私のブログの本文の上にリンクを貼ってあるアマゾンの広告なのですが、ここはブログ本文に関係ある内容の本だとか、あるいはアマゾンお勧めの本やDVDが「おまかせ」で掲載されるはずなのですが、最近しばしばみかけて、かつ、全く掲載理由が理解できないのが、『ガラスの仮面 第九幕』のDVD。
アマゾンの一押しのアイテムとも思えないし、私のブログの記述内容とも一致している部分があるとも思えない・・・唯一接点があるとすれば、それは、私自身が『ガラスの仮面』を結構好きだったりすること(笑)。大昔読んだ記憶があるのだけど、また読みたくなってしまいましたよ~。夏の忙しいシーズンが過ぎたら、まんが喫茶に3日間こもって、『ガラスの仮面』を全巻読破するという自分へのプレゼントをあげようかな、と思っている始末・・・もし文体とかから、私の嗜好を推測するロジックをアマゾンが持っているならば、結構怖いかも・・・
新聞の1面記事をもとにエントリーを書くのは、何ヶ月ぶりのことであろうか?しかもカテゴリーは超久々の「IT」である(笑)。正直なところ、このブログのタイトルも「Book Review」とかにしないといけないかなーと思っていたのですが、タイトルの修正はなんか結構面倒くさそう。久々に「ニュースレビュー」を書くことができてほっとしました。
【社会保険庁職員の「良心」に関して】
IT的な切り口から考察する前に、やはり避けて通れないのは、彼等の「心」の問題。私も泥臭い事務的な仕事は経験しており、その経験上から考えると、今日のような騒ぎが発生することは、通常レベルの思考能力がある職員であれば、「お見通し」だったはずである。「基礎年金番号の入ってないデータをどうやって紐づけるのか?」こうした疑問は当然現場の職員に湧いていたはずであり、非公式なランチ等の場では語られていた問題であるはずだ。私も法人を持つ身である以上、社会保険事務所に出向くことはしばしばある。彼等のプロとしての知的水準の高さを考えると、こうしたバグに気がつかなかったと考えるのは不自然で、やはり「気付いていながら、しかるべきアクションがとられなかった」と考えるのが自然であろう。
また、彼等との日常的な接触から彼等の多くが国民の税金を食い物にしようと意図する「極悪人」でないことも知っている。当然、彼等の多くはこのような大問題が明るみに出て、いや明るみに出る前から、良心の呵責に苛まれ続けていたはずである。「社会保険庁職員はけしからん!」という単調な大合唱に私が加わる必要性は何もない。私の関心は、私があると信じる「良心の呵責」に対して、彼等の内面でどう折り合いをつけているかという点である。ひたすらこのような感情を抑圧し、責任は上層部あるいは「法」の不備といった「他責」で、自分は「善人」であると居直っているのか?あるいは、自分の子供からも質問を受け、自らが社会保険庁という組織の一員であることに「苦悩」しているのか?この騒動をきっかけに社会保険庁職員が「苦悩」し、ヨブのような道徳心が芽生えたとするならば、その点だけはポジティブに受け止めたい、というのが私の信条である。
【いかに効率的にデータを突合するか】
さて、今度は完全に問題解決モードに頭を切り替えたい。実はデータ突合
という問題に関しては、私は過去の経験上それなりの見識を有しているつもりだ。私のブログの記述内容が社会保険庁職員に届けて受け入れられば幸いだが、そうでなくとも、データ突合はどこの職場でもいつかは必ずぶちあたる問題である。その際に、私が過去の体験から得た以下の教訓を参考にしていただければ幸いである。
①データの内容に関しては、インタビュー内容を過信しないこと
過去SE的な仕事をしていたときの私が得た教訓だが、クライアントとのインタビューを過信しすぎてはいけない。経理システムは周辺システムとのインターフェースが一つの肝であり、周辺システムのデータの概要をベテラン職員からの口頭の説明を盲信すると、あとでしっぺ返しを食らうことになる。多くの場合、インタビューに答える職員に悪意はない。ただ、彼等は業務のプロではあっても、データを四六時中見ているわけではない。やはり、まずは自分の目で「生データ」を見ずして、データ突合プロジェクトはスタートし得ないのだ。インタビューを紙に残してそれにクライアントからのサインを得ることにより、システムベンダーとしては責任を回避できるかもしれないが、「手戻り」の発生によりお互いが嫌な思いをすることには変わりない。
まして、今回は更なる「怠慢」の根拠を見つけ出されまいと、社会保険庁職員が防衛的になってインタビューに応じることが予測される。「社会保険庁職員の供述内容を過信することなかれ。」
②ウォーターフォールは絶対だめ!
