2007年11月19日

二枚舌とどう付き合うか

約10日前の日経新聞のトップを飾った記事である、確か。以下はNIKKEI NETのリンク先を掲載しておきます。

(11/8)オリンパス、ベトナムにデジカメ工場・中国集中見直し

私なりの言葉で記事を要約すれば、オリンパスが中国の人件費高騰等を背景に、中国にある2箇所の工場のうち1箇所を閉鎖し、その代わりにベトナムに生産工場を新設するとのことである。ちなみに、このような海外生産拠点の移管の動きはオリンパスだけに限定されたことではなく、従ってこれから私が述べることは、オリンパスという個別企業に対する批判であるつもりは毛頭ない。この記事を読んで想起した私の想いをベースに、より普遍的な「日本企業に対する批判」あるいはもっと普遍的に「企業活動に対する批判」を展開したいというのが、私の意図である。
この記事を読んだときに、私の頭の中で「連想」したのは、例えばゴーン氏が日産の村山工場の閉鎖を決断したときの「世論」であったり・・・あるいは、敵対的買収の動きに対して「雇用の死守」というお題目を掲げて、買収防衛策を発動する多くの企業の動きであったり・・・敵対的買収者の誰一人として大幅な人員削減など、声高に叫んだことはないのに・・・
一方で、中国の人件費高騰が懸念されるから、ベトナムに生産拠点を移すというのは、中国の工場で働く従業員を「モノ」とみなしているからこそ、なし得る決断である。「モノ」は価格があがれば、代替品を探さねばならない・・・しかも、中国への生産拠点移管の動きは、2000年前後にはじまったつい最近の出来事である。もし、ある外資が日本で工場を建設して、10年もたたないうちに閉鎖したとしたら、マスコミはどのような論調で記事を書くのであろうか?あるいは、アメリカやEC諸国といった先進国で、このような短期間での生産拠点移管をなし得る程、日本企業の経営陣の腹は据わっているのか?
終身雇用は、日本的経営の一つの美徳であると考えられている。日本の美しさを守るためには、外資からの敵対的買収には何がなんでもNOという。しかし、終身雇用という美徳を、日本人以外の従業員にも享受させようと考える経営者はごくごく少ない。
日本国外にあっては、「生産拠点の移管」というサラリとした表現の経済合理主義に基づいて行動し、日本国内にあっては「従業員第一主義」を掲げて行動する日本企業。これは明らかに二枚舌である。もちろん、企業活動は、慈善事業ではなく、食うか食われるかの厳しいビジネスであり、「二枚舌はダメ」みたいな小学生に対する教訓を企業経営者に説いたところで、一笑に付されるのみである。企業経営には確かにマキャベリ的な狡猾さも必要であり、二枚舌の効用も認められるところである。
しかし、今後グローバル化の動きがますます加速化していくことを鑑みると、このような大胆かつ単純な二枚舌は命取りともなりかねない。まずは、矛盾に満ちた企業活動の諸側面の自己認識を深めることが、企業経営者にとって不可欠なのではないかと思う。そして、そのためにはマスコミの「グローバルな観点からみて客観的な記述」が不可欠となる。鈴木敏文氏によれば、客観とは「一歩ひいてみること」であり、これは実に名言であると思う。残念ながら、日経新聞には「一歩ひいて物事を見るスタンス」が希薄であるように思える。
マスコミと協同歩調で真にグローバルな観点から自己認識を深められれば、日本企業の未来は明るいと思う。

Posted by Ken Kodama at 11:59 | Comments (2)

