【因果関係究明のプロセス】
今回の餃子問題に関する報道で、ビジネスの場に直接役立つと感じたのは、因果関係究明のプロセスである。
当初の報道では、毒物が検出されたパッケージには穴があいており、そのため毒物混入が中国国内において行われたのか、日本国内において行われたのかさえ特定できないでいた。その際、私が見たNHKのニュース番組では、「全体像の図示」と「消去法」の二段構えで、「中国国内で混入された可能性が高い」と結論づけていた。具体的には「中国工場で製造 → 輸送(中国内、洋上、日本国内) → 小売店」のような経路を示し、例えば洋上においてはコンテナ内に密閉されており、専門家から「密閉されたコンテナを開封して再度密閉したことを他者に悟られないことは、かなり難しい」との証言を引き出しており、洋上での混入の可能性は極めて低いとして、消去していた。恐らく重要であるのは、最初に問題を取り巻く全体像を図式的に整理することである。これにより、どこにどのような可能性が潜んでいるかを網羅的に検証することができる。
また、後日、穴の空いていないパッケージの中から毒物が検出された事実等も合わせて、日本にいながらにして、中国の工場の「包装」に関わる工程で混入された可能性が高いことが明らかにされたことで、私は客観的なアプローチのパワーを感じた。で、それが故意なのか偶発的な事故なのかを探るにあたって、メタミドホスは当該工場では通常使用されていない、との工場長の証言により、故意による可能性が高い、というところまで絞り込まれるに至った。「故意」「偶発事故」という仮説を示し、その一方を事実をベースに消去する、というアプローチも、企業内の問題の原因の所在を探る上で、大いに参考になると思われる。
【「真因」を探る】
先日、他の研修講師の方々と雑談する中で、「真因はどこまでたどれば真因と呼べるのか、難しい」という話になった。トヨタでは、「5WHY」なる標語のもと、5回くらい「なぜ」を問い続けることにより、問題の真因の所在を探求することが習慣付けられていると言われる。この「なぜ」を自問するプロセスが浅すぎても、また深すぎても有効な対策案は立案しえない。
たとえば、今回の餃子問題でマスコミがたてた仮説が正しく、中国の工場内に経営陣及び日本に不満を持つ従業員が存在し、彼あるいは彼女が包装工程で毒物を混入したということが特定できたとしよう。この場合、人物を特定できただけでは、抜本的な問題解決とは呼べない。そのような行動の背景に、例えば「労使関係の悪化」等の真因が存在するならば、「労使間の対話の場を設ける」「労働者への処遇を改善する」等の改善策が有用となる。
あるいは、ナイキの生産委託先が小児を労働者として使用していたことが明らかになった際に、ナイキ製品の不買運動が発生し、CSRを考える契機となったことを考えると、生産を委託した日本のJTも加わった上で抜本策を講ずることが必要であるのかもしれない。
いずれにせよ、ビジネスマンとしての問題解決は、このレベルまで対処できれば、「合格」と呼べるであろう。
【更にたまねぎの皮をむく効用】
さて、ではこの餃子問題に対して、更に「WHY」を自問するとどうなるか?そもそも、日本で消費される餃子がなぜ中国で作られているのか?そう考えていくと、「安くておいしいものを食べたい」と考える、消費者としての我々自身の内にある、貪欲な欲望につきあたる。
「餃子問題の真因は、日本の消費者の欲望にある」とする解答は、ビジネスマンとしては0点である。しかし、一人の日本国民としては、自身の中にもこの問題への遠因があると考えることは、重要であると考える。「自分自身も加害者である」と自覚できることによる、直接的な効用は、日中関係の極端な悪化を抑制できる、というものがある。
また、マスコミをにぎわす様々な問題を自身が当事者であると考えて行動を起こすことは、その人の人間的な成長を促す。我々は凶悪な事件の被害者に共感に意を示し、加害者が特定され、断罪されることで、胸がすーっとする感覚を味わう。しかし、見えぬ因果の循環の中で、背後から犯罪者の背中を押しているのは我々自身であることに気づくかもしれない。あるいは、犯罪者をかりたてた衝動と同じ衝動を、自らの内に見出すかもしれない。こうして考えることの方が、誰かが裁きにあう様を見て快感を覚えて安眠に落ちるよりは、はるかに人間的ではないか。
もちろん、「内なる悪」に対して更に「なぜ」を問いかけ、「社会システムの悪」を見出す人もいるだろう。たとえば、安い冷凍餃子に食の楽しみを見出さねばならない状況を作り出した、「日本国内の貧富の格差」に気づく等。そうした認識に基づいて、社会を変革する運動に参画するのであればよい。しかし、「自分の非」「内なる悪」の真因を例えば「前世」等に見出して、「だったらしょうがない」という態度を決め込むのは私の好みに合わない。
で、本日のエントリーから得られた格言。
真因探求を適度なレベルで止め、有効な対策を打つのは有能なビジネスマンの証である。
真因探求を深め、自己が因果の連鎖の中にあることに気づきを得るのが「人間」の証である。
約10日前の日経新聞のトップを飾った記事である、確か。以下はNIKKEI NETのリンク先を掲載しておきます。
(11/8)オリンパス、ベトナムにデジカメ工場・中国集中見直し
私なりの言葉で記事を要約すれば、オリンパスが中国の人件費高騰等を背景に、中国にある2箇所の工場のうち1箇所を閉鎖し、その代わりにベトナムに生産工場を新設するとのことである。ちなみに、このような海外生産拠点の移管の動きはオリンパスだけに限定されたことではなく、従ってこれから私が述べることは、オリンパスという個別企業に対する批判であるつもりは毛頭ない。この記事を読んで想起した私の想いをベースに、より普遍的な「日本企業に対する批判」あるいはもっと普遍的に「企業活動に対する批判」を展開したいというのが、私の意図である。
この記事を読んだときに、私の頭の中で「連想」したのは、例えばゴーン氏が日産の村山工場の閉鎖を決断したときの「世論」であったり・・・あるいは、敵対的買収の動きに対して「雇用の死守」というお題目を掲げて、買収防衛策を発動する多くの企業の動きであったり・・・敵対的買収者の誰一人として大幅な人員削減など、声高に叫んだことはないのに・・・
一方で、中国の人件費高騰が懸念されるから、ベトナムに生産拠点を移すというのは、中国の工場で働く従業員を「モノ」とみなしているからこそ、なし得る決断である。「モノ」は価格があがれば、代替品を探さねばならない・・・しかも、中国への生産拠点移管の動きは、2000年前後にはじまったつい最近の出来事である。もし、ある外資が日本で工場を建設して、10年もたたないうちに閉鎖したとしたら、マスコミはどのような論調で記事を書くのであろうか?あるいは、アメリカやEC諸国といった先進国で、このような短期間での生産拠点移管をなし得る程、日本企業の経営陣の腹は据わっているのか?
終身雇用は、日本的経営の一つの美徳であると考えられている。日本の美しさを守るためには、外資からの敵対的買収には何がなんでもNOという。しかし、終身雇用という美徳を、日本人以外の従業員にも享受させようと考える経営者はごくごく少ない。
日本国外にあっては、「生産拠点の移管」というサラリとした表現の経済合理主義に基づいて行動し、日本国内にあっては「従業員第一主義」を掲げて行動する日本企業。これは明らかに二枚舌である。もちろん、企業活動は、慈善事業ではなく、食うか食われるかの厳しいビジネスであり、「二枚舌はダメ」みたいな小学生に対する教訓を企業経営者に説いたところで、一笑に付されるのみである。企業経営には確かにマキャベリ的な狡猾さも必要であり、二枚舌の効用も認められるところである。
しかし、今後グローバル化の動きがますます加速化していくことを鑑みると、このような大胆かつ単純な二枚舌は命取りともなりかねない。まずは、矛盾に満ちた企業活動の諸側面の自己認識を深めることが、企業経営者にとって不可欠なのではないかと思う。そして、そのためにはマスコミの「グローバルな観点からみて客観的な記述」が不可欠となる。鈴木敏文氏によれば、客観とは「一歩ひいてみること」であり、これは実に名言であると思う。残念ながら、日経新聞には「一歩ひいて物事を見るスタンス」が希薄であるように思える。
マスコミと協同歩調で真にグローバルな観点から自己認識を深められれば、日本企業の未来は明るいと思う。
1エントリーにある程度のボリュームを書こうと思ったり、「おち」らしきものまでつけようとすると、筆が一気に鈍くなる。ま、更新が滞っていたのは忙しかったのもあるのですが。で、思ったのは、これからは思いついたことを短文でいいから書きとめようと。「おち」を書こうと頭を痛めることはもうしない!どうせ大したおちでもなかったし(笑)
【JR銀行構想】
SUICAのことを考えて駅の改札口を眺めていて、はたと思った。「こいつら、もしや銀行始めようと考えてないか?」SUICAの限度額を大きくして、利息をつけて、時には引き出せるようにして、記録をつける冊子をつくれば、もうこれは預金口座と大差がない。色々法的な制約は多々あるのかもしれない。でも、SUICAが普及すればあの夥しい数の券売機の多くは余ることとなる。最近自らの駅ナカビジネス等で自らの持つ「不動産」の収益力に気づいたJRのことである。券売機もただで余らせておくはずはない。あまりクリエイティビティはないが、余った券売機を銀行のATMに変えることは非常に容易い。確か、東急も駅ナカにどっかの銀行のATMを設置しはじめたというニュースを最近読んだ記憶がある。
もっと本業で顧客満足を考えてくれ、といいたいところだが、最近のJRの企画力には目をみはるものがある。詳しい分析は全然していないが、JR株は上昇の余地が結構あるのかもしれない。
【ポーター = 構造主義】
全く恥ずかしいくらい遅れて、今更読んでいるブルーオーシャン。
