まず、下記の著作。
上記の著作は、私のファイナンシャル上の哲学の礎とも呼ぶべき本である。アクティブファンドに対するインデックスファンドの優位をくどいくらいに説くこの著作。そのおかげで、現在の私のファイナンスがらみの仕事の割合は激減したが、自分の資産運用においては、著者ボーグルが設立したバンガード社のインデックスファンドを、某社のFOFを通じて間接的に所有している。そのボーグルの最近の著作が下記である。
2ヶ月くらい前だったか、日経新聞の書評で紹介されているのを目にして即座に購入し、その後読むタイミングを逸して、ツンドク状態・・・今日も、「そろそろ読んでみようかな」と手をとって何気なく目に入った一節から、私の頭の中で小さな稲妻が走った。
(引用始)
『まず次の分析から始めたい。株式会社アメリカはどこで道を誤り、伝統的なオーナー(株主)資本主義から、新種のマネジャー(経営者)資本主義へと、「病的突然変異」をきたしたのか?』
(引用終)
上記を読んで私の頭の中に走った稲妻とは、これから書く2つであり、これからその2つを書くが、予め予防線をはっておくと、最後に落ちがあるわけではないので、念のため(笑)
まず、船場吉兆問題。この問題は、「ブランド」ということを考える上で、いつかこのブログで取り上げてみたいと考えていたのだが、オーナー資本主義という観点からも興味深いと思う。
ここで読み手の方が想起される疑問はおそらく「オーナー資本主義を見直すとかタイトルつけときながら、船場吉兆はそもそもオーナー経営者が問題の元凶なのでは?」というもの。しかし、問題をおこした船場吉兆のオーナーとは、婿養子であったことを忘れてはいけない。船場吉兆というブランドを、正当な対価を支払って獲得したわけではない。また、苦労して創り上げたわけでもない。船場吉兆の問題の根源をたどれば、恐らくオーナーシップの移転のプロセスに元凶が求められるのであろう。
オーナー資本主義の見直されるべき点の体系的な分析は恐らくボーグルの著作に詳しいのであろう。ここでは私の体験談を通じて、オーナー資本主義を礼賛してみたい。
私自身、現在はどこかの会社の従業員として働いているわけではない。したがって、オーナーであるといえる。オーナーとなって働き出してから、私の仕事に対する打ち込み方は以前の比ではない。なぜって、私自身が「児玉健ブランド」の所有者であるから。会社員であったころは、週末を楽しみたくて、例えば金曜の夜に舞い込んできた案件には手を抜いて対処したかもしれない。でも今は、そのようなことは絶対できない。一度手を抜けば、自分のブランドを毀損してしまう。だから、金額の小さい案件に対しても、手を抜くようなことはできない。
オーナーであるということは、上記のような「緊張感」「プロ意識」といったストイックな面のみを醸成するだけではない。自分自身で築いたブランドに対する、正当な対価を受け取ることが可能となる。身を粉にして働けば、それなりの金銭が得られる。理由が病気であろうと、バケーションであろうと、寝ていれば金は入ってこない、当たり前のこと。
固定給をもらう会社従業員は、こうした「相応の収入」を得ているという実感が湧かない。だから、成果主義なる仕組みが見出された。しかし、成果主義のベースたる「成果」は、多くの場合「今年度の実績」である。だから、将来の資産価値を毀損するような形で「成果」を挙げたとしても、例えば部下に対する指導を一切行わず、「プレーイングマネジャー」が自身のプレーヤーとしての「成果」の極大化に専念しても、自身の収入を極大化できる。また、会社のブランドを一晩のうちに崩壊させる、「不正」に手を染めることを思いとどまらせるだけの、「資産価値」からの報酬に預かっていない。
・・・ということが思い浮かんだので、ブログ上にメモ書きしておきたかったまでのことです(^_^;)ちょっと、このブログの活用法も、そろそろ真剣に再考せねばなー、とも思っております。
先日、「他者の善悪に対する我々の態度」と題したエントリーの中で、特に4番目のポジション、すなわち『「善」と「悪」は切り離せない関係にある』という人の見方について、最近色々考えさせられることがある。思いつくままに、関連する事項をいくつか下記に書いてみた。
【Sweet Novemberを観て】
先日、時々行くサウナのVODで、キアヌ・リーヴス主演の恐らく大分前の映画、「Sweet November」を観た。
前半は、仕事一辺倒だったキアヌ・リーヴスが、シャーリーズ・セロン扮する謎めいた女性の感化により、愛や人への優しさといった価値観に目覚めさせられる、という味わい深くもあるが、まあ、ありがちではあるアメリカ映画らしいテーマである。
