2007年09月10日

『一』の効用

ご無沙汰しております。夏の仕事の嵐のゴールが依然として見えず、疲労困憊しております(笑)。しかし、10月初に1週間近くまとまって予定が空く可能性が大なので、秘かに海外旅行を頭の中で計画して楽しんでいたのですが、今朝パスポートを確認したら、今年の7月で期限切れになっていました(笑)。
不思議なことに、忙しいほど本を読みたくなるもの。妄想の世界に逃避したいのです(笑)。で、最近、どういう分野に夢中になっているかといえば、いや~、ついに来てしまいましたよ、仏教です、仏教。しかし、経営学のリーダーシップの分野の本なんかで、記述がしどろもどろになっているところなんかで、意外に仏教の経典はびしっとした答えを出していたりするのですよね。今年の読書の秋は仏教に染まってみようかと思っています。で、手始めに読んだのがこれです。

この本は、ヒジョーにお勧めです。難しいとされる「唯識」の概念を分かりやすく説いているだけでなく、心理学(フロイト、アドラー、ユング)との習合を試みるのみならず、最終章では、ウィルバーのトランスパーソナルモデルとの関連性をも説いている、広範な視点にたって書かれた平易な文体の著作ですので、ご興味がある方は、是非是非お読み下さい。
この本で、私が感銘を受けたのは、本日のタイトルでもある「『一』の効用」という点です。どういうことかといえば、少しでも宗教的な著作をかじったことがある方は似たような話を聞いたことがあるかと思いますが、我々は、たとえばここに児玉がいて、官邸には安倍総理がいて、アメリカではライスが恐い顔でがんばっていて、道を歩けば蝉がシャーシャーとうるさく、道端には雑草が茂っている・・・みたいに個々のものをバラバラに認識しているですが、それは幻影にすぎない、と説くのが禅であり、他の神秘主義に属する宗教の奥義でもあったりします。「世界とは本当は一つなんだ、全てはつながっているんだ」と考えるのがこういう宗教の一つの結論であり、仏教の世界では、バラバラに認識する仕方を分別智、世界は一つと認識する仕方を無分別智といったりするわかです。で、この無分別智の状態を頭で理解するだけでなく、体で分かったときに、それは「悟り」と呼ばれるわけです。
自分自身昔から宗教的なものに関心がなかったわけではないので、こういう考え方は理解できるし、おそらくそれが世界の真実なのかもしれない、とも思ったりするわけですが、その一方でこうした考え方には「So What?」というスタンスだったわけです。だって、世界は一つと実感できたとして、それで世界がなんかまばゆい光で包まれたのを見れたとして、そういうものを実感できない私としては「だから何なんだ」と言いたいわけです。そういうことを実感できたとして、実感できた人は何となく真実を知れたような、幸福に包まれたような気がするかもしれないけど、それでおしまいじゃないか、と考えていたのです。
「役にたつものこそ真実である」とするジェームズの『プラグマティズム』にも、確か観念論もなんらかのなぐさみをもたらすのであればそれは真実である、みたいなことを言っていた記憶があります。私も『絶対的な一者』みたいな観念は、なぐさみにすぎないと思っていたわけです。
ところが、上記の著作によれば、この世界が一つであるという実感から生まれるのが「慈悲」であるというのです。美しい。素晴らしい。岡野さんの比喩を借りれば、私は左手が痛いときに右手でさする。しかし、右手は左手に見返りを求めない。だって、右手も左手も「一」なのだから。この認識が「世界」にまで拡大すれば、世界は今一歩前進できるであろうことは、言うまでもありません。アフリカの貧困問題を自分の腹の痛みととらえ、自分の腹痛を和らげるかのごとくにさすって、見返りを求めない。素晴らしいではありませんか。
で、政治の世界やプライベートライフでは、こうした認識を持つことが素晴らしい効用をもたらすことは理解できても、ビジネスの場ではどうなのか、という問いに対して。まず、温暖化問題が投げかけるように、我々の経済成長は地球という有限の壁にぶつかりはじめています。個々の企業も少なくとも地球レベルでの「一」を体得し、意思決定せざるを得ない状況に追い込まれているわけです。
また、同じ組織を「一」と感じられないからこそ、職場の人間関係を起因とするストレスは激増する一方であり、うつ病などが蔓延するわけです。宗教的な悟りが必要かどうかは別として、職場を「一」と感じ、慈悲に覆われるようになれば、メンタルヘルスは激減することでしょう。
一方で、外部のコンペティターに目を向ければ、このような思考は敗北を招くのみで、競争においては別種の行動原理が必要となるのは仕方のないことでしょう。でも、競争に際してだけマインドをかえなさい、というのもなんだか「きれい」な真実でなくなってしまう感じがします(笑)。
『絶対的一者』みたいな考え方も、企業内において「慈悲」という素晴らしい「(ジェームズ流にいうところの)現金価値」を生み出すのであれば、研修講師というアイデンティティーを持つ私が、自己啓発の一環として禅を深く考えることは、無意味であるとはいえないでしょう。
また、ビジョナリー・カンパニーに書かれていた、あの魅惑的な「第五水準のリーダーシップ」という概念。これに対するヒントも、岡野氏の著作には書かれていました。キーワードは「マナ識」。また、別の機会に、私がまだ関心を持ち続けていたら、書いてみたいと思います。

Posted by Ken Kodama at 12:38 | Comments (2)