私は正直なところ、この時期でデータの突合にいくらかかるだの、何年かかるだのといった数字が一人歩きしていることが理解できない。確かにプロジェクトを開始するにあたって予算を見積もることは不可欠だが、これだけ膨大なデータ突合プロジェクトであれば、本プロジェクト開始に先立って予備調査の段階を設けることが不可欠である。
データ突合はゼロからシステムを構築するのとは訳が違う。様々な入力特性を持ったデータが既に存在するのだ。データを眺めているうちに、誤入力のパターンがいくつか発見できるはずだ。あるものはシステム的な変換をかませることで一発で解決できるであろうし、あるものはどうしてもマニュアル作業に依存せねばならない。
十分な予備調査の段階を経ずに、プロジェクトの金額規模が一人歩きしている点に私は税金を間接的に負担せねばならない一国民として、大いに危惧の念を覚える。なぜならば、こうした金額はかなり現時点でかなり多目に見積もられているはずであり、一度その金額が確定してしまうと、仮にコスト・リダクションの余地が後から発見できても、「当初の予算を消化しよう」という惰性から、税金が浪費されることが懸念されるからだ。
本プロジェクトの開始に先立って十分な予備調査の段階を設けること。また本プロジェクト開始後も当初策定した計画に過度にとらわれることなく、システム的に対応できる新たなエラーパターンが特定できたならば、都度プロジェクト計画を修正して新たなプログラムを開発するような、イタラティブなアプローチで対処することが望ましいと考える。
【道徳とリーダーシップ】
本日のエントリーは先日もご紹介した、上記のカント哲学の入門書に関して。まず、この種の本を私が読むことに関してだが、これは純粋な趣味の世界への逃避ということではなく、私が研修で担当することがある「リーダーシップ」というテーマに密接につながると考えている。そのつながりを考える上で手がかりをつかめるのでは、との期待を抱きつつ今読んでいるのが、下記の著作である。
「3年目社員が辞めていく」という現象が社会的に広まっているが、この一つの要因として、やめていく社員のコミットメントが低いということが言えるであろう。各企業はコミットメントを「マネージしよう」とやっきになっているようだが、フォロワーのコミットメントが生まれるか否かは、リーダーの資質によるところが大きいということも否めない。すなわち、リーダーの信頼性(Credibility)が重要なのである。ではフォロワーがついていきたくなるようなリーダーの資質にはどのようなものがあるのか?同著の作者が行ったサーベイによれば、以下の4つが上位を占めたとのことである。
(1)Honesty(正直)
(2)Forward-looking(先を見通せる、ビジョン)
(3)Inspiring(情熱的)
(4)Competent(有能)
「正直さ」とは道徳に関わるものであり、そうであるならば「信頼性」溢れるリーダーシップを身につけたいと考えるリーダーは、道徳にも深く考えを巡らさねばならない、ということになるであろう。私がカント倫理学に興味を持つのは、決して道楽などではないのだ。
【道徳と自律】
さて、私自身だが、今まで自分を「道徳的」な人間であるとは、露ほども考えたことはなかった。私のイメージの中では、道徳とは規範に従うことであり、この考え方はWikipediaの道徳の定義とも呼応する。様々な個人的な体験も手伝って、どちらかといえば私はこうした規範を疑念の目で眺める人間へと成長した。私は規範に盲従する子羊などではないのだから、道徳的であり得るはずがない。
しかし、カントの考える道徳によれば、どうやら私は結構道徳的資質を兼ね備えていると言えるらしい。というのも、道徳的に善いことの一つの必要条件として、「自律」を掲げているからであり、「他律」的に規範に盲従する人々は道徳的に善でないとまで言い切っている。これに類する中島氏の文章をいくつか、下記に引用しておこう。
(引用始)
