2007年05月25日

『影』について思うこと

今日これから書こうとしていることを考えると、正直自分のブログがどこに行こうとしているのか分からない(笑)。いまだに私のサイトには「のれん代」だとか「包括利益」みたいな検索ワードでのアクセスが多くある。で、関心をもっていただいた方が簡単にトップページにアクセスできるよう、個々のページにリンクが張ってあるのだが、トップに来てみると、自我中心性がどうだとかスピリチュアリティだとか、そんなエントリーが並んでいたりする。もしかしたら、新手の新興宗教の勧誘と思われているかもしれない(笑)。恐がることはありませんよ、新しい読者の皆様。
で、本題に入り、『影』について自分の頭の中で漠然と考えることを、いくつか書き出してみると、こんな具合だ。

①大きな『影』を持つ人ほど、大きな成長へのポテンシャルを持っているのではないか?

まず、こんな考えを抱くようになった第一のきっかけは、個人的な体験である。私には実に多くの『影』がある。決して隠れて法に触れる類のことをしている、とかいうことではない。しかし、慎重に語らねば、誤解を招く危険性が大であり、その詳細をここで明らかにするつもりはない。しかし、そんな私の暗部が私の人としての成長の源になったことも否定できない。自分に対してうがった見方をすれば、自分の人生を自己正当化するために、こんなことを考えついた、という側面があるのかもしれない。
私の後にイエス・キリストを並べるというのは全く不遜なことであるというのは重々承知だが、荒野の誘惑のエピソードも興味深い。悪魔からの誘惑を敢然と断ち切るカッコよさばかりが強調される感があるが、もしイエス・キリストに『影』がなければ、悪魔からの誘惑は、そもそも「誘惑」たりえなかったはずである。究極の利他的な愛を説くイエス。しかし、イエスにとっても、「世界を征服させてやる」という悪魔の囁きは、「誘惑」として彼を惑わせたはずである。その誘惑を克服したからこそ、彼は偉大なのであろう。
転じて、ビジネスの場面から『影』について真正面に向き合った書物というのは、ほとんどない。というか、私は出会っていない。例えば、コービーの下記の著作。

私自身この本は大好きであり、研修で出会った受講生の方も、この本にインスピレーションを受け、「自分も他の人々の模範となりたい」とおっしゃる方もいる。そのような志をくじくつもりもないし、実際にくじいたこともないが、コービーを読んでいて私が感じるのは「白々しさ」である。こんな清廉潔白で完璧な人間なんているはずもない。コービーの精神がビジネスの場にもちこまれることは素晴らしいと私は思う反面、こうした思想により『影』を抑圧する方向に働きはしないかというのが懸念である。

②『影』は全ての人間に等しい大きさで存在するのではないか?

これは①と論理矛盾しているが、すぐあとに統合の落としどころがあるのでご安心を。
ビデオ等のフィードバックを主体とする企業研修の場において、時々ジョハリの窓というフレームを使用した説明を行うことがある。このフレームを使用して、「さあ、今日は自分の行動をビデオで振り返り、『自分は知らなかったけど他人は知っている自分』を発見しましょう」みたいなことを言うわけだが、この図を黒板に描いておきながら、いつも我ながら首をかしげるのは『未知の窓』という「自分にも他人にも分からない自己」という領域である。「この象限って何なんでしょうね?」と研修の場では軽い笑いをとるネタとして活用させていただいているが、もしかしたら、全てのポジティブな可能性と、そして『影』が含まれているのがこの領域なのではないかという気が最近している。
前述の①の考え方に比べると影の大きさが全て等しいというのは、救いである。なぜなら、人類は等しく偉大な成長を遂げる機会を有していることになるのだから。しかし、成長の可能性と同時に破滅への可能性も包含していると考えるのが妥当であろう。「性善説」「性悪説」という二分法がなぜ流行るのか、私にはよく分からない。どちらにも転びうる全ての可能性を秘めているのが人間なのであろう。

③全ての人間の『影』の大きさは等しく、自己の『影』を多く認識する人ほど大きな成長への途上にある。

恐らくこの辺りに真理があるのではないか?苦悩こそが人間の成長の源であるというのは、多くの賢者が語ることである。そして、私が思うに、その苦悩とは『影』からもたらされ、『影』をいかに統合していくかこそが、まさしく苦悩なのであろう。


