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<title>Aim High News Review</title>
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<description><![CDATA[<font size="2">
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当サイトは筆者の「公開自己研鑽」という位置づけで、不特定多数の方の目にさらされながら、自らの考えを深化させていく場であると考えております。
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<title>アブダクション　臀部を鍛えるマシーンにあらず</title>
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<description>最近、「仮説」をテーマにした本が、ビジネス関係の自己啓発本の書棚でちらほら見かける。期待して中身を見ると、どこかで見たことがあるようなフレームの寄せ集めであったりして、あまり読了する価値があるように思えない。そんな中で出会ったのが哲学書のコーナーにあった下記の本。 「アブダクションって、あのフィットネスクラブに置いてある、ヒップアップ用のマシンでしょ？」という反応をする人とは、なんとなく仲良くなれる気がするが、ここでいうアブダクションとは、推論の形式のこと。ロジカル・シンキングのコースで必ず解説される帰納法・演繹法の他に、哲学者パースはアブダクションなる形式も加えたとされ、そのアブダクションに関する解説書がこの本である。ちなみにパースはアブダクションを「仮説」とも呼んでいたことから分かるように、この推論形式は説明仮説を構築するための推論形式である。 ビジネス書であれ、仮説に関する本を出すなら、このパースのアブダクションに関してなんらかの言及があってもよい気がする。ただ、最近、気のせいかもしれないけど、なんだか同業者が時々このブログを見ているような気がする（笑）。なので、「無償で同業者を利するのもどうよ？」ということで、アブダクションに関する解説はここでは控える（笑）。 一点、この本を読んでいて気づいたことは、ビジネス自己啓発本の言うところの仮説と、パースあるいは自然科学の定義する仮説は違うということ。ビジネスでいう仮説はよく「仮の結論」とアバウトに定義されている。ということは、それが何の結論であるのか、ということにより、アプローチも若干異なるのではないか、という気がする。例えば、意思決定の結論なのか、あるいは分析の結論なのか、といった具合に。 もちろん、ビジネスにおける仮説を考える上でもこの本はなんらかの示唆を与えてくれるものと私は考えるが、仮設とは関係ない下記の一節で、私は目から鱗が落ちた感じがした。自分の備忘録のためにも、以下に引用しておく。 （引用始） 『「美学は理念の科学である。すなわち、それ以外のいかなる理由も考えずに、客観的に賛美に値するものを研究する科学である。（中略）倫理学　－　すなわち正邪に関する化学　－　は最高善を決定するのに美学に訴えてその助力をえなくてはならない。それは自己統制的、あるいは熟慮的行為に関する科学である。論理学は自己統制的、あるいは熟慮的施策に関する理論であり、よって論理学はその第一原理を倫理学に求めなければならない。」 つまり論理的規範は倫理的規範に依拠し、倫理的規範はさらに美的規範に依拠するというふうに、それらの規範は本質的につながっていて、論理学はその基礎を倫理学に求め、そして倫理学は美学に訴えてその助力をえなくてはならない、というのです。』 （引用終） 「美学→倫理学→論理学」という関係性を、私はついぞこの方考えたことがなかった。特に美学なんて、何の本も読んだことがない。美学は理念の科学・・・ということは、例えばビジネスにおけるビジョンを構築するに際して、美学の素養、あるいは美的センスを有することは、なんらかのプラスになるのか？？？ あー、このすぐに学問から実利を求めようとする、自分の下卑た性格に自己嫌悪！でも、次なるターゲットは美学！これから忙しいけど、本を読む時間を作らねば！...</description>
<dc:subject>思考</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-06-17T12:39:56+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000485.html">
<title>見直されるべきオーナー資本主義</title>
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<description>まず、下記の著作。 上記の著作は、私のファイナンシャル上の哲学の礎とも呼ぶべき本である。アクティブファンドに対するインデックスファンドの優位をくどいくらいに説くこの著作。そのおかげで、現在の私のファイナンスがらみの仕事の割合は激減したが、自分の資産運用においては、著者ボーグルが設立したバンガード社のインデックスファンドを、某社のFOFを通じて間接的に所有している。そのボーグルの最近の著作が下記である。 ２ヶ月くらい前だったか、日経新聞の書評で紹介されているのを目にして即座に購入し、その後読むタイミングを逸して、ツンドク状態・・・今日も、「そろそろ読んでみようかな」と手をとって何気なく目に入った一節から、私の頭の中で小さな稲妻が走った。 （引用始） 『まず次の分析から始めたい。株式会社アメリカはどこで道を誤り、伝統的なオーナー（株主）資本主義から、新種のマネジャー（経営者）資本主義へと、「病的突然変異」をきたしたのか？』 （引用終） 上記を読んで私の頭の中に走った稲妻とは、これから書く２つであり、これからその２つを書くが、予め予防線をはっておくと、最後に落ちがあるわけではないので、念のため（笑） まず、船場吉兆問題。この問題は、「ブランド」ということを考える上で、いつかこのブログで取り上げてみたいと考えていたのだが、オーナー資本主義という観点からも興味深いと思う。 ここで読み手の方が想起される疑問はおそらく「オーナー資本主義を見直すとかタイトルつけときながら、船場吉兆はそもそもオーナー経営者が問題の元凶なのでは？」というもの。しかし、問題をおこした船場吉兆のオーナーとは、婿養子であったことを忘れてはいけない。船場吉兆というブランドを、正当な対価を支払って獲得したわけではない。また、苦労して創り上げたわけでもない。船場吉兆の問題の根源をたどれば、恐らくオーナーシップの移転のプロセスに元凶が求められるのであろう。 オーナー資本主義の見直されるべき点の体系的な分析は恐らくボーグルの著作に詳しいのであろう。ここでは私の体験談を通じて、オーナー資本主義を礼賛してみたい。 私自身、現在はどこかの会社の従業員として働いているわけではない。したがって、オーナーであるといえる。オーナーとなって働き出してから、私の仕事に対する打ち込み方は以前の比ではない。なぜって、私自身が「児玉健ブランド」の所有者であるから。会社員であったころは、週末を楽しみたくて、例えば金曜の夜に舞い込んできた案件には手を抜いて対処したかもしれない。でも今は、そのようなことは絶対できない。一度手を抜けば、自分のブランドを毀損してしまう。だから、金額の小さい案件に対しても、手を抜くようなことはできない。 オーナーであるということは、上記のような「緊張感」「プロ意識」といったストイックな面のみを醸成するだけではない。自分自身で築いたブランドに対する、正当な対価を受け取ることが可能となる。身を粉にして働けば、それなりの金銭が得られる。理由が病気であろうと、バケーションであろうと、寝ていれば金は入ってこない、当たり前のこと。 固定給をもらう会社従業員は、こうした「相応の収入」を得ているという実感が湧かない。だから、成果主義なる仕組みが見出された。しかし、成果主義のベースたる「成果」は、多くの場合「今年度の実績」である。だから、将来の資産価値を毀損するような形で「成果」を挙げたとしても、例えば部下に対する指導を一切行わず、「プレーイングマネジャー」が自身のプレーヤーとしての「成果」の極大化に専念しても、自身の収入を極大化できる。また、会社のブランドを一晩のうちに崩壊させる、「不正」に手を染めることを思いとどまらせるだけの、「資産価値」からの報酬に預かっていない。 ・・・ということが思い浮かんだので、ブログ上にメモ書きしておきたかったまでのことです(^_^;)ちょっと、このブログの活用法も、そろそろ真剣に再考せねばなー、とも思っております。...</description>