で、のっけから興味深い記述があった。つい、一昨日「これからはマネジメントも哲学の時代だ」みたいなことを書いた直後に目に入ったのは、マイケル・ポーターの一連のフレームは構造主義に基づいているとの指摘。確かに言われてみればそのとおりである。で、哲学で「構造主義」と言えば、当然その次の波として来たのは、「De-construction(脱構築)」の流れである。で、ブルー・オーシャンの著者達は自分達は「Re-construction」であるという。まだ、4分の1程度読んだばかりだが、ん~、そこまでいえるかどうか疑問。
ただ、5フォースだの、SWOTだの、3Cだの、そうした決まりきったフレームを壊して、新たなフレームを作るくらいはしていいと思う。新たなストラクチャーを作るだけで構造主義の域を出ていないとは思うが、それだけでも結構斬新な戦略が構築できるように思う。私が書いたステークホルダー・リエンジニアリングなんかも、そんな流れにのる感じがする。
【年金徳政令】
今朝の日経新聞一面の『厚生年金支給へ特例法』の記事を読んで、「徳政令」の三文字が頭に浮かんだ。だって、年金保険料をねこばばした中小企業って、今回の一連の騒動と全然話が違うじゃん!これで「馬鹿をみた」と感じるのは、苦しいながらも真面目に厚生年金保険料を納めていた中小企業であろう。私の(有)エイムハイ・コンサルティングも真面目に収めていたりする。で、従業員一人で、会社負担と自己負担とあわせて収めなくちゃいけないから、たいした給料じゃないですけれども、保険料が口座から引き落とされる日は、さながら「ゴソッ」という音が聞こえるかと錯覚するほどである。従業員が数十人規模の中小企業であれば、本当に毎月末の苦労が私には手に取るように分かる。でも、今回の徳政令で、少なからぬ善良な中小企業経営者が「ああ、馬鹿を見た」なんて思うかもしれない。
悪徳中小企業のネコババ分を「見舞金」なんて名前で国民の血税を投入してよいのか?これももとをたどれば、社会保険庁の中小企業に対する、中途半場な態度に起因する。こんなことになるのなら、未加入の事業者に対してもう少し、厳しく対するべきだったであろう。
全く私という人間は、自分がスピリチュアリティに入れ込めば「21世紀はスピリチュアリティの時代だ」といい、哲学書にはまりだせば「これからは哲学の時代だ」というエントリーを大げさに書いたりする・・・と、軽く自虐を交えつつ書き始めながらも、これからはスピリチュアリティも哲学も両者ともにマネジメントに大きな影響を及ぼすと真剣に考えている。
【思考面への影響】
このうち思考面に関しては、既にその萌芽が見られている。今年4月の日本語版HBRのテーマは「弁証法」だったではないか。
私が担当するような、というか世間一般に普及している企業研修で行う「ロジカルシンキング」のメインテーマは2つある。①MECEという、いわば集合論と、②帰納法、演繹法を積み重ねる論理学だ。しかし、哲学の分野から思考面で応用できるものは、これだけに留まるはずもない。上記の弁証法的思考もそうだし、あと野中先生の「暗黙知」の概念も、もとは哲学者ポランニーの提唱したものである。
何事も根底から覆そうとすれば、全て哲学的な課題にぶちあたる。我々が全てゼロから考えるのもよいが、先人のたどった道を活用しない手もない。
なお、余談だが、下記の著作を読んでいて面白い一節を見つけた。
(引用始)
「これは本当の話かどうかわからないけどね。トヨタがレクサスを開発するときに、300人のエンジニアを集めて『メルセデスがクールな理由をすべて分析しろ』と言ったそうなんだ。それで彼らはメルセデス・ベンツを研究し、言語化できない特徴を徹底的に洗い出した。たとえばドアを閉めるときの音とかね。でもその結果、そのドアの音を再現するには、ドアの枠全体が車のシャーシに『同時に』触れなければならないとわかったらしい。もしどこかの箇所が先にシャーシに当たったら、あの音は出ないんだそうだ。」
(引用終)
私も不勉強で上記の話が本当かどうか知らないし、本当であるとするなら既に「有名な」逸話なのかどうかも分からない。本当であると仮定するなら、既に「暗黙知」という哲学者ポランニーが唱えた概念は企業経営に根深く入り込んでいると言えるだろう。
【倫理面への影響】
リーダーシップにとってインテグリティ、モラルといった要素が重要であることは多くのマネジメント系の著作で指摘されている。しかし、これらの著作がその学問的基盤として主に依拠するには「心理学」である。たとえば、「モラルリーダーシップ」みたいな著作は、一章を「Emotion(感情)」にあてたりしている。思えば、前世紀においてはマネジメントは心理学の遺産をかなり引き継いで発展を遂げた。これから一歩先を行く深みのあるリーダーシップを発揮したいのであれば、哲学の遺産に学ぶことが有効であるような気がする。
例えば、自律性の重要性を説くカントの道徳形而上学。その一方で、自由意志を否定するスピノザのエチカ。こうした哲学的アンチノミーに悩み自分なりの答えを出すことが、深みのあるリーダーシップを発揮する上でも重要なのではないかと思う。というか、そう信じたい。私が今まさに悩んでいるところだから(笑)。
色々と仕事が続き、昨日は研修終了後、梅雨の湿気も手伝って疲労が蓄積し、自宅最寄り駅からタクシーに乗らねばならぬほど疲れきっていた。今朝もなんとなく気だるい感じなのだが、意外なことにこういうときこそ、つまり意識が鋭敏に働いていないときにクリエイティブになれることに気付いた。本日のエントリーのタイトルも自画自賛でなんだが、気が利いているんでないの?(笑)
【悪魔の発明品 Suica】
このタイトルの流れを最も最近に私が体験したのが、先日のエントリーにも書いたSuicaである。私の自宅最寄駅はJRであり、その意味ではJRにとっては「かも」である私だが、私は一度としてJRの職員に親近感、感謝の念を抱いたことがない。新幹線に乗っていたとき風邪で悪寒に見舞われ、車掌に毛布を貸してくれと頼んだら、「あれはグリーン車のお客様専用です」とあしらわれたこともある。乗り継ぎ駅で、前を行くオバちゃんに切符を間違って持っていかれてしまい、降車駅でその旨を説明しても信用してもらえず、結局二重に料金を払わされるハメになったこともある。また、JR横浜線の最終列車の込み具合は、あれはアウシュビッツへの護送車よりもひどい状態である。ほろ酔いサラリーマンがすし詰めにされるのは、まさに地獄絵図である。もう1本列車を増やす余裕はあるはずなのに、一向に増発の気配は見られない。彼らは我々を顧客と思っていない。というか、人とすら思っていない。
とまあ、たまった恨み節を書いてしまったが、上記からも分かるように私はJRに対しては憎悪の念すら抱いているロイヤリティーの極めて低い顧客である。しかし、Suicaによって私はJRに対して無利子の資金貸付者という関係性までも結ぶハメになってしまった。最初は2千円くらいのチャージから恐々はじめていたが、今は1万円くらい、どんとチャージしてしまう。なぜかといえば「面倒くさい」から。JRへの否定的な感情は消えないまでも、やはりあのカードにより享受できる「利便性」は捨てられない。反感を抱く顧客が、気がつくと無利子で資金を提供している。しかも、JR以外の私鉄各線に乗る分の金額まで。極めて「クレバー」で「クリエイティブ」だが、「悪魔的」ともいえる発明であろう。
【ロイヤリティの高い顧客→個人株主】
企業にとってのステークホルダーといえば、顧客、株主、従業員、ベンダー、債権者、地域社会などが挙げられるであろう。そして、この垣根を取り払う、あるいは曖昧にすることで、過去に画期的な数々の発明があったのであり、これを疲労状態から高度なクリエイティブな状態にあった私が「ステークホルダー・リエンジニアリング」と名づけてみたのだ。その「ステークホルダー・リエンジニアリング」の歴史を振り返ってみることとしよう。
ファンドによる敵対的買収が隆盛を誇る現在において、安定株主工作は保身を考える企業経営陣にとっては、正に死活問題といえる。そのような中、個人株主をいかにして獲得するかが上場各社の財務担当者の一つの共通のミッションとして浮上する。
いかにきれいごとを言おうと、根っこの動機の一つとして「経営陣の保身」があることは否定はできない。したがって、安定株主の新たなターゲットは「甘い」株主でなければならない。そこで注目されたのが、極めてロイヤリティーの高い顧客である。彼等をレアな特典がつく「株主優待」で巧みに誘い、一定の「物言わぬ安定株主層」を形成したしまった策略は、これまた実に巧みであるといえる。その背後で失われるものとして忘れてはならないのは、当企業にとっての規律である。規律はまさしく「良薬口に苦し」なのであり、経営陣の耳には短期的にはうるさい存在だが、それでも長期的には「良薬」であるということを忘れてはならない。きつい言い方をすれば、ステークホルダー・リエンジニアリングは画期的である反面、良薬を阿片に転ずるという側面もある。失われた規律を、どう自ら律するか、という観点で議論が行われてしかるべきだが、恐らくそのような議論が行われた企業はほとんどないであろう。
【ハイブリッド金融商品】
株主も債権者も、「資金提供者」という上位のカテゴリーを持ち出せば共通的にくくれるのであり、他のステークホルダーに比べれば両者の類似性は一目瞭然である。で、両者の垣根に関しては、かなり早い段階から曖昧になってきている。優先株、劣後債、転換社債、WB・・・様々なクリエイティブな金融商品が開発されたことは、わざわざここで書くまでもない。しかし、これにより失われたのはやはり、財務上の規律であった。
あの、バブル期の日本企業によるワラント債発行ブーム。普通社債に「ワラント」という甘味剤を付与することにより、社債の利率を低利に抑えることが可能となり、日本企業の財務担当者は争ってワラント債を発行しまくった。ここで忘れられていたのは、ファイナンスの基本原理である、「株主資本コストは負債コストよりも高い」というあまりにも基本的な事実であった。バブルが過ぎ去った後に、ワラント債発行体は、そのツケの大きさに気付き愕然とするのである。
