まずは、近況報告から。随分とブログ更新が遅れてしまいましたが、実は10日ほど前に近視回復のレーシックのオペを受けたのです。オペ前になるべく仕事を片付けておきたかったためオペ前は忙しく、オペ後は経過は順調だったのですがなるべく目を酷使したくなかったために、パソコン自体に触れることが少ない状況でした。年末年始に研修を行うという奇特な企業は多くは存在しないため(笑)、年末年始は比較的時間的余裕がありブログの更新を精力的に行いたい、と思っております。といっても、法人税・所得税の申告及び帳簿の締めとかがあって、頭が痛いのですが(笑)。
ちなみにレーシック自体もいつかはブログの1エントリーとして書きたいと思っているのですが、私は自分がコンタクトをしないでも見えるようになった喜びとかよりも、「ビジネスとしての眼科」といった方面に大いに興味を抱きました。私が受けたところは、徹底したローコストオペレーション(流れ作業)により、なんと17万8千円という、4~5年前では考えられない低価格を実現しており、ヘンリー・フォードがベルトコンベアーシステムにより、自動車を一般大衆の手の届くものに仕立てた、というあの「工業の歴史」を連想してしまいました。あと、「暴利をむさぼっている」等の、あまりよい評判を聞かないコンタクトレンズに付随する眼科のビジネスですが、レーシックという代替品の脅威に対してはどう対抗するつもりなのか?レンズの製造業者で働く人々や眼科の検眼士等の人々は、今から5年後10年後を見据えてキャリア形成しておくべきだ、と私は感じた次第です。
で、本日のお題のスピノザである。例えばドゥルーズが書いたようなスピノザ評を書店でちらちら立ち読みするレベルだと、果たして私とドゥルーズは同じ本を読んだのであろうか、という疑問が湧くくらい、異なった視点から考察を加えている。まあ、哲学の素人が現代思想の最高峰に比肩し得るはずもないので、当然といえば当然だが、初学者がはじめてエチカを読んで、素直に感じ入るのは、恐らくその感情に対する洞察の深さであろう。
【EQコンピテンシーとスピノザ】
例えば、上記の著作はEQがらみの「コンピテンシー」を詳述したものとして有名だが、EQがらみのコンピテンシーは以下の4つの大別されるとしている。(手元に同著がないので正確な引用ではない。)
①自己感情の認識
②自己感情の統制
③他者感情の認識
④他者感情を動かす
で、スピノザを読んで改めて気づかされたのは、EQリーダーシップには個別の感情に対する記述が少ないということ。スピノザはエチカの上巻の末において、40近い個別の感情を定義している。で、私が感じたのは、研修・人材開発において、EQコンピテンシーの4つの軸と、個別の感情の軸の掛け算のマトリックスで考える必要がある、ということである。例えば、自己感情の認識に優れている、と自負している人でありながら、自分の孤独感や人生の虚しさは痛切に感じ入るものの、自分の中の怒りやねたみ等の負の感情への気づきは浅いという人は、結構多い。あるいは、他者の怒りには極めて敏感に反応して、事を荒立てないようにする人が、それ以外の失望等の他者感情には極めて無頓着だったりする。得意のユーモアで場を和ませるのに天才的な人も、チームの士気を上昇させることにおいては、全くの無能であることもある、云々。今までは4つのEQコンピテンシーの切り口しか意識しなかった私だが、今後仕事をする上において、体系的でないにせよ、この掛け算のマトリックスを意識したいと思うようになった。
【いくつかの箴言】
一度、ざっとスピノザのエチカを通読して、意味ある定理を導出するために、いくつかのそれ自体では無意味な中間的な定理を立てている、といった印象を受けた。しかし、これは私の読み方の浅さに起因するところが大きいのだろう。現在、中間的な定理にしか見えない定理も、私が気づいていない深遠な意味を内包しているのかもしれない。
だたまあ、それはそれとして、自分で感じ入るセンテンスがあれば傍線を引きつつ読んでいったわけなのだが、以下になんらかの参考になるかもしれない定理、記述をいくつか引用しておきたい。
第四部 定理七
感情は反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。(引用)
リーダーとして他者の心に灯を灯したいのであれば肝に銘じておくべき言葉であるのかもしれない。つまり、憎しみには愛をもって対峙せねばならない、ということである。
第三部 定理四十四
愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先立たなかった場合よりもより大である。(引用)
これは、後半部が興味深い。で、その後に記述された【備考】も珍しく分かりやすい例を引いているので、以下に引用しておきたい。
(引用始)
事情はかくのごとくであるけれども、何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり、悲しみを感じたりするように努めはしないであろう。すなわち何びとも損害賠償の希望に促されて害悪をばわが身に受けることを欲したり、全快の希望に促されて病気にかかることを願ったりしないであろう。なぜなら各人は自己の有を維持し、悲しみをできるだけ遠ざけることを常に努めるだろうからである。
(引用終)
私からは余計な解説は加えない。だって、この定理はあまりに美しくないか?私の駄文で汚したくはないのです(笑)
第四部 定理五十七
高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛し、反対に寛仁の人の現在することを憎む。
この定理については、その後の「証明」を引用しておこう。
(引用始)
高慢は人間が自己について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。この謬見を高慢な人間はできるだけはぐくむことに努めるであろう。したがって彼らは追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛するだあろう。そして彼らをその正当の価値において判断する寛仁の人の現在することを忌避するであろう。
(引用終)
この定理は、う~ん詳しくは書けないが、仕事を含む実生活において、実に深く感じ入ることが多々ある。このように明晰な言語で書かれると、心の中の疑問が氷解したような痛快さを味わった。
・・・ちょっと疲れたので今日はこの辺で。