<dc:subject>財務理論・株式投資理論</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-05-19T11:59:02+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000484.html">
<title>個の中の善と悪の関連について</title>
<link>http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000484.html</link>
<description>先日、「他者の善悪に対する我々の態度」と題したエントリーの中で、特に４番目のポジション、すなわち『「善」と「悪」は切り離せない関係にある』という人の見方について、最近色々考えさせられることがある。思いつくままに、関連する事項をいくつか下記に書いてみた。 【Sweet Novemberを観て】 先日、時々行くサウナのVODで、キアヌ・リーヴス主演の恐らく大分前の映画、「Sweet November」を観た。 前半は、仕事一辺倒だったキアヌ・リーヴスが、シャーリーズ・セロン扮する謎めいた女性の感化により、愛や人への優しさといった価値観に目覚めさせられる、という味わい深くもあるが、まあ、ありがちではあるアメリカ映画らしいテーマである。 前半では、キアヌ・リーヴスを「更正」させた女性は利己心のかけらもない、聖女のごとくに描き出される。ところが後半で彼女の「闇」がクローズアップされてくることにより、彼女の人間味が明らかになる。ガンの治療をすることを頑なに拒み、また、なんらかの事情によりこじれた家族との関係修復を頑なにこばむ、問題多き女性の顔が浮かび上がることにより、私の中の彼女のイメージは「聖女」から「人間」に格下げされる。しかし、人に「堕ちた」ことにより、彼女は輝きを増したように感じられた。少なくとも私には。ただただ善良な人間などうそ臭いし、私の好みではない。 【ハイデガー問題】 哲学関連の書物を拾い読みするうちに、「ハイデガー問題」なる用語を知った。どういうことかというと、ハイデガーといえば主著『存在と時間』が「２０世紀最大の哲学書」と評され、（本人が認めるか否かに関わらず）実存哲学の代表的人物と知られることは、周知の事実である。そんな素晴らしい哲学書を著したハイデガーが、近年の研究により、ナチズムに積極的に関与していることが明らかになった。ハイデガーがこの両極に関わっていたことを「ハイデガー問題」と呼ぶらしい。 この辺の話は特に上記の著作から知ったが、今手元にないのでうろ覚えで記述すると、哲学界はハイデガーの両極を、分断されたものではなく、必然的な関連性があるとみようとしているらしい。だが、その関連性の分析になると、哲学の素養がない私に言う資格もないかもしれぬが、どうも切れ味の悪かったり、憶測の域を出ない分析が多いような気がする。 哲学者はテクストの分析に欠けては精緻（すぎるくらい）に行うものの、著者の人間性やテクストと人間性の関連性については、必ずしも有用なフレームを有していないように私には感じられる。だから、私のような素人にも、なんらかのことを語る余地があるように感じられる。 【エニアグラムの有用性】 個人の善と悪の関連性について、極めて有用なフレームは、私が現在知る限りではエニアグラムだと思う。エニアグラムも、研究者によって様々な流派があるようだが、上掲のリソとハドソンは、人間を９つのタイプに分けるだけでなく、それぞれのタイプを９つの「レベル」に分類している。で、レベルが高ければ「善」の要素が顕在化し、低ければ「悪」の要素が顕在化する。 例えば、目に見える成果を手中にすることをひたすら追求する「タイプ３」の場合。彼等のレベルが高ければ、彼等は集団の中で憧れの的となり、誰もが見習うべき傑出した人物として頭角を現す。しかし、レベルが低い時、言い換えれば結果が思うように出ないときは、あたかも結果を出せたように振舞う、すなわち欺瞞的な態度が目に付くようになる。ホリエモンはそこを執拗につつかれ、ついには国策操作の手にかかり、失墜させられてしまった。 あるいは「タイプ２」の場合。レベルが高い「タイプ２」の人として、リソとハドソンの著作はマザー・テレサを掲げているように、タイプ２の人々の特徴的な善は「愛」であり、しかもマザー・テレサの愛は見返りを求めない無償の愛である。 しかし、愛の反対語は憎しみであるように、レベルが低い人は自信の愛が報われないと、とたんに押し付けがましい態度をとったり、相手を執拗に憎むようになる。 「私には悪いところなんてないです」というような鈍感な人々に、エニアグラムのタイプを知らせてやるだけでも、有用である。自身が健全なレベルを保てないとき、どのような「悪しき」方向性に走る可能性があるか、教えてあげることが可能となる。 しかし、タイプ分類は所詮「分類」の枠を出ることは出来ず、「ハイデガー問題」等に対しては、エニアグラムがなんらかのヒントを与えることができたにせよ、本質に迫ることには到底適わない。本質に肉薄するためには、個々の人間の個人史をひもとく必要があるだろう。 【インテレクチュアルズ】 歴史上に名を残す知の巨人の、特に「裏」に焦点をあてた個人史の寄せ集めとして、私は買っただけでまだ読んでいないが、ポール・ジョンソン著のインテレクチュアルズがある。斜め読みの印象からは、どうもポール・ジョンソンの意図は、知の巨人の善と悪の関連性を分析することにあるのではなく、ひたすら「悪」を暴露し、「どうだ、お前らはこんな奴らの書いたものをありがたく読んでいるのだぞ」といったスタンスで、この著作を書いているように見受けられる。 しかし、意図はどうであれ、知の巨人のプライベートライフでの悪事の数々が提供されたことは極めて有用であり、私のように関心のある者は、取り上げられた人物の著作から「善」を読み取り、独自の善悪の分析を実践することが可能となる。 暇ができたら是非読んでみたい著作である。...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-05-09T10:45:56+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000483.html">
<title>ちと気になったので・・・</title>
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<description><![CDATA[昨日晩飯を食べていて、昨日のエントリーで取り上げたEbony & Ivoryはいつ流行ったのだろうと気になり、ビルボード誌のサイトでチェックしてみました。1982年の年間シングルチャート第４位とのことです。 ・・・ってことは今から26年前のヒット曲！今、新入社員研修で相手している新入社員の方々って、このヒット曲よりも後に産まれているって、かなりショックです・・・ジェネレーション・ギャップがないはずがない（笑）ということで、気が楽にもなりました(^_^;)...]]></description>
<dc:subject>ちょっと息抜き</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-04-17T10:14:49+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000482.html">
<title>他者の善悪に対する我々の態度</title>