バブル期の狂騒から10年以上も経過し、再びゼロクーポンCBブームが日本に訪れる。ああ、学習しない哀しき経営者達よ。彼らは利率がゼロになる代償に気付かなかった。ゼロクーポンCBに内在されるオプションはヘッジファンドに転売され、「空売り保険」として機能し、株価の引き下げに大いに寄与したのであった。
【その他及び総括】
その他の流れでいえば、アウトソーシングというのは「従業員」と「ベンダー」の垣根を曖昧にすることに寄与したといえるのかもしれない。また、SCMの全体最適の潮流により、ベンダーと企業の間の垣根が低くなったのかもしれない。
ステークホルダー間の垣根を見直すことにより、様々なクリエイティブなビジネスモデル、商品が誕生してきたのは上記に概観してきた通りであり、まだ新たな見直しにより何らかの新しいクリエイティビティが発揮される余地があるのかもしれない。しかし、どのようなクリエイティビティであれ、共通的な代償としてなんらかんの「規律」が失われてきたこのには、留意せねばならない。『ビジョナリー・カンパニー』が説くように、長期的に渡って反映する企業の条件の一つが「規律」である。失われる規律にどう対処すべきか、という観点さえ忘れなければ、今後も斬新なステークホルダー・リエンジニアリングが展開されていくのかもしれない。
「悪」と言おうが「影」と呼ぼうが、その呼称についてはどうでもよい。最近私は人間の負の側面に大いに関心がある。私個人がどう生きていきたいかという側面からの関心に留まらず、新時代のビジネス・エシックスを考える上で重要なテーマであると直観するからこそ、私を魅惑するテーマなのである。そんな時に出会った本が、下記の著作である。
冒頭の「はじめに」の章の以下の文章を読んだとき、私は「どきり」としたと同時に、ようやく出会いたい本に出会えた、そんな印象を受けた。(なお、この本、全200ページくらいある中のまだ3分の1しか読んでいない中でのエントリーのアップなので、理解不足による誤解が含まれている可能性があることをご了承いただきたい。とかいって、これはこのエントリーに限ったことではないですが(笑))
(引用始)
『彼ら(テレビのレポーターを指します)の言動を膨大な「善良な市民」たちが支えている。自分を何の躊躇もなくまともな人間の側に置き、犯罪被害者に心からの同情を寄せ、犯人(容疑者)に不思議な動物でも見るかのような視線を注ぐ。この安定した固い枠が永遠に続くとでも思っているかのような自信に満ちた態度である。自分の中の悪を見ようとしない彼らは有罪である。自分の中の悪に蓋をして他人を裁く彼らは有罪である。』
(引用終)
基本的には、この本はカントの倫理学の解説書であり、従って本文に入ると難解なカントの引用が随所にあって、冒頭文のような読みやすさ、衝撃は少なくなる。しかし、ドストエフスキー等の文学作品の登場人物や、我々の現代の身近な事例をふんだんに取り入れ、私のような凡人にもなんとか原著を読まずしてカント倫理学の片鱗をつかむことを可能にする、良書であると思う。
【カントが考える道徳的善さ】
カント倫理学を紐解くことは、新しい時代のビジネスエシックスを考える上でも重要となると考えられる。ここで、その概要を簡単に紹介しておこう。まず、カントは「適法的行為」と殺人や盗みといった「非適法行為」を峻別するところから出発する。中島氏によれば、カントは「悪」であることが明白な「非適法行為」自体への関心は薄い。カントは、「適法的行為」の中にも「道徳的に良い行為」とそうでないものがあると分類する。カントは「適法的行為」を営む善良な市民の内面に潜む「悪」に関心があるのだ。
では、どのような「適法的行為」が「道徳的に善い」とされ、「道徳的に善くない」とされるのだろうか?上記の著作には2つの基準があるが、そのうち1つだけ紹介しておけば、その動機である。自己愛的な動機に基づいて「適法的行為」を行っても、それは「道徳的に善」ではないという。これはかなり厳しい考え方である。我々人間はほとんど、善行をつむことが不可能になってしまうからだ。
(引用始)
『いかなる政治活動も、宗教活動も、いやボランティア活動さえも、究極的には「他人の信頼」という永続的利益を求めているのであるから、厳密には道徳的には善くありえない。』
(引用始)
私はいまでもコービーの「7つの習慣」に従った生き方は素晴らしいと思っているし、実際そのような生き方が根付いている方には、そうそう多くは出会う機会がない。しかし、カントの考える倫理観に照らせば、コービーの「相互依存」の考え方などは、自己愛の臭気がぷんぷん満ちている、ということになってしまう。
しかし、だからといってコービーの原則を否定するつもりはない。恐らく、コービーの原則は、我々人間が生きていくための「現実的な最適解」と解すべきであろう。が、しかし、コービーの原則に心打たれその通りに生きようと努め、「自分は善く生きている」と実感している人間がいたとすれば、その人間は成熟の度合いが低いといえよう。コービーの原則の根底にも「自己愛」を目ざとく見出し、そしてそれはホリエモンをあのような方向に導いた「自己愛」と大きさこそ違え同性質のものである、と気付きつつ『7つの習慣』に従った生き方ができることが理想なのだと、私は考える。
【神の見えざる手】
さて、ビジネスエシックスの基本として長らく考えられてきたことは、カントの倫理観と全く異なる様相を示すものであった。「経済主体が各々利己的な活動を営めば、あとは『市場』という神の見えざる手が、よきに計らってくれる。」というアダム・スミスの倫理観に従えば、20世紀までは左程多くの問題は生じなかった。この考え方はカントの倫理観の対極にあるように見え、興味深い。カントは「自己愛」の片鱗が見えれば、それを「悪」と呼ぶ。アダム・スミスは「自己愛」を突き進めることこそがビジネス上の「善」であるという。
しかし、市場の外部にある問題は、「神の見えざる手」に委ねることはできない。そしてその代表格が、連日のように新聞報道を賑わす環境問題に他ならない。環境問題を契機として、我々は21世紀、そしてその後の地球を永続させるような、新たなビジネスエシックスに、想いを巡らせる責務がある。
【『超』コンプライアンス】
新たなビジネスエシックスを考える上にあたっては、カントが行ったように適法的行為の中から道徳的に善である行為を峻別する、なんらかの基準を探し出すことが、現実的に有用であると思われる。もう、ある程度の規模を持つ企業であれば、コンプライアンスの体制は整備されつつあるように感じられる。これからは、法とは最低限の基準に過ぎないことが我々が実感できるよう、各々の企業が考えていく責務があると思う。
ヘビーな読書家としての顔を持つ私は、書店の経営については言いたいことが山ほどある。
特に大規模な書店でいつも不満に思うのは、陳列がジャンルではなく、本のサイズに依存しているということ。例えば私のお気に入りの新宿タイムズスクエアの紀伊国屋書店は、文庫&新書は確か3階にある。で、その他のビジネス書は6階にあるものだから、あるテーマで手ごろな入門書などが欲しいときは、フロアを行ったり来たりせねばならず、非常に困る。結局、そんな手間も面倒なので、大概は高めのハードカバーの入門書を買うはめになる。
まあ、新書・文庫・ハードカバーと一緒に陳列しようとすると、スペースのロスがでるから分けねばならないという事情は分かる。しかし、新書コーナーにいくと、今度は内容別の分類の前に、出版社別という分類が優先されることになっている。しかも、同一出版社内においても、内容毎に陳列棚がまとまっていることはなく、大抵は出版年月順という買い物客にとっては全く意味をなさない陳列順になっている。数年前の新書ブームにより、新書の出版社はいまや10を超える状態にある。欲しい新書というのは実に見つけにくいのだ。
しかし、ポジティブシンキングな私は、この「カスタマーアンフレンドリーな陳列」という状態を逆手にとって、新書コーナーは「本との偶然の出会いの場」と認識を新たに、大規模書店の新書コーナーを徘徊している。結構いい本に出会うことあるんですよー、これが。この手法で出会った新書が以下の2冊。
え、こんな本なんで読んでるかですって?答えは「キャリア研修に使用するため」です。もちろん、メインディッシュなどではなく、ほんの隠し味ですけどね。カレーに蜂蜜を入れたりする、そんなノリです。(笑)
そんな口うるさい私も、先日「おっ」と思ったのが新宿三越(新宿三越自体もコンセプトが変わりましたねー)内にあるジュンク堂書店。入るなり、「おっ」と思ったのですが、それを上手く頭の中で言葉にできない。
ちょっと横道にそれますが、上記の現象を自己分析しておくと、ユングのタイポロジーによれば、私は「内向-直観」型の人間なのです。で、「直観」が優勢にたつ人というのは、「感覚」が劣等機能であり、したがって見聞きしたものがスコーンと入ってこないのです。音楽マニアでありながら音質に対する興味は皆無であったり、味覚オンチでビールの銘柄なんて絶対当てられないし、歩道に冷蔵庫が放置されていても考え事をしていると記憶に残らないし・・・ま、ま、私の「感覚」が劣等機能であるエピソードには事欠かない訳ですが、ジュンク堂に入っても、すぐには何が違うと言えなかった。
別にたいしたことではなく、ジュンク堂の他書店との違いは、ほとんどの書棚に平積みのスペースがないのです。大抵の大規模書店はひざの高さくらいのところに平積みスペースがあり、その下に引き出し型のストックがある。で、私などが欲しがるマニアックな本は、そのストック内にあると思われることが多々あるのだが、書店で勝手に引き出しを空けて本を探している人というのを見たことはないから、常識人として生きていきたい私もそういうことまではしない。その結果、"I'm so frustrated!"