私は本を何度も読み返すタイプの人間ではないが、上記の村上春樹の著作は3回は読み返した記憶がある。当時はあまりこうした側面を理解していなかったが、これは主人公が失われた『影』を取り戻す物語であった。「夢読み」としての静寂で安定して生活を捨て、「北のたまり(だったっけ)」に決死のダイブをしてまでして、『影』と共に生きていく決意をして物語は終わる。
同様の『影』にまつわる小説、文化人類学的な研究を集積して考察しているのが下記の名著(遠藤周作氏がそう評していました)である。

こんなエントリーを書いたからといって、こうしたテーマに基づいた研修を開発できるという話ではないが、そのうち人材開発の一つのテーマとして取り上げられてもよい気がする。

Posted by Ken Kodama at 16:23 | Comments (0)

2007年05月17日

孤独なフリーエージェント達

今日は私の「雑感」的なエントリーです(笑)。
ダニエルピンクの著作にも書かれていましたが、フリーランスとして生計をたてている人達が付き合わねばならない問題として「孤独」というものがあります。サラリーに縛られていれば毎日定時に出社せねばならないというつらさがある反面、ちょっと息抜き時に何気ない会話をしたり、情報交換をしたり・・・といった触れ合いの機会がありますが、私を含めたフリーランスな人々にはそうした場は毎日はないわけです。
で、精神的な孤独については本日は置いておくとして、実際問題困るのは、「当然入ってきてしかるべき情報が入ってこない」ということが多々あるということです。例えば何かの都合で朝刊を読めなかったとしても、日本人として知っておくべき重要なニュースは会社の雑談の場で誰かが伝えてくれますが、我々はそういう「常識」的な事実から締め出しを食ってしまうことが多々あるのです。あと、例えばスイカ(食べるほうではなくJRの方です)。私は恥ずかしながら約1週間前にようやくスイカ定期券を購入したのですが、なぜそれまで購入しなかったかというと、どこでカードを買えばよいのか分からなかったから(笑)。なんか自動販売機で買えそうな雰囲気だけど、それらしきメニューは見当たらない。みどりの窓口に並んだ挙句、「ここでは買えませんよ」とか言われたら癪だし。で、先日ようやくスイカを購入したことを同業の方が集まる勉強会で自虐を交えつつ自慢していたら、やはり他にもいたのです、「スイカってどこで買えばいいの?」っておっしゃる方が(笑)。これはフリーランスの哀しき宿命なのでしょう。
入ってこなくなる情報というのは、そのような国民レベルで知っているべきことに限らず、例えば自分の趣味の情報なんかも入ってこなくなってしまうのです。私の趣味を職場の周りの人々が知っていれば、私が好きそうなことをランチタイム等にそれとなく教えてくれます。私は音楽が趣味なので、新譜情報だとかコンサート情報だとか。で、昨日たまたま知り合いと話をしていて教えてもらったのですが、こんな素晴らしいライブハウスが約2年前にオープンしていたというのです。

COTTON CLUB

コンセプト的にはかなりブルーノートと似ています。何が違うかといえば、来るアーティストがジャズ主体というよりはR&B主体なのです、しかも80年代の。例えばどんなアーティストが来るかといえば、5月にはLAKESIDE、6月にはな、な、なんとMidnight Star、7月には、これまたなんとJody Watley姐さんが!
私は80年代は「湯川れい子の全米トップ40」を聞くだけでは物足りず、土曜の夜のFENのR&Bのトップ20を毎週聞いていたような「R&Bオタク」だった訳ですよ。多分このCOTTON CLUBの理解者ということでいえば、日本で10本の指に入るといっても決して過言ではないと思うのですが、それがオープンして2年経過するまで知らなかったとは、ああ哀しきフリーランスよ!!
昨日教えていただいた方によると、出演するのは皆20年近く前に栄華を極めた方々ばかりなので、来日時には結構メンバーが欠けてしまって、すかすかの状態で公演というパターンが結構多いそうです(笑)。ちなみに私が絶対行こうと思っているのは6月のMidnight Star。実は彼等の公演は私が大学2年生だから19歳、つまり今から約20年前に公演を見に行っているからです!もうみんなどんなおじちゃん、おばちゃんになってしまっているんだろう?
あと、怖いものみたさが7月にくるJody Watley。コットン・クラブのサイトの写真は、あれ「当時」の写真ですよ、きっと。「美しさ」と「カッコよさ」が売りだったJodyも、もう年齢的にはかなりキツイはず。あと体力ももつかどうか、踊れるのか???行きたいと思う反面、幻滅の連続に終わるならば、やはり室生犀星の「ふるさとは遠きにありて思ふもの」に従って、CD収集のみに走るべきかも。悩む。