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<description>There is good and bad in everyone. この中学生にも訳出できる平易な英語は、ご存知Paul McCartney &amp; Stevie Wonderの往年の名曲&quot;Ebony &amp; Ivory&quot;の一節である。「誰にでもいいところも悪いところもある」というのは、恐らく万人が納得する真ではなかろうか？しかし、我々の行動は概してこの真に従わず、どちらか一方しか見ようとしないのが人の常である。 ①一点でも曇りを見出せば、「その人は悪人」と決め込む これは我々から遠い人々、つまりマスコミを賑わすような人々に対して我々がとるスタンスである。一点でも法令違反を発見すれば、それまでの善行を「偽善」と断罪し、世間の表舞台から引き摺り下ろす。汚職で政治生命を絶たれた数々の政治家達。日本の産業界を変えようとし拍手喝采を浴びながら、国策操作によってそれまでの全てを否定されてしまったホリエモン。その例を数えだせば枚挙に暇がない。 ②「悪」の部分を直視せず、「善」の部分だけを信じる これは、逆に我々に近い人々に対してとるスタンスである。ここで言う「近い」は物理的な距離に限定されず、心理的な距離も含む。従って、スターに対してファンがとるスタンスも同様である。 鈴木宗男氏のように汚職で一敗地にまみれた政治家が、再び当選し政治の舞台に返り咲くことはよくあることである。そして、新聞やテレビニュースを通じてそのことを知った我々は、「随分と民度の低い地域だ」と嘆く。しかし、その感覚のずれは当該人物との距離感の大小に端を発しているのみであり、不思議なことは何もない。 また、未だにオウム真理教（現アーレフ）に帰依する信者を、我々は理解できない。あるいは「マインドコントロールによって催眠術にかかってしまっている人々」という形でしか理解できない。しかし、彼等は麻原彰晃の善き部分に接してきた時間の方が長い訳である。であるから、「麻原の全てが悪でありまやかしである」という一本調子の説得では、信者を我々の世界に引き戻すことは無理だと私は思う。 ③「善」と「悪」を切り離した上で、誰にでも両面があるとするスタンス ①、②に見たように、我々は往々にして、他者の善悪の一方しか認識することができない。そうした認識を助長するのがマスコミの一方的な論調だが、マスコミが形成する世論を一段階高いところから客観視できるようになった「大人」は、ポール・マッカートニーが説くような、シンプルな真理に従って人を見ることが可能となる。 「鈴木宗男氏は、確かに高圧的に人に接するところもあったかもしれないが、外交に注ぐ情熱は並大抵ではなかった。」「ホリエモンは、『欺瞞』に頼ってしまった部分もあったが、日本を変革しようとする意欲は人一倍であったし、実際ビジネス界の認識を大きく変えた。」「麻原彰晃は何人もの人々の命を奪った極悪人だが、信者を惹きつけるに足る何らかの教えを有していたことは否定できない。」 こういった具合に、他者の善悪を切り離して認識をすることは、大人の階段を一歩登るための重要なステップであると思う。 ④「善」と「悪」は切り離せない関係にある、とみるスタンス こうした見方は、我々が芸術家を見るときに一般的な見方だと思う。例えば、マイケル・ジャクソンがあの奇怪な家で少年達に倒錯した性的衝動を発露させていたという報道を耳にしたとき、正直私はそれほど驚かなかったことを記憶している。「あれだけの高い音楽的な才能を持つマイケルなのだから、裏でこれだけ奇怪な行動をとっていたとしても驚かない。むしろ、彼の裏の歪んだ性衝動が、表の才能の源泉となっている、とすら感じられる。」 なぜ、我々が芸術家に対してはこのような見方を許容し、一般のビジネスマンや政治家に対してはこのような見方をしないかといえば、それは前者が「創造性」に関わるからであろう。全く新しいものを創り出すためには、一般人には理解し難い「源泉」に接していることが必要になるのではないか。だから、優れた芸術家は、想像を絶する裏の顔を持つのだ、と。 しかし、マイケルやプリンスとて、エンターテインメント・ビジネス界の住人である。「創造性」が必要とされるのはエンターテインメント・ビジネス界のみではない。分かりやすい例でいえば、アパレルのデザインや、工業製品のデザイン等々。もっと挙げれば、全く新規なビジネスモデルの考案等も、高度な創造性を必要とする。で、あればビジネスマンにも「裏の顔」が必要なのか？あるいは、創造性の源泉は、他のもっと「明るい場所」に求めるべきなのか？ こうした思考を経た後では、コービーが『第８の習慣』で語るように、「リーダーとなるには、他人から模範となるべく、一点の曇りもない人生を歩め」といった趣旨のアドバイスは、どこか白々しく聞こえる。が、当たり前のことだが、私とてコンプライアンスの重要性は人一倍認識しているつもりだ。 人間は知れば知るほど深い。...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-04-16T09:41:43+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000481.html">
<title>サブプライム騒動から金融業界以外の人々が学ぶべき教訓</title>
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<description>例年２、３月は忙しいのですが、nara様とsakura様にいただいたコメントへのレスポンスが出来ずじまいでした、ごめんなさいね。そうこうするうちに、新入社員研修のシーズンになってしまい、しばらくはゆっくり出来そうにはありません。 とはいえ、あまりこのブログをほったらかしにしておくのもなんなので、新しいエントリーを書いてみることにしました。それは、本日のUBSの追加損失1兆9000億円の報道がある、サブプライム問題に関してです。以前も昨年の8月20日のエントリーで取り上げましたが、まだまだこの問題、終わるところを見せません。どうして、こんなことになってしまったのか、そしてどうしてこんなに長引くのか？ 私もかつて金融業界に身を置いていたため、著名な投資銀行各社の事情は、それとなくは知っています。で、彼等は金融リスクをとる（リスクテーク）ことによって生計を立てているため、リスク管理に対する投資額たるや、半端ではありません。その内訳はシステム投資と、人件費です。金融リスク管理の仕事は、かなりのテクニカルスキルがないと出来ず、リスク管理という裏方の仕事で高報酬を獲得している人々は結構います。にもかかわらず、サブプライム騒動は起きてしまい、そしてその余波はなお続いている。 その原因は私の考えによれば非常にシンプルであり、自らの能力で管理できないリスクを引き受けてしまった、ということにつきると思われます。この問題を考えることは、異業界の人々のリスクマネジメントを考える上でも有用であると思われるため、私なりの考えを以下に示しておきたいと思います。 「自らの能力で管理できないリスク」と私が言う場合に、以下の２つの要素に分解できます。 ①リスクの大きさを早期に発見できない ②発見できたとしてもアクションが取れない まず、前者からですが、投資銀行業界のスタンダードとして、日々ポジションの値洗いをしています。つまり、抱えている債権債務を日次ベースで時価評価しているわけです。（かつては私もこの仕事に忙殺されていました。）で、なぜ毎日時価評価ができるかといえば、時価が日々入手可能だからです。株であれば、それこそ日経新聞からでも東証の終値を入手することができます。つまり、取引所のマーケットプライスです。取引所で活発に取引されていない国債のような商品であってもマーケットメーカーを通じて流通市場は形成されているので、これもやはり日々時価を入手することができます。 一ひねりしないと、時価を入手できないものもあります。金利スワップやオプション等の店頭デリバティブ商品が、このカテゴリーに該当します。しかし、一般的に入手可能な時価を「加工」することで、簡単に時価を産出できます。「加工」とは具体的には、金利や残存期間といった値をブラック・ショールズ式に代入してやる、といった類のことです。 で、ようやく本題のサブプライムがらみの証券化商品ですが、私も詳しいプライシングの理論は知りませんが、サブプライムローンは、アメリカの低所得者層に向けた住宅ローンですから、彼等の延滞率、自己破産率といったファクターが、証券化商品のプライシングに影響を与えることは、容易に推測できます。しかし、こうした情報は、証券化商品保有者が、オリジネーターと余程の深いパイプでも築いていない限り「毎日」入手することは不可能です。 で、政府統計の発表だとか、業界の調査会社からの情報を買ったりするわけですが、彼らもそうそう暇ではないので、データの更新が月次とか、それ以上の頻度になってしまうのです。 他の金融商品は毎日値洗いできているのに、サブプライム関連商品は毎日の時価評価ができない、というのが、私が「管理不能」という厳しい用語を使う所以の一つです。 