『では、これに対して「精神」において道徳的な善さを体現している人とはいかなる人か。それは、世の掟をはじめからことごとく自分のうちで、つまり自律的に点検している人、世の掟に対しても批判的であるとともに自己の道徳的感受性に対しても批判的な人である。
道徳では、十戒のように善の充実した内容が先立ってはならない。内容は各人が自律的に探り出すのでなければならない。』
(引用終)
これは、Wikipediaの定義からは思いもつかないような道徳観である。しかし、一応、哲学史に偉大な足跡を残す老カントの道徳観として、リスペクトの念をもって考えるべきであろう。
【道徳とトランスパーソナル】
先日のエントリーで、カントが考える道徳的な善のもうひとつの必要条件として、「自己愛的な動機に基づいていないこと」というものを紹介した。こちらの条件から考えると、私は少しも道徳的ではないと思っていた。だって、こんなブログ書いているって、自己愛の塊である証明みたいなものじゃありませんか(笑)。
しかし、ここでもまた私は、カントの考える道徳的な善に「近い」人間であることを悟ることとなる。中島氏は自己愛が希薄な人物として、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵を挙げ、「自己愛がきわめて希薄で、真実性=誠実性の原則に従って道徳的善さをやすやすと実行してしまう人は、じつはそれほど道徳的ではないのである。(引用)」とまで言っている。???では、どうすれば道徳的であるといえるのか?その答えも中島氏の文章を引用しておこう。
(引用始)
『自己愛が濃厚な人が、大いなる努力のすえにそれを克服して道徳法則に対する尊敬の念から行為に出るとき、その行為はとりわけ道徳的価値をもつ。』
(引用終)
まあ、私は自分の自己愛を「克服」まではしていないが、少なくとも「努力」はしていることは真実である。ここでも、また私は自分が「道徳的に善」に近い気がしてきた(笑)。ま、自画自賛はこの辺にしておくが、一応自画自賛をブログ上でする言い訳をば。サラリーマンの皆様とは違い、私にはもう自分を動機付けたり、エンパワーメントしてくれたりする「上司」は存在しない。お褒めの言葉をいただくのは、仕事の質・結果に対してであり、もう誰も私をモチベートしてくれる人はいないのだ。だから、自分で自分を持ち上げて、動機付けねばならない、そういうことなのです。
話はずれたが、ムイシュキン公爵は道徳的とはいえない、という話で私が「連想」したのは、トランスパーソナル心理学のモデルである。ごくごく単純に示せば、トランスパーソナル心理学のモデルは、下記のような三段階を提示している。
(1)プレパーソナル(自我確立前)
(2)パーソナル
(3)トランスパーソナル(超個)
ムイシュキン公爵は明らかにプレパーソナルの段階にいる人物である。カント倫理学とトランスパーソナル心理学を無理矢理くっつけてみると、道徳に善たりうるにはトランスパーソナル段階に入った人間でないと難しいと言えるのかもしれない。
【道徳と「徳育」】
最後は「News Review」らしくタイムリーな話題で締めくくりたい。保守的な安倍首相が考える「徳育」の目的とするところは、なんらかの規範を早い段階で植えつけることに他ならず、これはカントの考える道徳とは遠いものである。ただ、私は教育論には疎いのだが、幼児期には規範を植えつけるということも必要なのかもしれない、とも思っている。
しかし、規範を植えつけるにしても、その背後の「なぜ」を考えさせる「徳育」でなければならない。「なぜ」、自殺はいけないのか。そして、自殺はいけないと言われているのに、東京の長として「君臨」するあの方は、自殺した人を「サムライ」と賞賛している。彼は「なぜ」賞賛するのか?小学生にはヘビーなディスカッションだが、高校生には十分扱えるテーマだと思うし、実際こうしたことに軽い疑問を抱きつつ、受験勉強の忙しさから忘却している若き人々は多いと思う。
「道徳は教えることができない」とする人々の考えは分からないでもないが、「道徳を考えるサポートをする」ことが教育において求められているのではないか?