2007年11月08日

フェルメールと労働

今日は芸術の秋でした。
つい今さっきまでは12CHで『椿山課長の七日間』という映画で涙し(笑)、そして昼間は国立新美術館で話題のフェルメールの「牛乳を注ぐ女」が展示されている「オランダ風俗画展」を見てきました。人混みを避けて美術館や映画館に行けるのが、フリーランスならではの醍醐味です。
フェルメールは仕事と無関係に芸術に浸りたい、とそういう純粋な気持ちで見に行ったのですが、結局私の仕事上のテーマを考えるきっかけを与えられたしまったのです。というのも、「牛乳を注ぐ」という行為は一つの労働であり、「オランダ風俗画」というより広い枠組みで見れば、様々な労働が絵画のテーマになっていたからです。
絵画のテーマとなっていたのは、ほとんどが女性の家事労働に関わるものばかりでした。なぜ、男性の仕事が描かれないのか、というのも興味深い点ではありますが、他のオランダ風俗画家と比べて、なぜフェルメールがこれほどまでに有名なのか、その原因が分かった気がしました。というのも、他の画家が女性が家事労働する中に描き出そうと努めるのは、その女性の胸中にある感情です。時に退屈そうだったり、夢中になっていたり、談笑を楽しんでいたり、と様々な表情から、当時の女性が仕事の際に抱く感情が偲ばれます。しかし、「牛乳を注ぐ女」では、女性が顔を下に傾け気味であることも影響して、私には彼女の感情が前面には伝わってこないのです。それよりも、牛乳を注ぐという極めて日常的な行為に内在する「崇高さ」が感じられました。丁度ノロノロと読んでいたスピノザの一節「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。」が想起されました。私にこうした印象を抱かせるのは、他ならないフェルメールの巧みな光の表現技術です。絵画の技巧に関しては全くの素人ですが、あの絵は何故かきらきらと輝いているのです。同じ「女性の労働」というテーマで描きながら、他の画家は比較的写実的なレベルで留まっているが、フェルメールは手の届かない高みにまで引き上げる。これは画家の技術と精神がなせる技なのでしょうが、翻って我々が仕事に対峙する姿勢を考えれば、我々は自身の仕事を「ただ金のために」と捉えることもできれば、「同僚と楽しむために」と捉えることもできるし、「天命を実現させるために」と捉えることもできる。
あと、考えさせられたのは、現代の我々の労働は果たして「絵になる」のであろうか、ということ。写真や映像技術が発達した現代において、「写実的」な要素は絵画には期待されていない。であるから、我々の仕事がもし絵画に取り上げられるとするならば、我々の仕事自体に、芸術として着目すべき何か、が存在せねばならない。再び労働が芸術に取り上げられるためには、芸術家も我々の労働に着目していただかなければならないし、我々としても何らかの崇高なテーマをもって労働に対峙しなければならない。

Posted by Ken Kodama at 23:03 | Comments (0)

2007年11月07日

スピンオフ VS 子会社上場

「シンクロニシティ」だとか「スピリチュアル」だとか、そういうことばっか書いててもどうかなーと思い、『十牛図』の「牛を連れて村に帰ってくる」の精神で、再び我利我利亡者の集うファイナンス村を眺めたエントリーを書いてみたいと思います。とかいいつつ、「牛を連れて村に帰ってくる」段階にまで悟ったわけでは全然ないのですけど(笑)。
で、今日取り上げるのは、日経新聞社をご自身の「ワークライフバランス」を理由に退社され、フリーになってしまった牧野洋氏の下記の著作。