ジュンク堂は上から下まで書棚だから、言ってみればストック内も顧客にオープンに見せているも同じこと。また、引き出し型のストックがない分、店内に多くの書棚を設置できるはずであり、従って陳列できる本の数も他書店に比べれば随分多いはずだ。
紀伊国屋も三省堂も有隣堂も本当に代わり映えしないが、このジュンク堂やあとビレッジバンガードとか、ようやく書店にも新風が吹き始めてきた模様。ちなみに、私は今から丁度二年前にこんなエントリーを書いていた。
ジュンク堂の返品率というのは、他書店に比べ少ないのではないかというのが、私の推測。なぜならば①平積みが少なく、かつ②他店ならばストック内にある本がオープンに陳列されているから。
ちなみに、この2年前のエントリー、実は隠れた人気エントリーなのである。アクセス数ではそれほどではないものの、このエントリーは短い文章ながら滞留時間も長く、かつ他ページに立ち寄る率も高い。もしかして、ジュンク堂の方、私のブログから着想を得ませんでしたか?というお目出度い妄想で、本日はこれまで(笑)!
このブログに女性の読者がどれほどいるかどうかは不明だが、多少「不適切」な表現を交えると、正直なところ日経新聞の記事を読んでも「精神的に勃たない」状況が続いていた。もちろん毎日新しいニュースが目白押しなのだが、今の私のレベルで批判できるネタは批判しつくした感がある。もっと深いレベルで考えることも多々あるとは思うが、そこまでブログ執筆に時間を費やすこともできない。「三角合併解禁」のニュースも今の私にとっては「鮎つり解禁」のニュースと同程度の重みしかなく、「あっそ」くらいの感想しか浮かばない。
しかし、そんな最近の私を奮い立たせるのが「環境問題」に関するニュースである。多くの読者の方には、「環境問題って何を今さら」といった感が生じるだろうが、私の中ではこの問題がマイブームなのだから仕方がない。なぜ環境問題に関心が芽生えてきたかというと、一つには化石燃料の消費を中核とした20世紀型経済成長に軌道修正を迫るという、問題自体の重要性がある。また、その解決のための一つの手段としての排出権取引の仕組みに対する、インテレクチャルな関心がある。遥か昔に経済学のテキストで見た「市場の外部性」という問題。排出権取引という取り組みが果たして成功するのか否か、という点からも実に興味深い話題である。
これからも時々この話題でブログを執筆するかもしれないが、事前に「予防線」をはっておくと、文体こそエラソーだが、私はこの問題に関してはド素人である。また、将来この話題がメシの種につながることは考えがたく、したがって勉強のために割ける時間は限られている。で、いいたいことは、間違ったこと、変なことをいっぱい書くかもしれないが、それはこのブログが私自身の自己研鑽を目的としているというからご勘弁を願えればと思う。変なこと言っていたらコメントでご指摘いただければ幸いです。
本日の日経新聞には排出権がらみの記事が3つもある。そのうち2つを紹介すると、まず3ページの記事は温暖化ガス排出権の「格付け」ビジネスがスタートするというものである。また、11ページには双日が排出権のネット取引を仲介するとい記事。排出『権』という以上、これはオプションの一種と考えてよいのであろう。ならば、金融オプションの取り巻きビジネスが、排出権の周辺に進出してきたとしても少しもおかしくはない。どちらのビジネスも大量のCO2の排出は想像しがたく、環境問題が新たな経済成長の場を提供して好例ともいえる。
ただ、排出権取引の報道を見るにつけ、私の心の中には子供の純真さを失っていない、ド素人ならではの疑問がいくつか湧き始める。で、佐和教授は下記の著作で排出権取引に関してどう述べているかという点について、多少表現を変えて要約させていただきたい。
(上記の著作をベースに児玉が要約)
【排出権取引のメリット】
・総排出量を所与の値にコントロールできる。(←精確なモニタリングが必要)
・全世界に共通の炭素税を課するのと同じこと。
【排出権取引の問題点】
・排出権の価格が年々値上がりするのは確実。
・発展途上国の排出量は経済発展に伴い自ずから増加するはずだから、市場に提供される排出権の量は次第に減少する可能性が高い。
・排出権が投機の対象となるもの考えもの。
佐和教授の著作の記述には見られないが、私が排出権取引のデメリットとして危惧するのは、環境問題に対する国民一人一人の意識を鈍磨させるものであるという点である。例えば本日の日経新聞3ページには以下のような記述がある。
(引用始)
『日本は京都議定書の約束期間(2008~2012年)に温暖化ガス排出量を1990年比6%削減する義務を負う。実際には逆に8%増えており、排出権購入に動く企業が今後増える見込み。』
(引用終)
実際にCO2排出量を増やしてしまった日本の企業は、クリーン開発メカニズムという仕組みを通して、我々の知らない遥か彼方の地で行われた環境関連プロジェクトでセービングしたCO2により創出された排出権を買い取ってくることにより、削減のノルマを果たすのである。
日本は6%削減の義務を果たすどころか、8%増の状態にあり、これを金で解決しているのである。実際に全世界規模で削減目標を達成できていれば大きな問題はないのかもしれない。しかし、金で解決したことは、いつか金でしっぺ返しを受けることとなる。京都議定書の約束期間の次には、また新たな削減目標が課されるのであろう。そのときには、排出権に対する需要が高まり、国外での買い取りに走った企業が同様の方法で切り抜けようとすれば、法外なコストを覚悟せねばなるまい。
排出権の価格が急騰したときにこそ、企業経営者はこの問題と真に向き合うこととなるのであろう。「今ちゃんとやっときゃいいのに」と思う反面、数年後に企業経営者を震え上がらせる仕組みを構築したということ自体は、評価すべきなのかもしれない。
先週の金曜日『不都合な真実』を見てきました。もちろん、ららぽーと横浜にて(笑)。午後10時開始のレートショーを見て、終わったのは11時40分頃。夜中の12時近くに映画を見終わって、歩いて自宅に帰る。あー、私はなんと恵まれた都会人なのだろう、と感傷にひたりつつ家路についたのですが、ららぽーと横浜から駅まで約10分、駅から自宅まで約20分であり、休まず徒歩30分はこの年ではキツイ!喫茶店とかも当然閉まった後なので、気温の丁度よい春か秋でないと、気軽にレートショーは楽しめないと悟りました。
で、本題の映画の感想。先週書いた『「有限」の中の「成長」という矛盾』というエントリーは、いわばこの映画を見るにあたっての前フリのようなものであったのですが、まあ、面白い映画ではありません、少しも。ゴア元副大統領も、大統領選に落ちることによって自らのなすべき道が確立した感があり、彼の環境問題に対する意気込みがひしひしと伝わってきました。また、当たり前といえば当たり前ですが、彼のプレゼンスキルはスゴイ!先日、某社の新入社員向けの研修にて、『プレゼンとは』みたいなタイトルで1時間ほど講義をする機会があったのですが、私がそこで話したスキルを全て使いこなしていた感があります。さすが「元副大統領」といった感じです。
ほめてばかりでもアレなので、気になった点をば。大昔に、こんなエントリーを書いて、ハーバードのコッター教授の著作の一節を引用したことがあります。
企業変革を起こすにあたってのプロセスが段階をおって書かれていますが、このコッターの段階に照らせば、『不都合な真実』が実現できたのは最初の段階である「危機感を醸成する」にすぎません。さんざんオランダのほとんどが沈むだなんだと危機感を煽ったあげく、最後に字幕で「一人一人高い意識をもって、エネルギーの無駄遣いをしないように」的なメッセージが流れるのは、「元副大統領」という肩書きを持つ人が作成した映画・プレゼンにしては、お粗末な気がしました。
また、私が先日のエントリーで掲げた疑問である、「成長と温暖化対策は両立するのか」といった疑問に対しては、それはよくある誤解(misconception)であるとしていましたが、この疑問に対しては気合でのりきっていた感があり、納得のいくロジカルな説明が展開されたわけではありません。
まあ、後者については、一応「映画」なわけですから、そんな細かい議論は期待しないにしても、最大の不満はなんらビジョンが提示されなかったことです。
この映画を見て、私は10年前に書かれた下記の著作を購入しました。
高名な経済学者である著者は、この本の中で下記のように言い切っています。
(引用始)
『その意味で、地球温暖化問題が20世紀型工業文明の見直しを迫るということは、この問題が経済社会の再設計を不可避とする歴史主義的な大問題であることを示唆して余りある。』
(引用終)
上記の一節に私は全く同感であり、「無駄遣いはやめましょう!」の一人一人の心がけの大切さは認めるものの、それだけでは焼け石に水であるというのも事実であり、新たな魅力的な社会像を提示しないことには、世界を動かすことは難しいと言わざるを得ません。
僭越にも私が21世紀のビジョンを提示させていただくならば、それは恐らく「経済成長から人間の内面の成長へ」といった類のものになるでしょう。昨今のスピリチュアルブームの根底にある人々の価値観とも符号しますし、企業研修の現場で感じる企業側の抱いている問題意識ともやはり符号します。「化石燃料の消費に依存した20世紀型の経済成長は、地球というシステム全体の持続可能性に反するものである。したがって、経済成長は化石燃料の消費に依存しない方向性を模索し、またゼロ成長も甘受し、代わりに20世紀に失われていた『人間の内面の深化』を目指すべきである。」こんなところが、21世紀に先進諸国が掲げるべきビジョンの骨子となるのではないでしょうか?