実は冒頭で紹介した「Credibility」に日本人にとってショッキングは調査結果が掲載されており、本日書いたテーマと関連性がある。この点についてはまた別の機会にエントリーを書いてみたい。
色々と仕事が続き、昨日は研修終了後、梅雨の湿気も手伝って疲労が蓄積し、自宅最寄り駅からタクシーに乗らねばならぬほど疲れきっていた。今朝もなんとなく気だるい感じなのだが、意外なことにこういうときこそ、つまり意識が鋭敏に働いていないときにクリエイティブになれることに気付いた。本日のエントリーのタイトルも自画自賛でなんだが、気が利いているんでないの?(笑)
【悪魔の発明品 Suica】
このタイトルの流れを最も最近に私が体験したのが、先日のエントリーにも書いたSuicaである。私の自宅最寄駅はJRであり、その意味ではJRにとっては「かも」である私だが、私は一度としてJRの職員に親近感、感謝の念を抱いたことがない。新幹線に乗っていたとき風邪で悪寒に見舞われ、車掌に毛布を貸してくれと頼んだら、「あれはグリーン車のお客様専用です」とあしらわれたこともある。乗り継ぎ駅で、前を行くオバちゃんに切符を間違って持っていかれてしまい、降車駅でその旨を説明しても信用してもらえず、結局二重に料金を払わされるハメになったこともある。また、JR横浜線の最終列車の込み具合は、あれはアウシュビッツへの護送車よりもひどい状態である。ほろ酔いサラリーマンがすし詰めにされるのは、まさに地獄絵図である。もう1本列車を増やす余裕はあるはずなのに、一向に増発の気配は見られない。彼らは我々を顧客と思っていない。というか、人とすら思っていない。
とまあ、たまった恨み節を書いてしまったが、上記からも分かるように私はJRに対しては憎悪の念すら抱いているロイヤリティーの極めて低い顧客である。しかし、Suicaによって私はJRに対して無利子の資金貸付者という関係性までも結ぶハメになってしまった。最初は2千円くらいのチャージから恐々はじめていたが、今は1万円くらい、どんとチャージしてしまう。なぜかといえば「面倒くさい」から。JRへの否定的な感情は消えないまでも、やはりあのカードにより享受できる「利便性」は捨てられない。反感を抱く顧客が、気がつくと無利子で資金を提供している。しかも、JR以外の私鉄各線に乗る分の金額まで。極めて「クレバー」で「クリエイティブ」だが、「悪魔的」ともいえる発明であろう。
【ロイヤリティの高い顧客→個人株主】
企業にとってのステークホルダーといえば、顧客、株主、従業員、ベンダー、債権者、地域社会などが挙げられるであろう。そして、この垣根を取り払う、あるいは曖昧にすることで、過去に画期的な数々の発明があったのであり、これを疲労状態から高度なクリエイティブな状態にあった私が「ステークホルダー・リエンジニアリング」と名づけてみたのだ。その「ステークホルダー・リエンジニアリング」の歴史を振り返ってみることとしよう。
ファンドによる敵対的買収が隆盛を誇る現在において、安定株主工作は保身を考える企業経営陣にとっては、正に死活問題といえる。そのような中、個人株主をいかにして獲得するかが上場各社の財務担当者の一つの共通のミッションとして浮上する。
いかにきれいごとを言おうと、根っこの動機の一つとして「経営陣の保身」があることは否定はできない。したがって、安定株主の新たなターゲットは「甘い」株主でなければならない。そこで注目されたのが、極めてロイヤリティーの高い顧客である。彼等をレアな特典がつく「株主優待」で巧みに誘い、一定の「物言わぬ安定株主層」を形成したしまった策略は、これまた実に巧みであるといえる。その背後で失われるものとして忘れてはならないのは、当企業にとっての規律である。規律はまさしく「良薬口に苦し」なのであり、経営陣の耳には短期的にはうるさい存在だが、それでも長期的には「良薬」であるということを忘れてはならない。きつい言い方をすれば、ステークホルダー・リエンジニアリングは画期的である反面、良薬を阿片に転ずるという側面もある。失われた規律を、どう自ら律するか、という観点で議論が行われてしかるべきだが、恐らくそのような議論が行われた企業はほとんどないであろう。
