先日、「他者の善悪に対する我々の態度」と題したエントリーの中で、特に4番目のポジション、すなわち『「善」と「悪」は切り離せない関係にある』という人の見方について、最近色々考えさせられることがある。思いつくままに、関連する事項をいくつか下記に書いてみた。
【Sweet Novemberを観て】
先日、時々行くサウナのVODで、キアヌ・リーヴス主演の恐らく大分前の映画、「Sweet November」を観た。
前半は、仕事一辺倒だったキアヌ・リーヴスが、シャーリーズ・セロン扮する謎めいた女性の感化により、愛や人への優しさといった価値観に目覚めさせられる、という味わい深くもあるが、まあ、ありがちではあるアメリカ映画らしいテーマである。
前半では、キアヌ・リーヴスを「更正」させた女性は利己心のかけらもない、聖女のごとくに描き出される。ところが後半で彼女の「闇」がクローズアップされてくることにより、彼女の人間味が明らかになる。ガンの治療をすることを頑なに拒み、また、なんらかの事情によりこじれた家族との関係修復を頑なにこばむ、問題多き女性の顔が浮かび上がることにより、私の中の彼女のイメージは「聖女」から「人間」に格下げされる。しかし、人に「堕ちた」ことにより、彼女は輝きを増したように感じられた。少なくとも私には。ただただ善良な人間などうそ臭いし、私の好みではない。
【ハイデガー問題】
哲学関連の書物を拾い読みするうちに、「ハイデガー問題」なる用語を知った。どういうことかというと、ハイデガーといえば主著『存在と時間』が「20世紀最大の哲学書」と評され、(本人が認めるか否かに関わらず)実存哲学の代表的人物と知られることは、周知の事実である。そんな素晴らしい哲学書を著したハイデガーが、近年の研究により、ナチズムに積極的に関与していることが明らかになった。ハイデガーがこの両極に関わっていたことを「ハイデガー問題」と呼ぶらしい。
この辺の話は特に上記の著作から知ったが、今手元にないのでうろ覚えで記述すると、哲学界はハイデガーの両極を、分断されたものではなく、必然的な関連性があるとみようとしているらしい。だが、その関連性の分析になると、哲学の素養がない私に言う資格もないかもしれぬが、どうも切れ味の悪かったり、憶測の域を出ない分析が多いような気がする。
哲学者はテクストの分析に欠けては精緻(すぎるくらい)に行うものの、著者の人間性やテクストと人間性の関連性については、必ずしも有用なフレームを有していないように私には感じられる。だから、私のような素人にも、なんらかのことを語る余地があるように感じられる。
【エニアグラムの有用性】
個人の善と悪の関連性について、極めて有用なフレームは、私が現在知る限りではエニアグラムだと思う。エニアグラムも、研究者によって様々な流派があるようだが、上掲のリソとハドソンは、人間を9つのタイプに分けるだけでなく、それぞれのタイプを9つの「レベル」に分類している。で、レベルが高ければ「善」の要素が顕在化し、低ければ「悪」の要素が顕在化する。
例えば、目に見える成果を手中にすることをひたすら追求する「タイプ3」の場合。彼等のレベルが高ければ、彼等は集団の中で憧れの的となり、誰もが見習うべき傑出した人物として頭角を現す。しかし、レベルが低い時、言い換えれば結果が思うように出ないときは、あたかも結果を出せたように振舞う、すなわち欺瞞的な態度が目に付くようになる。ホリエモンはそこを執拗につつかれ、ついには国策操作の手にかかり、失墜させられてしまった。
あるいは「タイプ2」の場合。レベルが高い「タイプ2」の人として、リソとハドソンの著作はマザー・テレサを掲げているように、タイプ2の人々の特徴的な善は「愛」であり、しかもマザー・テレサの愛は見返りを求めない無償の愛である。
しかし、愛の反対語は憎しみであるように、レベルが低い人は自信の愛が報われないと、とたんに押し付けがましい態度をとったり、相手を執拗に憎むようになる。
「私には悪いところなんてないです」というような鈍感な人々に、エニアグラムのタイプを知らせてやるだけでも、有用である。自身が健全なレベルを保てないとき、どのような「悪しき」方向性に走る可能性があるか、教えてあげることが可能となる。
しかし、タイプ分類は所詮「分類」の枠を出ることは出来ず、「ハイデガー問題」等に対しては、エニアグラムがなんらかのヒントを与えることができたにせよ、本質に迫ることには到底適わない。本質に肉薄するためには、個々の人間の個人史をひもとく必要があるだろう。
【インテレクチュアルズ】
歴史上に名を残す知の巨人の、特に「裏」に焦点をあてた個人史の寄せ集めとして、私は買っただけでまだ読んでいないが、ポール・ジョンソン著のインテレクチュアルズがある。斜め読みの印象からは、どうもポール・ジョンソンの意図は、知の巨人の善と悪の関連性を分析することにあるのではなく、ひたすら「悪」を暴露し、「どうだ、お前らはこんな奴らの書いたものをありがたく読んでいるのだぞ」といったスタンスで、この著作を書いているように見受けられる。
しかし、意図はどうであれ、知の巨人のプライベートライフでの悪事の数々が提供されたことは極めて有用であり、私のように関心のある者は、取り上げられた人物の著作から「善」を読み取り、独自の善悪の分析を実践することが可能となる。
暇ができたら是非読んでみたい著作である。
There is good and bad in everyone.
この中学生にも訳出できる平易な英語は、ご存知Paul McCartney & Stevie Wonderの往年の名曲"Ebony & Ivory"の一節である。「誰にでもいいところも悪いところもある」というのは、恐らく万人が納得する真ではなかろうか?しかし、我々の行動は概してこの真に従わず、どちらか一方しか見ようとしないのが人の常である。
①一点でも曇りを見出せば、「その人は悪人」と決め込む
これは我々から遠い人々、つまりマスコミを賑わすような人々に対して我々がとるスタンスである。一点でも法令違反を発見すれば、それまでの善行を「偽善」と断罪し、世間の表舞台から引き摺り下ろす。汚職で政治生命を絶たれた数々の政治家達。日本の産業界を変えようとし拍手喝采を浴びながら、国策操作によってそれまでの全てを否定されてしまったホリエモン。その例を数えだせば枚挙に暇がない。
②「悪」の部分を直視せず、「善」の部分だけを信じる
これは、逆に我々に近い人々に対してとるスタンスである。ここで言う「近い」は物理的な距離に限定されず、心理的な距離も含む。従って、スターに対してファンがとるスタンスも同様である。
鈴木宗男氏のように汚職で一敗地にまみれた政治家が、再び当選し政治の舞台に返り咲くことはよくあることである。そして、新聞やテレビニュースを通じてそのことを知った我々は、「随分と民度の低い地域だ」と嘆く。しかし、その感覚のずれは当該人物との距離感の大小に端を発しているのみであり、不思議なことは何もない。
また、未だにオウム真理教(現アーレフ)に帰依する信者を、我々は理解できない。あるいは「マインドコントロールによって催眠術にかかってしまっている人々」という形でしか理解できない。しかし、彼等は麻原彰晃の善き部分に接してきた時間の方が長い訳である。であるから、「麻原の全てが悪でありまやかしである」という一本調子の説得では、信者を我々の世界に引き戻すことは無理だと私は思う。
③「善」と「悪」を切り離した上で、誰にでも両面があるとするスタンス
①、②に見たように、我々は往々にして、他者の善悪の一方しか認識することができない。そうした認識を助長するのがマスコミの一方的な論調だが、マスコミが形成する世論を一段階高いところから客観視できるようになった「大人」は、ポール・マッカートニーが説くような、シンプルな真理に従って人を見ることが可能となる。
「鈴木宗男氏は、確かに高圧的に人に接するところもあったかもしれないが、外交に注ぐ情熱は並大抵ではなかった。」「ホリエモンは、『欺瞞』に頼ってしまった部分もあったが、日本を変革しようとする意欲は人一倍であったし、実際ビジネス界の認識を大きく変えた。」「麻原彰晃は何人もの人々の命を奪った極悪人だが、信者を惹きつけるに足る何らかの教えを有していたことは否定できない。」
こういった具合に、他者の善悪を切り離して認識をすることは、大人の階段を一歩登るための重要なステップであると思う。
④「善」と「悪」は切り離せない関係にある、とみるスタンス
こうした見方は、我々が芸術家を見るときに一般的な見方だと思う。例えば、マイケル・ジャクソンがあの奇怪な家で少年達に倒錯した性的衝動を発露させていたという報道を耳にしたとき、正直私はそれほど驚かなかったことを記憶している。「あれだけの高い音楽的な才能を持つマイケルなのだから、裏でこれだけ奇怪な行動をとっていたとしても驚かない。むしろ、彼の裏の歪んだ性衝動が、表の才能の源泉となっている、とすら感じられる。」
なぜ、我々が芸術家に対してはこのような見方を許容し、一般のビジネスマンや政治家に対してはこのような見方をしないかといえば、それは前者が「創造性」に関わるからであろう。全く新しいものを創り出すためには、一般人には理解し難い「源泉」に接していることが必要になるのではないか。だから、優れた芸術家は、想像を絶する裏の顔を持つのだ、と。
しかし、マイケルやプリンスとて、エンターテインメント・ビジネス界の住人である。「創造性」が必要とされるのはエンターテインメント・ビジネス界のみではない。分かりやすい例でいえば、アパレルのデザインや、工業製品のデザイン等々。もっと挙げれば、全く新規なビジネスモデルの考案等も、高度な創造性を必要とする。で、あればビジネスマンにも「裏の顔」が必要なのか?あるいは、創造性の源泉は、他のもっと「明るい場所」に求めるべきなのか?