【参考】
YouTubeより探してきました。

Operator/Midnight Star

いや~、ピコピコシンセにボコーダーボイスにラインダンスみたいな全員同じ動き。これでもかというほどのダサい(現代語では「イケてない」であってますか?)アイテムの応酬。でも、これこそが私の青春だったのだ。私は全く恥ずかしくない。

Lookig for a new love/Jody Watley

いやー、こちらは今聴いても新鮮、カッコよすぎ。

Real Love/Jody Watley

先ほどのクリップは姐さんが登場しなかったので。これまたスタイル良すぎでセンス良すぎ。これが10年たつと、どう変化するのか、見物です(笑)

Posted by Ken Kodama at 10:14 | Comments (3)

2007年05月14日

意外や意外! 北尾氏と私の職業観は一致していた!

来月のことですが、30代の方をメイン対象としたキャリア研修という、今私が一番心躍るタイプのお仕事をいただいたのです。もちろん大枠でのお客様からのオーダーは外せないのですが、今回は講師は私一人のため自由度が高く、今からテキストや演習をどうしようかと、楽しい準備作業に追われています。
で、最近「働く」というテーマでいえばこの本が売れているようです。

実は先月からこの本を読もうかと書店で手にとってみたりしていたのですが、まず帯からして、私が抵抗感を示す要素が満載でした。

『古典が授けた五つの人生観』

「この方の言う古典って何なの?」と中身をぱらぱら見ると、「孔子」やら「後漢書」やら、中国古典が漢文調で引用されており、これはまー大学時代に竜馬や三国志を読んで涙した、みたいな人にはピタリと来るんでしょうが、このブログの読者の方はお分かりのように、私はバタ臭い西洋物でないと駄目な訳なのです(笑)。
で、一度は読むことを断念したわけですが、本日参加させて頂いた勉強会の終了時間が大幅に前倒しされ、本屋にいって「よし、いっちょ読んでやるか」という気になったのです。字が大きいので2~3時間で読めるかなと判断し、研修のときには「こんな持論をもっている方もいますよ」程度に話のネタになりさえすればよい、と小さな期待で購入したのです。
・・・今、3分の2近くを読み終えたところなのですが、もうまさしく私が研修のテーマとして強調したかったことがずばり書かれていたことに驚愕しました。どういう点かというと、この本の29ページに「日本に伝統的に根付いている仕事観」として以下の二つが太字で書かれていたので、引用しておきます。

(引用始)
『①仕事とは公のためにするものである。
②仕事とは天命に従って行うものである。』

(引用終)

まず、上記に引用した文章は、実は私の個人的な体験に基づく仕事観とほぼ完全に一致しています。で、その考えに至る私の「茨の道」をこのブログ上で語ってしまうと、理解のない方が読んでしまった場合、下手をすると私の研修講師としての価値が下落しかねないため、この場で語ることはやめておきます(笑)。私の研修に臨むポリシーとして、まだ青二才の私の人生論はしたくないわけです。で、こうした職業観に合致する、学問的な文献はないかと探していたところ出会ったのがマズロー、フランクルなのです。
例えば、下記の著作におけるマズローの自己実現観を引用しておきましょう。

(引用始)
『自己実現は、利己-利他の二項対立を解消するとともに、内的-外的という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。』
(引用終)

あるいは、フランクルは同様のことを以下のように表現しています。(私は先日ご紹介した山田さんの著作からこの文章に気付かされました。フランクルの同著や読んではいたのですが、その重要性には気付かなんだ・・・)

(引用始)
『ここで必要なのは人生の意味についての問いの観点の転回である。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。』
(引用終、強調は児玉)