【ハイブリッド金融商品】
株主も債権者も、「資金提供者」という上位のカテゴリーを持ち出せば共通的にくくれるのであり、他のステークホルダーに比べれば両者の類似性は一目瞭然である。で、両者の垣根に関しては、かなり早い段階から曖昧になってきている。優先株、劣後債、転換社債、WB・・・様々なクリエイティブな金融商品が開発されたことは、わざわざここで書くまでもない。しかし、これにより失われたのはやはり、財務上の規律であった。
あの、バブル期の日本企業によるワラント債発行ブーム。普通社債に「ワラント」という甘味剤を付与することにより、社債の利率を低利に抑えることが可能となり、日本企業の財務担当者は争ってワラント債を発行しまくった。ここで忘れられていたのは、ファイナンスの基本原理である、「株主資本コストは負債コストよりも高い」というあまりにも基本的な事実であった。バブルが過ぎ去った後に、ワラント債発行体は、そのツケの大きさに気付き愕然とするのである。
バブル期の狂騒から10年以上も経過し、再びゼロクーポンCBブームが日本に訪れる。ああ、学習しない哀しき経営者達よ。彼らは利率がゼロになる代償に気付かなかった。ゼロクーポンCBに内在されるオプションはヘッジファンドに転売され、「空売り保険」として機能し、株価の引き下げに大いに寄与したのであった。
【その他及び総括】
その他の流れでいえば、アウトソーシングというのは「従業員」と「ベンダー」の垣根を曖昧にすることに寄与したといえるのかもしれない。また、SCMの全体最適の潮流により、ベンダーと企業の間の垣根が低くなったのかもしれない。
ステークホルダー間の垣根を見直すことにより、様々なクリエイティブなビジネスモデル、商品が誕生してきたのは上記に概観してきた通りであり、まだ新たな見直しにより何らかの新しいクリエイティビティが発揮される余地があるのかもしれない。しかし、どのようなクリエイティビティであれ、共通的な代償としてなんらかんの「規律」が失われてきたこのには、留意せねばならない。『ビジョナリー・カンパニー』が説くように、長期的に渡って反映する企業の条件の一つが「規律」である。失われる規律にどう対処すべきか、という観点さえ忘れなければ、今後も斬新なステークホルダー・リエンジニアリングが展開されていくのかもしれない。
「悪」と言おうが「影」と呼ぼうが、その呼称についてはどうでもよい。最近私は人間の負の側面に大いに関心がある。私個人がどう生きていきたいかという側面からの関心に留まらず、新時代のビジネス・エシックスを考える上で重要なテーマであると直観するからこそ、私を魅惑するテーマなのである。そんな時に出会った本が、下記の著作である。
冒頭の「はじめに」の章の以下の文章を読んだとき、私は「どきり」としたと同時に、ようやく出会いたい本に出会えた、そんな印象を受けた。(なお、この本、全200ページくらいある中のまだ3分の1しか読んでいない中でのエントリーのアップなので、理解不足による誤解が含まれている可能性があることをご了承いただきたい。とかいって、これはこのエントリーに限ったことではないですが(笑))
(引用始)
『彼ら(テレビのレポーターを指します)の言動を膨大な「善良な市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして他人を裁く彼らは有罪である。』
(引用終)
基本的には、この本はカントの倫理学の解説書であり、従って本文に入ると難解なカントの引用が随所にあって、冒頭文のような読みやすさ、衝撃は少なくなる。しかし、ドストエフスキー等の文学作品の登場人物や、我々の現代の身近な事例をふんだんに取り入れ、私のような凡人にもなんとか原著を読まずしてカント倫理学の片鱗をつかむことを可能にする、良書であると思う。