また、本日のエントリーではあまり触れないが、この本は恐らく、下記の本と合わせて読むと視点が偏らなくてよいと思う。

【スピンオフの効用】
なぜスピンオフの方が子会社上場に比べて望ましいのか?確か過去のエントリーでは、この点について「バシッ」と書けていなかった気がするのだが、牧野氏の著作の「富創造のAT&Tと富破壊のNTT」という物議を醸しそうなタイトルの章を読んで、私の頭の中はクリアになった。
両社とも規制緩和の波の中で、自社の意志に反して分割を余儀なくされた、という点では同じである。異なるのは企業分割の過程で、AT&Tはスピンオフを選択し、NTTは子会社上場という手段を選んだということ。で、その結果AT&Tでは富が創造され、NTTでは富が破壊された???
もう少しこの点を明瞭に記述すると、こういうことだ。もし1984年時点のAT&Tの株主がスピンオフによって分割された企業の株式を全て2005年まで持ち続けていたとしたら、株主価値は4倍強に膨れ上がっていたはずだ。対して、1987年時点のNTTの株主は、NTTが分割に際して「子会社上場」という手法を選択したため、ドコモ株もNTTデータ株も割り当てられなかったため、2005年のNTT株の価値は3分の1近くにまで下落してしまった。
ここまでが牧野氏の著作に書いてあることで、ここからは私なりの理解を書くが、要は子会社上場という手法は株主の再投資リスクを2つの過程で旧株主に負わせる手法なのだ。上場される子会社というのは、大抵の場合成長の途上にある企業であり、それが企業の外に出されれば、旧株主へのリターンは当然のことながら減少してしまう。
スピンオフによれば、旧株主は外出しする企業の株式を割り当てられるのだから、その企業の株式を売るも保有するも自由である。再投資リスクを考えたくなければ、保有し続ければよい。
ところが子会社上場の場合、2つのケースが考えられる。まず、株式売却益を記念配当という形で株主に返却した場合、単純な株主はその記念配当に大喜びし、経営陣に感謝してしまう。(残念ながらこのような株主がほとんどだが)しかし、上場された子会社並のリターンを今後も確保しようとすれば、また結構たくさんな時間を使って、掘り出しものの株式を発掘せねばならない。つまり、記念配当分の再投資リスクを株主が負うことになってしまうのだ。スピンオフの場合には手札としてあった、「成長株を売却して保持する」という選択肢は、株主には当然のことながらない。
加えて、記念配当に回る前段階で法人税と所得税課税のダブルパンチをくらうし、しかも売却益全額が記念配当に回ることはあまりない。
しかし、記念配当という選択をする経営陣というのは稀であり、多くの場合、子会社株の売却で得られたキャッシュは企業の現金預金として溜め込まれる。で、その場合は再投資リスクは経営陣が負うこととなる。この場合3つの方向性が考えられ、①得られたキャッシュで全く別の新規事業を創出する、か②本業に資源を集中投資する、か③M&Aにより成長企業を買収する、のいずれかである。まず、前者であるが、これは少しでもビジネスを学習・経験された方は理解できるように、ゼロから新規事業を立ち上げて成長軌道に乗せるのは容易ではない。新規事業の創出だけで、再投資リスクを回避するのは容易ではない。
また、次の本業への資源集中だが、一見至極真っ当で手堅く聞こえるが、この場合、売却した事業と本業とのリターンの大小が問題となる。もし、売却した事業の収益率が本業に比して圧倒的に高いのであれば、なんのための子会社上場か分からない。
また、最後のM&Aによる買収は、この牧野氏の著作のメインテーマでもある、被買収企業のプレミアムが問題となる。べらぼうなプレミアムを回収するほどのシナジーを発現する企業を発掘するのは、これまた容易ではない。
と、このように子会社上場によって、株主は結構な再投資リスクを負ってしまうわけだが、個人投資家は子会社上場に対しては寛容なのである。株式を保有する企業が巨額の「株式売却益」を計上し、おまけに記念配当までもらえたら、もうホクホク顔で、文句を言うどころか大満足である。なぜ?個人投資家に長期投資のマインドが根付いていないからである。
日本企業がなぜスピンオフを実施しないかと言うと、牧野氏の著作でも触れられているように、税制の大きな壁があるからである。株式分割によって新株を交付されても、当然のことながら投資家が課税されることはないが、スピンオフで交付された株式は課税されてしまう。この税制のロジックは本当に「不思議」としか言う他はない。
牧野氏の著作の中で、経団連の小畑氏の言葉として「日本企業にスピンオフへの需要はありません。(引用)」とある。失礼ではあるが、「詭弁」というのが第一印象であったが、上記で見た個人投資家のマインドや税制の壁を考えると、「スピンオフへの需要がない」という意見も、情けないながら一理あるといわざるを得ない。
しかし、こんな低次元で日本の株式市場が留まっていていいはずがない。「貯蓄から投資」などという大それたスローガンを掲げるならば、こうした事項を正していかねばならない。具体的には、個人投資家に対して十分な投資教育がなされるべきだし、税制も当然改正されるべきだし、経団連も「経営者は株主に受託責任を負っている」との基本に立ち返れば、制約を株主のために改善する努力をしなければならない。
我々は、本当に「不思議の国」の投資家であることを、肝に命じておかねばならない。