次に第二のポイントですが、仮に日々の時価評価ができたとしても、サブプライム関連商品に対して日次評価をしたところで、あまり意味がないと考えています。というのも、有効なリスクヘッジの手段がないからです。 よくありがちな「トレーダーが不正を起こして巨額損失を抱えてしまった」等の場合は、そのポジションを売却してしまうか、あるいは、先物等を活用して反対のポジションを形成してオフセットしてしまうことによって、発覚した時点以上の損失を食いとどめることは可能となります。 しかし、サブプライム関連商品に関しては、報道等から類推する限り、リスク回避のための有効な金融デリバティブは存在しないようです。では売却すれば、ということになりますが、このご時勢でサブプライム関連商品を買ってくれる人は、まず存在しません。もちろんやばい債権（Distressed Assets）を売買するハゲタカ的な人々も存在しますが、そうした人たちは足元を見て、徹底的に買い叩きます。 たとえリスク値が分かっても、ポジションを解消することもヘッジすることもできない、すなわちリスクをコントロールする手立てがないわけなのです。 ということで、我々一般人が学ぶべき教訓としては、コントロールできないリスクはテークすべきではない、というものが導出できるかと思われます。 私にとっては、サブプライム問題はこれほど単純な黄金律からの逸脱にしか見えないのですが、なぜ優秀な投資銀行の経営陣が逸脱してしまったのか、というのもなんとなく分かる気がします。その辺については、また別の機会にでも。...</description>
<dc:subject>財務理論・株式投資理論</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-04-02T12:34:23+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000480.html">
<title>OBAMANIA</title>
<link>http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000480.html</link>
<description>オバマ氏の熱烈なファンをこう呼ぶそうです。本当に忙しい毎日なのに、私もOBAMANIAになってしまったようです。YOUTUBEからOBAMA氏関連の動画を見つけたので、リンクを貼っておきます。 なお、万一私をリアルに知る「関係者」の方が当ブログを読んでいた場合の「予防線」としてメッセージですが、ちゃんとやるべきことはやっていますよ（笑）あくまでも「息抜き」の一環で動画を見ているだけです！！ 【踊るオバマ氏】 http://jp.youtube.com/watch?v=RsWpvkLCvu4 やっぱり、この動きはさすがにAfrican Americanといった感じですね(^.^) 【バラク氏の奥様】 http://jp.youtube.com/watch?v=pyBc33UjvDU Larry King Liveに出演したバラク氏の奥様の、ミシェル・オバマ女史。一応、「一般人」のカテゴリーに入るはずながら、この落ち着き、話の上手さ！才女です。 【Yes, We Can】 http://jp.youtube.com/watch?v=Fe751kMBwms&amp;feature=related 有名なスピーチ。 【Yes, We Can Music】 http://jp.youtube.com/watch?v=jjXyqcx-mYY&amp;feature=related Will I Amによるオバマ氏のスピーチを題材にしたミュージック・クリップ。格好いい！！ 【窮地に立たされたヒラリーの豹変ぶり】 http://jp.youtube.com/watch?v=wwWdciKp0G0 この編集、最高ですね(^.^)次回の二人のディベートも楽しみです！...</description>
<dc:subject>ちょっと息抜き</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-02-25T19:03:45+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000479.html">
<title>オバマ大統領待望</title>
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<description>最近のオバマ氏の連勝のニュースをどれほど私が楽しみにしているか・・・なぜ、私がオバマ氏に親しみを覚えるかといえば、単純に「黒人が好きだから」である。 私が１１歳のときに来日したスティービー・ワンダーを見たあの衝撃。それ以来、私は１０年近くブラック・ミュージックにどっぷり漬かるようになる。 高校生の頃、湯川れい子の全米トップ４０を聞く友人は数人いたと思う。ただ、毎週土曜日のFENのブラック・コンテンポラリーのトップ20まで、チャートをメモっていたのは私くらい。 だから、毎度ジェシー・ジャクソンが民主党の大統領候補として登場して、さえない成績で消えていくのを見るにつけ、悔しい思いで一杯だった。しかし、この勢いが続けば、オバマ氏が次期アメリカ大統領になる可能性はかなり高い。 だから、これから仕事がクソ忙しくなるというのに、オバマ氏の手による上記の二冊を買わざるを得なかった。『マイ・ドリーム』の方が自伝であり、『合衆国再生』の方が、大統領候補としてのビジョン・政策論である。 ちなみに、この二冊を購入したのは、黒人大統領を待望するかつての郷愁のみに基づいているのではない。キャリア研修等を担当し、周辺の書物を読み込むにつれ、「個人としてのキャリアビジョン（特に３０代以降）は過去の足跡を踏まえていないと無意味」との結論に、私の中では至っている。そうした私の考えを補強する、心理学の分野の軽い読み物として、下記の著作が挙げられる。 だから、私はオバマ氏のビジョンが彼の過去の体験に基づいたものであるのかを、検証してみたかったのだ。 今、『マイ・ドリーム』の全約600ページ中の前半200ページを読破したところだが、ます嬉しかったのは、この本はゴースト・ライターの手によるものではあり得ない、との感触を持てたこと。そもそも、この本は、オバマ氏がハーバード・ロー・レビューの編集長に選出された直後に書かれたもので、当時は大統領になるとの野望は抱いていなかったはずであり、したがって、わざわざゴースト・ライターを使って自伝を書く必要性などなかったはずだ。そして、これほどまでに「繊細な」自伝はゴースト・ライターには執筆不能なはずだ。 また、オバマ氏はライス女史と異なり、裕福とは言えない家庭の出身である、というのも意外であった。ライスは幼少期から、ピアノやフィギュアスケートを習う家庭に育ったが、オバマ氏の出自はかなり複雑であり、金銭的にも苦しい幼少期を送ったようである。 また、かなり驚いたのは、恐らくオバマ氏のエニアグラムタイプは、私の見立てによれば、７～８割の確率で「４」である。オバマ氏はそのナイーブさを「O-Bambi」などと揶揄されていると聞いたが、なるほど「バンビ」である。その自己の心中の動きの認識の繊細なことといったら・・・しかも、これも私の見立てが正しければ、オバマ氏はエニアグラム的に望ましい統合の方向性、つまり「４」から「１」に向かっている。 オバマ氏はエニアグラム４の持ち味である「繊細な自己認識能力」を駆使して、この自伝を書くことにより、完全に自己のアイデンティティを統合することに成功したように、私には見える。正しく彼は、&quot;man of integrity&quot;なのだ。 だから、例えば彼の有名な下記のスピーチ。 there&apos;s not a liberal America and a conservative America -- there&apos;s the United States of America. There&apos;s not a black America and white America and Latino...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-02-13T21:35:58+09:00</dc:date>
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<title>餃子問題で考える「因果関係」</title>