【カントが考える道徳的善さ】
カント倫理学を紐解くことは、新しい時代のビジネスエシックスを考える上でも重要となると考えられる。ここで、その概要を簡単に紹介しておこう。まず、カントは「適法的行為」と殺人や盗みといった「非適法行為」を峻別するところから出発する。中島氏によれば、カントは「悪」であることが明白な「非適法行為」自体への関心は薄い。カントは、「適法的行為」の中にも「道徳的に良い行為」とそうでないものがあると分類する。カントは「適法的行為」を営む善良な市民の内面に潜む「悪」に関心があるのだ。
では、どのような「適法的行為」が「道徳的に善い」とされ、「道徳的に善くない」とされるのだろうか?上記の著作には2つの基準があるが、そのうち1つだけ紹介しておけば、その動機である。自己愛的な動機に基づいて「適法的行為」を行っても、それは「道徳的に善」ではないという。これはかなり厳しい考え方である。我々人間はほとんど、善行をつむことが不可能になってしまうからだ。
(引用始)
『いかなる政治活動も、宗教活動も、いやボランティア活動さえも、究極的には「他人の信頼」という永続的利益を求めているのであるから、厳密には道徳的には善くありえない。』
(引用始)
私はいまでもコービーの「7つの習慣」に従った生き方は素晴らしいと思っているし、実際そのような生き方が根付いている方には、そうそう多くは出会う機会がない。しかし、カントの考える倫理観に照らせば、コービーの「相互依存」の考え方などは、自己愛の臭気がぷんぷん満ちている、ということになってしまう。
しかし、だからといってコービーの原則を否定するつもりはない。恐らく、コービーの原則は、我々人間が生きていくための「現実的な最適解」と解すべきであろう。が、しかし、コービーの原則に心打たれその通りに生きようと努め、「自分は善く生きている」と実感している人間がいたとすれば、その人間は成熟の度合いが低いといえよう。コービーの原則の根底にも「自己愛」を目ざとく見出し、そしてそれはホリエモンをあのような方向に導いた「自己愛」と大きさこそ違え同性質のものである、と気付きつつ『7つの習慣』に従った生き方ができることが理想なのだと、私は考える。
【神の見えざる手】
さて、ビジネスエシックスの基本として長らく考えられてきたことは、カントの倫理観と全く異なる様相を示すものであった。「経済主体が各々利己的な活動を営めば、あとは『市場』という神の見えざる手が、よきに計らってくれる。」というアダム・スミスの倫理観に従えば、20世紀までは左程多くの問題は生じなかった。この考え方はカントの倫理観の対極にあるように見え、興味深い。カントは「自己愛」の片鱗が見えれば、それを「悪」と呼ぶ。アダム・スミスは「自己愛」を突き進めることこそがビジネス上の「善」であるという。
しかし、市場の外部にある問題は、「神の見えざる手」に委ねることはできない。そしてその代表格が、連日のように新聞報道を賑わす環境問題に他ならない。環境問題を契機として、我々は21世紀、そしてその後の地球を永続させるような、新たなビジネスエシックスに、想いを巡らせる責務がある。
【『超』コンプライアンス】
新たなビジネスエシックスを考える上にあたっては、カントが行ったように適法的行為の中から道徳的に善である行為を峻別する、なんらかの基準を探し出すことが、現実的に有用であると思われる。もう、ある程度の規模を持つ企業であれば、コンプライアンスの体制は整備されつつあるように感じられる。これからは、法とは最低限の基準に過ぎないことが我々が実感できるよう、各々の企業が考えていく責務があると思う。
ヘビーな読書家としての顔を持つ私は、書店の経営については言いたいことが山ほどある。