おそらく現在のサラリーマンの方々のほとんどは「利他的」「奉仕」「公(おおやけ)」といったことはほとんど意識されていないと思います。しかし、ここにこそ本当の自己実現があり、ハッピーさがあるというのが、私の実感でもあり、マズロー、フランクル、そして北尾氏が口を揃えて言うことなのです。(ただ、北尾氏の場合、明確な記述はないものの、若干「滅私」のトーンが漂っており、また「自己実現」という言葉を「自己中心的」とほぼ同義にとらえているようです。ここがマズローやフランクルと異なるところです。)
興味深いのは、北尾氏がこの考え方を、儒教を中心とした中国・日本の古典をベースに形成し、それが西洋のマズロー、フランクルの思想と呼応しているという点です。やっぱり、究極的には東洋と西洋の違いを消滅するのではないかというのが、私の考えです。
また、二点目の「天命」という考えは、最近私が考えを巡らせる「スピリチュアリティ」に関連する事項です。(ちなみにこの話題が研修の現場では抵抗感を招くことは現実的な感覚を持つ私としては理解しており、従って冒頭に述べた来月の研修でも、また今後数年間はこの話題は企業研修の場では封印する所存です。)まず、ビジネスの場においてスピリチュアリティを語る点について、私はジェイムズの『プラグマティズム』を読み、以下のような結論に至りました。

①ビジネスに何らかの有用性をもたらすのであれば、ビジネスにスピリチュアリティを取り入れるべきである。
②蓄積されてきたビジネスの知識体系と矛盾がなければ、ビジネスにスピリチュアリティを取り入れるべきである。

だから、『オーラの泉』的な前世・守護霊・オーラの超常現象三点セットは仮に癒しをもたらしたとしても、上記②によりビジネスの現場には採用すべきではないと私は考えます。
でも、「人間存在を超えた大きな存在があると仮定すること」程度では、SWOTだの3Cだのはびくともしないでしょう(笑)。で、北尾氏は松下幸之助氏の「天は必ず何かの形で啓示を与えてくれるから、それに備えて日々努力していくことだ」という興味深い言葉を引用しています。
私が今研修講師という仕事に情熱が費やせるのは、実はこの「啓示」が大きな役割を果たしています。といっても、枕元に神々しい存在が立ち現れたとかいう派手な啓示ではなく、自分の人生を振り返ってみて、「啓示」を見出したという感覚です。私の人生が全て偶然により形作られていたのであれば、それはそれで「結構まー大変な人生だったね」で終わってしまうわけです(笑)。でもその数々の試練が、もしなにか「大いなる存在」によってもたらされたと仮定して考えるとどうなるか?・・・そうすると、もう私の天命は「研修講師を通じてサラリーマンの生きがいを取り戻す手伝いをする」ということ以外にはあり得ないのです!
妄想ですって?そう、妄想と言われれば妄想、でもその妄想で私がコスト度外視で仕事に情熱を傾けられるのであれば、それでいいじゃないですか。私もハッピーだし、恐らくお客様も満足していただけるはず。
この北尾さんという方は実は、約2年前に下記のタイトルのエントリーで取り上げていました。

『村上ファンド』を通して証券市場のモラルを考える

このときも私は彼の倫理観に親しみを抱いているようですし、証券市場を「地下水」と表現する、そのよく訳の分からないメタファー(笑)にもなんか惹かれていました。人間学、金融、英語等の本を並行して読むという読書スタイルも私と同じで親しみが湧きました。
今回この本を読んでのもう一つの収穫は、「私ももっと頑張れねば!」という元気をもらったことです。北尾さんは一日に4時間しか寝ないそうですが、その理由を下記のごとく記しています。

(引用始)
『なぜ4時間しか寝ないのかというと、そうせざるを得ないからです。迫りくるものは自分の衰えであり、死です。私にあとどのくらい時間が残されているのかはわかりませんが、いずれにしろ永遠に生きられるわけではありません。限られた時間しか私には与えられていないのです。』
(引用終)

50を超えたオッサンがこんなことを言っているのに、私が弱音を吐いてどうする!・・・といっても一日6時間の睡眠は譲れないですけどね(笑)

Posted by Ken Kodama at 21:30 | Comments (0)