こうした思考を経た後では、コービーが『第8の習慣』で語るように、「リーダーとなるには、他人から模範となるべく、一点の曇りもない人生を歩め」といった趣旨のアドバイスは、どこか白々しく聞こえる。が、当たり前のことだが、私とてコンプライアンスの重要性は人一倍認識しているつもりだ。
人間は知れば知るほど深い。
最近のオバマ氏の連勝のニュースをどれほど私が楽しみにしているか・・・なぜ、私がオバマ氏に親しみを覚えるかといえば、単純に「黒人が好きだから」である。
私が11歳のときに来日したスティービー・ワンダーを見たあの衝撃。それ以来、私は10年近くブラック・ミュージックにどっぷり漬かるようになる。
高校生の頃、湯川れい子の全米トップ40を聞く友人は数人いたと思う。ただ、毎週土曜日のFENのブラック・コンテンポラリーのトップ20まで、チャートをメモっていたのは私くらい。
だから、毎度ジェシー・ジャクソンが民主党の大統領候補として登場して、さえない成績で消えていくのを見るにつけ、悔しい思いで一杯だった。しかし、この勢いが続けば、オバマ氏が次期アメリカ大統領になる可能性はかなり高い。
だから、これから仕事がクソ忙しくなるというのに、オバマ氏の手による上記の二冊を買わざるを得なかった。『マイ・ドリーム』の方が自伝であり、『合衆国再生』の方が、大統領候補としてのビジョン・政策論である。
ちなみに、この二冊を購入したのは、黒人大統領を待望するかつての郷愁のみに基づいているのではない。キャリア研修等を担当し、周辺の書物を読み込むにつれ、「個人としてのキャリアビジョン(特に30代以降)は過去の足跡を踏まえていないと無意味」との結論に、私の中では至っている。そうした私の考えを補強する、心理学の分野の軽い読み物として、下記の著作が挙げられる。
だから、私はオバマ氏のビジョンが彼の過去の体験に基づいたものであるのかを、検証してみたかったのだ。
今、『マイ・ドリーム』の全約600ページ中の前半200ページを読破したところだが、ます嬉しかったのは、この本はゴースト・ライターの手によるものではあり得ない、との感触を持てたこと。そもそも、この本は、オバマ氏がハーバード・ロー・レビューの編集長に選出された直後に書かれたもので、当時は大統領になるとの野望は抱いていなかったはずであり、したがって、わざわざゴースト・ライターを使って自伝を書く必要性などなかったはずだ。そして、これほどまでに「繊細な」自伝はゴースト・ライターには執筆不能なはずだ。
また、オバマ氏はライス女史と異なり、裕福とは言えない家庭の出身である、というのも意外であった。ライスは幼少期から、ピアノやフィギュアスケートを習う家庭に育ったが、オバマ氏の出自はかなり複雑であり、金銭的にも苦しい幼少期を送ったようである。
また、かなり驚いたのは、恐らくオバマ氏のエニアグラムタイプは、私の見立てによれば、7~8割の確率で「4」である。オバマ氏はそのナイーブさを「O-Bambi」などと揶揄されていると聞いたが、なるほど「バンビ」である。その自己の心中の動きの認識の繊細なことといったら・・・しかも、これも私の見立てが正しければ、オバマ氏はエニアグラム的に望ましい統合の方向性、つまり「4」から「1」に向かっている。
オバマ氏はエニアグラム4の持ち味である「繊細な自己認識能力」を駆使して、この自伝を書くことにより、完全に自己のアイデンティティを統合することに成功したように、私には見える。正しく彼は、"man of integrity"なのだ。
だから、例えば彼の有名な下記のスピーチ。
there's not a liberal America and a conservative America -- there's the United States of America. There's not a black America and white America and Latino America and Asian America; there's the United States of America
このスピーチに一つも嘘はないのだ。このスピーチは、彼の「ケニア人と白人の両親の間に生まれた子供」としての複雑な人生体験をベースに作成されたはずだ。いや、一つ大統領選挙向けの嘘をついているかもしれない。彼の本心は「America」「 United Stated」と語っているところを、「World」や「Earth」や「Universe」と言いたかったのかもしれない。
オバマ氏の手腕が、仮に外交面で発揮されれば、ダイアローグ的な手法により、込み入った紛争を解決してくれるかもしれない。
しかし、気がかりなのは、やはりエニアグラムが4ということ。エニアグラムの権威、リソとハドソンの下記の著書によれば、エニア4の大統領はここ最近ではいない。
同著によればジョージ・ブッシュは6で、ビル・クリントンは3、ロナルド・レーガンは9である。4の有名人として紹介されているのは、プリンス、マイケル・ジャクソン、バージニア・ウルフ、三島由紀夫・・・「繊細なバンビ」に大統領が務まるかと言われれば、一抹以上の不安は残る。
それでもいい、私はオバマ氏に次期大統領になってもらいたい。よく「オバマ不況」などといわれるが、その不安を払拭する事実として、彼の最初の仕事はなんと「金融ライター」であり、「金利スワップのレポートを書いていたとき・・・」みたいな記述も見かけたから、もちろん十分とはいえないが、経済リテラシーは持ち合わせているようだ。ただ、「金融ライター」としての仕事には全く情熱を見出せなかったうようだが(笑)
そして、私がオバマ氏に共感を抱く理由の本音は、なんか自分と似ている気がするからだ。私もエニア4であり、なんとなく髪型とか頭の形が似ている気がしてならない(笑)
本日はいつも以上に、全くまとまりのない記述で申し訳ないですが、「オバマさん頑張って!」ということで締めくくりたいと思います。
今日のエントリーはとっても「私的」です。
今の私の仕事のほとんどは企業研修で、最近ヒューマン・アセスメント研修、キャリア研修、ロジカル・シンキング研修などの比重が高い状況です。
で、そうした仕事をするかたわら、自己研鑽の一環として様々な本を読んでいるのですが、宗教、スピリチュアリティ、哲学、発達心理学等々、直接的な関連性が希薄であるものが、非常に多い状況です。
私がこうした書物を読む理由は、「こうした分野の重要性が十年後くらいには、企業の人材開発において認識される」という非常に漠たる直感に基づいており、今までも当ブログで色々書き立てていましたが、今一つ自分の中で、現在の仕事との関連性が腑に落ちていなかった部分があったのです。
ある、ベテランの研修講師の方が書いた本を立ち読みしていたら、いわゆる「精神世界」に傾倒する研修講師というのは多々存在するそうです。で、その著者の方は現役研修講師に向けて「精神世界はほどほどに」と、賢明なアドバイスを送っていました。もちろん、私も「危険性」については飯のタネに関わる重要事項であるので、十分すぎる程認識しています。ただ、この方の著作を読むと、「私自身も『精神世界に傾倒した』として括られる研修講師の一人なのか」と、若干つまらない気分も味わいます。
そんな迷いの中、正月前後に読んだのが、下記の十牛図の解説書です。
十牛図とは禅の悟りのプロセスを10個の絵で解説したものなのですが、上記の著作に引用されていた道元の下記の一文を読んで、至極感銘を受けました。
仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり
この一節を読んで、現在の私の仕事、そして将来の関心事が、「自己認識」というキーワードでつながった印象を受けました。ヒューマン・アセスメント研修も、キャリア研修も、その目的は受講生の自己認識を深めることを目的としているものであり、講師はその触媒として機能します。そして、上記の「仏道をならふというは、自己をならふなり。」という一文で、宗教の目的の一つがやはり自己認識を深めることであることを知り、私の自己研鑽の方向性は間違っていなかったことを確証し、大きく勇気付けられた気がしました。
しかし、同じ自己認識が目的とはいえ、両者は大きく相違します。まずその手法ですが、HA研修はコンピテンシーという角度から分析的、客観的に自己を認識していきます。一方で、特に神秘主義的な宗教では分析的な手法は捨てられ、非二元的思考、神秘体験等が強調されます。しかし、自己認識の「深さ」でいえば、HA研修は禅の自己認識の足元にも及ばない程の、浅い領域を行き来している感があります。
で、私はどうすべきか?深さとしては、禅の境地の自己認識を目指しつつも、企業を相手とする以上、分析的・客観的な枠組みを踏み外すことは許されないと考えるのです。ここで、ニーチェのツァラトゥストラの下記の一節が、私の行動規範として、私の行く末を照らしてくれます。
(引用始)
『あなたがたは一つの神を、思考することができるか?できない。-しかし、あなたがたには真理への意志がある。この真理への意志とは、一切のものを、人間が思考することができ、見ることができ、聞くことができるものへと変えようとする意志である。あなたがたは、あなたがたの感覚でつかんだものを、究極まで思考しなければならないのだ!』
(引用終、太字強調は私)
道元が見た境地、十牛図の作者が見た境地を遠い道標として掲げつつ、そこに向かって「客観性」「分析的」という足枷をはめながら、一歩一歩着実に前進し、多くのビジネスマンが少しでも深く自己を認識していただく手伝いをする、というのが恐らく私の人生のミッションであるのではないか、という気がしてきました。
・・・とかいいつつ、私も今年の9月で40歳。これほど遠大な構想を実現するために残された期間は多くはないのです。「夢追い人」で人生を終えるのか、なんらかの痕跡を残せるのか。こう考えると「日々勉強」の大切さを痛感させられた次第です。
私自身は、結構クリエイティブな人間であると思う。こんなブログを書いたりしているわけだし。仕事でも既存路線を愚直に踏襲するよりは、新しいものを作り出す方が、断然楽しいと感じる。
が、「ではどうすればクリエイティブになれるか?」との質問に対する返答は、理論的には大きく逸脱していないものの、どこかリアリティに欠ける返答に終始していた感があった。
そんな中、昨日NHKで午前中放映された、直木賞作家石田衣良氏の創造性に迫る番組は実に興味深かった。番組はNHKのスタッフが石田氏に2日(か3日か)の期間を限定して、以下のお題で短編小説を書くミッションを課し、そのプロセスを30分間にまとめたものであった。