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<description>【因果関係究明のプロセス】 今回の餃子問題に関する報道で、ビジネスの場に直接役立つと感じたのは、因果関係究明のプロセスである。 当初の報道では、毒物が検出されたパッケージには穴があいており、そのため毒物混入が中国国内において行われたのか、日本国内において行われたのかさえ特定できないでいた。その際、私が見たNHKのニュース番組では、「全体像の図示」と「消去法」の二段構えで、「中国国内で混入された可能性が高い」と結論づけていた。具体的には「中国工場で製造　→　輸送（中国内、洋上、日本国内）　→　小売店」のような経路を示し、例えば洋上においてはコンテナ内に密閉されており、専門家から「密閉されたコンテナを開封して再度密閉したことを他者に悟られないことは、かなり難しい」との証言を引き出しており、洋上での混入の可能性は極めて低いとして、消去していた。恐らく重要であるのは、最初に問題を取り巻く全体像を図式的に整理することである。これにより、どこにどのような可能性が潜んでいるかを網羅的に検証することができる。 また、後日、穴の空いていないパッケージの中から毒物が検出された事実等も合わせて、日本にいながらにして、中国の工場の「包装」に関わる工程で混入された可能性が高いことが明らかにされたことで、私は客観的なアプローチのパワーを感じた。で、それが故意なのか偶発的な事故なのかを探るにあたって、メタミドホスは当該工場では通常使用されていない、との工場長の証言により、故意による可能性が高い、というところまで絞り込まれるに至った。「故意」「偶発事故」という仮説を示し、その一方を事実をベースに消去する、というアプローチも、企業内の問題の原因の所在を探る上で、大いに参考になると思われる。 【「真因」を探る】 先日、他の研修講師の方々と雑談する中で、「真因はどこまでたどれば真因と呼べるのか、難しい」という話になった。トヨタでは、「５WHY」なる標語のもと、５回くらい「なぜ」を問い続けることにより、問題の真因の所在を探求することが習慣付けられていると言われる。この「なぜ」を自問するプロセスが浅すぎても、また深すぎても有効な対策案は立案しえない。 たとえば、今回の餃子問題でマスコミがたてた仮説が正しく、中国の工場内に経営陣及び日本に不満を持つ従業員が存在し、彼あるいは彼女が包装工程で毒物を混入したということが特定できたとしよう。この場合、人物を特定できただけでは、抜本的な問題解決とは呼べない。そのような行動の背景に、例えば「労使関係の悪化」等の真因が存在するならば、「労使間の対話の場を設ける」「労働者への処遇を改善する」等の改善策が有用となる。 あるいは、ナイキの生産委託先が小児を労働者として使用していたことが明らかになった際に、ナイキ製品の不買運動が発生し、CSRを考える契機となったことを考えると、生産を委託した日本のJTも加わった上で抜本策を講ずることが必要であるのかもしれない。 いずれにせよ、ビジネスマンとしての問題解決は、このレベルまで対処できれば、「合格」と呼べるであろう。 【更にたまねぎの皮をむく効用】 さて、ではこの餃子問題に対して、更に「WHY」を自問するとどうなるか？そもそも、日本で消費される餃子がなぜ中国で作られているのか？そう考えていくと、「安くておいしいものを食べたい」と考える、消費者としての我々自身の内にある、貪欲な欲望につきあたる。 「餃子問題の真因は、日本の消費者の欲望にある」とする解答は、ビジネスマンとしては０点である。しかし、一人の日本国民としては、自身の中にもこの問題への遠因があると考えることは、重要であると考える。「自分自身も加害者である」と自覚できることによる、直接的な効用は、日中関係の極端な悪化を抑制できる、というものがある。 また、マスコミをにぎわす様々な問題を自身が当事者であると考えて行動を起こすことは、その人の人間的な成長を促す。我々は凶悪な事件の被害者に共感に意を示し、加害者が特定され、断罪されることで、胸がすーっとする感覚を味わう。しかし、見えぬ因果の循環の中で、背後から犯罪者の背中を押しているのは我々自身であることに気づくかもしれない。あるいは、犯罪者をかりたてた衝動と同じ衝動を、自らの内に見出すかもしれない。こうして考えることの方が、誰かが裁きにあう様を見て快感を覚えて安眠に落ちるよりは、はるかに人間的ではないか。 もちろん、「内なる悪」に対して更に「なぜ」を問いかけ、「社会システムの悪」を見出す人もいるだろう。たとえば、安い冷凍餃子に食の楽しみを見出さねばならない状況を作り出した、「日本国内の貧富の格差」に気づく等。そうした認識に基づいて、社会を変革する運動に参画するのであればよい。しかし、「自分の非」「内なる悪」の真因を例えば「前世」等に見出して、「だったらしょうがない」という態度を決め込むのは私の好みに合わない。 で、本日のエントリーから得られた格言。 真因探求を適度なレベルで止め、有効な対策を打つのは有能なビジネスマンの証である。 真因探求を深め、自己が因果の連鎖の中にあることに気づきを得るのが「人間」の証である。...</description>
<dc:subject>企業経営全般</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-02-08T13:43:39+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000477.html">
<title>『十牛図』に見た私の行く道</title>
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<description>今日のエントリーはとっても「私的」です。 今の私の仕事のほとんどは企業研修で、最近ヒューマン・アセスメント研修、キャリア研修、ロジカル・シンキング研修などの比重が高い状況です。 で、そうした仕事をするかたわら、自己研鑽の一環として様々な本を読んでいるのですが、宗教、スピリチュアリティ、哲学、発達心理学等々、直接的な関連性が希薄であるものが、非常に多い状況です。 私がこうした書物を読む理由は、「こうした分野の重要性が十年後くらいには、企業の人材開発において認識される」という非常に漠たる直感に基づいており、今までも当ブログで色々書き立てていましたが、今一つ自分の中で、現在の仕事との関連性が腑に落ちていなかった部分があったのです。 ある、ベテランの研修講師の方が書いた本を立ち読みしていたら、いわゆる「精神世界」に傾倒する研修講師というのは多々存在するそうです。で、その著者の方は現役研修講師に向けて「精神世界はほどほどに」と、賢明なアドバイスを送っていました。もちろん、私も「危険性」については飯のタネに関わる重要事項であるので、十分すぎる程認識しています。ただ、この方の著作を読むと、「私自身も『精神世界に傾倒した』として括られる研修講師の一人なのか」と、若干つまらない気分も味わいます。 そんな迷いの中、正月前後に読んだのが、下記の十牛図の解説書です。 十牛図とは禅の悟りのプロセスを１０個の絵で解説したものなのですが、上記の著作に引用されていた道元の下記の一文を読んで、至極感銘を受けました。 仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり この一節を読んで、現在の私の仕事、そして将来の関心事が、「自己認識」というキーワードでつながった印象を受けました。ヒューマン・アセスメント研修も、キャリア研修も、その目的は受講生の自己認識を深めることを目的としているものであり、講師はその触媒として機能します。そして、上記の「仏道をならふというは、自己をならふなり。」という一文で、宗教の目的の一つがやはり自己認識を深めることであることを知り、私の自己研鑽の方向性は間違っていなかったことを確証し、大きく勇気付けられた気がしました。 しかし、同じ自己認識が目的とはいえ、両者は大きく相違します。まずその手法ですが、HA研修はコンピテンシーという角度から分析的、客観的に自己を認識していきます。一方で、特に神秘主義的な宗教では分析的な手法は捨てられ、非二元的思考、神秘体験等が強調されます。しかし、自己認識の「深さ」でいえば、HA研修は禅の自己認識の足元にも及ばない程の、浅い領域を行き来している感があります。 で、私はどうすべきか？