつあるM&Aも、株主から受ける成長へのプレッシャーという側面も見逃せない。創造性の乏しい成熟産業の経営陣にとって、M&Aは成長のための起死回生のホームラン的な意味合いを持つ、もちろん実際そうなることは稀なのだが。
昨日NHKのクローズアップ現代のバイオ燃料に関する特集を途中から見て、一点よく分からないことがあった。それは、バイオ燃料と地球温暖化の関係なのだが、本日の日経新聞の13ページには私の疑問に対する一つの解が呈されていた。
(引用始)
『植物は大気中のCO2を吸収して育つ。バイオ燃料を燃やしてもCO2は出るが、生育中に吸収したCO2との差し引きで、エタノール相当分のCO2排出量はゼロと計算されるためだ。』
(引用終)
最初はなんとなく納得してしまったのだが、昨日のクローズアップ現代では、食用の大豆からバイオ燃料としてのトウモロコシへの転作が相次いでいると紹介されていた。ここからは推測だが、それならば、発展途上国などでは、森林・草原を焼き払ってトウモロコシ畑が作られるケースがあるかもしれない。その場合、永遠にCO2を吸収し続けるはずであった貴重な森が失われ、CO2を吸っては出し吸っては出し・・・のトウモロコシ畑がとってかわるわけだが、それでもこのバイオ燃料のCO2排出量はやはり「ゼロ」と計算されるのだろうか???
別に「自動車を捨てよ!文明を捨てよ!」とヒステリックに声高に叫ぶつもりは毛頭ないが、地球という有限性を意識し、そのために低成長へのソフトランディングを念頭に置いた行動をとることが我々に求められていることは、確実であろう。20世紀においては、別に難しいことを考えなくても、「市場」が自然に様々な難問を解決してくれたが、「低成長」へのソフトランディングという命題を「市場主義」に解決を委ねるというのは、はなから論理破綻を招いている感がある。
全く別の興味から読み始めているダニエル・ピンクの『フリーエージェント社会の到来』であるが、何のためらいもなく成長を放棄し、ダウンサイジングに踏み切る人々が現れているという。そう、フリーエージェント達だ。(ちなみに、この本の方が『ハイコンセプト』に比べ、ピンクの体験談が色濃く表出され、読み応えがある。『ハイコンセプト』は当ブログで若干絶賛しすぎてしまったが(笑)、知識が蓄積された今あの本を読み返すと、既によく知られていた事項を「右脳」というキーワードでつなげただけ、といった感が強い。)
(引用始)
『ベンソンは、不愉快な思いをしてまで収入を増やしたいとは思わなかった。(中略)従来の成功の指標だった「拡大」ではなく、従来は失敗の指標だった「縮小」を選択したのだ。しかしベンソンは、事業の縮小を失敗とは考えていなかった。(中略)「仕事はいいものでなくてはならない。楽しいものでなくてはならない。儲かるものでなくてはならない。楽しくなくなれば、仕事を変えたほうがいい」』
(引用終)
ここに登場するフリーエージェント達は、地球の有限性を意識して「縮小」の道を選択したのではない。その動機は、自らの内面の重視、ダニエル・ピンクの言葉に従えば、「自由」「自分らしさ」「責任」「自分なりの成功」の4つの価値観に従って行動した結果である。
「株式会社というのは最大の発明である」とも言われるが、それほどの「陽」があるものであれば必ず「陰」も随伴するのが常である。所有と経営が分離すれば、必然的に所有者たるはその金銭的価値の増大を経営陣に要求し、経営陣はその受託責任を全うせんと、「有限性」を突き抜けてまで「成長」を志向する。一方で、所有と経営が一致するフリーエージェント達は、金銭的価値の際限なき増大を、内面的な満足によってオフセットさせることができる。
昨今の株式非公開化の動きも、「株主からのノイズのシャットアウト」に本音があるようであり、そのノイズとは「絶え間ざる金銭的価値の成長の要求」に他ならない。MBOを推進する企業の経営陣の思想には、「地球という有限性への思いやり」等のものは微塵も見られないが、このような観点から非公開化ということを考えてみてもいいのかもしれない。
本日のエントリーはあまりにも大きなテーマに挑みすぎたため、普段に増して(笑)、考えがまとまっておらず失礼しました。
ようやく今週で、仕事に一段落ついた感があります。もちろん、仕事で忙しい最中にも読書をしていたのですが、最近読む本は、岩波文庫ばかり(笑)。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』とかジェイムズの『プラグマティズム』とか。まさか、このような本を仕事のために読むことになろうとは、若かりし日には少しも想像だにしませんでした。こうした本を読む直接的なきっかけになったのは、以前ご紹介したバダラッコ著の『決定的瞬間の思考法』に影響されたからなのですが、『キャリア開発・デザイン』という分野は想像していた以上に深い!!!気がつくと、このテーマでの企業研修を数多くこなしており、自分でもより深い講義が展開できるようになったと自負しています。突き詰めれば、現代人がキャリアを考えるということは、人生哲学を考えるということなんですよね。だから、「幸福とは何か」「善とは何か」といった哲学的な問題を避けて通ることができず、アリストテレスまで紐解いている状況なのです。しかし、アリストテレスの文章はとても紀元前のものとは思えず、読んでいてほとんど違和感を感じません。
あと、ジェイムズの思想には大いに納得。「ビジネスマンにとって役に立つスピリチュアリティ」というのが目下の私の最大のテーマであり、「絶対的な一」みたいな概念も役に立てば真、とする彼の考え方には大いに共感します。ユーモアのツボも私に似ている感じがします(笑)。
で、今日は岩波文庫ではなくて、ロジャーズの下記著作からいくつか印象的な文章を引用しておこうと思います。
仕事柄、部下指導の「面接演習」という場面において、様々な方々の部下指導のスタイルを肌で体感させていただく機会が多いのですが、その際に頻発するのがコーチングスタイルの話法。そうした話法を活用すること自体になんら問題はないのですが、コーチングのスピリットは何かといえば、「相手の中にこそ答えがある」という思想だったはずであり、それはロジャーズのこの著作集に源流が見出せるのです。自分の落としどころに向けて、あたかも「罠」のような質問を張り巡らせるコーチングスタイルは、ロジャーズのスピリットとは大きく異なるはず。
ロジャーズのこの著作集の最初の論文で、いくつか印象的な文章が太字で記載されていたので、以下にいくつか引用して、本日のエントリーは終わりとしたいと思います。今日は「13日の金曜日」という不吉な日なので、美しい文章で悪魔祓いができれば、と想い引用いたしました(笑)。
(引用始)
『他者との関係において、私があたかも私自身でないかのように振舞っても、それは結局援助にはなりえない。
自分が自分自身に受容的に耳を傾けることができるとき、そして、自分自身になることができるとき、私はより効果的でありうる。
私が自分自身に他者を理解することを許すことができるならば、そのことはとても大きな価値を持つ。
他の人が私に自分の感情や私的な世界観を伝えるためのチャンネルを開いておくのは、実り多いことである。
他者を受け入れることができれば、多くのものが得られる。』
(引用終)