①主役は自殺願望のある少女
②以下の3つの要素を小説に盛り込むこと
●光学
●がちょう
●草書(ちょっとうろ覚え)
創造性とは異質な物を結びつけることと言い直してもそれほど遠くはなく、上記のお題は創造性を試すにはぴったりのお題で、しかも小洒落ていて、NHKスタッフの手によるものとは思えない(笑)まあ、人数の多い組織なので、色々な逸材が隠れているのかもしれない。
お題を聞くや否や、石田氏はマインドマップもどきの図を1枚の紙に書き始める。色は使わないものの、書き方からして恐らく石田氏はマインドマップの概念は知っていたものと推察される。で、異質なお題の結び付け方だが、私には意識的な結びつけと、無意識的な結びつけの二者があるように見えた。
前者の例としては、石田氏は「自殺願望のある少女」というお題から矢印をひいて「生きることの意味を知る前に、生きることを止める決心をした(うろ覚えです)」という趣旨の文言を書き始めた。これは恐らくは、彼の思想の核心部であり、そこへの多少強引な結びつけであるように、私にはとれた。
また、無意識的な結びつけが起きたのは、「がちょう」のお題においてである。なぜ、その瞬間が見てとれたかといえば、脳学者の茂木氏により広められた「Aha! Experience」が表情にありありと見てとれたからである。石田氏は「がちょう」をプロットに取り込むにおいて、当初は苦慮しているように見受けられた。で、それを打破すべく書店に赴き、動物に関する簡単な絵本を立ち読みし、がちょうの習性として「飛べない」という文言を読んだときに、彼の頭の中で何かが走ったのである。彼に学ぶのであれば、異質なものを結びつけるためには、接合部を見出すべく、そのものに関する一歩深い知識を入手することが肝要なのであろう。
また、創造性をEnhanceするお膳立てとしての、彼の音楽の使い方が興味深かった。(ちなみに彼の仕事場には"George Benson/Give Me the Night""Rolling Stones/Tatto you""Stuff"等のばりばり80'sサウンドの「レコードジャケット」が置かれており、無性に親近感を抱いた(笑))一言でいえばBGMを聞きながらやるのだが、使用するBGMがフェーズによって違うのである。プロットを練る段階においては、彼は確かBeth Nielsen Chapmanを聴いていたように思う。彼女の音楽はどこか憂愁を帯びた感じで、石田氏は彼女の音楽をムードを高める目的で使用したとおもわれる。ところが、プロットが固まり、いざ具体的な執筆段階に入って彼がチョイスしたCDはグールドが弾くモーツァルトであった。私は基本的には音楽を聴きながら仕事はしないが、モーツァルトのピアノソナタとかであれば、邪魔にならない。恐らく、執筆段階においては、邪魔にならなくて、アルファ波を高めるような音楽がベストなのであろう。
また、石田氏は創造のプロセスにおいて自分の無意識野の重要性を認識していたが、それを「私の中の『彼』」という呼び方で呼称していた。この辺の呼称は、彼自身心理学周縁分野の本も読んでいるはずであり、そうした著作にインスパイアされたものと推察されるが、興味深かったのはこの無意識野をコントロールできる、と豪語していた点である。そのことは下記のやりとりから。
NHKスタッフとともに喫茶店に入り、「待ちましょうか」と石田氏が言うと、NHKスタッフが「何をですか?」と問い、石田氏が事も無げに「いや、頼んだコーヒーが来るのを待つのですよ」と言う。NHKスタッフが「私はアイデアの神様を待つのかと思いましたよ」と言うと、石田氏は「そんなのは、呼び出せばいつでも来てくれる」といった趣旨のことを口にしたのである。(ちなみに全部、発言内容は私のうろ覚えに基づくものですからね!)
また、石田氏は今は売れ小直木賞作家として多忙な毎日を過ごすが、37歳までフリーター同然に働きぶりをしていた、という経験にも興味をもった。人生の辛酸を舐めたはずであり、それが彼の創造性の基盤を形成にどのように関わったのか、にも興味がある。
今日はそんなとこです。おちはなし(笑)
まずは、近況報告から。随分とブログ更新が遅れてしまいましたが、実は10日ほど前に近視回復のレーシックのオペを受けたのです。オペ前になるべく仕事を片付けておきたかったためオペ前は忙しく、オペ後は経過は順調だったのですがなるべく目を酷使したくなかったために、パソコン自体に触れることが少ない状況でした。年末年始に研修を行うという奇特な企業は多くは存在しないため(笑)、年末年始は比較的時間的余裕がありブログの更新を精力的に行いたい、と思っております。といっても、法人税・所得税の申告及び帳簿の締めとかがあって、頭が痛いのですが(笑)。
ちなみにレーシック自体もいつかはブログの1エントリーとして書きたいと思っているのですが、私は自分がコンタクトをしないでも見えるようになった喜びとかよりも、「ビジネスとしての眼科」といった方面に大いに興味を抱きました。私が受けたところは、徹底したローコストオペレーション(流れ作業)により、なんと17万8千円という、4~5年前では考えられない低価格を実現しており、ヘンリー・フォードがベルトコンベアーシステムにより、自動車を一般大衆の手の届くものに仕立てた、というあの「工業の歴史」を連想してしまいました。あと、「暴利をむさぼっている」等の、あまりよい評判を聞かないコンタクトレンズに付随する眼科のビジネスですが、レーシックという代替品の脅威に対してはどう対抗するつもりなのか?レンズの製造業者で働く人々や眼科の検眼士等の人々は、今から5年後10年後を見据えてキャリア形成しておくべきだ、と私は感じた次第です。
で、本日のお題のスピノザである。例えばドゥルーズが書いたようなスピノザ評を書店でちらちら立ち読みするレベルだと、果たして私とドゥルーズは同じ本を読んだのであろうか、という疑問が湧くくらい、異なった視点から考察を加えている。まあ、哲学の素人が現代思想の最高峰に比肩し得るはずもないので、当然といえば当然だが、初学者がはじめてエチカを読んで、素直に感じ入るのは、恐らくその感情に対する洞察の深さであろう。
【EQコンピテンシーとスピノザ】
例えば、上記の著作はEQがらみの「コンピテンシー」を詳述したものとして有名だが、EQがらみのコンピテンシーは以下の4つの大別されるとしている。(手元に同著がないので正確な引用ではない。)
①自己感情の認識
②自己感情の統制
③他者感情の認識
④他者感情を動かす
で、スピノザを読んで改めて気づかされたのは、EQリーダーシップには個別の感情に対する記述が少ないということ。スピノザはエチカの上巻の末において、40近い個別の感情を定義している。で、私が感じたのは、研修・人材開発において、EQコンピテンシーの4つの軸と、個別の感情の軸の掛け算のマトリックスで考える必要がある、ということである。例えば、自己感情の認識に優れている、と自負している人でありながら、自分の孤独感や人生の虚しさは痛切に感じ入るものの、自分の中の怒りやねたみ等の負の感情への気づきは浅いという人は、結構多い。あるいは、他者の怒りには極めて敏感に反応して、事を荒立てないようにする人が、それ以外の失望等の他者感情には極めて無頓着だったりする。得意のユーモアで場を和ませるのに天才的な人も、チームの士気を上昇させることにおいては、全くの無能であることもある、云々。今までは4つのEQコンピテンシーの切り口しか意識しなかった私だが、今後仕事をする上において、体系的でないにせよ、この掛け算のマトリックスを意識したいと思うようになった。
【いくつかの箴言】
一度、ざっとスピノザのエチカを通読して、意味ある定理を導出するために、いくつかのそれ自体では無意味な中間的な定理を立てている、といった印象を受けた。しかし、これは私の読み方の浅さに起因するところが大きいのだろう。現在、中間的な定理にしか見えない定理も、私が気づいていない深遠な意味を内包しているのかもしれない。
だたまあ、それはそれとして、自分で感じ入るセンテンスがあれば傍線を引きつつ読んでいったわけなのだが、以下になんらかの参考になるかもしれない定理、記述をいくつか引用しておきたい。
第四部 定理七
感情は反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。(引用)
リーダーとして他者の心に灯を灯したいのであれば肝に銘じておくべき言葉であるのかもしれない。つまり、憎しみには愛をもって対峙せねばならない、ということである。
第三部 定理四十四
愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先立たなかった場合よりもより大である。(引用)
これは、後半部が興味深い。で、その後に記述された【備考】も珍しく分かりやすい例を引いているので、以下に引用しておきたい。
(引用始)
事情はかくのごとくであるけれども、何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり、悲しみを感じたりするように努めはしないであろう。すなわち何びとも損害賠償の希望に促されて害悪をばわが身に受けることを欲したり、全快の希望に促されて病気にかかることを願ったりしないであろう。なぜなら各人は自己の有を維持し、悲しみをできるだけ遠ざけることを常に努めるだろうからである。
(引用終)
私からは余計な解説は加えない。だって、この定理はあまりに美しくないか?私の駄文で汚したくはないのです(笑)
第四部 定理五十七
高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛し、反対に寛仁の人の現在することを憎む。
この定理については、その後の「証明」を引用しておこう。
(引用始)
高慢は人間が自己について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。この謬見を高慢な人間はできるだけはぐくむことに努めるであろう。したがって彼らは追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛するだあろう。そして彼らをその正当の価値において判断する寛仁の人の現在することを忌避するであろう。
(引用終)