【2つの「不思議」】

さて、牧野氏の著作を批判的に読むならば、それは彼が「不思議」と称するのはすなわち「経済原理に反する行為」に他ならない。しかし、経済原理に反する行為を全て「不思議」と称して揶揄するのも、いかがなものかと思う。私が思うに、牧野氏の言う「不思議」は2つに大別できると思う。一つは「低レベルの不思議」。経営者が自己保身のために敵対的M&Aに反対したり、自らは外国企業を積極的に買っておきながら海外からの買収に対して異常な反対をする、等の行為は、私に言わせれば「低レベルの不思議」であり、これは戒められねばならない。
次に「高レベルの不思議」だが、例えば最初に掲げた上村教授の対談では、「企業がミッションの実現に向けて活動することこそが、企業価値である」といったようなご意見が登場する。ここで教授の言う「企業価値」はファイナンス理論の「企業価値」の定義とは反するが、上村教授の意見は傾聴に値すると思う。
この私が言うレベルの「高低」は決して「知的なレベル」の高低ではなく、言わばスピリチュアルな次元(またここに来ちゃったよw)の高低である。したがって、自己保身しか考えていない経営陣であっても、彼らのIQをもってすれば、「自らのロジックがなんかしょぼいな~」とは感づいているはずであり、従って上村教授な説くような高邁な理論に触れれば、それを「高邁」であると判断する嗅覚は鋭敏で、したがって「高邁な理論で武装する」ということをやってくれるわけである。本気で高邁な企業と、高貴な衣をまとっただけの企業を見分けることは可能か?
根気はいるが可能であると思う、というのが私の意見。しかも、公開されている情報のみで、見分けることは可能だと思う。例えば、ライブドアの「悪意」はかなり初期から私は気づいていたつもりだが、その根拠は「有価証券報告書」という誰でも見ることができる公開情報である。バフェットが年間何百冊というアニュアルレポートを読んで見極めようとしているのも、多分この辺りだと私は推測する。
で、「そんな時間はありません」というサラリーマン諸氏は、ファイナンス理論を信じて大人しくインデックスファンドを買っていなさい、というのが私の意見です。今日は随分書いたな~、知恵熱出そうw

Posted by Ken Kodama at 10:14 | Comments (0)

2007年11月06日

シンクロニシティとキャリアと自己物語

昨日までは地道にレポート作成に忙しかった感じでした。今日・明日・明後日は研修準備もしなくてよい(というかできない)、レポートもたまっていないという、まさに秋のGWといった感じなので、久々にブログを書いてみることにしました。

【『聖なる予言』には抵抗のあるあなたへ】

まずはこの本の紹介から。著者はジャウォースキーという人。名前を聞いたことがある、と思っていたらセンゲの『出現する未来』の共著者の一人でした。で、この本の序文はそのピーター・センゲが書き、監訳者はまたまた神戸大学の金井教授。ジャウォースキー本人も著名な人で、弁護士というキャリアを投げ打ってまで、アメリカのリーダーシップ教育へとキャリアをシフトした人。しかも、彼の父親は元ニクソン大統領の悪事をあばくプロジェクトのヘッドとして、これまた著名な方である。そんな人の息子が書いたいわば自叙伝で、金井教授が監訳するくらいだから、キャリアの自叙伝として読める。で、タイトルが「シンクロニシティ」であるだけに、ちょっと「不思議」な感じである。

さて、あのかつてのベストセラー「聖なる予言」と聞くと鼻で笑っていたのに、上記の紹介文を見て、この本を読みたいと思った方がいたとしたら、その方はビジネスのオーソリティのネームバリューに弱い権威主義者である。だって、テーマは同じ「シンクロニシティ」である。そんな権威主義者を私は軽蔑する。どのくらい軽蔑するかといえば、私自身に対してと同じくらいに(笑)。ま、私も黒字に金文字という派手な(というか異様な)装丁と、センゲと金井教授の名前がなかったら恐らくこの本を買うことがなかったと思う。私も弱き権威主義者なのだ。

【少々物足りない金井教授の解説】

この本を買って読んだのは、巻末の30ページ近くある金井教授の解説文を読みたかった、というのもある。しかし、解説文を読んだ印象は「肩透かし」といった感じ。今同著作が手元にないので、うろ覚えに頼るほかなく、きちんと引用できないのだが、金井教授は「この本はシンクロニシティの本として読むべきではなく、ユングの『人生の正午』を転換点としたある男のキャリアの実例として読むべきである。」という類のことを述べておられた。私なりの言葉で置き換えれば「発達心理学」の実例として読め、ということか。
もちろんこのような読み方からも得るものは大きいのだが、う~ん、「不思議」の部分に目もくれない、という読み方も本筋から外れていると思う。だって、タイトルが「シンクロニシティ」なんだもん。
最後の章で、これもうろ覚えになってしまうが、あるダイアローグのセッションに参加していたビジネスマンから、以下のような深遠な問いかけがなされた。

「この種の話題は必然的に神の問題に行き着く。しかし、私の職場で神や宗教を語ることはタブー視されている。この点についてはジャウォースキーさん、センゲさん、いかがお考えになられるか?」

で、この著作では、この質問に対しての「ストレートな」回答はなされない。それだけに金井教授の解説を期待していたのだ。金井教授もマズローの監訳を手がけるくらいだから、「この領域の問題」に関して認識は十分にあるはずなのだが、やはり「経営学部教授」としてのアイデンティティが記述を踏みとどまらせたのだとしたら、至極残念である。