特に大規模な書店でいつも不満に思うのは、陳列がジャンルではなく、本のサイズに依存しているということ。例えば私のお気に入りの新宿タイムズスクエアの紀伊国屋書店は、文庫&新書は確か3階にある。で、その他のビジネス書は6階にあるものだから、あるテーマで手ごろな入門書などが欲しいときは、フロアを行ったり来たりせねばならず、非常に困る。結局、そんな手間も面倒なので、大概は高めのハードカバーの入門書を買うはめになる。
まあ、新書・文庫・ハードカバーと一緒に陳列しようとすると、スペースのロスがでるから分けねばならないという事情は分かる。しかし、新書コーナーにいくと、今度は内容別の分類の前に、出版社別という分類が優先されることになっている。しかも、同一出版社内においても、内容毎に陳列棚がまとまっていることはなく、大抵は出版年月順という買い物客にとっては全く意味をなさない陳列順になっている。数年前の新書ブームにより、新書の出版社はいまや10を超える状態にある。欲しい新書というのは実に見つけにくいのだ。
しかし、ポジティブシンキングな私は、この「カスタマーアンフレンドリーな陳列」という状態を逆手にとって、新書コーナーは「本との偶然の出会いの場」と認識を新たに、大規模書店の新書コーナーを徘徊している。結構いい本に出会うことあるんですよー、これが。この手法で出会った新書が以下の2冊。
え、こんな本なんで読んでるかですって?答えは「キャリア研修に使用するため」です。もちろん、メインディッシュなどではなく、ほんの隠し味ですけどね。カレーに蜂蜜を入れたりする、そんなノリです。(笑)
そんな口うるさい私も、先日「おっ」と思ったのが新宿三越(新宿三越自体もコンセプトが変わりましたねー)内にあるジュンク堂書店。入るなり、「おっ」と思ったのですが、それを上手く頭の中で言葉にできない。
ちょっと横道にそれますが、上記の現象を自己分析しておくと、ユングのタイポロジーによれば、私は「内向-直観」型の人間なのです。で、「直観」が優勢にたつ人というのは、「感覚」が劣等機能であり、したがって見聞きしたものがスコーンと入ってこないのです。音楽マニアでありながら音質に対する興味は皆無であったり、味覚オンチでビールの銘柄なんて絶対当てられないし、歩道に冷蔵庫が放置されていても考え事をしていると記憶に残らないし・・・ま、ま、私の「感覚」が劣等機能であるエピソードには事欠かない訳ですが、ジュンク堂に入っても、すぐには何が違うと言えなかった。
別にたいしたことではなく、ジュンク堂の他書店との違いは、ほとんどの書棚に平積みのスペースがないのです。大抵の大規模書店はひざの高さくらいのところに平積みスペースがあり、その下に引き出し型のストックがある。で、私などが欲しがるマニアックな本は、そのストック内にあると思われることが多々あるのだが、書店で勝手に引き出しを空けて本を探している人というのを見たことはないから、常識人として生きていきたい私もそういうことまではしない。その結果、"I'm so frustrated!"
ジュンク堂は上から下まで書棚だから、言ってみればストック内も顧客にオープンに見せているも同じこと。また、引き出し型のストックがない分、店内に多くの書棚を設置できるはずであり、従って陳列できる本の数も他書店に比べれば随分多いはずだ。
紀伊国屋も三省堂も有隣堂も本当に代わり映えしないが、このジュンク堂やあとビレッジバンガードとか、ようやく書店にも新風が吹き始めてきた模様。ちなみに、私は今から丁度二年前にこんなエントリーを書いていた。
ジュンク堂の返品率というのは、他書店に比べ少ないのではないかというのが、私の推測。なぜならば①平積みが少なく、かつ②他店ならばストック内にある本がオープンに陳列されているから。
ちなみに、この2年前のエントリー、実は隠れた人気エントリーなのである。アクセス数ではそれほどではないものの、このエントリーは短い文章ながら滞留時間も長く、かつ他ページに立ち寄る率も高い。もしかして、ジュンク堂の方、私のブログから着想を得ませんでしたか?というお目出度い妄想で、本日はこれまで(笑)!