この定理は、う~ん詳しくは書けないが、仕事を含む実生活において、実に深く感じ入ることが多々ある。このように明晰な言語で書かれると、心の中の疑問が氷解したような痛快さを味わった。
・・・ちょっと疲れたので今日はこの辺で。
今日は芸術の秋でした。
つい今さっきまでは12CHで『椿山課長の七日間』という映画で涙し(笑)、そして昼間は国立新美術館で話題のフェルメールの「牛乳を注ぐ女」が展示されている「オランダ風俗画展」を見てきました。人混みを避けて美術館や映画館に行けるのが、フリーランスならではの醍醐味です。
フェルメールは仕事と無関係に芸術に浸りたい、とそういう純粋な気持ちで見に行ったのですが、結局私の仕事上のテーマを考えるきっかけを与えられたしまったのです。というのも、「牛乳を注ぐ」という行為は一つの労働であり、「オランダ風俗画」というより広い枠組みで見れば、様々な労働が絵画のテーマになっていたからです。
絵画のテーマとなっていたのは、ほとんどが女性の家事労働に関わるものばかりでした。なぜ、男性の仕事が描かれないのか、というのも興味深い点ではありますが、他のオランダ風俗画家と比べて、なぜフェルメールがこれほどまでに有名なのか、その原因が分かった気がしました。というのも、他の画家が女性が家事労働する中に描き出そうと努めるのは、その女性の胸中にある感情です。時に退屈そうだったり、夢中になっていたり、談笑を楽しんでいたり、と様々な表情から、当時の女性が仕事の際に抱く感情が偲ばれます。しかし、「牛乳を注ぐ女」では、女性が顔を下に傾け気味であることも影響して、私には彼女の感情が前面には伝わってこないのです。それよりも、牛乳を注ぐという極めて日常的な行為に内在する「崇高さ」が感じられました。丁度ノロノロと読んでいたスピノザの一節「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。」が想起されました。私にこうした印象を抱かせるのは、他ならないフェルメールの巧みな光の表現技術です。絵画の技巧に関しては全くの素人ですが、あの絵は何故かきらきらと輝いているのです。同じ「女性の労働」というテーマで描きながら、他の画家は比較的写実的なレベルで留まっているが、フェルメールは手の届かない高みにまで引き上げる。これは画家の技術と精神がなせる技なのでしょうが、翻って我々が仕事に対峙する姿勢を考えれば、我々は自身の仕事を「ただ金のために」と捉えることもできれば、「同僚と楽しむために」と捉えることもできるし、「天命を実現させるために」と捉えることもできる。
あと、考えさせられたのは、現代の我々の労働は果たして「絵になる」のであろうか、ということ。写真や映像技術が発達した現代において、「写実的」な要素は絵画には期待されていない。であるから、我々の仕事がもし絵画に取り上げられるとするならば、我々の仕事自体に、芸術として着目すべき何か、が存在せねばならない。再び労働が芸術に取り上げられるためには、芸術家も我々の労働に着目していただかなければならないし、我々としても何らかの崇高なテーマをもって労働に対峙しなければならない。
昨日までは地道にレポート作成に忙しかった感じでした。今日・明日・明後日は研修準備もしなくてよい(というかできない)、レポートもたまっていないという、まさに秋のGWといった感じなので、久々にブログを書いてみることにしました。
【『聖なる予言』には抵抗のあるあなたへ】
まずはこの本の紹介から。著者はジャウォースキーという人。名前を聞いたことがある、と思っていたらセンゲの『出現する未来』の共著者の一人でした。で、この本の序文はそのピーター・センゲが書き、監訳者はまたまた神戸大学の金井教授。ジャウォースキー本人も著名な人で、弁護士というキャリアを投げ打ってまで、アメリカのリーダーシップ教育へとキャリアをシフトした人。しかも、彼の父親は元ニクソン大統領の悪事をあばくプロジェクトのヘッドとして、これまた著名な方である。そんな人の息子が書いたいわば自叙伝で、金井教授が監訳するくらいだから、キャリアの自叙伝として読める。で、タイトルが「シンクロニシティ」であるだけに、ちょっと「不思議」な感じである。
さて、あのかつてのベストセラー「聖なる予言」と聞くと鼻で笑っていたのに、上記の紹介文を見て、この本を読みたいと思った方がいたとしたら、その方はビジネスのオーソリティのネームバリューに弱い権威主義者である。だって、テーマは同じ「シンクロニシティ」である。そんな権威主義者を私は軽蔑する。どのくらい軽蔑するかといえば、私自身に対してと同じくらいに(笑)。ま、私も黒字に金文字という派手な(というか異様な)装丁と、センゲと金井教授の名前がなかったら恐らくこの本を買うことがなかったと思う。私も弱き権威主義者なのだ。
【少々物足りない金井教授の解説】
この本を買って読んだのは、巻末の30ページ近くある金井教授の解説文を読みたかった、というのもある。しかし、解説文を読んだ印象は「肩透かし」といった感じ。今同著作が手元にないので、うろ覚えに頼るほかなく、きちんと引用できないのだが、金井教授は「この本はシンクロニシティの本として読むべきではなく、ユングの『人生の正午』を転換点としたある男のキャリアの実例として読むべきである。」という類のことを述べておられた。私なりの言葉で置き換えれば「発達心理学」の実例として読め、ということか。
もちろんこのような読み方からも得るものは大きいのだが、う~ん、「不思議」の部分に目もくれない、という読み方も本筋から外れていると思う。だって、タイトルが「シンクロニシティ」なんだもん。
最後の章で、これもうろ覚えになってしまうが、あるダイアローグのセッションに参加していたビジネスマンから、以下のような深遠な問いかけがなされた。
「この種の話題は必然的に神の問題に行き着く。しかし、私の職場で神や宗教を語ることはタブー視されている。この点についてはジャウォースキーさん、センゲさん、いかがお考えになられるか?」
で、この著作では、この質問に対しての「ストレートな」回答はなされない。それだけに金井教授の解説を期待していたのだ。金井教授もマズローの監訳を手がけるくらいだから、「この領域の問題」に関して認識は十分にあるはずなのだが、やはり「経営学部教授」としてのアイデンティティが記述を踏みとどまらせたのだとしたら、至極残念である。
【私のシンクロニシティ体験】
かなり本質から外れた余談になるが、ジャウォースキーのシンクロニシティ体験はかなりうらやましい。例えば、空港で素敵な美女と目が合って、どうしても気になってしまい、自らの乗る飛行機を一便遅らせてしまってまで、連絡先を交換したりする。で、一年後、その美女がジャウォースキー夫人となり、精神的にも深い会話をしちゃったりしているのだ。「はい、ごちそうさまでした!」といったコメントしか浮かばないが(笑)、私自身もシンクロニシティ体験がないわけではない。いや、最近かなり多いといっても過言ではない、しかし、残念ながらこのような「浮いた」分野ではないのですが・・・
私のシンクロニシティ体験は、読書体験で頻発する。例えば先日紹介したビル・ジョージの『リーダーへの旅路』を読んだ直後に、この著作を手にとれるとは、うまく行き過ぎた流れである。で、昨日ブックオフで何気なく手に取ったのが下記の著作である。
怪しげなタイトルでかなり損をしているが、「自己物語」が主テーマで、これはビル・ジョージとジャウォースキーの心理学的な理論基盤をなすのみならず、某霊媒師のアプローチにも通じるものがある。で、まだ読んでないが、これが自由意志を否定するスピノザの考え方にもつながってくるのではないか、という気がしている。
私が財務から人事系にキャリアシフトをして、今ようやく2年半経過したところである。その割には、読むべき本に怖くなるくらい上手く巡りあうことができ、短期間で一気に本質的な部分に到達した感がある。これを「私の努力」ということのみで説明しようとしたならば、私は不遜であろう。
【良い「自己物語」の作り方】
ついでに、上記の新書の内容に関してだが、今半分くらい読了したところだが、当然ながら「キャリア」という観点が主になっているわけでないし、「自己物語の作り方のハウツー本」の体裁をとっているわけでもないようだ。で、私はこの自己物語の作成が、キャリアビジョンを策定する上で大変重要だと、経験的に感じている。で、よい自己物語つくりのコツを、経験的に掴んだものを、以下に羅列しておきたい。
①30代以降においては、「過去の歩み」を振り返ってつくること
20代までのキャリアビジョン・自己物語は、(今時いないだろうが)「ホリエモンのようになって日本に新風を吹き込みたい」みたいな、他人への憧れレベルでもいいんじゃないかと思う。が、30代に入ったらただの「夢」では恐らく望ましくなく、従って「過去の歩み」を振り返って、夢と現実との折り合いをつけるべきだと思う。
②人生の全ての出来事を羅列する必要はない
当たり前だが「物語」なのだから、「壮大かつ網羅性のある自叙伝」である必要は全くない。自分が将来に向かうにあたってモチベーションを保ち続けられるだけの要素がつまっていれば、それでいいと思う。
③「どん底の体験、醜い自分」から目を離すべきではない
成功体験だけつなぎ合わせて自己物語をつくりたければそうしてもよいが、その場合、キャリアビジョンに精神的・霊的な深みは得られない。負の部分も含めて自分なのだと認識することにより、自己物語は輝きを増すことだろう。
【少し歴史問題も語らせて下さい】
歴史も「史実の羅列」とあわせて「物語」としてみることもできるだろう。だから、日本史の教科書検定で、頑なに南京大虐殺の記述が拒まれたり、沖縄の集団自決問題等の経緯も、「物語としての歴史」として考えれば、文部省のやりたいことも分からないではない。美談だけを歴史に残したいのだろう。しかし、そのような姿勢は、国家レベルの教育を考える人々としては、とてつもなく浅薄であると思う。
原爆の被害者としての体験をもって、国際社会で平和の伝道師として活躍していくことは素晴らしいことである。しかし、我々の先祖は善良な被害者であるのみならず、醜悪な加害者としての顔もあわせもち、その両者のDNAは我々の中に息づいていると考えて行動した方が、意義深い行動ができると思う。
しかもその同じ日本史の教科書の鎌倉時代の部では「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」との偉大な親鸞の言葉が記述されているはずである。美談ではないからといって教科書に墨を塗る人々は、親鸞をどうように理解しているのであろうか?