佐和氏はメタボリズム文明社会なる概念を掲げ、それを「適正消費、極小廃棄、リサイクル、省エネルギー、製品寿命の長期化等を、消費者や生産者に動機づけるような仕掛けを施した文明社会(引用)」と定義づけています。大筋では悪くないと思うのですが、後半の「動機づけるような仕掛けを施した」というくだりが、一般ピープルを見下した感があり、私好みではありませんが(笑)。
仮に先進諸国がこのようなビジョンを打ち立てて邁進したとしても、難しいのは、今まさしく化石燃料の大量消費という形で目覚しい経済成長を遂げているBRICS及びそれに続く国々をどう説得するかという悩ましい問題があります。「あなた達は好き勝手に贅沢・浪費を繰り返したあげくに、我々にはするなというのはいかがなものか」と中国から迫られたとき、我々に返すべき言葉はあるのでしょうか?
人類はいまだかつて抱えたことのない、全地球的規模で取り組むべき難問に直面していますが、こうした制約が課されてよりよい社会が実現できるのであれば、むしろ環境問題は好機(チャンス)と捉えるべきものであるのかもしれません。
なお、経済成長と環境保全の両立という点に関してですが、この点に関しても佐和教授は両立可能という立場をとっていらっしゃるようで、著作の後半に書かれているようですが、そこまで読書が進んでいないので、またの機会にでも。
今日は新聞休刊日だったので、ブックレビューということで。裏表紙をめくると、この本の日本語訳が1刷が発売されたのは1995年9月29日とある。なんと11年前!その間、なぜ私はこの本を読もうとしなかったのだろうと悔やまれる。「ビジョンが根付いている企業は長い間元気がよい」って辺りが言いたいことだとおおよその察しがついていたことがわざわざ読まなかった理由なのだが、先日土曜日に手にとって二日で一気に読んでしまった。いや、感覚としては「ぺろりと平らげた」という感じ。なぜって、「おいしい」と感じたから。私がこのブログで考えてきたことが、既に10年前近くに出版されたベストセラーに書かれていた。なんか恥ずかしい気もするが、本との出会いというのは神様の定めと私は信じている。今が読むときだからこそ、私は『ビジョナリーカンパニー』に今出会うべくして出会ったのだ。
まず簡単にこの本のあらましを説明しておくと、この本は「よいビジョンの作り方」的な話題は全くといってよいほど、扱っていない。この本は「ビジョンをいかに組織に根付かせるのか」という点について延々と語っている。これは私の比ゆ的な表現だが、「企業がビジョンというDNAを脈々と受け継ぐ生命体となったときにビジョナリーカンパニーは誕生する」のであり、企業を生命体に転換すべくヒントがいくつか記述されているのがこの名著なのである。
以下にこのブログで考えてきたこととオーバーラップする部分をいくつか書き出しておきたい。
【イノベーションのジレンマについて】
「ネットと放送の融合」と「利己的な遺伝子」と「クリステンセンの破壊的技術」と
こんなとんがったタイトルでかつてクリステンセンの『イノベーションのジレンマ』をとりあげた。
一般に企業というのは、規模が小さくかつ利益率も小さいような市場への進出は躊躇する。なぜならファイナンスの理論に従えば企業価値を最大化する意思決定ではないから。しかし、そのような市場にこそイノベーションの萌芽は見出せるのであり、HDDの栄枯盛衰はその好例であるというのがクリステンセンの著作の語るところである。
では、大企業が自らイノベーションを生み出し続けるにはどうしたらよいのか?その答えとして『ビジョナリーカンパニー』では、3M(ポストイット作った会社ですよ)の事例を紹介している。あんまり中身を書くとクレームがくるかもしれないので、イノベーションを生み出す3Mの仕組みが気になる方は是非『ビジョナリーカンパニー』をご一読いただきたい。
【短期と長期の相克】
短期的な利益を志向すべきのか長期的な利益を志向すべきなのか?この難問に対してGEのウェルチが「どっちも大事だよ」と言っていることを紹介したのが、下記のエントリーである。
しかし、『ビジョナリーカンパニー』で紹介される企業は、みなウェルチと同じような考えにたどり着いて、短期的な利益と長期的な利益を両方とも手に入れようと模索しているとのことである。あるいはもっと大胆に「利益を超えた目的」と「現実的な利益の追求」との両取りを狙っていたりとか・・・
このような事例企業を見せ付けられると、下記のエントリーで紹介した、ワールドとすかいらーくの株式非公開化の意思決定はスケールが小さく思われる。
両社が市場から身をひいた最大の理由が「長期的な利益を追求するために、一時的に損失を計上することにより、短期的な株価の下落にさらされるのが嫌だから」てなもんだったはずである。両社とも素晴らしい企業であるとは思うが、ジム・コリンズの定義によるビジョナリーカンパニーには、残念ながら加えてもらうことは難しいであろう。
【カルトとの類似】
宗教も私が若かりしときから、私を魅惑するテーマの一つだが、ビジョナリーカンパニーはカルト集団に似ているところが多いという。その共通点は以下の4点であるという。
・理念への熱狂
・教化への努力
・同質性の追求
・エリート主義
関連するテーマでは、かつてこんなエントリーを書いてみたことがある。
「信」とは何なのか? 「Web2.0」と「バフェット」と「オーラの泉」を結ぶもの
信ずることのパワーと、いかにして「信仰心」を高めるかという点について、ビジョナリーカンパニーが実践している施策がいくつか紹介されている。
先日のエントリーにおいて、私はDCF法というフレームワークを使って金融を生業とする人々さえ「信心深い」と形容した。錬金術だってかつては科学と信じられていたのだ。ファイナンス理論ですら、数百年後に「20世紀の錬金術」と揶揄される時代がやってくるかもしれない。こう考えると、投資銀行というのもやはりカルトと似ている面があるのかもしれない。ただ「ビジョナリーカンパニー」との呼称はコリンズが許さぬだろうが。
【創発戦略(emergent strategy)】
「戦略とは事前に綿密な計画によってもたらされるのではなく、振り返ってみればいつのまにか戦略が形成されていた。」こんな理論を展開するのがミンツバーグであり、その内容は下記の著作に詳しい。
ミンツバーグの言わんとすることは分かるのだが、なにか具体例が欲しいなーと思っていたら、その具体例を紹介していたのだが、やはり『ビジョナリーカンパニー』だった。アメックスは当初は地域小荷物会社だったそうである。それが、意図しないまま金融サービスと旅行サービスに進出することになり、今日に至る。正しく創発戦略(emergent strategy)ではないか!でもどうやって?それが知りたければ、是非『ビジョナリーカンパニー』を読んでみてください。
【ファイナンス理論への疑問】
10年近くファイナンス&アカウンティングに身を捧げた私だが、ここのところファイナンスの理論基盤に疑問を持ち始めている。そんな例をいくつかあげると・・・
①「DCF法っておかしくない?」というのは先日のエントリーで述べたとおりである。
②企業価値を高めようとしてファイナンス理論に基づいた意思決定を行うと、先に書いたようにイノベーションに取り残され、企業としての生命を失うことすらある。(これはリアル・オプション理論を使えば乗り越えられるのか?私にはよく分からない)
③ビジョナリーカンパニーの多くは負債を使わない。負債を使えば企業価値が増すことはファイナンス理論の基本中の基本である。にもかかわらず、負債を使わない。なぜかといえば、「自己を律することが難しくなるから」みたいな理由だそうだ。
偉大な企業ほどファイナンス理論に基づいた意思決定を行っていない。この辺りは「行動ファイナンス理論」により克服されているのか?あるいは、「スピリチュアル・ファイナンス」みたいなものが必要になるのだろうか?後者だったら私は嬉しい(笑)。
最後に、ちょっと気になったのが、著者のジム・コリンズはスタンフォードを離れ、現在はコロラド州ボールダーに在住しているとのこと。彼が生まれたのがここだから、というのが多分その理由なのだろうが、ボールダーというのは我々日本人にとっては「高橋尚子がトレーニングしていたところ」として有名だが、実はアメリカのスピリチュアル・ムーブメントの一種総本山的な地域でもあるらしい。『ビジョナリーカンパニー』もなんとなくそんな匂いをかすかに放つ本である。だからといって、どうというわけではないのですが(笑)。
一般の方が海外旅行だ、お盆休みだとはしゃいでいる時期に、私はこれから怒涛の1ヶ月をすごすこととなります。また、更新が滞りがちになることと思われますので、予めご承知をいただければ幸いです。
さて、本題に戻り本日の日経金融新聞のトップ記事はなんとWeb2.0であった。といっても、IR(インベスターリレーションズ)とブログというあまり新鮮味のないテーマなのだが、Web2.0という用語が、日経金融新聞のトップを飾るということは、なかなか象徴的な出来事でもある。ただ単に流行を追っているという側面ももちろん否めないが。念のため、Web2.0という概念について、門外漢の方は下記の著作がお薦めである。
Web2.0については、私はこれはIT業界の人々だけが考えればよい技術的な問題かと思っていた。しかし、実はそうではない、これは人間の欲求の問題なのである、ということに最近気がついて、そうなると最早これはテッキー達ばかりに任せておくことはできない。Web2.0とはいくつかの新しいトレンドをひとまとめに総称する呼称にすぎず、まとめられている一つの側面が、CGM(Consumer Generated Media、コンシューマー・ジェネレーテッド・メディア)という用語で示されるものであり、要は一般人が無償で提供するコンテンツのことである。私もこのブログでは専門外のことにも幅広く口を出すため、このブログもCGMの一つである。
そしてこうしたCGMを整理するためのテクノロジーの一つがいわゆるブログソフトウェアであり、あるいはSNSという会員制のシステムなのだが、研修講師として人の心を扱う私が考えねばならない最大のテーマは、①なぜ人々は無償で貴重な知識を提供し、かつ②その知識が程度の差こそはあれ有用であるか、という点である。
消費者が無償で情報を提供する動機には様々なものがあると考えられる。例えば対人的な動機。ごく親しい友人に近況報告をしたいから、ネット上で情報を発信したいという方々は多く存在する。が、これらの人々は不特定多数から自らの書いたものが閲覧されることを必ずしも好まないため、SNSが最適なツールとなる。対人的な動機を持つ人々が書く情報は信頼できるかといえば、それは当然ながら口コミと同様のレベルに信頼に足る。なぜなら、信頼に足らぬ情報を流し続ければ、友達を失い、そもそもの対人的な動機を満たすことはできなくなるから。
ブログを書く動機となると、これは様々だ。例えば私は、2年間近くブログを書き続けているが、ブログ記事が金銭獲得につながったケースはあまりない。しかしそれでもなお執筆を継続するのは自己研鑽のために大いに有効だからだ。あるいはアフィリエート・プログラムで金銭を獲得しようという動機のもとでブログを書いている人々もいる。しかし、前者のタイプのブログの方が後者のタイプのブログに比べて、はるかに信頼性に足る、あるいはアミューズメント性が高いということを、みなさんは既にお気づきのはずだ。なぜか?