深さとしては、禅の境地の自己認識を目指しつつも、企業を相手とする以上、分析的・客観的な枠組みを踏み外すことは許されないと考えるのです。ここで、ニーチェのツァラトゥストラの下記の一節が、私の行動規範として、私の行く末を照らしてくれます。 （引用始） 『あなたがたは一つの神を、思考することができるか？できない。－しかし、あなたがたには真理への意志がある。この真理への意志とは、一切のものを、人間が思考することができ、見ることができ、聞くことができるものへと変えようとする意志である。あなたがたは、あなたがたの感覚でつかんだものを、究極まで思考しなければならないのだ！』 （引用終、太字強調は私） 道元が見た境地、十牛図の作者が見た境地を遠い道標として掲げつつ、そこに向かって「客観性」「分析的」という足枷をはめながら、一歩一歩着実に前進し、多くのビジネスマンが少しでも深く自己を認識していただく手伝いをする、というのが恐らく私の人生のミッションであるのではないか、という気がしてきました。 ・・・とかいいつつ、私も今年の９月で４０歳。これほど遠大な構想を実現するために残された期間は多くはないのです。「夢追い人」で人生を終えるのか、なんらかの痕跡を残せるのか。こう考えると「日々勉強」の大切さを痛感させられた次第です。...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-01-30T10:37:16+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000476.html">
<title>テラメント騒動で再認された、国家の共感能力の欠如</title>
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<description>テラメント騒動。当初は「大したことのない瑣事」と考えていたが、その後の金融庁の対応を見ていると、行政全般の特徴・問題点が見えてくる。 「虚偽」というものを考えるに、通常は「自分の利益のために誰かをだます」という意図が背後にある。しかし、話題になっている「虚偽」は、株式投資を少しでも考えようという人にとっては、あまりにも「嘘であることが明白」であり、したがって騙される人は皆無に近いはずであり、この騒動による株式市場への実害はゼロとみてよい。 にも関わらず佐藤隆文金融庁長官は「事の重大性は非常に大きい（本日の日経新聞朝刊より引用）」として刑事告発までも検討しているという。 これに比べて、上場企業であっても、胡散臭い開示情報のいかに多いことか。それらの開示情報の多くは、「無知な一般投資家を騙すこと」を目的としている。実際、かなり長きに渡ってMSCBという金融商品を使ったマジックにより、無知な一般投資家の損失が暴力団に近い筋に流れるという事態が続いていた。一般投資家の蒙った実害の額たるや、計り知れない。にも関わらず、金融庁は長きに渡って動こうとしなかった。ホリエモンというトリックスターという登場するまで。 この２つを比べてみるに、金融庁は「恒常的に動きが遅い組織ではない」ということが明確に分かる。なぜなら、テラメントの代表に対しては、職員が休日出勤までしてヒアリングをしたそうだから。では、どのようなときに国家は迅速に動くのか？これは、単純な応酬原則に基づくもので、「自分の頬を殴られたら動く」という、ただそれだけである。 テラメントの虚偽報告が、一般投資家を騙すことを目的としていないのであれば、それは妄想癖のあるオッサンの戯言か、あるいは国家に対する挑戦のいずれかである。恐らく、ヒアリングの結果、後者と受け取ったのであろう。で、自分に対して売られた喧嘩に対しては、休日を返上してでも、迅速に対応するのである。 次に、国家が早く動いてくれるのは、「自分の仲間の頬が殴られたとき」である。ホリエモンが殴ろうとしたのは、一部上場企業の経営陣であり、彼等は出身大学や様々なビジネス上の会合で、国家の役人とリアルに結びついている。「一般投資家を食い物にしている内はまだいいが、俺達のマブダチを殴ろうっていうんじゃ許さないぜ。」こうして検察は動いた。 で、実際のところ、金融庁職員の使命とは何なのか？それは、自分に売られた喧嘩を買うことなのか、それとも友情を大切にすることなのか？彼らの使命の中の一つには当然「一般投資家の保護」が掲げられているはずであり、その使命に従って行動できないのは、一般投資家が殴られた頬の痛みを共感できないから、に尽きる。 リアルに接していない人々の痛みを共感できるには、相当なスキルを要すると思う。このスキルを養うことが難しいと感ずるのであれば、リアルに一般投資家と接触する機会を設けるより他ない。万一このブログを読んでいただいている方の中に、国家の役人の方がいたならば、この共感能力の向上に努めていただきたい。 最後に、本日のような論調を展開した背景には、正月あたりからの一連の哲学書の読書、並びに、ムネオ事件で有名になった佐藤優氏の著作を今更ながら読んでいることが影響している。佐藤優氏は「人生のターニングポイント」を考える上で、格好の好例と考え読み始めたのだが、彼の逮捕後に書かれた著作は異色の輝きを放っており、最近私は彼の世界にはまりつつある。 でも、そんな自分を客観視できる健常さも兼ね備えているのでご安心を。今更マルクス主義に心酔するほど、ウブでもないので（笑）私今年４０歳になってしまうので（笑）...</description>
<dc:subject>財務理論・株式投資理論</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-01-29T10:50:45+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000475.html">
<title>Creativityが発現する瞬間</title>
<link>http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000475.html</link>
<description>私自身は、結構クリエイティブな人間であると思う。こんなブログを書いたりしているわけだし。仕事でも既存路線を愚直に踏襲するよりは、新しいものを作り出す方が、断然楽しいと感じる。 が、「ではどうすればクリエイティブになれるか？」との質問に対する返答は、理論的には大きく逸脱していないものの、どこかリアリティに欠ける返答に終始していた感があった。 そんな中、昨日NHKで午前中放映された、直木賞作家石田衣良氏の創造性に迫る番組は実に興味深かった。番組はNHKのスタッフが石田氏に２日（か３日か）の期間を限定して、以下のお題で短編小説を書くミッションを課し、そのプロセスを３０分間にまとめたものであった。 ①主役は自殺願望のある少女 ②以下の３つの要素を小説に盛り込むこと 　●光学 　●がちょう 　●草書（ちょっとうろ覚え） 創造性とは異質な物を結びつけることと言い直してもそれほど遠くはなく、上記のお題は創造性を試すにはぴったりのお題で、しかも小洒落ていて、NHKスタッフの手によるものとは思えない（笑）まあ、人数の多い組織なので、色々な逸材が隠れているのかもしれない。 お題を聞くや否や、石田氏はマインドマップもどきの図を１枚の紙に書き始める。色は使わないものの、書き方からして恐らく石田氏はマインドマップの概念は知っていたものと推察される。で、異質なお題の結び付け方だが、私には意識的な結びつけと、無意識的な結びつけの二者があるように見えた。 前者の例としては、石田氏は「自殺願望のある少女」というお題から矢印をひいて「生きることの意味を知る前に、生きることを止める決心をした（うろ覚えです）」という趣旨の文言を書き始めた。これは恐らくは、彼の思想の核心部であり、そこへの多少強引な結びつけであるように、私にはとれた。 また、無意識的な結びつけが起きたのは、「がちょう」のお題においてである。なぜ、その瞬間が見てとれたかといえば、脳学者の茂木氏により広められた「Aha! Experience」が表情にありありと見てとれたからである。石田氏は「がちょう」をプロットに取り込むにおいて、当初は苦慮しているように見受けられた。で、それを打破すべく書店に赴き、動物に関する簡単な絵本を立ち読みし、がちょうの習性として「飛べない」という文言を読んだときに、彼の頭の中で何かが走ったのである。彼に学ぶのであれば、異質なものを結びつけるためには、接合部を見出すべく、そのものに関する一歩深い知識を入手することが肝要なのであろう。 