我々自身の醜悪な部分も受け止めた上での愛国主義であれば、偏執的になる恐れも少ないだろうし、それに大戦中の愛国主義よりも深く柔らかである、と思う。
日本史教科書も、清濁合わせた自己物語となっていないようであれば、その底は悲しいまでに浅い。
先日、私が通うジムにて、なんと数年前に某資格受験予備校で私の講義を聴講いただいた方から声をかけていただきました。時折、このブログを見ていただいているとのこと、ありがたい限りです。思えば、研修関連の仕事を通して接した方は、正確にはカウントしていないものの、500人は軽く突破しているはずであり、いつ1,000人の大台にのるか、という辺りの人数の方と接したきたはず。で、気になるのは、こちらは気がつかないのに、再会していることが多々あるのではないか、ということ。私は普段はコンタクトも眼鏡も使用せず、かつそういうときはテリーさんほどの強度ではないものの、若干の「斜視」気味になってしまうため、極力他人と目を合わせないようにしているのです。加えて記憶力も極めて怪しく、従って、受講生の方と再会しても認識できるはずがない!!なので、もし街で遭遇したならば、そちらからお声をかけていただけると幸いです。
で、本題に入り、本日ご紹介するのは、一応『リーダーシップ』の枠内に収まった下記の本。
【リーダーシップの源泉は羅針盤にあり】
リーダーシップの源泉は自己の明確な羅針盤にあり、それに忠実に従うことである、というのがトータルのメッセージであり、言い換えれば自律性こそがリーダーシップ発揮において大切であるという一つのリーダーシップ「流派」であるといえる。シニカルに評せば、「静かなるリーダーシップがあって、サーバント・リーダーシップがあって、次はこれですか?」みたいなことが言えなくもないが、この本で私が大いに共感するのは、自らの機軸、羅針盤の見つけ方である。
【ライフストーリーが羅針盤を形成する】
自らの過去を振り返り、そこに物語を見出すことで、将来の困難を乗り切る深いモチベーションの源泉足り得る羅針盤を形作る、というのが、恐らくこの本の「ミソ」であり、私はこの部分に大いに共感する。なぜなら、私自身、自らのライフストーリーが研修講師として質の高い講義を提供し続ける上で、欠かせないものとなっているから。
この考え方は金井教授のキャリアの定義にある「回顧的意味づけ」という考え方と呼応する。したがって「リーダーシップ論」と「キャリア論」が正しく関連しあうのである。異なるのは、確か金井教授は「キャリア論」の範囲を学生生活を終えた後の職業生活に限定していたはずであるが、この著作は幼少期の体験がビジネスと密接に結びついている具体例を紹介する。たとえば、メルクの会長は、幼少期の闘病体験が医薬品業界のCEOとしてリーダーシップを発揮する上で、非常に大きな意味を持っているとしている。また、オプラ・ウィンフリーは現在の活動を展開する上で、幼少期のレイプ体験が意味を持つと語っている。私自身も、色々とあってこのブログ上で自らのライフストーリーを明らかにするには時期尚早と判断するので深くは語れないが(笑)、「職業生活」の外からの影響が「職業生活」のモチベーションの源泉を探る上で、非常に大切であるということは大いに共感する。
【前世の物語との違い】
さて、ライフストーリー、つまり「物語」ときいてぴんとこないだろうか?物語を与えて今後の生きる糧とするというのは、「オーラの泉」のやっていることと実は同じである。今の苦悩の原因を前世の物語として江原に語ってもらうと、芸能人はオヨヨと涙する。いや、この部分の意義は大きく、私も茶化すべきではない。これが物語りの持つパワーなのである。
「前世の物語」と「ライフストーリー」の決定的に異なるポイントは2つあると思う。一つは物語の検証可能性だが、これは、水掛論になるのでこれ以上は追わない。もう一点は、その物語を構築する主体である。かたや、丸々と太った霊媒師であり、ライフストーリーにおいては構築するのはあくまでも「自分」である。この違いは決定的である。というのはライフストーリーは諸々の人生のターニングポイントにおいて、変化しうるから。外から与えられた物語が通用しなくなれば、また、外から新たな物語を与えてもらわねばならない。こんな依存的な生き方ってなんなのか???「この間話したのはあなたの前世だが、今の苦悩は実は3代前の過去生に原因があるのですよ。」みたいなこと言われて、はいはいと大人しくべらぼうな金を払う人々の気がしれない!!!自分の人生なんだから、意味は自分で見つけ出そうぜ~!!
【良い羅針盤と悪い羅針盤を分かつもの】
さて、自己の内なる羅針盤が大切だというのはともかくとして、それが強すぎるがゆえに道を踏みはずす人も、後を絶たないのも事実である。「私が法である。」と豪語する円天の社長然り。そして「法に触れなければ何をしてもよい。お金で買えないものはない。」という強固な羅針盤で世間をお騒がせしたヒルズ在住の小太りなあの方の、羅針盤もその磁力の強さたるや、ただものではなかった。
で、良い羅針盤と悪い羅針盤を分かつものって何なのだろう?私なりに詩的に表現すれば、針の先が自分を向いているか他人を向いているかの差である。すなわち「自我中心性」に蝕まれているか否かの差が、羅針盤の良否に影響を与えるといえる。
しかし、偏差値競争、ブランド信奉という価値観を植えつけられた若き20代の人々に、他人を向いた羅針盤を持てというのも無理があるし、恐らく発達上の課題として、20代は同僚との競争に勝つという苦しい経験をせねばならないのかもしれない。20代をどう指導すべきか、という点について私は明確な答えをもてないでいる。
【人生のターニングポイントが針の向きを変える】
で、この著作は30代から40代あたりに「『私』から『われわれ』へのターニングポイント」が訪れると述べている。どうやって訪れるのか?それは、やはりウィルバーのたどりついた結論と近くターニングポイントが個々人の訪れるプロセスは「ミステリー」に近い。が、この本では様々な経営リーダーの、正しく「壮絶」と形容される生々しいターニングポイントの体験談が収集されている。解雇されたり、愛する人を失ったり、闘病生活を経たり・・・とまあ、誰しもこんな経験はしたくない(笑)と思う経験がてんこ盛りである。いくら優れたリーダーを生み出すためとはいえ、人事部が幹部候補生にこんな試練を与えていることが明るみになったら、それこそ大問題である(笑)。
【それでもターニングポイントは「発生させる」ことができないのか?】
さて、では優れたリーダーとして飛翔するためには、神から試練が与えられるのを待つしかないのか、といえば必ずしもそう言いきれないこともないみたいであり、それは私の研修講師としての体験とも一致する。
ターニングポイントを誘発する一つの試みは「厳しいフィードバックを受ける」というものであり、この著作では、360度フィードバックが紹介されている。私の体験を述べれば、特にD型に力点を置いたHA研修が、「『私』から『われわれ』への転換」をもたらした、ないしは後押ししたと感じられたことが、ごく少ない例であるものの存在した。ただし、本人に事後的なインタビューをしたわけでもなく、確証的な証拠があるわけでもない。
また、このあたりは想像の域を出ないのだが、幹部候補生を早期選抜するためのプログラムを実施している企業がいくつか存在する。様々な試練を与えることにより、将来の社長候補を振り分けていくのだが、当著作などの流れも受けると、振り落とされた側に逸材が存在するとの仮説をもって発掘に臨むことが、大いに有用であると考えられる。
与えられる試練を全てそつなくこなせた人というのは、自己否定を経験していない。自己否定をくぐらないままトップに立つとどうなるかといえば、それは「安倍ちゃん」で我々は痛感しなかっただろうか?また、鈴木大拙が『日本的霊性』の中で美文で述べていたことで、正確な文章を思い出せず残念だが、「自己否定を通してはじめて霊性が生まれる」的なことを語っていた。リーダー促成プログラムの勝者に、スピリチュアルの深みを期待することは間違いであろう。
なお、当著作はウィルバーも仏教の思想も全くリファレンスしておらず、著者が現場でのCEO体験をベースに、ハーバード大学の"Authentic Leadership"プログラムとして結実されたもので、怪しげなもの、胡散臭い思想は一切取り上げられていないので(笑)、是非ご安心してご一読されたい。
が、私個人的には、自己研鑽の一環として読んできた、哲学書・宗教書の思想の片鱗を見出すのであり、私の思想を集約する上でも意義深い読書体験であった。
ご無沙汰しております。夏の仕事の嵐のゴールが依然として見えず、疲労困憊しております(笑)。しかし、10月初に1週間近くまとまって予定が空く可能性が大なので、秘かに海外旅行を頭の中で計画して楽しんでいたのですが、今朝パスポートを確認したら、今年の7月で期限切れになっていました(笑)。
不思議なことに、忙しいほど本を読みたくなるもの。妄想の世界に逃避したいのです(笑)。で、最近、どういう分野に夢中になっているかといえば、いや~、ついに来てしまいましたよ、仏教です、仏教。しかし、経営学のリーダーシップの分野の本なんかで、記述がしどろもどろになっているところなんかで、意外に仏教の経典はびしっとした答えを出していたりするのですよね。今年の読書の秋は仏教に染まってみようかと思っています。で、手始めに読んだのがこれです。
この本は、ヒジョーにお勧めです。難しいとされる「唯識」の概念を分かりやすく説いているだけでなく、心理学(フロイト、アドラー、ユング)との習合を試みるのみならず、最終章では、ウィルバーのトランスパーソナルモデルとの関連性をも説いている、広範な視点にたって書かれた平易な文体の著作ですので、ご興味がある方は、是非是非お読み下さい。