この疑問に対する答えの一端を提供するのが、下記の著作であり、私が久々に感銘を受けた本でもある。
当初は部下育成というテーマの足しにでもなればと思って読んだのだが、扱っている内容は深遠であった。この本で私が得た最大の驚きは「金銭は人を統制する」という事実である。金銭は人々を動機付けるものであると考えられている。お金がもらえるから働く、そして給料がパフォーマンスに比例すればもっと働く。こんな考えのもとに導入された給与制度が、いうまでもなく成果主義である。
しかし、この著作の著者は以下のような興味深い実験を行った。知的好奇心を満たしうるパズルを2つのグループの人々に行わせる。Aグループの人々にはパズルを解くことによる報酬を与える。一方で、Bグループの人々にはパズルを無報酬で解かせる。で、パズルを解いた後の休憩時間に両グループの人々を観察する。すると、Aグループの人々はパズルに目もくれていなかったのだが、Bグループの人々は休憩時間中もパズルに熱中していた。これが金銭報酬の持つ負の側面であり、金銭報酬は我々の内発的な動機付けを放棄させるネガティブな効果をもっているのである。また、加えて金銭報酬は、報酬を獲得するために人が手段を選ばなくしてしまう危険性をも兼ね備えているという。村上ファンドがその好例か。
さて、WEB2.0にこの著作の結論をあてはめてみれば、無報酬で提供されるCGMは、消費者(トフラーの言うところの「生産消費者」)が無報酬で情報提供をしているからこそ、内発的な動機付けが失われることなく、したがって比較的良質な情報が提供されているとの仮説をたてることが可能となる。
無報酬で情報提供する動機は他にもあり、例えば有能な仲間からの承認欲求(自分の力を認められたい)がリナックスという巨大プロジェクトを成功に導いたことは言うまでもない。リナックスを成功に導いた人々の倫理観や動機については、下記の著作が的確な記述をしているようだが、私は買ってまだ「ツンドク」状態のため、詳細は分からない。他のタイプの動機も考えられるはずであり、グーグルの行く末をひたすらウォッチしたり、やれポッドキャスティングだ、マッシュアップだ、とカタカナ用語やテクノロジーに浮かれることが、Webの未来予測に役立つわけではない。
・・・とかここまで書いといて、振り返って私のブログを見れば、アマゾンのアフィリエートへのリンクのオンパレードである(笑)。金銭的な動機に目がくらんだ私のブログの質は低下していくのか?ご心配なく。動機付けれられるほどの金銭は、アフィリエートプログラムからは入ってきませんから(笑)。
以前、こんな仰々しいタイトルのエントリーで、人はどのようにして信じるか、そのプロセスへの関心を吐露するエントリーを書いた。
「信」とは何なのか? 「Web2.0」と「バフェット」と「オーラの泉」を結ぶもの
実は今トフラーの『富の未来』を下巻の130ページあたりまで読んだところなのだが、トフラーの著作にはこんな興味深いセンテンスがあった。
(引用始)
『皮肉なもので、市場調査会社、世論調査会社、広告代理店、調査機関などは、人々が「何を」信じているかを質問するために、大変な努力をし、巨額の資金を投じている。だが、人々の見方を知るうえで、はるかに意味のある質問はしていない。「なぜ」それを信じているかという質問である。』
(引用終)
このように切り出した上で、トフラーは人々が「真実の基準」として使用する以下の6つのフィルターを記述している。
①常識
「他の多くの人々が信じているから私も信じます」というもの
②一貫性
他の真実とみられる事実との間に一貫性があれば、あるいは矛盾がなければ信じるというもの。
③権威
会計士の語る会計の知識は信じ、弁護士の語る法律の知識は信じるというもの。タワー投資顧問の清原氏の買う銘柄を盲目的に買う、「清原銘柄」なる現象もこのフィルターが基盤とされていると思われる。
④啓示
いわゆる「神秘的な啓示」という奴。トフラーは、ここに深入りはしないが、6つのフィルターの1つであるとは認識している。
⑤時の試練
「長く語り継がれたものは真実だ」と考えるもの。
⑥自然科学
特に説明を必要としないだろうが、最後の自然「科学だけはみずから誤りを修正できる(引用)」とした上で、他の5つのフィルターよりも重要性があると、トフラーは認識している。
トフラーはこれまでにも、『第三の波』や『パワーシフト』と呼ばれる衝撃的な作を世に送り出していることで知られるが、恥ずかしながら実際に手にとって読んだのは、今作がはじめて。だから、他の著作ともしかしてだぶる部分とかあるのかもしれないが、私にとっては新鮮な内容。というよりも、恐れ多くも感じたのは「この人、私と似ている」という感覚(笑)。関心の幅の広さ、深さ、ユーモアのセンス等々々・・・もし私のブログの視点や文体が好きで継続的に訪れていただいているという奇特な方がいるとすれば、そのような方はトフラーを読んで唸ること間違いない。不思議なことに、私はなぜかアルコールを適量摂取した上でトフラーを読むと、ビンビンと訴えかけてくるものがあった(笑)。
トフラーの出した6つのフィルターがあるからといって、そこで思索を止めるような私ではない。例えば上記の6つのフィルターとグーグルのページランクの関係。私はSEO専門業者ではないので、グーグルの最新のページランク・ロジックは知らないが、私の知る限り、現在のグーグルは①の「常識」と③の「権威」のミックスにより成り立っているはずだ。「リンクが多いほど重要性が高い」というのは、①の「常識」をベースにしていることに他ならない。また例えば「トヨタ」のような会社のサイトからリンクが張られればページランクが高くなるというのは、③の「権威」を数値化しているからに他ならない。あとは⑤の「時の経過」なども比較的簡単に、ページランク概念に取り込めるはずだ。グーグルが雇っているという「言語学者達」がbrilliantであり、かつ適切なミッションが課せられていれば、近い将来②の論理的「一貫性」も取り込むことができるかもしれない。
あと、下記のようなエントリーで使用したエニアグラムという枠組み。
エニアグラムの9つのタイプとトフラーの掲げる6つの「信」のフィルターには明らかに相関性があると思われる。(ご自身のタイプと各タイプの説明をご覧になりたい方はこちらをご参照のこと)例えばタイプ6はその性質上、明らかに重要視するフィルターは「権威」であり、一部のブランド信仰的なタイプ3もやはり「権威」になびくことであろう。また知的なプロセスを楽しむ5は「自然科学」を重視するであろうし、対人的なつながりを重視するタイプ2は「常識」を重視することであろう。ぶっ飛んでいるタイプ4は「啓示」により「信」を固めることかもしれない。
一方で、この6つのフィルターだけでは、少し足りないのではないかという気もしないではない。例えば、私のサイトに継続的に訪れていただいている方々。リアルな知り合いは別として、なんらかの検索で迷い込んでしまい、そのまま居ついてしまった方は、なぜ私のサイトに定期的に訪れていただいているのか?私の書くことはどちらかといえば、「①常識」への挑戦だし、時として「論理的②一貫性」を欠いてでも直観を重視する。また無名の私に「③権威」がつきまとっているはずもない。「⑤時の試練」というほどこのブログは長続きしていないし、「⑥自然科学」めいた厳密な手法はとっていない。・・・じゃ「④神の啓示」???んなわけないし、となると、この6つのフィルターでは明らかに足りない。
21世紀を見通す上で、このトフラーの『富の未来』と『フラット化する世界』と『ハイ・コンセプト』の3書は非常に重要と考えられるが、3書の関心・アプローチは微妙に異なる。トフラーを読み終えた後に、3書の比較を簡単にしてみたいと思う。
もう1件、7月3日号のビジネスウィーク誌からのご紹介。1件しかネタにしないと費用対効果の観点からもモッタイナイし(笑)。記事は"Death of a Pushy Salesman(押し付けがましいセールスマンの終焉)"と題した108ページの記事。アルテラという会社が営業マン研修において、「empathy(共感)」を重視した研修を採り入れたというのが、記事の概要である。
まず、この記事に着目したのは、私の個人的な体験という伏線がある。某社の企業研修において、入社2年目くらいの方々を前に話をさせていただいたとき、一人の受講生の方が「顧客の悩みに共感することが大切だと考える。」という趣旨のことをおっしゃった。その方は営業職だったのだが、入社2年目くらいの営業職なら「若さ」を武器にした「パワフル営業」を展開しているか、あるいは本の虫タイプの人なら「ソリューション営業」といった言葉が飛び出すのが関の山だろうと、認識の甘い私は高をくくっていた。ところが、その方は「聞くことの大切さ」を越えた上で、「共感することの大切さ」とまで言い切っている。最近の若い人は、「超空前の売り手市場」と言われた我々と違って、なんと優秀なんだろうと感嘆し、素直にその感嘆を言葉にして講義を続けた、という体験があって、この記事を目にしたのである。
まず、なぜ私があえて「empathy」と英語で書くかといえば、「私は英語ができますよ」というアピールは理由の10%ほどにすぎず、実は「共感」と翻訳される英語は別に「sympathy」があり、この二つは似て非なる言葉であるからだ。どう違うのか?多分こちらの記事の説明が一番分かりやすい。
(引用始)
The Nineties have blurred the original distinction between sympathy and empathy and the dictionaries have followed suit, but just for old times' sake, here it is: We sympathize with people whose troubles are different from ours; we empathize with people in the same boat. "I feel your pain" is empathy, but "I can imagine your pain" is sympathy.