また、創造性をEnhanceするお膳立てとしての、彼の音楽の使い方が興味深かった。（ちなみに彼の仕事場には&quot;George Benson/Give Me the Night&quot;&quot;Rolling Stones/Tatto you&quot;&quot;Stuff&quot;等のばりばり80&apos;sサウンドの「レコードジャケット」が置かれており、無性に親近感を抱いた（笑））一言でいえばBGMを聞きながらやるのだが、使用するBGMがフェーズによって違うのである。プロットを練る段階においては、彼は確かBeth Nielsen Chapmanを聴いていたように思う。彼女の音楽はどこか憂愁を帯びた感じで、石田氏は彼女の音楽をムードを高める目的で使用したとおもわれる。ところが、プロットが固まり、いざ具体的な執筆段階に入って彼がチョイスしたCDはグールドが弾くモーツァルトであった。私は基本的には音楽を聴きながら仕事はしないが、モーツァルトのピアノソナタとかであれば、邪魔にならない。恐らく、執筆段階においては、邪魔にならなくて、アルファ波を高めるような音楽がベストなのであろう。 また、石田氏は創造のプロセスにおいて自分の無意識野の重要性を認識していたが、それを「私の中の『彼』」という呼び方で呼称していた。この辺の呼称は、彼自身心理学周縁分野の本も読んでいるはずであり、そうした著作にインスパイアされたものと推察されるが、興味深かったのはこの無意識野をコントロールできる、と豪語していた点である。そのことは下記のやりとりから。 NHKスタッフとともに喫茶店に入り、「待ちましょうか」と石田氏が言うと、NHKスタッフが「何をですか？」と問い、石田氏が事も無げに「いや、頼んだコーヒーが来るのを待つのですよ」と言う。NHKスタッフが「私はアイデアの神様を待つのかと思いましたよ」と言うと、石田氏は「そんなのは、呼び出せばいつでも来てくれる」といった趣旨のことを口にしたのである。（ちなみに全部、発言内容は私のうろ覚えに基づくものですからね！） また、石田氏は今は売れ小直木賞作家として多忙な毎日を過ごすが、３７歳までフリーター同然に働きぶりをしていた、という経験にも興味をもった。人生の辛酸を舐めたはずであり、それが彼の創造性の基盤を形成にどのように関わったのか、にも興味がある。 今日はそんなとこです。おちはなし（笑）...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2008-01-15T14:28:34+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000474.html">
<title>EQの先駆者としてのスピノザ</title>
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<description>まずは、近況報告から。随分とブログ更新が遅れてしまいましたが、実は１０日ほど前に近視回復のレーシックのオペを受けたのです。オペ前になるべく仕事を片付けておきたかったためオペ前は忙しく、オペ後は経過は順調だったのですがなるべく目を酷使したくなかったために、パソコン自体に触れることが少ない状況でした。年末年始に研修を行うという奇特な企業は多くは存在しないため（笑）、年末年始は比較的時間的余裕がありブログの更新を精力的に行いたい、と思っております。といっても、法人税・所得税の申告及び帳簿の締めとかがあって、頭が痛いのですが（笑）。 ちなみにレーシック自体もいつかはブログの１エントリーとして書きたいと思っているのですが、私は自分がコンタクトをしないでも見えるようになった喜びとかよりも、「ビジネスとしての眼科」といった方面に大いに興味を抱きました。私が受けたところは、徹底したローコストオペレーション（流れ作業）により、なんと１７万８千円という、４～５年前では考えられない低価格を実現しており、ヘンリー・フォードがベルトコンベアーシステムにより、自動車を一般大衆の手の届くものに仕立てた、というあの「工業の歴史」を連想してしまいました。あと、「暴利をむさぼっている」等の、あまりよい評判を聞かないコンタクトレンズに付随する眼科のビジネスですが、レーシックという代替品の脅威に対してはどう対抗するつもりなのか？レンズの製造業者で働く人々や眼科の検眼士等の人々は、今から５年後１０年後を見据えてキャリア形成しておくべきだ、と私は感じた次第です。 で、本日のお題のスピノザである。例えばドゥルーズが書いたようなスピノザ評を書店でちらちら立ち読みするレベルだと、果たして私とドゥルーズは同じ本を読んだのであろうか、という疑問が湧くくらい、異なった視点から考察を加えている。まあ、哲学の素人が現代思想の最高峰に比肩し得るはずもないので、当然といえば当然だが、初学者がはじめてエチカを読んで、素直に感じ入るのは、恐らくその感情に対する洞察の深さであろう。 【EQコンピテンシーとスピノザ】 例えば、上記の著作はEQがらみの「コンピテンシー」を詳述したものとして有名だが、EQがらみのコンピテンシーは以下の４つの大別されるとしている。（手元に同著がないので正確な引用ではない。） ①自己感情の認識 ②自己感情の統制 ③他者感情の認識 ④他者感情を動かす で、スピノザを読んで改めて気づかされたのは、EQリーダーシップには個別の感情に対する記述が少ないということ。スピノザはエチカの上巻の末において、４０近い個別の感情を定義している。で、私が感じたのは、研修・人材開発において、EQコンピテンシーの４つの軸と、個別の感情の軸の掛け算のマトリックスで考える必要がある、ということである。例えば、自己感情の認識に優れている、と自負している人でありながら、自分の孤独感や人生の虚しさは痛切に感じ入るものの、自分の中の怒りやねたみ等の負の感情への気づきは浅いという人は、結構多い。あるいは、他者の怒りには極めて敏感に反応して、事を荒立てないようにする人が、それ以外の失望等の他者感情には極めて無頓着だったりする。得意のユーモアで場を和ませるのに天才的な人も、チームの士気を上昇させることにおいては、全くの無能であることもある、云々。今までは４つのEQコンピテンシーの切り口しか意識しなかった私だが、今後仕事をする上において、体系的でないにせよ、この掛け算のマトリックスを意識したいと思うようになった。 【いくつかの箴言】 一度、ざっとスピノザのエチカを通読して、意味ある定理を導出するために、いくつかのそれ自体では無意味な中間的な定理を立てている、といった印象を受けた。しかし、これは私の読み方の浅さに起因するところが大きいのだろう。現在、中間的な定理にしか見えない定理も、私が気づいていない深遠な意味を内包しているのかもしれない。 だたまあ、それはそれとして、自分で感じ入るセンテンスがあれば傍線を引きつつ読んでいったわけなのだが、以下になんらかの参考になるかもしれない定理、記述をいくつか引用しておきたい。 第四部　定理七 感情は反対のかつそれよりも強力な感情によってでなくては抑制されることも除去されることもできない。（引用） リーダーとして他者の心に灯を灯したいのであれば肝に銘じておくべき言葉であるのかもしれない。つまり、憎しみには愛をもって対峙せねばならない、ということである。 第三部　定理四十四 愛にまったく征服された憎しみは愛に変ずる。そしてこの場合、愛は、憎しみが先立たなかった場合よりもより大である。（引用） これは、後半部が興味深い。で、その後に記述された【備考】も珍しく分かりやすい例を引いているので、以下に引用しておきたい。 （引用始） 事情はかくのごとくであるけれども、何びともしかしあとでこのより大なる喜びを享楽しようとしてあるものを憎んだり、悲しみを感じたりするように努めはしないであろう。すなわち何びとも損害賠償の希望に促されて害悪をばわが身に受けることを欲したり、全快の希望に促されて病気にかかることを願ったりしないであろう。なぜなら各人は自己の有を維持し、悲しみをできるだけ遠ざけることを常に努めるだろうからである。 （引用終） 私からは余計な解説は加えない。だって、この定理はあまりに美しくないか？私の駄文で汚したくはないのです（笑） 第四部　定理五十七 高慢な人間は追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛し、反対に寛仁の人の現在することを憎む。 この定理については、その後の「証明」を引用しておこう。 （引用始） 高慢は人間が自己について正当以上に感ずることから生ずる喜びである。この謬見を高慢な人間はできるだけはぐくむことに努めるであろう。したがって彼らは追従の徒あるいは阿諛の徒の現在することを愛するだあろう。そして彼らをその正当の価値において判断する寛仁の人の現在することを忌避するであろう。 （引用終） この定理は、う～ん詳しくは書けないが、仕事を含む実生活において、実に深く感じ入ることが多々ある。このように明晰な言語で書かれると、心の中の疑問が氷解したような痛快さを味わった。 ・・・ちょっと疲れたので今日はこの辺で。...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2007-12-25T10:40:51+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000473.html">