この本で、私が感銘を受けたのは、本日のタイトルでもある「『一』の効用」という点です。どういうことかといえば、少しでも宗教的な著作をかじったことがある方は似たような話を聞いたことがあるかと思いますが、我々は、たとえばここに児玉がいて、官邸には安倍総理がいて、アメリカではライスが恐い顔でがんばっていて、道を歩けば蝉がシャーシャーとうるさく、道端には雑草が茂っている・・・みたいに個々のものをバラバラに認識しているですが、それは幻影にすぎない、と説くのが禅であり、他の神秘主義に属する宗教の奥義でもあったりします。「世界とは本当は一つなんだ、全てはつながっているんだ」と考えるのがこういう宗教の一つの結論であり、仏教の世界では、バラバラに認識する仕方を分別智、世界は一つと認識する仕方を無分別智といったりするわかです。で、この無分別智の状態を頭で理解するだけでなく、体で分かったときに、それは「悟り」と呼ばれるわけです。
自分自身昔から宗教的なものに関心がなかったわけではないので、こういう考え方は理解できるし、おそらくそれが世界の真実なのかもしれない、とも思ったりするわけですが、その一方でこうした考え方には「So What?」というスタンスだったわけです。だって、世界は一つと実感できたとして、それで世界がなんかまばゆい光で包まれたのを見れたとして、そういうものを実感できない私としては「だから何なんだ」と言いたいわけです。そういうことを実感できたとして、実感できた人は何となく真実を知れたような、幸福に包まれたような気がするかもしれないけど、それでおしまいじゃないか、と考えていたのです。
「役にたつものこそ真実である」とするジェームズの『プラグマティズム』にも、確か観念論もなんらかのなぐさみをもたらすのであればそれは真実である、みたいなことを言っていた記憶があります。私も『絶対的な一者』みたいな観念は、なぐさみにすぎないと思っていたわけです。
ところが、上記の著作によれば、この世界が一つであるという実感から生まれるのが「慈悲」であるというのです。美しい。素晴らしい。岡野さんの比喩を借りれば、私は左手が痛いときに右手でさする。しかし、右手は左手に見返りを求めない。だって、右手も左手も「一」なのだから。この認識が「世界」にまで拡大すれば、世界は今一歩前進できるであろうことは、言うまでもありません。アフリカの貧困問題を自分の腹の痛みととらえ、自分の腹痛を和らげるかのごとくにさすって、見返りを求めない。素晴らしいではありませんか。
で、政治の世界やプライベートライフでは、こうした認識を持つことが素晴らしい効用をもたらすことは理解できても、ビジネスの場ではどうなのか、という問いに対して。まず、温暖化問題が投げかけるように、我々の経済成長は地球という有限の壁にぶつかりはじめています。個々の企業も少なくとも地球レベルでの「一」を体得し、意思決定せざるを得ない状況に追い込まれているわけです。
また、同じ組織を「一」と感じられないからこそ、職場の人間関係を起因とするストレスは激増する一方であり、うつ病などが蔓延するわけです。宗教的な悟りが必要かどうかは別として、職場を「一」と感じ、慈悲に覆われるようになれば、メンタルヘルスは激減することでしょう。
一方で、外部のコンペティターに目を向ければ、このような思考は敗北を招くのみで、競争においては別種の行動原理が必要となるのは仕方のないことでしょう。でも、競争に際してだけマインドをかえなさい、というのもなんだか「きれい」な真実でなくなってしまう感じがします(笑)。
『絶対的一者』みたいな考え方も、企業内において「慈悲」という素晴らしい「(ジェームズ流にいうところの)現金価値」を生み出すのであれば、研修講師というアイデンティティーを持つ私が、自己啓発の一環として禅を深く考えることは、無意味であるとはいえないでしょう。
また、ビジョナリー・カンパニーに書かれていた、あの魅惑的な「第五水準のリーダーシップ」という概念。これに対するヒントも、岡野氏の著作には書かれていました。キーワードは「マナ識」。また、別の機会に、私がまだ関心を持ち続けていたら、書いてみたいと思います。
これからの約2ヶ月は暑さと忙しさで私の心はますます荒廃し(笑)、ブログ更新は今以上に滞ることが予想されます。でも、今日(7月23日月曜日)の日経新聞の19ページのディー・エヌ・エー社長の南場智子氏のインタビューが興味深かったので、それをネタに一説。
ここで南場社長は、自らの貴重な体験談を披露し、エンパワーメント・権限委譲の難しさを語っている。インタビューの内容をごくかいつまんで要約すれば、「一度任せてしまったCMを、自分のイメージと異なっていたため、駄目だしをした」といったところ。幸いにも、このCMがきっかけに会員がうなぎ登りに増えたというハッピーエンドがつくのだが、では結果も伴わなかった場合はどうすればよいのだろうか?もう、その担当者には重要な仕事を任せるのを控えるべきなのか、一層のこと解雇してしまうべきなのか?
エンパワーメントというのも、多くの企業において重要とみなされるコンピテンシーの一つではある。部下育成というテーマにおいては、書店では「コーチング」ばかりが隆盛を極め、そもそも「エンパワーメント・権限委譲」をテーマにした書籍は多くはない。例えば金井教授お勧めの下記の著作。
まあ、リーダーシップ論の中の一つの部分として「エンパワーメント」を取り上げており、そもそも記述量もそれほど多くはないのだが、書いてあることは、どのようにして渡す仕事を選ぶべきだとか、エンパワーメント『前』の部分に記述は傾斜しがちである。
私が思うに、エンパワーメントにおいて、もっと語られるべきは、M&Aと同様に、「Pre」ではなく「Post」の部分であると思う。エンパワーメントが成功裏に終われば、それは「シャンシャン」で結構である。(まあ、成功時の場合も考えることは多くありそうだが、ここでは触れない。)最重要事項は、権限委譲が失敗してしまった場合に、いかにその部下との関係を修復するか、いいかえれば、その部下を心の底から赦せるか、ということであろう。赦しなきエンパワーメントは、上司の中に強烈な失敗体験を植え付け、反動的な「管理者」として逆行してしまうことであろう。強烈な体験があるがゆえに、これを戻すことは厄介である。
立ち読みをしていたときに目に留まった一説なので、出典はまったく思い出せないが、確かトヨタのレベルの高い階層に求められる資質の一つに「寛容」という要素があったと記憶している。「寛容」という言葉が出てくる自体、「Post-エンパワーメント」に目が向いている証拠だと考えることができる。
実は「赦し」というのは、私の最も苦手とする行為でもある、公私ともどもにおいて(笑)。そんなこともあって、例えばこんな著書をアマゾンで取り寄せてみたりもした。
まあ、忙しくて「ツン読」になっているわけだが、経営学の隣接分野から「赦し」をテーマにした本が出版されてもよい気がする。
ちなみに、スピノザが人間の自由意志を否定するのは、それにより他者を「赦す」ことが可能となるから、といった類のことを、哲学の入門書の類で読んだ記憶がある。これだけ書くと、ものすごく浅薄な思想に聞こえてしまうが、そんなことはないはず。やっぱ『エチカ』もいつか読まなあかんのかなー。かなり読みずらそうだけど。
ディー・エヌ・エーの南場社長が、もしそのCMが鳴かず飛ばずに終わってしまったならば、どのような教訓を引き出していたのだろうか?興味深い。
【道徳とリーダーシップ】
本日のエントリーは先日もご紹介した、上記のカント哲学の入門書に関して。まず、この種の本を私が読むことに関してだが、これは純粋な趣味の世界への逃避ということではなく、私が研修で担当することがある「リーダーシップ」というテーマに密接につながると考えている。そのつながりを考える上で手がかりをつかめるのでは、との期待を抱きつつ今読んでいるのが、下記の著作である。
「3年目社員が辞めていく」という現象が社会的に広まっているが、この一つの要因として、やめていく社員のコミットメントが低いということが言えるであろう。各企業はコミットメントを「マネージしよう」とやっきになっているようだが、フォロワーのコミットメントが生まれるか否かは、リーダーの資質によるところが大きいということも否めない。すなわち、リーダーの信頼性(Credibility)が重要なのである。ではフォロワーがついていきたくなるようなリーダーの資質にはどのようなものがあるのか?同著の作者が行ったサーベイによれば、以下の4つが上位を占めたとのことである。
(1)Honesty(正直)
(2)Forward-looking(先を見通せる、ビジョン)
(3)Inspiring(情熱的)
(4)Competent(有能)
「正直さ」とは道徳に関わるものであり、そうであるならば「信頼性」溢れるリーダーシップを身につけたいと考えるリーダーは、道徳にも深く考えを巡らさねばならない、ということになるであろう。私がカント倫理学に興味を持つのは、決して道楽などではないのだ。
【道徳と自律】
さて、私自身だが、今まで自分を「道徳的」な人間であるとは、露ほども考えたことはなかった。私のイメージの中では、道徳とは規範に従うことであり、この考え方はWikipediaの道徳の定義とも呼応する。様々な個人的な体験も手伝って、どちらかといえば私はこうした規範を疑念の目で眺める人間へと成長した。私は規範に盲従する子羊などではないのだから、道徳的であり得るはずがない。
しかし、カントの考える道徳によれば、どうやら私は結構道徳的資質を兼ね備えていると言えるらしい。というのも、道徳的に善いことの一つの必要条件として、「自律」を掲げているからであり、「他律」的に規範に盲従する人々は道徳的に善でないとまで言い切っている。これに類する中島氏の文章をいくつか、下記に引用しておこう。
(引用始)
『では、これに対して「精神」において道徳的な善さを体現している人とはいかなる人か。それは、世の掟をはじめからことごとく自分のうちで、つまり自律的に点検している人、世の掟に対しても批判的であるとともに自己の道徳的感受性に対しても批判的な人である。
道徳では、十戒のように善の充実した内容が先立ってはならない。内容は各人が自律的に探り出すのでなければならない。』
(引用終)
これは、Wikipediaの定義からは思いもつかないような道徳観である。しかし、一応、哲学史に偉大な足跡を残す老カントの道徳観として、リスペクトの念をもって考えるべきであろう。
【道徳とトランスパーソナル】