(引用終)
自分とは異なる悩みを持つ人に対する共感がsympathyであり、同じ悩みを持つ人に対する共感がempathyである。したがって、empathyの方がより深いレベルの共感であるといえる。相手の悩みを自分のものとして共感するためには①それだけ自分も豊富な体験をしていなければならず、また②そうした体験に対する鋭敏な自己認識が必要となる。そこで、このアルテラ社が実施したトレーニングというのは、まず「自分を知ること」から始まり、心理学のアセスメントとしてよく使われるマイヤーズ・ブリッグス・タイプ・インディケーターを使用して、自分のパーソナリティタイプを把握することから始まる。営業研修自体は私は担当したことも、今後も担当するつもりもないのでいわゆる「一般的な営業研修」を知らないのだが、なんとなく営業研修としてはかなり「深い」という印象を受ける。
なぜ、「empathy」が営業にとって重要となるのか?記事とは離れた私なりの意見を述べさせていただけば、それは恐らく『フラット化する世界』や『ハイ・コンセプト』で述べられていた、インドの脅威にも通じる部分があるだろう。たとえばシステムの営業の場合、価格面ではインドのベンダーには太刀打ちができない。今は「ソリューション」が彼等に対抗する武器になるとしても、所詮それはロジカル・シンキングの範疇であり、インド人の得意とするところである。そこで登場するのが、右脳領域で行う「共感」である。少なくとも、インド人には「アウトソーシングで仕事をインドに持っていかれる」というアメリカの顧客の悩みを、sympathyすることはできても、empathyすることはできない、絶対に(笑)。empathyは『ハイ・コンセプト』で述べられていた6つのキーワードの一つでもあるのだ。
とここで思うのは、あの2年目の方は、私がダダダっと書き上げた上記のごとくのバックグラウンドも持ち合わせた上で、「共感」という言葉を使っていたのだろうかということ。そうだとしたら、完全に脱帽である。日本の未来は明るい!!
いつまでも、彼方の「スピリチュアリティ」の話をしているわけにはいかない。ビジネスマンがこの分野を語る「リスク」に気付かせてくださった方もいるし、また、こればっか語っているとアクセス数は確実に減少する(笑)。
「『日本』経済新聞」という閉塞感と題したエントリーで、いつまでも村上ファンドとホリエモンの亡霊に怯え、あるいは「酒の肴」に一杯やっている感のある日本のメディアの閉塞感に吐き気を催した私は、早速行動を起こすべく最新のBusiness Week誌を購入してみた。ドリームゲートで起業アドバイスをする際、いつも私は「日本で新しくはじめようとすることは、必ずアメリカでビジネスになっているのだから、まず英語で検索してみなさい」とアドバイスしている。そんなエラソーなこというならば、自分が普段から情報収集しないでドースル?そんな後ろめたさも手伝ってか、極めて刺激的な記事に出会うことができた。
2006年7月3日号の72ページ記載の記事で、"Lots of Loans, But No Banks"と題した記事がそれであり、ピア・ツー・ピア・レンディングをWeb2.0的な基盤で行っているビジネスの紹介記事である。記事中に紹介されているサイトのアドレスを以下に記しておきたい。
Zopa Ltd. (ロンドン)
Prosper Marketplace Inc. (サンフランシスコ)
ピア・ツー・ピア・レンディングという言葉自体、馴染みが薄いかもしれないが、要は仲間内で行うお金の貸し借りのことである。これは、ネット云々のはるか前から存在していた経済活動であり、ビジネスウィークの記事では、ベトナムのホイと呼ばれる仕組みが紹介されていた。これを読んで、私ははるか昔に沖縄出身の友人から、ものすごく似た話を聞かされた記憶が蘇った。インパクトある言葉だと思ったんだけど、なんだっけ??
色々検索するうちに、沖縄のピア・ツー・ピア・レンディングは模合(もあい)という名前で呼ばれていたことが確認できた。一つ、人類学的な見地から興味深いのは、ベトナムと沖縄の地理的な近さである。少なくとも無学な私が知る限りでは、日本の本州では同様な仕組みを知っておらず、この手の仲間内の資金の融通は「南方」の文化圏で発達したかもしれないということは、文化人類学的な観点から興味深い。
この「模合」をネット上で行うとどうなるか?当然のごとく失われるのは、フェース・ツー・フェースのコミュニケーションであり、お金に余裕のある人とお金に困っている人を結びつけるマッチングサイトとなる。そして、そのマッチングはレートを競い合う、いわゆるオークション的な仕組みにより実現される。上記にリンクを掲載したProsper社のサイトのトップページの下の方にあるローンの一覧を見ていただけば、おおよその雰囲気は理解いただけることであろう。
私はこのビジネスに対して、二つの側面から大いに関心を抱いている。第一の側面は、「信」とは何なのか?「Web2.0」と「バフェット」と「オーラの泉」を結ぶものという仰々しいタイトルをつけたエントリーで考察して、ネット上の『信』という観点から。知らない人とお金のやりとりをする、ということ自体については、我々日本人の多くはヤフー・オークション等で、既に慣れている。そうした際に相手の「信頼性」を判断する材料としては、過去に取引した相手からのアンケートの集積である「星印」が有力な手がかりとなる。しかし、売買は1度きりで完結するが、資金の貸し借りとなると、少なくとも1年以上の期間がたたないことには完済されるかどうかが微妙である。見知らぬ相手にお金を貸す場合に、どうやって相手の信頼性を判断するというのか?この質問への直接的な回答にはなっていないが、リスク分散という形が一つの対抗策になっているようである。記事では、5,000ドルのローンを100人でファンディングする可能性が言及されている。これって、かっこよくいえば、シンジケートローンじゃないか!こうしたピア・ツー・ピア・レンディングのサイトが、将来的に既ローン債権の売買まで手掛けるようになったとしたら、痛快である。
もう一つの信頼性の向上策はいわゆる、潜在的な借り手集団となりうるリアルなコミュニティをグループという形で、ネット上に持ち込もうというもの。グループのリーダーには、リーダーとなるインセンティブも付与されており、リアルな仲間からの監視の目があるから、容易に貸倒は発生し得ない、という考え。Prosper社のグループの概念を解説したページは実に興味深い。
私の第二の方面からの関心は、いわゆる既存の金融業界との関係。例えば消費者金融業界などにとっては、大いに脅威になるのではないかと考えられるかもしれないが、この手のビジネスモデルは既存金融のパイを奪うというよりは、全く新たな資金需要を発掘するのではないかという気がする。「月末に生活資金が足りなくなったからここで借りよう」とは恐らくは思うまい、だってクレジットカードとかに比べたら、あまりにも面倒だから。それよりも、例えば近所の主婦が集まってお弁当をビジネス街に売りにいくための販売カーを買うための資金だとか、日本育英会の資格要件になんらかの形で引っ掛かってしまう方に対する教育資金だとか、恐らくそんな資金ニーズが満たされていくこととなるのではないかという気がする、短期的には。しかし、長期的には間接金融という仕組そのものを脅かす勢力に発展する可能性を秘めている。が、それはこれら2社等の先駆者の腕及び頭次第といったところであろう。
当ページに来訪される検索ワードから、多くの金融関係者がこのブログをご覧いただいていると推測している。どなたか、こんなサイトで起業したくなったら、ご相談下さい(笑)。
【追記】
上記のエントリーを書き終えたあと、Zopa, Prosper, Web2.0の3語で検索してみたところ、なんとトップにきたのは日本の方のエントリーだった。
お金とWeb2.0の関係? ~Prosperがサービス開始~
2月6日と今年早々に書かれたエントリーである上、私よりもはるかに「地に足のついた部分」で議論をされているので(笑)、関心のある方は是非ご一読されてみて下さい。
さて、本日は3連作の締めくくりとして、スピリチュアリティが「なぜ」企業経営にとって必要であり、そうであるならばどのような形で取り込まれるべきかという点に関する私見を述べさせていただいた上で、締めくくりたいと思います。
【個人のレベルの必要性】
企業経営におけるスピリチュアリティの必要性は個人のレベルと組織全体のレベルの2つに分けて考えることができると思います。まず、個人のレベルでなぜ必要かといえば、自己超越の域を覚醒しつつあるビジネスマンが増えつつあるからです。物質的に豊かになった帰結として、こうしたより高次の欲求を持つビジネスマンが増えるのは当然のことであり、企業側としてはこうした欲求を持つ個が組織内にいるかもしれないという可能性に、少なくとも気がつく必要があります。
こうした個人が、スピリチュアルの観点から自覚した使命と組織内の職責の違いがあまりにも大きすぎれば、その個人は退社という選択を余儀なくされてしまうでしょう。しかし、こうした個人の内的な価値観と職責を合致させようとする試みを企業側が支援することにより、とてつもないハイ・パフォーマーが誕生する可能性があります。なぜなら、より高次の欲求を満たされている人の方が、概して生産性が高くなるからです。
自己超越に目覚めた人々を組織からとりこぼしてしまわないためにも、部下を持つ上司は、こうした欲求が存在するのだということを、少なくとも理解しておく必要があるでしょう。また、人事全般を統括する人事部、人材開発部等においては、異動やキャリアマネジメントにスピリチュアリティの視点を徐々に加味していくことが賢明であると思われます。
自己超越の域に達した人々のパフォーマンスが高いとの仮説が成立するならば、自己超越の覚醒を促すような研修を行うべきだとの議論がでるかもしれません。しかし、その点については私は懐疑的です。このような欲求のシフトは、なんらかの個人的な体験と意味づけのための深い思索がなければ起こりえないはずであり、外圧的に覚醒を促すという思想自体に無理がある気がします。しかし、スピリチュアリティという多くの人々にとって受容しがたい概念を押し付けるスタンスをとらずに、自らのキャリアパスについての深い内的な振り返りのための時間を十分に与えることは、極めて有意義であると思われます。