前半では、キアヌ・リーヴスを「更正」させた女性は利己心のかけらもない、聖女のごとくに描き出される。ところが後半で彼女の「闇」がクローズアップされてくることにより、彼女の人間味が明らかになる。ガンの治療をすることを頑なに拒み、また、なんらかの事情によりこじれた家族との関係修復を頑なにこばむ、問題多き女性の顔が浮かび上がることにより、私の中の彼女のイメージは「聖女」から「人間」に格下げされる。しかし、人に「堕ちた」ことにより、彼女は輝きを増したように感じられた。少なくとも私には。ただただ善良な人間などうそ臭いし、私の好みではない。
【ハイデガー問題】
哲学関連の書物を拾い読みするうちに、「ハイデガー問題」なる用語を知った。どういうことかというと、ハイデガーといえば主著『存在と時間』が「20世紀最大の哲学書」と評され、(本人が認めるか否かに関わらず)実存哲学の代表的人物と知られることは、周知の事実である。そんな素晴らしい哲学書を著したハイデガーが、近年の研究により、ナチズムに積極的に関与していることが明らかになった。ハイデガーがこの両極に関わっていたことを「ハイデガー問題」と呼ぶらしい。
この辺の話は特に上記の著作から知ったが、今手元にないのでうろ覚えで記述すると、哲学界はハイデガーの両極を、分断されたものではなく、必然的な関連性があるとみようとしているらしい。だが、その関連性の分析になると、哲学の素養がない私に言う資格もないかもしれぬが、どうも切れ味の悪かったり、憶測の域を出ない分析が多いような気がする。
哲学者はテクストの分析に欠けては精緻(すぎるくらい)に行うものの、著者の人間性やテクストと人間性の関連性については、必ずしも有用なフレームを有していないように私には感じられる。だから、私のような素人にも、なんらかのことを語る余地があるように感じられる。
【エニアグラムの有用性】
個人の善と悪の関連性について、極めて有用なフレームは、私が現在知る限りではエニアグラムだと思う。エニアグラムも、研究者によって様々な流派があるようだが、上掲のリソとハドソンは、人間を9つのタイプに分けるだけでなく、それぞれのタイプを9つの「レベル」に分類している。で、レベルが高ければ「善」の要素が顕在化し、低ければ「悪」の要素が顕在化する。
例えば、目に見える成果を手中にすることをひたすら追求する「タイプ3」の場合。彼等のレベルが高ければ、彼等は集団の中で憧れの的となり、誰もが見習うべき傑出した人物として頭角を現す。しかし、レベルが低い時、言い換えれば結果が思うように出ないときは、あたかも結果を出せたように振舞う、すなわち欺瞞的な態度が目に付くようになる。ホリエモンはそこを執拗につつかれ、ついには国策操作の手にかかり、失墜させられてしまった。
あるいは「タイプ2」の場合。レベルが高い「タイプ2」の人として、リソとハドソンの著作はマザー・テレサを掲げているように、タイプ2の人々の特徴的な善は「愛」であり、しかもマザー・テレサの愛は見返りを求めない無償の愛である。
しかし、愛の反対語は憎しみであるように、レベルが低い人は自信の愛が報われないと、とたんに押し付けがましい態度をとったり、相手を執拗に憎むようになる。
「私には悪いところなんてないです」というような鈍感な人々に、エニアグラムのタイプを知らせてやるだけでも、有用である。自身が健全なレベルを保てないとき、どのような「悪しき」方向性に走る可能性があるか、教えてあげることが可能となる。
しかし、タイプ分類は所詮「分類」の枠を出ることは出来ず、「ハイデガー問題」等に対しては、エニアグラムがなんらかのヒントを与えることができたにせよ、本質に迫ることには到底適わない。本質に肉薄するためには、個々の人間の個人史をひもとく必要があるだろう。
【インテレクチュアルズ】
歴史上に名を残す知の巨人の、特に「裏」に焦点をあてた個人史の寄せ集めとして、私は買っただけでまだ読んでいないが、ポール・ジョンソン著のインテレクチュアルズがある。斜め読みの印象からは、どうもポール・ジョンソンの意図は、知の巨人の善と悪の関連性を分析することにあるのではなく、ひたすら「悪」を暴露し、「どうだ、お前らはこんな奴らの書いたものをありがたく読んでいるのだぞ」といったスタンスで、この著作を書いているように見受けられる。
しかし、意図はどうであれ、知の巨人のプライベートライフでの悪事の数々が提供されたことは極めて有用であり、私のように関心のある者は、取り上げられた人物の著作から「善」を読み取り、独自の善悪の分析を実践することが可能となる。
暇ができたら是非読んでみたい著作である。