先日のエントリーで、カントが考える道徳的な善のもうひとつの必要条件として、「自己愛的な動機に基づいていないこと」というものを紹介した。こちらの条件から考えると、私は少しも道徳的ではないと思っていた。だって、こんなブログ書いているって、自己愛の塊である証明みたいなものじゃありませんか(笑)。
しかし、ここでもまた私は、カントの考える道徳的な善に「近い」人間であることを悟ることとなる。中島氏は自己愛が希薄な人物として、ドストエフスキーの『白痴』のムイシュキン公爵を挙げ、「自己愛がきわめて希薄で、真実性=誠実性の原則に従って道徳的善さをやすやすと実行してしまう人は、じつはそれほど道徳的ではないのである。(引用)」とまで言っている。???では、どうすれば道徳的であるといえるのか?その答えも中島氏の文章を引用しておこう。
(引用始)
『自己愛が濃厚な人が、大いなる努力のすえにそれを克服して道徳法則に対する尊敬の念から行為に出るとき、その行為はとりわけ道徳的価値をもつ。』
(引用終)
まあ、私は自分の自己愛を「克服」まではしていないが、少なくとも「努力」はしていることは真実である。ここでも、また私は自分が「道徳的に善」に近い気がしてきた(笑)。ま、自画自賛はこの辺にしておくが、一応自画自賛をブログ上でする言い訳をば。サラリーマンの皆様とは違い、私にはもう自分を動機付けたり、エンパワーメントしてくれたりする「上司」は存在しない。お褒めの言葉をいただくのは、仕事の質・結果に対してであり、もう誰も私をモチベートしてくれる人はいないのだ。だから、自分で自分を持ち上げて、動機付けねばならない、そういうことなのです。
話はずれたが、ムイシュキン公爵は道徳的とはいえない、という話で私が「連想」したのは、トランスパーソナル心理学のモデルである。ごくごく単純に示せば、トランスパーソナル心理学のモデルは、下記のような三段階を提示している。
(1)プレパーソナル(自我確立前)
(2)パーソナル
(3)トランスパーソナル(超個)
ムイシュキン公爵は明らかにプレパーソナルの段階にいる人物である。カント倫理学とトランスパーソナル心理学を無理矢理くっつけてみると、道徳に善たりうるにはトランスパーソナル段階に入った人間でないと難しいと言えるのかもしれない。
【道徳と「徳育」】
最後は「News Review」らしくタイムリーな話題で締めくくりたい。保守的な安倍首相が考える「徳育」の目的とするところは、なんらかの規範を早い段階で植えつけることに他ならず、これはカントの考える道徳とは遠いものである。ただ、私は教育論には疎いのだが、幼児期には規範を植えつけるということも必要なのかもしれない、とも思っている。
しかし、規範を植えつけるにしても、その背後の「なぜ」を考えさせる「徳育」でなければならない。「なぜ」、自殺はいけないのか。そして、自殺はいけないと言われているのに、東京の長として「君臨」するあの方は、自殺した人を「サムライ」と賞賛している。彼は「なぜ」賞賛するのか?小学生にはヘビーなディスカッションだが、高校生には十分扱えるテーマだと思うし、実際こうしたことに軽い疑問を抱きつつ、受験勉強の忙しさから忘却している若き人々は多いと思う。
「道徳は教えることができない」とする人々の考えは分からないでもないが、「道徳を考えるサポートをする」ことが教育において求められているのではないか?
実は冒頭で紹介した「Credibility」に日本人にとってショッキングは調査結果が掲載されており、本日書いたテーマと関連性がある。この点についてはまた別の機会にエントリーを書いてみたい。
今日これから書こうとしていることを考えると、正直自分のブログがどこに行こうとしているのか分からない(笑)。いまだに私のサイトには「のれん代」だとか「包括利益」みたいな検索ワードでのアクセスが多くある。で、関心をもっていただいた方が簡単にトップページにアクセスできるよう、個々のページにリンクが張ってあるのだが、トップに来てみると、自我中心性がどうだとかスピリチュアリティだとか、そんなエントリーが並んでいたりする。もしかしたら、新手の新興宗教の勧誘と思われているかもしれない(笑)。恐がることはありませんよ、新しい読者の皆様。
で、本題に入り、『影』について自分の頭の中で漠然と考えることを、いくつか書き出してみると、こんな具合だ。
①大きな『影』を持つ人ほど、大きな成長へのポテンシャルを持っているのではないか?
まず、こんな考えを抱くようになった第一のきっかけは、個人的な体験である。私には実に多くの『影』がある。決して隠れて法に触れる類のことをしている、とかいうことではない。しかし、慎重に語らねば、誤解を招く危険性が大であり、その詳細をここで明らかにするつもりはない。しかし、そんな私の暗部が私の人としての成長の源になったことも否定できない。自分に対してうがった見方をすれば、自分の人生を自己正当化するために、こんなことを考えついた、という側面があるのかもしれない。
私の後にイエス・キリストを並べるというのは全く不遜なことであるというのは重々承知だが、荒野の誘惑のエピソードも興味深い。悪魔からの誘惑を敢然と断ち切るカッコよさばかりが強調される感があるが、もしイエス・キリストに『影』がなければ、悪魔からの誘惑は、そもそも「誘惑」たりえなかったはずである。究極の利他的な愛を説くイエス。しかし、イエスにとっても、「世界を征服させてやる」という悪魔の囁きは、「誘惑」として彼を惑わせたはずである。その誘惑を克服したからこそ、彼は偉大なのであろう。
転じて、ビジネスの場面から『影』について真正面に向き合った書物というのは、ほとんどない。というか、私は出会っていない。例えば、コービーの下記の著作。
私自身この本は大好きであり、研修で出会った受講生の方も、この本にインスピレーションを受け、「自分も他の人々の模範となりたい」とおっしゃる方もいる。そのような志をくじくつもりもないし、実際にくじいたこともないが、コービーを読んでいて私が感じるのは「白々しさ」である。こんな清廉潔白で完璧な人間なんているはずもない。コービーの精神がビジネスの場にもちこまれることは素晴らしいと私は思う反面、こうした思想により『影』を抑圧する方向に働きはしないかというのが懸念である。
②『影』は全ての人間に等しい大きさで存在するのではないか?
これは①と論理矛盾しているが、すぐあとに統合の落としどころがあるのでご安心を。
ビデオ等のフィードバックを主体とする企業研修の場において、時々ジョハリの窓というフレームを使用した説明を行うことがある。このフレームを使用して、「さあ、今日は自分の行動をビデオで振り返り、『自分は知らなかったけど他人は知っている自分』を発見しましょう」みたいなことを言うわけだが、この図を黒板に描いておきながら、いつも我ながら首をかしげるのは『未知の窓』という「自分にも他人にも分からない自己」という領域である。「この象限って何なんでしょうね?」と研修の場では軽い笑いをとるネタとして活用させていただいているが、もしかしたら、全てのポジティブな可能性と、そして『影』が含まれているのがこの領域なのではないかという気が最近している。
前述の①の考え方に比べると影の大きさが全て等しいというのは、救いである。なぜなら、人類は等しく偉大な成長を遂げる機会を有していることになるのだから。しかし、成長の可能性と同時に破滅への可能性も包含していると考えるのが妥当であろう。「性善説」「性悪説」という二分法がなぜ流行るのか、私にはよく分からない。どちらにも転びうる全ての可能性を秘めているのが人間なのであろう。
③全ての人間の『影』の大きさは等しく、自己の『影』を多く認識する人ほど大きな成長への途上にある。
恐らくこの辺りに真理があるのではないか?苦悩こそが人間の成長の源であるというのは、多くの賢者が語ることである。そして、私が思うに、その苦悩とは『影』からもたらされ、『影』をいかに統合していくかこそが、まさしく苦悩なのであろう。
私は本を何度も読み返すタイプの人間ではないが、上記の村上春樹の著作は3回は読み返した記憶がある。当時はあまりこうした側面を理解していなかったが、これは主人公が失われた『影』を取り戻す物語であった。「夢読み」としての静寂で安定して生活を捨て、「北のたまり(だったっけ)」に決死のダイブをしてまでして、『影』と共に生きていく決意をして物語は終わる。
同様の『影』にまつわる小説、文化人類学的な研究を集積して考察しているのが下記の名著(遠藤周作氏がそう評していました)である。
こんなエントリーを書いたからといって、こうしたテーマに基づいた研修を開発できるという話ではないが、そのうち人材開発の一つのテーマとして取り上げられてもよい気がする。
来月のことですが、30代の方をメイン対象としたキャリア研修という、今私が一番心躍るタイプのお仕事をいただいたのです。もちろん大枠でのお客様からのオーダーは外せないのですが、今回は講師は私一人のため自由度が高く、今からテキストや演習をどうしようかと、楽しい準備作業に追われています。
で、最近「働く」というテーマでいえばこの本が売れているようです。
実は先月からこの本を読もうかと書店で手にとってみたりしていたのですが、まず帯からして、私が抵抗感を示す要素が満載でした。
『古典が授けた五つの人生観』
「この方の言う古典って何なの?」と中身をぱらぱら見ると、「孔子」やら「後漢書」やら、中国古典が漢文調で引用されており、これはまー大学時代に竜馬や三国志を読んで涙した、みたいな人にはピタリと来るんでしょうが、このブログの読者の方はお分かりのように、私はバタ臭い西洋物でないと駄目な訳なのです(笑)。
で、一度は読むことを断念したわけですが、本日参加させて頂いた勉強会の終了時間が大幅に前倒しされ、本屋にいって「よし、いっちょ読んでやるか」という気になったのです。字が大きいので2~3時間で読めるかなと判断し、研修のときには「こんな持論をもっている方もいますよ」程度に話のネタになりさえすればよい、と小さな期待で購入したのです。
・・・今、3分の2近くを読み終えたところなのですが、もうまさしく私が研修のテーマとして強調したかったことがずばり書かれていたことに驚愕しました。どういう点かというと、この本の29ページに「日本に伝統的に根付いている仕事観」として以下の二つが太字で書かれていたので、引用しておきます。