【組織のレベルの必要性】
組織を一つの生命体とみなすならば、企業とて「全体」との繋がりを無視した存続はあり得ず、Win-Winを超えたMulti-Winを志向したビジョンを策定する必要があります。例えば、かつてナイキは、コスト削減に伴う負の部分をアジアでの児童労働に吸収させることを求めたため、手痛い不買運動に苦しめられた経緯があります。あるいは、昨今の環境問題。「顧客」と「株主」という、「上」だけを意識した経営は、いずれより大きなシステムの中で破綻に追い込まれます。こうした、地球規模の「全体」を意識しないことには、とくに規模の大きなマルチ・ナショナル企業の継続的な成長は難しい状況になってきているのです。
このような視点を意識した上で、コーポレート・ビジョンの策定を提唱しているコンサルタントなども特にアメリカには少なからず存在するようであり、例えば"Liberating the Corporate Soul : Building a Visionary Organization " のような著作を挙げることができます。同著作は、ケン・ウィルバーの勉強会にて主宰の鈴木さんから紹介していただきました。ケン・ウィルバーという人はスピリチュアリティを学問として昇華したトランスパーソナル心理学の中核的な人物とみなされている人なのですが、彼の著作へのリファレンスが豊富にある「経営学」の書物がアメリカでは出版されているという点は、我々も少なくとも気に留めておく必要はあるでしょう。
・・・とスピリチュアリティに関する私の想いはひとまずこれで終了です。予想通り、今週全般のアクセス数は少なかったです(笑)。今後はまた、ファイナンスを主体とする雑多なエントリーを書いていくこととなると思いますが、私の根っこにある部分はここなのだということをご了承いただければ幸いです。
【超常現象との関係】
「スピリチュアリティ」を扱う書物に大抵登場するのが、いわゆる「超常現象」という奴です。これに惹かれてスピリチュアリティに関心を抱く人も確かには存在しますが、企業経営にスピリチュアリティが浸透するに際しての最大のネックになっていることも事実です。例えば、昨日紹介したピーター・センゲ等著の『出現する未来』のエピローグには、江本勝氏によるなんとも不思議な水の結晶に関する研究が紹介されています。汚染水の結晶は実に汚い形をしているのですが、それにクラシック音楽を聞かせたり、住職の祈祷を聞かせたりすると、結晶の形が美しくなるというのです。私には真偽のほどは全く分かりませんが、合理的な意思決定を続けてきた企業経営者が抵抗感を抱くことは間違いないでしょう。
こうした超常現象に対する私の結論は、「確かにより高次のスピリチュアリティに移行するに際して不思議な体験をする者もいるが、神秘的な体験はスピリチュアリティにとって必要不可欠なものではない。逆に、神秘的な体験を必要以上に吹聴する者に対しては、警戒心を抱いた方がよい。」といったところです。スピリチュアリティなるものは、「株式会社」なるものが存在しはじめるはるか前から、主に様々な宗教の神秘主義者の間で追求されていたわけです。例えばイスラム教であればスーフィズム、仏教であればチベット密教や真言密教といった具合に。私は詳しくは知りませんが、これらの宗教においても、神秘的な不思議な体験については触れてはいるものの、それに過度に囚われることを戒めているようです。
どうやら、こうした神秘的な体験は「全体との繋がり」を「頭ではなく体で理解する」に際して威力を発揮するようですが、神秘的な体験自体には再現性はなく、あったとしてもそれ自体は個人の理解を深める以上の、なんらの役割を果たすものではありません。
超常現象と距離を置きながら、高次のスピリチュアリティを追求することは十分可能であり、特に今後企業経営がスピリチュアリティを取り入れていくに際しては、こうした論理的なアプローチをとることが重要であると、私は考えています。『出現する未来』はピーター・センゲを含めた4人の共著という形をとっており、いわゆる超常現象をとりあげながらも、その4人の微妙なスタンスの違いを隠すことなく記述することにより、全体としてバランスのとれた著作に仕上がっているようです。
【オーラの泉との関係】
『オーラの泉』という番組が、恐らく日本で「スピリチュアル」という言葉を広げるに際して大きく貢献したのでしょうが、「前世」「オーラ」「守護霊」という3点セットと「スピリチュアル」を切っても切り離せないものであるかのごとくに、スピリチュアルのイメージを定着化させてしまったことについては、私は最近残念に感じることが多くなっています。
以前のエントリーでも書いたのですが、私はオーラの泉で語られる「前世」というのは辛い現実を受容するための「物語」として有効に機能するものであると考えています。そして、その「物語」を受容させるための舞台装置が、あの江原氏が芸能人のお宅を訪問して中の様子を言い当てるという「透視術」なのだと考えています。「透視術」という一種の奇術で出演者をびっくりさせて江原氏への信頼を醸成させて、「前世」という「物語」を受容させるというのが、恐らくあの番組の構造なのでしょう。しかし、この一連のプロセスを江原氏が行うにあたって、悪意などは微塵にも感じられないため、私はあの番組を批判するどころか、良い番組だと考えており、時間さえあれば今でも見ています。ただ、私自身があの番組に登場したとしても(100%ありえない話ですがw)、恐らく気付きを得ることなできないと思います。ある種の人々にとって有効だが、万人にとっては受け入れられない番組・手法なのでしょう。また、1時間という枠内では「慰め」や「癒し」を提供することが精一杯であり、「成長」というところまで踏み込むことが少ないのも、不満が残る点ではあります。
「江原氏が行っているものだけがスピリチュアリティなのではない」というのが私が主張したいところです。
本日はスピリチュアリティにつきまとう超常現象に関して、私の出来うる限りでみなさんの疑念を払拭した上で、次回以降で「なぜ」スピリチュアリティが未来の企業経営にとって必要であり、「どのような形で」取り込まれていくべきか、という点に関して、私見を述べさせていただこうと考えております。
本日から上記のタイトルのもと、私がスピリチュアリティと企業経営について考えてきたことを、少しだけ「形」にしてご紹介しようと考えています。通常のエントリーとは異なり、どちらかといえば「私」自身の自己啓発のために書くというよりは、みなさんに向けてメッセージを発したいという欲求が強いため、口調は「ですます調」とし、できるだけ分かりやすい文章を心がけるつもりです。アクセス数等からの分析からすると、例えば村上ファンドやファイナンス理論に比べると、スピリチュアリティなるものに対するみなさんの関心が薄いことは重々承知しています。しかし、実はそのような方にこそ、今回からのエントリーは読んでいただきたいのです。あまりこのようなことは書きたくないのですが、あの『最強組織の法則』でおなじみのピーター・センゲの最新の著作(邦題は『出現する未来』)は、正しくこの領域に関するものです。そして、この著作を監訳しているのは、あの野中先生です。スピリチュアリティには、先端的な経営学者達も注目している、といえば私のエントリーを読んでいただく動機付けとしていただけたでしょうか?
スピリチュアリティと企業経営の関わりに、私自身が着目しはじめたのは、どうやら下記のエントリーを執筆した去年の11月のようです。
『オーラの泉』が職場に進出??? 21世紀の人材育成と「スピリチュアル」
「スピリチュアル」という考え方は人材育成にとって重要なのでは、との直観に基づいて書かれたエントリーですが、その直観自体は間違っていなかったものの、当時はあまりにもこの分野に関する知識が乏しく、「10年後くらいに、人材育成において新たな潮流が見られているのではないか」という予測は全く的を得ておらず、既にスピリチュアリティは一部の企業経営にとりこまれている模様です。あれから約8ヶ月と短い期間ではありますが、私の中でこのテーマに関する考えがまとまりかけてきたので、それをみなさんに投げかけてみたいと考えています。
【スピリチュアリティとは何なのか?】
そもそもスピリチュアリティとは一体何を指す言葉なのでしょう?ネットで検索すると、「精神性」や「霊性」という訳語が振られている他は、「統一的な定義はない」、と片付けられてしまっていることが多いようです。したがって、私なりに考えた「スピリチュアリティ」という言葉の理解の仕方をご紹介しておくことと致します。
「霊性」という言葉を使用してしまうと、無用な誤解を招きかねないため、私はとりあえずはスピリチュアリティを「より高い精神性を追求すること」と定義しておきます。しかし、これでもイメージは湧かないはずです。「より高い精神性」って何なのでしょう?
様々な説明の仕方はあると思うのですが、当ブログに来訪いただいている方の共通項として、「経営学に関心がある」という点が挙げられるはずです。そういう方は、あのマズローの欲求五段階説は、なじみの深い概念なのではないでしょうか?ご存知ない方は上記のリンクより説明をお読みいただくとして、5段階の最も高い次元に位置づけられる欲求として「自己実現の欲求」が掲げられているのはよく知られていても、実はそのさらに上位の欲求として、「自己超越の欲求」なるものをマズローが指摘していることはあまり知られていません。現段階では、私はマズローの言う「自己超越の欲求」と、スピリチュアリティが言うところの「高い精神性」というものは同じものを指すと考えております。
「自己実現」と「自己超越」を分かつものとは一体何なのでしょう?私なりの理解を示せば、それは自分を取り巻く「全体」に対する意識の違いです。自己実現において問題とされるのはあくまでも「自分」であり、「自分が創造的な活動をしたい」「自分が成長したい」という欲求を満たすことが課題となり、ともすれば自分の周囲に対する関心は希薄となり、エゴイスト的な状況に陥ってしまう可能性があります。
対して「自己超越」におい