<title>二枚舌とどう付き合うか</title>
<link>http://www.aimhighconsulting.com/weblog/archives/000473.html</link>
<description>約１０日前の日経新聞のトップを飾った記事である、確か。以下はNIKKEI　NETのリンク先を掲載しておきます。 (11/8)オリンパス、ベトナムにデジカメ工場・中国集中見直し 私なりの言葉で記事を要約すれば、オリンパスが中国の人件費高騰等を背景に、中国にある２箇所の工場のうち１箇所を閉鎖し、その代わりにベトナムに生産工場を新設するとのことである。ちなみに、このような海外生産拠点の移管の動きはオリンパスだけに限定されたことではなく、従ってこれから私が述べることは、オリンパスという個別企業に対する批判であるつもりは毛頭ない。この記事を読んで想起した私の想いをベースに、より普遍的な「日本企業に対する批判」あるいはもっと普遍的に「企業活動に対する批判」を展開したいというのが、私の意図である。 この記事を読んだときに、私の頭の中で「連想」したのは、例えばゴーン氏が日産の村山工場の閉鎖を決断したときの「世論」であったり・・・あるいは、敵対的買収の動きに対して「雇用の死守」というお題目を掲げて、買収防衛策を発動する多くの企業の動きであったり・・・敵対的買収者の誰一人として大幅な人員削減など、声高に叫んだことはないのに・・・ 一方で、中国の人件費高騰が懸念されるから、ベトナムに生産拠点を移すというのは、中国の工場で働く従業員を「モノ」とみなしているからこそ、なし得る決断である。「モノ」は価格があがれば、代替品を探さねばならない・・・しかも、中国への生産拠点移管の動きは、2000年前後にはじまったつい最近の出来事である。もし、ある外資が日本で工場を建設して、10年もたたないうちに閉鎖したとしたら、マスコミはどのような論調で記事を書くのであろうか？あるいは、アメリカやEC諸国といった先進国で、このような短期間での生産拠点移管をなし得る程、日本企業の経営陣の腹は据わっているのか？ 終身雇用は、日本的経営の一つの美徳であると考えられている。日本の美しさを守るためには、外資からの敵対的買収には何がなんでもNOという。しかし、終身雇用という美徳を、日本人以外の従業員にも享受させようと考える経営者はごくごく少ない。 日本国外にあっては、「生産拠点の移管」というサラリとした表現の経済合理主義に基づいて行動し、日本国内にあっては「従業員第一主義」を掲げて行動する日本企業。これは明らかに二枚舌である。もちろん、企業活動は、慈善事業ではなく、食うか食われるかの厳しいビジネスであり、「二枚舌はダメ」みたいな小学生に対する教訓を企業経営者に説いたところで、一笑に付されるのみである。企業経営には確かにマキャベリ的な狡猾さも必要であり、二枚舌の効用も認められるところである。 しかし、今後グローバル化の動きがますます加速化していくことを鑑みると、このような大胆かつ単純な二枚舌は命取りともなりかねない。まずは、矛盾に満ちた企業活動の諸側面の自己認識を深めることが、企業経営者にとって不可欠なのではないかと思う。そして、そのためにはマスコミの「グローバルな観点からみて客観的な記述」が不可欠となる。鈴木敏文氏によれば、客観とは「一歩ひいてみること」であり、これは実に名言であると思う。残念ながら、日経新聞には「一歩ひいて物事を見るスタンス」が希薄であるように思える。 マスコミと協同歩調で真にグローバルな観点から自己認識を深められれば、日本企業の未来は明るいと思う。...</description>
<dc:subject>企業経営全般</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2007-11-19T11:59:38+09:00</dc:date>
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<title>フェルメールと労働</title>
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<description>今日は芸術の秋でした。 つい今さっきまでは12CHで『椿山課長の七日間』という映画で涙し（笑）、そして昼間は国立新美術館で話題のフェルメールの「牛乳を注ぐ女」が展示されている「オランダ風俗画展」を見てきました。人混みを避けて美術館や映画館に行けるのが、フリーランスならではの醍醐味です。 フェルメールは仕事と無関係に芸術に浸りたい、とそういう純粋な気持ちで見に行ったのですが、結局私の仕事上のテーマを考えるきっかけを与えられたしまったのです。というのも、「牛乳を注ぐ」という行為は一つの労働であり、「オランダ風俗画」というより広い枠組みで見れば、様々な労働が絵画のテーマになっていたからです。 絵画のテーマとなっていたのは、ほとんどが女性の家事労働に関わるものばかりでした。なぜ、男性の仕事が描かれないのか、というのも興味深い点ではありますが、他のオランダ風俗画家と比べて、なぜフェルメールがこれほどまでに有名なのか、その原因が分かった気がしました。というのも、他の画家が女性が家事労働する中に描き出そうと努めるのは、その女性の胸中にある感情です。時に退屈そうだったり、夢中になっていたり、談笑を楽しんでいたり、と様々な表情から、当時の女性が仕事の際に抱く感情が偲ばれます。しかし、「牛乳を注ぐ女」では、女性が顔を下に傾け気味であることも影響して、私には彼女の感情が前面には伝わってこないのです。それよりも、牛乳を注ぐという極めて日常的な行為に内在する「崇高さ」が感じられました。丁度ノロノロと読んでいたスピノザの一節「すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。」が想起されました。私にこうした印象を抱かせるのは、他ならないフェルメールの巧みな光の表現技術です。絵画の技巧に関しては全くの素人ですが、あの絵は何故かきらきらと輝いているのです。同じ「女性の労働」というテーマで描きながら、他の画家は比較的写実的なレベルで留まっているが、フェルメールは手の届かない高みにまで引き上げる。これは画家の技術と精神がなせる技なのでしょうが、翻って我々が仕事に対峙する姿勢を考えれば、我々は自身の仕事を「ただ金のために」と捉えることもできれば、「同僚と楽しむために」と捉えることもできるし、「天命を実現させるために」と捉えることもできる。 あと、考えさせられたのは、現代の我々の労働は果たして「絵になる」のであろうか、ということ。写真や映像技術が発達した現代において、「写実的」な要素は絵画には期待されていない。であるから、我々の仕事がもし絵画に取り上げられるとするならば、我々の仕事自体に、芸術として着目すべき何か、が存在せねばならない。再び労働が芸術に取り上げられるためには、芸術家も我々の労働に着目していただかなければならないし、我々としても何らかの崇高なテーマをもって労働に対峙しなければならない。...</description>
<dc:subject>リーダーシップ・人材育成</dc:subject>
<dc:creator>Ken Kodama</dc:creator>
<dc:date>2007-11-08T23:03:28+09:00</dc:date>
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