(引用始)
『①仕事とは公のためにするものである。
②仕事とは天命に従って行うものである。』
(引用終)
まず、上記に引用した文章は、実は私の個人的な体験に基づく仕事観とほぼ完全に一致しています。で、その考えに至る私の「茨の道」をこのブログ上で語ってしまうと、理解のない方が読んでしまった場合、下手をすると私の研修講師としての価値が下落しかねないため、この場で語ることはやめておきます(笑)。私の研修に臨むポリシーとして、まだ青二才の私の人生論はしたくないわけです。で、こうした職業観に合致する、学問的な文献はないかと探していたところ出会ったのがマズロー、フランクルなのです。
例えば、下記の著作におけるマズローの自己実現観を引用しておきましょう。
(引用始)
『自己実現は、利己-利他の二項対立を解消するとともに、内的-外的という対立をも解消する。なぜなら、自己実現をもたらす仕事に取り組む場合、仕事の大義名分は自己の一部として取り込まれており、もはや世界と自己との区別は存在しなくなるからである。』
(引用終)
あるいは、フランクルは同様のことを以下のように表現しています。(私は先日ご紹介した山田さんの著作からこの文章に気付かされました。フランクルの同著や読んではいたのですが、その重要性には気付かなんだ・・・)
(引用始)
『ここで必要なのは人生の意味についての問いの観点の転回である。すなわち人生から何をわれわれはまだ期待できるかが問題なのではなくて、むしろ人生が何をわれわれから期待しているかが問題なのである。』
(引用終、強調は児玉)
おそらく現在のサラリーマンの方々のほとんどは「利他的」「奉仕」「公(おおやけ)」といったことはほとんど意識されていないと思います。しかし、ここにこそ本当の自己実現があり、ハッピーさがあるというのが、私の実感でもあり、マズロー、フランクル、そして北尾氏が口を揃えて言うことなのです。(ただ、北尾氏の場合、明確な記述はないものの、若干「滅私」のトーンが漂っており、また「自己実現」という言葉を「自己中心的」とほぼ同義にとらえているようです。ここがマズローやフランクルと異なるところです。)
興味深いのは、北尾氏がこの考え方を、儒教を中心とした中国・日本の古典をベースに形成し、それが西洋のマズロー、フランクルの思想と呼応しているという点です。やっぱり、究極的には東洋と西洋の違いを消滅するのではないかというのが、私の考えです。
また、二点目の「天命」という考えは、最近私が考えを巡らせる「スピリチュアリティ」に関連する事項です。(ちなみにこの話題が研修の現場では抵抗感を招くことは現実的な感覚を持つ私としては理解しており、従って冒頭に述べた来月の研修でも、また今後数年間はこの話題は企業研修の場では封印する所存です。)まず、ビジネスの場においてスピリチュアリティを語る点について、私はジェイムズの『プラグマティズム』を読み、以下のような結論に至りました。
①ビジネスに何らかの有用性をもたらすのであれば、ビジネスにスピリチュアリティを取り入れるべきである。
②蓄積されてきたビジネスの知識体系と矛盾がなければ、ビジネスにスピリチュアリティを取り入れるべきである。
だから、『オーラの泉』的な前世・守護霊・オーラの超常現象三点セットは仮に癒しをもたらしたとしても、上記②によりビジネスの現場には採用すべきではないと私は考えます。
でも、「人間存在を超えた大きな存在があると仮定すること」程度では、SWOTだの3Cだのはびくともしないでしょう(笑)。で、北尾氏は松下幸之助氏の「天は必ず何かの形で啓示を与えてくれるから、それに備えて日々努力していくことだ」という興味深い言葉を引用しています。
私が今研修講師という仕事に情熱が費やせるのは、実はこの「啓示」が大きな役割を果たしています。といっても、枕元に神々しい存在が立ち現れたとかいう派手な啓示ではなく、自分の人生を振り返ってみて、「啓示」を見出したという感覚です。私の人生が全て偶然により形作られていたのであれば、それはそれで「結構まー大変な人生だったね」で終わってしまうわけです(笑)。でもその数々の試練が、もしなにか「大いなる存在」によってもたらされたと仮定して考えるとどうなるか?・・・そうすると、もう私の天命は「研修講師を通じてサラリーマンの生きがいを取り戻す手伝いをする」ということ以外にはあり得ないのです!
妄想ですって?そう、妄想と言われれば妄想、でもその妄想で私がコスト度外視で仕事に情熱を傾けられるのであれば、それでいいじゃないですか。私もハッピーだし、恐らくお客様も満足していただけるはず。
この北尾さんという方は実は、約2年前に下記のタイトルのエントリーで取り上げていました。
このときも私は彼の倫理観に親しみを抱いているようですし、証券市場を「地下水」と表現する、そのよく訳の分からないメタファー(笑)にもなんか惹かれていました。人間学、金融、英語等の本を並行して読むという読書スタイルも私と同じで親しみが湧きました。
今回この本を読んでのもう一つの収穫は、「私ももっと頑張れねば!」という元気をもらったことです。北尾さんは一日に4時間しか寝ないそうですが、その理由を下記のごとく記しています。
(引用始)
『なぜ4時間しか寝ないのかというと、そうせざるを得ないからです。迫りくるものは自分の衰えであり、死です。私にあとどのくらい時間が残されているのかはわかりませんが、いずれにしろ永遠に生きられるわけではありません。限られた時間しか私には与えられていないのです。』
(引用終)
50を超えたオッサンがこんなことを言っているのに、私が弱音を吐いてどうする!・・・といっても一日6時間の睡眠は譲れないですけどね(笑)
本日の日経新聞朝刊によれば、2007年度採用の国家公務員1種への申し込み状況が2年連続で過去最低とのこと。この原因について、人事院は「民間企業が採用を増やしておいるため(引用)」とし、日経新聞は天下り規制との関連をにおわせる。
私が卒業したのは上智大学のしかも外国語学部。卒業後のキャリアとして国家公務員1種を選択する人は皆無に近く、従って国家官僚達の内面を「友人」の生々しい肉声として聞く機会がないわけです。で、そんな私が常に不思議に思っていたのはこんなこと。「彼等が国家公務員を志望する動機には多少の差こそあれ、若かりし日は民間企業が提供する金銭的なインセンティブに目をくれることなく、『日本をよくしたい』といった崇高な目的意識が少なからずあったはず。そんな彼等が、まあ、どうしてほとんど例外なく『あーなって』しまうのか。」
この私の中の疑問に対する説得力ある仮説のベースとなりうる文章に出会ったのが、今読んでいる下記の著作。(ちなみにたくさんの本をこのブログで紹介していますが、私は1冊の本を読み終わるまで集中するのではなく、3~4冊の本を同時並行でちょこちょこ読み進めるスタイルなのです。)
ちなみに話がそれて、この本自体については、著者は一連のフランクルの著作を翻訳している方です。「本書はいわば生きがいを求めての魂の遍歴を記した旅行記(引用)」と冒頭で説明されていますが、自らの体験的な要素は希薄であり、古今東西の哲学、宗教、心理学等の読書遍歴を明晰な文章でまとめた、といった感じの著作です。内容は深く何箇所も傍線をひきましたが、決して味わい深くはなく、また今までこの著作のタイトルのテーマに従ってなんらの読書経験を持たない方にとっては、とっつきにくいかもしれません。
で、話は戻って、私が国家官僚達の内面を垣間見た、と感じたこの著作のワンセンテンスを下に引用しておきましょう。
(引用始)
『「意味への意志」が満たされないときにはじめて、その内面的不充足を麻痺させるために人間は快楽や力を求めるのだということである。「快楽への意志」や「力への意志」は「意味への意志」の欲求不満を麻痺させ自分を酔わせるために、いわば派生的に生じるのだということである。』
(引用終)
当初より国家官僚を目指す方々には、例えば金融庁の若手官僚が金融機関のトップを集めて説教をたれるといった、「権力の大きさ」に惹かれるといった側面も、もちろん本音ベースではあるでしょう。しかし、若かりし頃は「日本をよい国にしていきたい」と多かれ少なかれ大志を抱いていたはずであり、自らのキャリアに求める「意味」の大きさたるや、一般民間企業に入社する我々とは比べ物にはなりません。
で、キャリア組官僚の意味への欲求は満たされたのかといえば、そうであるはずがないことは、日常的な新聞報道からも明らかです。一般人とは比べ物にならないほどの大きな「内面的不充足」を抱えた彼等が、天下りを通して「力」や「快楽」を追求し、その不充足を埋めようとすることは、心理学的にみてなんら不思議なことではないといえます。
恐らくは、キャリア組官僚に対しても、民間の研修機関が入り込んで、なんらかのキャリア開発研修(親父ギャグではありませんよー)を導入していると考えられ、それがどれだか彼等の内面に深く入り込めているか、関心があります。守秘義務があるので詳述はできませんが、官と民間の線引きがグレーな機関で担当させていただいた研修は、忘れられない印象深いものでした。少なくとも研修の場では、受講生の方々の「意味への意志」が再燃したように、私には感じられたからです。
「日本をよくしたい」「社会をよくしたい」といった崇高な目的意識に対して、研修講師という間接的な形で関わりながら、自らの内面の充足を満たしたいという思いを新たにした次第です。
ようやく今週で、仕事に一段落ついた感があります。もちろん、仕事で忙しい最中にも読書をしていたのですが、最近読む本は、岩波文庫ばかり(笑)。アリストテレスの『ニコマコス倫理学』とかジェイムズの『プラグマティズム』とか。まさか、このような本を仕事のために読むことになろうとは、若かりし日には少しも想像だにしませんでした。こうした本を読む直接的なきっかけになったのは、以前ご紹介したバダラッコ著の『決定的瞬間の思考法』に影響されたからなのですが、『キャリア開発・デザイン』という分野は想像していた以上に深い!!!気がつくと、このテーマでの企業研修を数多くこなしており、自分でもより深い講義が展開できるようになったと自負して