2007年05月02日

排出権取引の問題点

このブログに女性の読者がどれほどいるかどうかは不明だが、多少「不適切」な表現を交えると、正直なところ日経新聞の記事を読んでも「精神的に勃たない」状況が続いていた。もちろん毎日新しいニュースが目白押しなのだが、今の私のレベルで批判できるネタは批判しつくした感がある。もっと深いレベルで考えることも多々あるとは思うが、そこまでブログ執筆に時間を費やすこともできない。「三角合併解禁」のニュースも今の私にとっては「鮎つり解禁」のニュースと同程度の重みしかなく、「あっそ」くらいの感想しか浮かばない。
しかし、そんな最近の私を奮い立たせるのが「環境問題」に関するニュースである。多くの読者の方には、「環境問題って何を今さら」といった感が生じるだろうが、私の中ではこの問題がマイブームなのだから仕方がない。なぜ環境問題に関心が芽生えてきたかというと、一つには化石燃料の消費を中核とした20世紀型経済成長に軌道修正を迫るという、問題自体の重要性がある。また、その解決のための一つの手段としての排出権取引の仕組みに対する、インテレクチャルな関心がある。遥か昔に経済学のテキストで見た「市場の外部性」という問題。排出権取引という取り組みが果たして成功するのか否か、という点からも実に興味深い話題である。
これからも時々この話題でブログを執筆するかもしれないが、事前に「予防線」をはっておくと、文体こそエラソーだが、私はこの問題に関してはド素人である。また、将来この話題がメシの種につながることは考えがたく、したがって勉強のために割ける時間は限られている。で、いいたいことは、間違ったこと、変なことをいっぱい書くかもしれないが、それはこのブログが私自身の自己研鑽を目的としているというからご勘弁を願えればと思う。変なこと言っていたらコメントでご指摘いただければ幸いです。
本日の日経新聞には排出権がらみの記事が3つもある。そのうち2つを紹介すると、まず3ページの記事は温暖化ガス排出権の「格付け」ビジネスがスタートするというものである。また、11ページには双日が排出権のネット取引を仲介するとい記事。排出『権』という以上、これはオプションの一種と考えてよいのであろう。ならば、金融オプションの取り巻きビジネスが、排出権の周辺に進出してきたとしても少しもおかしくはない。どちらのビジネスも大量のCO2の排出は想像しがたく、環境問題が新たな経済成長の場を提供して好例ともいえる。
ただ、排出権取引の報道を見るにつけ、私の心の中には子供の純真さを失っていない、ド素人ならではの疑問がいくつか湧き始める。で、佐和教授は下記の著作で排出権取引に関してどう述べているかという点について、多少表現を変えて要約させていただきたい。

(上記の著作をベースに児玉が要約)
【排出権取引のメリット】
・総排出量を所与の値にコントロールできる。(←精確なモニタリングが必要)
・全世界に共通の炭素税を課するのと同じこと。

【排出権取引の問題点】
・排出権の価格が年々値上がりするのは確実。
・発展途上国の排出量は経済発展に伴い自ずから増加するはずだから、市場に提供される排出権の量は次第に減少する可能性が高い。
・排出権が投機の対象となるもの考えもの。

佐和教授の著作の記述には見られないが、私が排出権取引のデメリットとして危惧するのは、環境問題に対する国民一人一人の意識を鈍磨させるものであるという点である。例えば本日の日経新聞3ページには以下のような記述がある。

(引用始)
『日本は京都議定書の約束期間(2008~2012年)に温暖化ガス排出量を1990年比6%削減する義務を負う。実際には逆に8%増えており、排出権購入に動く企業が今後増える見込み。』
(引用終)

実際にCO2排出量を増やしてしまった日本の企業は、クリーン開発メカニズムという仕組みを通して、我々の知らない遥か彼方の地で行われた環境関連プロジェクトでセービングしたCO2により創出された排出権を買い取ってくることにより、削減のノルマを果たすのである。
日本は6%削減の義務を果たすどころか、8%増の状態にあり、これを金で解決しているのである。実際に全世界規模で削減目標を達成できていれば大きな問題はないのかもしれない。しかし、金で解決したことは、いつか金でしっぺ返しを受けることとなる。京都議定書の約束期間の次には、また新たな削減目標が課されるのであろう。そのときには、排出権に対する需要が高まり、国外での買い取りに走った企業が同様の方法で切り抜けようとすれば、法外なコストを覚悟せねばなるまい。
排出権の価格が急騰したときにこそ、企業経営者はこの問題と真に向き合うこととなるのであろう。「今ちゃんとやっときゃいいのに」と思う反面、数年後に企業経営者を震え上がらせる仕組みを構築したということ自体は、評価すべきなのかもしれない。

Posted by Ken Kodama at 10:21 | Comments (0)