【私のシンクロニシティ体験】

かなり本質から外れた余談になるが、ジャウォースキーのシンクロニシティ体験はかなりうらやましい。例えば、空港で素敵な美女と目が合って、どうしても気になってしまい、自らの乗る飛行機を一便遅らせてしまってまで、連絡先を交換したりする。で、一年後、その美女がジャウォースキー夫人となり、精神的にも深い会話をしちゃったりしているのだ。「はい、ごちそうさまでした!」といったコメントしか浮かばないが(笑)、私自身もシンクロニシティ体験がないわけではない。いや、最近かなり多いといっても過言ではない、しかし、残念ながらこのような「浮いた」分野ではないのですが・・・
私のシンクロニシティ体験は、読書体験で頻発する。例えば先日紹介したビル・ジョージの『リーダーへの旅路』を読んだ直後に、この著作を手にとれるとは、うまく行き過ぎた流れである。で、昨日ブックオフで何気なく手に取ったのが下記の著作である。

怪しげなタイトルでかなり損をしているが、「自己物語」が主テーマで、これはビル・ジョージとジャウォースキーの心理学的な理論基盤をなすのみならず、某霊媒師のアプローチにも通じるものがある。で、まだ読んでないが、これが自由意志を否定するスピノザの考え方にもつながってくるのではないか、という気がしている。
私が財務から人事系にキャリアシフトをして、今ようやく2年半経過したところである。その割には、読むべき本に怖くなるくらい上手く巡りあうことができ、短期間で一気に本質的な部分に到達した感がある。これを「私の努力」ということのみで説明しようとしたならば、私は不遜であろう。

【良い「自己物語」の作り方】
ついでに、上記の新書の内容に関してだが、今半分くらい読了したところだが、当然ながら「キャリア」という観点が主になっているわけでないし、「自己物語の作り方のハウツー本」の体裁をとっているわけでもないようだ。で、私はこの自己物語の作成が、キャリアビジョンを策定する上で大変重要だと、経験的に感じている。で、よい自己物語つくりのコツを、経験的に掴んだものを、以下に羅列しておきたい。

①30代以降においては、「過去の歩み」を振り返ってつくること

20代までのキャリアビジョン・自己物語は、(今時いないだろうが)「ホリエモンのようになって日本に新風を吹き込みたい」みたいな、他人への憧れレベルでもいいんじゃないかと思う。が、30代に入ったらただの「夢」では恐らく望ましくなく、従って「過去の歩み」を振り返って、夢と現実との折り合いをつけるべきだと思う。

②人生の全ての出来事を羅列する必要はない

当たり前だが「物語」なのだから、「壮大かつ網羅性のある自叙伝」である必要は全くない。自分が将来に向かうにあたってモチベーションを保ち続けられるだけの要素がつまっていれば、それでいいと思う。

③「どん底の体験、醜い自分」から目を離すべきではない

成功体験だけつなぎ合わせて自己物語をつくりたければそうしてもよいが、その場合、キャリアビジョンに精神的・霊的な深みは得られない。負の部分も含めて自分なのだと認識することにより、自己物語は輝きを増すことだろう。

【少し歴史問題も語らせて下さい】

歴史も「史実の羅列」とあわせて「物語」としてみることもできるだろう。だから、日本史の教科書検定で、頑なに南京大虐殺の記述が拒まれたり、沖縄の集団自決問題等の経緯も、「物語としての歴史」として考えれば、文部省のやりたいことも分からないではない。美談だけを歴史に残したいのだろう。しかし、そのような姿勢は、国家レベルの教育を考える人々としては、とてつもなく浅薄であると思う。
原爆の被害者としての体験をもって、国際社会で平和の伝道師として活躍していくことは素晴らしいことである。しかし、我々の先祖は善良な被害者であるのみならず、醜悪な加害者としての顔もあわせもち、その両者のDNAは我々の中に息づいていると考えて行動した方が、意義深い行動ができると思う。
しかもその同じ日本史の教科書の鎌倉時代の部では「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」との偉大な親鸞の言葉が記述されているはずである。美談ではないからといって教科書に墨を塗る人々は、親鸞をどうように理解しているのであろうか?
我々自身の醜悪な部分も受け止めた上での愛国主義であれば、偏執的になる恐れも少ないだろうし、それに大戦中の愛国主義よりも深く柔らかである、と思う。
日本史教科書も、清濁合わせた自己物語となっていないようであれば、その底は悲しいまでに浅い。

Posted by Ken Kodama at 10:49 | Comments (0)